あと幾度
浅い眠りから覚めて静かに起き出すと、敦盛は単のまま、ひとり濡れ縁に腰を下ろした。
まだ暗い空を照らすのは、仄白い三日月だ。微かに明るい遠くの空へ、見るとはなしに目をやった。
ーーーあと何度、こうして空を眺めることができるのか。
もう少しで、源平の戦にも方がつくだろう。このままの流れで源氏が勝利し、黒龍の逆鱗が破壊されれば、平家の怨霊も皆、救われる。
敦盛は、自分はそのために「生かされて」いるのだと思っている。だから、戦が終わるまではここにいて力を尽くすつもりだ。
そして、戦が終わったら。自分は今度こそこの世に在るべきでない存在になる。
そのときには、神子に浄化を頼まねばーーー
とっ、とっ、
後ろから足音が聞こえ、敦盛の思考は中断した。
振り返らずとも、おおかた誰が来たのかは分かる。
す、と後ろから回る腕、首筋へ当たる癖のある髪。ーーーヒノエだ。
正座した膝に乗せていた手を、そっとその腕へ添えた。
「おはよ」
「ああ」
「早いね、いつも」
「君も、同じくらいに起きているだろう」
「だってお前が起きるから」
「……無理して起きなくても、いいのに」
えー…と言うヒノエの声は、眠そうにくぐもっている。
「でもお前と二人っきりになれるときなんか、ろくにないし」
「それは……そうだが」
「寝てるよりこっちの方が大事だからさ」
「……」
少しきついくらいであったヒノエの腕が緩まり、布擦れの音を伴って離れたと思えば、彼が隣に腰を下ろした。
淡く映る彼の横顔。眠そうな目に、まだいつもの編み込みのない、手櫛だけ入れたような髪。
身なりをきちんとするよりも、少しでも敦盛と二人で過ごす時を延ばしたいという想いが、ひしひしと伝わってくるようであった。
「空を見てたのか?」
「ああ。……あと幾度、この空を見ることができるだろうかと」
「……そう」
ヒノエには、好きだと告げられたとき、怨霊であることを話していた。すると彼は酷く哀しそうな顔をして、薄々そう思ってた、それでも好きだと言った。
怨霊としての性にいつ喰われてしまうか分からない、未来の保証もできない。それでもいいのかと問えば、構わないと。
素直に、嬉しかった。
敦盛はヒノエに、恋い慕う感情を向けていたわけではない。しかし彼のことは、そういう「好き」ではないにしろ、「好き」だった。共にいて一番心が安らぐ人が、ヒノエだった。
好意の種類は少し違ったかも知れないが、彼とならそのような関係になってもいいかと思えたのだ。
それにどうせ、自分は戦が終われば消える身。未来がないから、彼の未来の障りにもならない。
そうして始めた彼との関係であるが、近いうちに来る別れを覚悟してのこの付き合いは、気が楽であり、幸せでもあり、そして言いようもなく辛くもある。
「……ね、敦盛」
「ん………」
「目閉じて、」
「…………」
言われた通りに目を閉じると、そっと首筋へ手が添えられたのが分かった。
自分の冷たい唇に彼の温かいそれが重なって、じわりと熱を伝える。
その後は、また正面から抱き締められるのだ。
「……………」
「……………」
この時間が、いつも長い。
口づけが終わると、ヒノエはろくに言葉もなしにただ敦盛を抱き締める。
温かい、ヒノエの背中と腕の中。自分はいいが、彼がこんな冷たい身に身体を寄せるのは、あまり心地良いとは思えなかった。
そうこうしているうちに、いよいよ空が白んできた。
そろそろ九郎あたりが起き出すだろう。
「ヒノエ、もういいだろう」
「あとちょっと」
「……私の身体など、冷たいだけだろうに」
「そりゃ、冷たいけどさあ」
ぎゅ、とヒノエが腕の力をいっそう強くした。
胸が圧されて、呼吸がしづらい。苦しい、と言おうとすると、ヒノエの方が先に口を開いた。
「なるだけ長く、こうしてたいんだよ」
「どうして」
「お前がいなくなったらもう、できないから」
「……ヒノエ……」
「……ごめん」
言って、ヒノエが腕を解いた。
少しだけ身を離した顔同士、目が合う。
薄い朝の光が、ヒノエの髪を紅く映している。
その緋の瞳が、慈しみと悲しみを湛えて辛そうに揺れていた。
「……好きだよ、敦盛」
もう一度だけ、ふわりと頬に口づけを残してヒノエが立ち上がった。踵を返して邸の奥へと去っていくヒノエの背を、敦盛は静かに見送る。
「……ヒノエ」
ーーーどうして君が謝る。謝らなければならないのは、私の方であろうに。
こんな私を。穢れた怨霊の私を、君は愛してくれる。こんなものを愛してくれているから、君は辛いのだ。
自分が生きている人間ならば彼を悲しませることもなかったのだろうかと思うと、何かが肩にのしかかってくるような思いがした。
ぼんやりと明るい空を、敦盛は睨む。
いっそのこと、先ほどのまま夜が明けずに朝日など昇らなければいいのに。
