約束
ーーーそれから、十年。
ヒノエは四国の、ある地へと向かっている。
熊野別当としての仕事が冗談抜きに忙しいのだが、その合間を縫ってなんとか来た次第である。熊野の部下や家族には「ここで休まねば身体を壊すから行くな」と再三言われたけれど。この機を逃すといつ来られるか分からないから、そんな声は無視してやってきたのである。
向かうはとある、海の見える丘の上。十年前のあの日ーーーいとしいひとが天へと導かれていった、あの場所。
ここだ。
立ち止まり、目を閉じた。暖かい陽光、吹き抜ける海風は爽やかに髪を攫っていく。あの日のようだと、ヒノエは思う。
ーーー敦盛。
心の中で、呼び掛けた。
ーーー覚えてる? あの日交わした、約束のこと。他の奴と、未来を歩んでくれって、お前からの約束。オレ、ちゃんと……
「ちちうえー!」
後ろから自分を呼ぶ声が聞こえて、ヒノエははっと振り向いた。とてとて、おぼつかない足取りで、それでも一生懸命にこちらへ向かってくるのは、今年で五つになる息子である。
「あはっ、早かったんだね」言いながら抱き上げると、「早かったんだねではないわよ!」その後ろから息切れ切れで女人がーーー妻が、追ってきた。
「あなた、一体、どうなさったの。普段はこんな、私達を置いてさっさと歩いてしまう方では、ありませんのに」
「ごめんごめん。オレとしたことが、気持ちが逸って愛しい妻と子を置いていってしまうなんてね」
抱き上げた子を降ろし、ぜいぜいと肩で息をする妻の背中を摩る。もちろん、丘から落ちると危ないので、妻の背中を摩らない方の手では子の手を握って。
「気持ちが逸って、とは……。もしかして、ここなのですか? 私達をどうしても連れてきたいと仰ったのは」
「ああ。そうだよ」
「ですけれど、ここが……、?」
何の変哲もない丘に、そんな価値があるのかと言いたげな妻に、ヒノエはまた頷いてみせる。少し落ち着いた妻を抱き寄せ、子は肩に乗せて、海の方へと向き直った。
「ここはね。オレの大切な……親友……が、浄土へと旅立っていった場所なんだ」
「まあ……」
「オレとそいつは、互いにそれぞれ約束をした。そいつから守ってくれと言われた約束は、誰かと未来を歩んでくれってことだった。で、オレはこうして約束を守ったからさ……その報告にね」
「そうでしたの……。ちなみに、あなたからその方に仰った約束というのはどういうものだったのですか?」
「それはね」
「ええ」
「……秘密」
「ちょっと!」と鋭く言ってくる妻を、「こればっかりは言えないんだ」と宥めつつ。
ーーーなあ、敦盛。
もう一度、呼び掛ける。
ーーーお前を忘れるなんてことは、やっぱりできそうもないけれど。でも、お前以外にちゃんと素敵な人を見つけたよ。幸せになったよ。
「だから、お前も約束、守ってくれよ……」
呟いた言葉。海風に、溶かして。
「え? 今、何か仰いまして?」
「いや、なんでも。……それじゃ、行くか」
「もうですの!? もしかして、本当にこれだけのためにこんなに遠くまで」
「いやいや、ここは一箇所目。愛しい奥方様と子にせっかく遠出して頂いたんだから、楽しんでいってもらわないと。知ってるところを案内するよ」
「ああ……ごめんなさい、早とちりしまして……」
肩から子を降ろし、妻に託した。今度は二人を置いていかぬよう、ゆっくり行かねば。妻子に続いて海へ背中を向けようとしたところで、
「!」
ヒノエは思わず、もう一度振り返った。
「ちちうえ?」
「どうかしたのですか?」
「あ、いや」
なんでもない、と返して、今度こそ海の方へ背中を向けて歩き出す。
ーーー心の中に、しまっておこう。
海の方へ背を向けざま、朱色の水干に黄色い袴、紫色の髪をした人影が。こちらを優しい眼差しで見送ってくれていたのが、一瞬視界の端に映ったような気がしたことは。
ヒノエは四国の、ある地へと向かっている。
