西瓜に献身
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この章についてお話の都合上夢主が審神者ではありません。
お好きな名前を入れていただけますが、本名ではなくハンドルネーム等の仮名ですと矛盾なく読めるかと思います。
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十度目の夏になった。
昨日、一緒に出かけた国広は今手入れ部屋で寝ている。
「南海と大慶からは特に変わりはないと聞いたよ。薬研と主も、問題はないと」
「……ごめんなさい」
「きみはその時考えうる最善を尽くしたまでだ。そうだね?」
菫はこくりと頷く。力無い国広を引きずって帰ることは出来ないと思ったし、置いて誰かを呼びに戻るには遠い道のりだと思った。あの時の菫にもっと冷静さがあれば、違う選択肢が浮かんだかもしれない。
「山姥切もきみも無事に戻ってきた。ならば僕は、ただ次が無いことを願うだけだ」
歌仙が菫に対して怒号を飛ばしたことはなかった。しずしずと、諭すようにするのが一番効果的だと分かっているらしい。皆にするように、大きな声で叱られる方がいくらか楽なのに、と思う。そうしたら、ちょっと上目遣いで、声のトーンを上げてごめんねと言えるのに。歌仙は菫にひと一倍甘くて、ひと一倍厳しかった。
そろそろ起きる頃だから迎えに行ってやってくれ、と促されて、恐る恐る手入れ部屋へ足を運んだ。戦装束を着崩して横になった国広は、まだ静かに眠っていた。頬の小さな傷もすっかり治っている。かたく閉じられた薄い唇を見て、そこが普段と変わらないことを確認した。昨日のことなんて全く無かったかのように、ただそこに存在している。
不注意で怪我をさせた。
霊力を分けてやらねば、まともに動けない状態だった。手を取って念じてみて、けれど何も変わらなかった。訓練を受けていないどころか縁の繋がりもないのだから、当然、それだけでどうにかできるはずもない。焦ってもいたし、動揺もしていた。粘膜から直接他者の霊力を受け取った国広は、なんとか門の手前まで歩いたあとに倒れ込んだ。
念の為──というよりは、ほとんど彼らの好奇心だが──南海と大慶が調べたあと、改めて叔父が手入れをすることになった。
「鋼の方はいつも通り、国広の傑作のままだったよー!」
「僕の調べた限り、君の気が混じっている以外に変わった点は見つからなかった。ただ、混じったことで変化が起きたとも言える。彼が目を覚ましてみるまでは分からないが、一時的だとしてもそれが作用したのかもしれないね。どうだい、今度は別の刀でも試してみるかね」
南海の提案は叔父が断って、薬研からは寝てりゃ治るだろうと告げられた。こんなに弱った国広を見るのは初めてだったし、多分叔父は、菫のいる夏のあいだだけ、厳しい戦場へ出すことを避けていたと思う。治ると分かっていても、菫はそれを見た事がなかった。翌朝まで眠っている国広がいつ目を覚ますのか、見守っている間もいやに落ち着かなかった。
日の高くなった頃にむずむずと寝返りをうったので、そのまま揺り起こした。ゆっくり目蓋が開く。
「……菫か」
「具合は」
「なんともない。……が、腹が減った」
とってくる、と言って歌仙の顔を見た時、菫は泣き出してしまった。厨にはたぶん他にも当番が居て、声も掛けられた気がするのに菫は歌仙を目掛けて泣きついた。よしよしあやされてまた雫を零す。目も鼻もすぐに赤くなるところが嫌だった。
「山姥切の分はきちんと用意してあるから、先に顔を洗っておいで」
できるだけ鏡を見ないようにして顔の熱をとった。行っておいでと背を押されて、つとめて静かに、足を互い違いに前に出して、握り飯を運ぶ。種を抜いて丁寧にたたかれた梅干と鶉の卵黄が乗った牛しぐれは吸い込まれるように消えていった。茶まで飲み干して、やっと腹の虫が落ち着いたらしい。
「美味かった」
「そう」
「……悪かった。あんなことをさせて」
それについて話す第一声には、おおよそ相応しくないと思った。
「全然、気にしないでいいよ。国広が平気なら」
「お前のおかげだ」
ここ三年ですっかり呼び慣れた名前が口になじむ。ついでに両親の呼び方も変えた。国広、と呼びかけるのは目の前の男ただひとりだけだ。はじめて本丸を案内してもらった時に、似たような服を着た子がみんな同じ名前で驚いたのを今も覚えている。藤四郎くんのことなんて呼んだらいいの、どうしてみんな同じ名前なのと訊いて国広を困らせたのだ。
元気になってよかったと微笑みながら、いつも彼を困らせているかもしれない、と頭の片隅で小さくもうひとりの自分が呟いた。
「ごめんなさい」
叔父と国広に向けて菫が深く頭を下げると、ふたりともすこしだけ慌てていた。ちいさな談話室の、まるくかたどられた窓からは青の空がのぞく。カラリとグラスから氷の音がして、外の蝉が鼓膜をふるわせた。