まだ暗い空を照らすのは、仄白い三日月だ。微かに明るい遠くの空へ、見るとはなしに目をやった。
ーーーあと何度、こうして空を眺めることができるのか。
もう少しで、源平の戦にも方がつくだろう。このままの流れで源氏が勝利し、黒龍の逆鱗が破壊されれば、平家の怨霊も皆、救われる。
敦盛は、自分はそのために「生かされて」いるのだと思っている。だから、戦が終わるまではここにいて力を尽くすつもりだ。
そして、戦が終わったら。自分は今度こそこの世に在るべきでない存在になる。
そのときには、神子に浄化を頼まねばーーー
とっ、とっ、
後ろから足音が聞こえ、敦盛の思考は中断した。
振り返らずとも、おおかた誰が来たのかは分かる。
す、と後ろから回る腕、首筋へ当たる癖のある髪。ーーーヒノエだ。
正座した膝に乗せていた手を、そっとその腕へ添えた。
「おはよ」
「ああ」
「早いね、いつも」
「君も、同じくらいに起きているだろう」
「だってお前が起きるから」
「……無理して起きなくても、いいのに」
えー…と言うヒノエの声は、眠そうにくぐもっている。
「でもお前と二人っきりになれるときなんか、ろくにないし」
「それは……そうだが」
「寝てるよりこっちの方が大事だからさ」
「……」
少しきついくらいであったヒノエの腕が緩まり、布擦れの音を伴って離れたと思えば、彼が隣に腰を下ろした。
淡く映る彼の横顔。眠そうな目に、まだいつもの編み込みのない、手櫛だけ入れたような髪。
身なりをきちんとするよりも、少しでも敦盛と二人で過ごす時を延ばしたいという想いが、ひしひしと伝わってくるようであった。
「空を見てたのか?」
「ああ。……あと幾度、この空を見ることができるだろうかと」
「……そう」
ヒノエには、好きだと告げられたとき、怨霊であることを話していた。すると彼は酷く哀しそうな顔をして、薄々そう思ってた、それでも好きだと言った。
怨霊としての性にいつ喰われてしまうか分からない、未来の保証もできない。それでもいいのかと問えば、構わないと。
素直に、嬉しかった。
敦盛はヒノエに、恋い慕う感情を向けていたわけではない。しかし彼のことは、そういう「好き」ではないにしろ、「好き」だった。共にいて一番心が安らぐ人が、ヒノエだった。
好意の種類は少し違ったかも知れないが、彼とならそのような関係になってもいいかと思えたのだ。
それにどうせ、自分は戦が終われば消える身。未来がないから、彼の未来の障りにもならない。
そうして始めた彼との関係であるが、近いうちに来る別れを覚悟してのこの付き合いは、気が楽であり、幸せでもあり、そして言いようもなく辛くもある。
「……ね、敦盛」
「ん………」
「目閉じて、」
「…………」
言われた通りに目を閉じると、そっと首筋へ手が添えられたのが分かった。
自分の冷たい唇に彼の温かいそれが重なって、じわりと熱を伝える。
その後は、また正面から抱き締められるのだ。
「……………」
「……………」
この時間が、いつも長い。
口づけが終わると、ヒノエはろくに言葉もなしにただ敦盛を抱き締める。
温かい、ヒノエの背中と腕の中。自分はいいが、彼がこんな冷たい身に身体を寄せるのは、あまり心地良いとは思えなかった。
そうこうしているうちに、いよいよ空が白んできた。
そろそろ九郎あたりが起き出すだろう。
「ヒノエ、もういいだろう」
「あとちょっと」
「……私の身体など、冷たいだけだろうに」
「そりゃ、冷たいけどさあ」
ぎゅ、とヒノエが腕の力をいっそう強くした。
胸が圧されて、呼吸がしづらい。苦しい、と言おうとすると、ヒノエの方が先に口を開いた。
「なるだけ長く、こうしてたいんだよ」
「どうして」
「お前がいなくなったらもう、できないから」
「……ヒノエ……」
「……ごめん」
言って、ヒノエが腕を解いた。
少しだけ身を離した顔同士、目が合う。
薄い朝の光が、ヒノエの髪を紅く映している。
その緋の瞳が、慈しみと悲しみを湛えて辛そうに揺れていた。
「……好きだよ、敦盛」
もう一度だけ、ふわりと頬に口づけを残してヒノエが立ち上がった。踵を返して邸の奥へと去っていくヒノエの背を、敦盛は静かに見送る。
「……ヒノエ」
ーーーどうして君が謝る。謝らなければならないのは、私の方であろうに。
こんな私を。穢れた怨霊の私を、君は愛してくれる。こんなものを愛してくれているから、君は辛いのだ。
自分が生きている人間ならば彼を悲しませることもなかったのだろうかと思うと、何かが肩にのしかかってくるような思いがした。
ぼんやりと明るい空を、敦盛は睨む。
いっそのこと、先ほどのまま夜が明けずに朝日など昇らなければいいのに。
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