熊野別当としての仕事が冗談抜きに忙しいのだが、その合間を縫ってなんとか来た次第である。熊野の部下や家族には「ここで休まねば身体を壊すから行くな」と再三言われたけれど。この機を逃すといつ来られるか分からないから、そんな声は無視してやってきたのである。
向かうはとある、海の見える丘の上。十年前のあの日ーーーいとしいひとが天へと導かれていった、あの場所。
ここだ。
立ち止まり、目を閉じた。暖かい陽光、吹き抜ける海風は爽やかに髪を攫っていく。あの日のようだと、ヒノエは思う。
ーーー敦盛。
心の中で、呼び掛けた。
ーーー覚えてる? あの日交わした、約束のこと。他の奴と、未来を歩んでくれって、お前からの約束。オレ、ちゃんと……
「ちちうえー!」
後ろから自分を呼ぶ声が聞こえて、ヒノエははっと振り向いた。とてとて、おぼつかない足取りで、それでも一生懸命にこちらへ向かってくるのは、今年で五つになる息子である。
「あはっ、早かったんだね」言いながら抱き上げると、「早かったんだねではないわよ!」その後ろから息切れ切れで女人がーーー妻が、追ってきた。
「あなた、一体、どうなさったの。普段はこんな、私達を置いてさっさと歩いてしまう方では、ありませんのに」
「ごめんごめん。オレとしたことが、気持ちが逸って愛しい妻と子を置いていってしまうなんてね」
抱き上げた子を降ろし、ぜいぜいと肩で息をする妻の背中を摩る。もちろん、丘から落ちると危ないので、妻の背中を摩らない方の手では子の手を握って。
「気持ちが逸って、とは……。もしかして、ここなのですか? 私達をどうしても連れてきたいと仰ったのは」
「ああ。そうだよ」
「ですけれど、ここが……、?」
何の変哲もない丘に、そんな価値があるのかと言いたげな妻に、ヒノエはまた頷いてみせる。少し落ち着いた妻を抱き寄せ、子は肩に乗せて、海の方へと向き直った。
「ここはね。オレの大切な……親友……が、浄土へと旅立っていった場所なんだ」
「まあ……」
「オレとそいつは、互いにそれぞれ約束をした。そいつから守ってくれと言われた約束は、誰かと未来を歩んでくれってことだった。で、オレはこうして約束を守ったからさ……その報告にね」
「そうでしたの……。ちなみに、あなたからその方に仰った約束というのはどういうものだったのですか?」
「それはね」
「ええ」
「……秘密」
「ちょっと!」と鋭く言ってくる妻を、「こればっかりは言えないんだ」と宥めつつ。
ーーーなあ、敦盛。
もう一度、呼び掛ける。
ーーーお前を忘れるなんてことは、やっぱりできそうもないけれど。でも、お前以外にちゃんと素敵な人を見つけたよ。幸せになったよ。
「だから、お前も約束、守ってくれよ……」
呟いた言葉。海風に、溶かして。
「え? 今、何か仰いまして?」
「いや、なんでも。……それじゃ、行くか」
「もうですの!? もしかして、本当にこれだけのためにこんなに遠くまで」
「いやいや、ここは一箇所目。愛しい奥方様と子にせっかく遠出して頂いたんだから、楽しんでいってもらわないと。知ってるところを案内するよ」
「ああ……ごめんなさい、早とちりしまして……」
肩から子を降ろし、妻に託した。今度は二人を置いていかぬよう、ゆっくり行かねば。妻子に続いて海へ背中を向けようとしたところで、
「!」
ヒノエは思わず、もう一度振り返った。
「ちちうえ?」
「どうかしたのですか?」
「あ、いや」
なんでもない、と返して、今度こそ海の方へ背中を向けて歩き出す。
ーーー心の中に、しまっておこう。
海の方へ背を向けざま、朱色の水干に黄色い袴、紫色の髪をした人影が。こちらを優しい眼差しで見送ってくれていたのが、一瞬視界の端に映ったような気がしたことは。
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