「ふたりで出かけるなとは言わないし、遠くへ行くなとも言わない。ただ、次はないようにね」
穏やかに、しかしはっきりとした目付きで、叔父はそう告げる。菫はたしかに頷いてしょんぼり眉を下げた。
歌仙が呼んでいたから行っておいで、と付け足して見送る。多分、茶器の世話を手伝わされるのだ。そのあとにプリン──菫の好きな硬めのもの──を与えられる。昨日の夜からまともに食事ができていない菫にはうってつけだろう。氷の溶けたグラスは水滴を纏い、机に水溜りをつくっていた。
「山姥切がついていてくれると安心だと思っていた」
菫の去った談話室で、審神者とその刀が話している。
「……すまない」
「疲労状態については把握していただろう?」
審神者は淡々と事実を確認した。
「元々出かける予定だった。それに……あいつに、ついていてやりたい」
漏れた言葉は本心だった。菫の横に居るのは当然だと思っていたし、それが当然のままでありたい。今年は受験のために数日しか居られないと聞いてから、いつかのことを考えずにはいられなかった。
「それは、ここを出ていく可能性があるってことか」
審神者の問いに、刀はぴたりと動きが止まる。
「すまない、嫌な言い方をしたな。菫は……あの子が選ぶまでは自由にさせてやりたいと思ってる。山姥切があの子を大切にしてくれているのは分かっているけれど、君にも無茶はして欲しくない。もちろん、あの子にも」
先に倒れ込んだのは国広だった。けれど、手入れ部屋に運んだあと菫も、ふらふらと眩暈を引き起こして倒れかけたのだ。どれだけ強い霊力を持っていても体に負担がかからない訳では無いし、どれだけ練度が高くても疲労は蓄積する。叔父としても主としても、気が休まらなかった。
「あの子がいつか、もし、同じ道を選んでくれるなら、その時はきっと……また山姥切が助けてやってくれ」
話を聞く時、じっと目を見つめ続けるのはこの刀の美点だ、と審神者は思う。
「……あいつが望むように、と思うのはずっと変わっていない。それと……これは、二度と起こらない」
「うん、よろしく頼む」
ひとり談話室に残った国広は、薄まった茶を飲み干すと深く息を吐いた。榻背にぴたりもたれかかって目を閉じる。
そばに居てやりたいと思うようになったのは、確かについ最近のような気がした。けれど菫のことで面倒だと感じたことは、一度だってなかった気さえする。疲れていたら寝たいし、他に合わせるのを器用にできる方ではなかった。幼い姿のうちは、まあ、人並みに育った倫理観のおかげでやむを得ないと納得していたけれど、成長した今も変わらないままだ。
今、身体に流れる霊力は慣れたものに戻っている。手からは上手く受け取れなかったそれが口から流れ込んできたとき、弾けるように目が覚醒した。清らかで、包み込むような力だった。縁を持たない者から流れてくる力にしては、よく澄んで馴染んだ。なんとか菫の手をとって本丸まで戻ったあと、ただしく主の気が満ちた部屋に押し込められた。途端身体が楽になって、それから、菫の力がただの前借りだったと思い知る。かたく目を瞑って、さっさと眠りについた。
何年先でも、早くこちらに飛び込んで来たら良いのに。全く元に戻ってしまった身体を眺めて、国広は静かに息を吐いた。
まだ青い空の下では蝉の声が鳴り響いている。
ふと目が覚めて、時計を確認した。日曜の子供向け番組が終わったところだった。遮光カーテンと窓を一気に開けると、やわらかな陽が届く。
随分と長い夢を見た。それも叔父と話したあとだからか、本丸の思い出ばかり。はじめて国広に会った時、一緒に寝てもらった時、霊力を流した時のこと、全て鮮明ではなくともきちんと覚えている。いつだって隣に居たのだ。
大きく伸びをしてからマットレスに沈むと、枕元の黒が目に入る。昨日、就寝前の友は絵本だった。角はまるくへこみ、ところどころ傷がついている。本屋で新品を見かけるたび、あんなに色が鮮やかだったのかと思うのだ。
菫にはお守りのような本がいくつかあって、この絵本はいちばんはじめにそういう存在になってくれた一冊だった。子供心にはちょっぴり怖いのだけど、とってもわくわくする。はじめて本丸へ行った時も、このお守りと一緒に冒険をしたのだ。いつの間にかこの絵本以外にもお守りが増えた。それでも、これはずっと大切なまま。本棚の一番端、そこに置き続けるだろう。
好きに選んでいい、と叔父は言った。
彼のことを思い出して、きっと断りはしないだろうと思う。叔父も彼も、快く受け入れてくれる。毎夏のようにいつでも彼がそばに居てくれたなら、それ以上のことはない。
返事はいつでもいい、とも言われた。けれど、勝手に決めてしまいたくはなかった。次に会った時に聞いて、それから叔父に返事をしようと決めて起き上がる。
久方ぶりの予定がない休日を優雅に過ごすため、アップライトを開く。横の棚から適当にファイルを掴むと、ベートーヴェンのシンフォニー六番だった。今日の秋晴れによく似合う。
窓からは爽やかな風が吹き抜けていた。