いじわる


 誰かに揺すられている。大きくてかたい手だ。
「あーるじ、起きて」
 細く目を開くと、笹貫が居た。身体が痛い。近い。心臓に悪い。
 見渡した一畳ほどのそこは何もなかった。壁も天井も床も黒いが窮屈な印象も受けない。笹貫が真上に腕を伸ばしてもまだ余裕がありそうなほどの高さだ。暗くて何も見えないということもなくて、近くに照明は無いが目の前の男の緑と黒の髪の分かれ目すらくっきり見える。笹貫が光っているのだろうか。土に埋めたわけでもないのに。
「ここは……?」
「オレも目覚めたらこの景色。扉は見つからないし本体も取り出せない。壁も床も頑丈だ」
「……閉じ込められたんでしょうか」
 笹貫の力でどうにもならないとすれば、私はさらに無能としか言いようがない。この部屋に誰か他の神が居て、気まぐれに力を貸してくれると言うならば別かもしれないが。そう都合よく事が運んだためしはない。控えめに言ったとしても絶望的だ。
「ま、出られないってこともないかもね」
 ちょいちょいと指し示す左上を見てみる。先まで姿を消していた電光掲示板には〝三分間触れ合わないと出られない部屋〟と表示されていた。
「よかった……」
 巷に聞く出られない部屋の中では、かなり条件が軽い方なんじゃないだろうか。これくらいなら例え仲が深くない相手でもお願いしやすい。さっさと出て本丸に戻らねば。
「じゃあ、すみませんが手を貸していただけますか?」
 手のひらを差し出して見上げた瞳は、室内の黒によく映えていた。笹貫は目を細めて、その手を重ね合わせる。素手じゃなくて良かった。たったそれだけで心臓が縮みあがってしまうのだから単純なものだ。彼はそれほどの美貌を兼ね備えている。妙齢の女性ならまず放っておかないだろう。
「これで良いんでしょうか」
「どうかな。数えてみる?」
「いいですね! ぜひそうしましょう」
 良い提案だ、と思った。三分も笹貫を見つめたまま耐えられる気がしない。
 なぜならめちゃくちゃタイプだから。こればっかりは仕方ない。幼い頃から友人には面食いと言われ続けて生きてきた。
 業務上彼だけを特別扱いするなんて出来るわけがないし、もちろんしないように気をつけた。刀剣男士のほとんどが一般的な人間よりはるかに優れた顔立ちだが、笹貫は別格。言動と現代風の容姿が相まってリアルなのだ。内番着だと特に。現世にもしかしたら居るかもしれない、と期待してしまうくらい。
 元々彼らには敬語で接していて良かった、と胸を撫で下ろした日が記憶に新しい。こうも湿度の高い言動を向けられると、つい惹かれてしまいそうになる。私だけが敬語で返すことでただの主従だと思えた。
 電光掲示板 に視線を逃しながら六十を三回数える。
「五十八、五十九、六十」
「……」
「…………どこか開いてないか探しましょう」
 一刻も早くふたりきりを脱したい。依然として同じ文字を表示し続けるそれに妙な焦りを覚えつつ、壁を調べて回る。笹貫も調べてくれているかと思ったのだが、後ろで見ているだけだった。たいして広くないから良いけど。
「開いてません、ね」
「そりゃあ残念だ」
 台詞に一切残念さが浮かんでいない。しかし、本当にどうしたものか。お題が大雑把なせいでどの程度の触れ合いを求められているのか分からない。もっと詳しく書いてほしい。ついでにもう少し瞳に優しい色の壁にしてほしい。
「今ので駄目なら、どうすれば確実に出られるんでしょうか」
 手を繋いでみて達成されないのなら、もっと面積を増やせば良いのだろうか。腕を組むか、心を無にして抱擁をお願いしてみる、とか。できるだけ早く出たいけれど空振りも避けたい。いろいろ頼んだ挙句に下心があるとか思われないだろうか。これからも同じ本丸で暮らすのに、それだけは避けたい。けれど一思いに頼む程の度胸がまだ湧かない、小心者だから。
「ね、主。そんなに早く出たい?」
「……はい」
「そう?」
「仕事も残ってますし、本丸に主が居ないとなれば騒ぎが起きるかもしれませんし……」
 そういえばここに閉じ込められてからどのくらいの時間が経過したんだろう。数十分くらいなら良いけど。
「オレはラッキーだと思ってる」
「……ラッキー、ですか」
「こんな風に主と話せる機会なんてそうそうない。まして、他の刀の邪魔が入らないなんて、さ」
 笹貫ってこんなに、なんかこう、そういう台詞をさらりと言うタイプだったんだろうか。興味があるのは帰る場所だけで、審神者に何か強い思いを持つイメージが無い。
「そうですかね。近侍や部隊長、色々あると思いますけど……。それに、笹貫だって早く本丸に帰りたくないですか?」
 訊いた瞬間、すぐに後悔した。その顔が獲物を定めた獣のように見えてしまったからだ。
「主にはオレのこともっと詳しく知って欲しいな」
 一歩距離を詰められて、一歩下がる。狭い室内にはもう距離を置けるほどの広さなんか無かった。
「確実に出られる方法が知りたいんだっけ?」
「知っ、てるんですか」
「お、知りたい?」
 素直に頷くと、笹貫は更に距離を縮めてくる。すぐ後ろは壁で、これ以上はどうしようもない。思わず首をすくめて見上げた。
 彼はいつもの通りに薄く笑んで、唇のあたりをとんとん指し示す。この距離で、その仕草が意味することなんてひとつしかない。
「ほんと……?」
 せめてもの抵抗に訊ねても、笑みを携えたまま、ただじぃっと見つめてくる。孔雀色に吸い込まれてしまいそうだった。
 たっぷり逡巡した後、腹を括る。めいっぱいの背伸びをして、けれど、私にはあと少し身長が足りなかった。
「さ、笹貫……」
「なぁに」
「おねがい」
 全身の熱が顔に集まっている。彼はあくまで従順な風に待っていた。とんでもない悪趣味だ、と言えるはずのない文句が浮かぶ。
「…………きす、してください」
 しりすぼみになった言葉は彼の口の中に消えていった。
 角度を変えて繰り返されるそれに喘いで、鼻では上手く補給できない酸素を取り込もうと口を開いては、吸い込む息の湿度の高さにくらくらする。触れているところすべてがあつくて、ただ応えるだけが精一杯だった。
 頭上で大きくガチャ、と音がした。さんざ弄ばれた口から笹貫が離れていって力が抜ける。彼の胸に受け止められて、頭がぼうっとしているのを感じた。
「ね、主。オレが帰るのは主のとこ。主がいる本丸。いい?」
 はい、と声を出そうとして口からは力のない吐息が漏れる。口付けだけでこの有り様の主を彼がどう思っているのか、淡く光る瞳からは読み取れない。
「ここ出たら、って言おうと思ってたけど……ま、今回は気長にいくよ。次は普通に話してくれそうだから」
 ね?と求められる同意を未だはっきりしない頭で頷く。
「オレは主のもの、だ」
 彼の腕の中で聞くその台詞がどうにもおかしくて、けれど、喜びの抑えきれていない顔は愛おしくて仕方がなかった。
 きっと口付けなんかしなくたってこの部屋は出られた。笹貫のちいさな思惑が私をこうさせたのだ。
「ねぇ、笹貫」
「ん?」
「あなたのこと教えてください。ふたりきりは貴重なんでしょう?」
 はは、とこぼれた笑みは今までで一等あどけないものだった。
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