約束
梶原邸、真夜中。こっそり敦盛と二人で庭へ抜け出し、二人きりで過ごすのがいつの間にか習慣となっている。
ヒノエは、敦盛を好きである。
ただの友情に、どうして恋慕の感情が混じってきたのかは定かではないけれど。八葉として共に過ごすうち、どうしようもなく惹かれてしまった。そもそも男には全く興味はないはずの自分が、こんな野郎に……と悔しいような気もしてくるが、好きになってしまったものは仕方ない。悩んだ末に想いを伝えてみれば、なんとあちらも似たようなことをヒノエに思っていたらしい。しかし、えっ、と嬉しくなったのも束の間、
「私は怨霊なんだ」
と。
だからそういう関係にはなれないと、言われた。それならばさすがに、諦めざるを得ないとそのときは思ったが。不思議なもので、諦めねばと思えば思うほど、ますます彼を好きになっていく。我慢できずに「怨霊でもいいから」と言えば、彼が「正気とは思えない」と呟いて、はらり、涙を流したのだった。
そのときから、ヒノエと敦盛は、互いに特別な関係になったのであった。
「……もうすぐで、かたがつきそうだな」
敦盛が言った。かたがつきそう、とは戦のことであろう。
「そうだね。お前には辛いかも知れないけど、はっきり言って……平家に勝ち目はないに等しいよ。源氏には神子が揃ってる。熊野の水軍も協力する。平家の強みである怨霊と海上戦に対抗できる力を、源氏はもう持ってるからね」
「ああ。覚悟はできているつもりだが……」
「……」
「……こんなことを言っていては、いけないのかも知れないが。自分の一門が滅ぶことを思うと、やはり胸が苦しくなってしまうな」
言うと、敦盛が月を仰ぎ見た。その横顔が、言いようもなく、哀しいものだから。
ーーー抱き締めて、慰めてやりたくなる。
「! だ、駄目だ」
しかし抱き寄せればすぐに、敦盛がもがいて離れてしまった。
「君、忘れたわけはないだろう。穢れが移る」
「……それが何だっていうんだよ」
「分かるだろう」
言って、敦盛が何とも言えぬ表情で俯いた。
ヒノエは、何も言い返せずに黙り込む。敦盛の言う通りだ。彼の言いたいことが、分からないわけはない。
ーーー今は最早、ヒノエは自分のことだけを気にしていればいいわけではないということだ。
ヒノエは八葉であると同時に熊野別当である。この戦にとっても、そして熊野にとっても重要な人間だ。
そんな者が、あろうことか自ら進んで怨霊と触れ合い穢れを纏うなど、どう考えても褒められた行為ではあるまい。
「分かるよ。分かる、けど」
「それならばやめておくことだ。頭の良い君なら……、」
ーーーうるせえ。
続けようとした敦盛の言葉は、続かなかった。ヒノエが己の唇で、彼の唇を塞いでやったからだった。
その瞬間、ぞくりと悪寒。接した唇は確かに柔らかく、人肌に温かいのに、何故だか「ああ死人だ」と直感的に思った自分が嫌だった。いとしい者を抱き寄せ口づけ、それなのに心地よく感じないなんて。
畜生。
半ば意地になって、敦盛が抵抗するのに構わずあと幾度か口づけてみる。が、感じるのはやはり気味の悪い寒気、その上少し身体が重く感じるようになってきたのが分かって、余計、哀しくなってしまう。
「ヒノエ、!」
鋭く呼ばれて、我に返った。敦盛がヒノエの肩を掴んでぐっと押し退けてきていた。と思ったら、袖で頬を撫でてきた。そこで気がついた。自分は、泣いていた。
「無理を……、無理をするものではない」
「無理なんかしてないっての」
「いいや。君の身体は私を拒絶しているはずだ」
「そんなこと、あるわけない。だってオレは、こんなにもお前のことが好きなんだよ。なのにそんなこと……あってたまるか」
「!」
敦盛の手を引いて、立ち上がる。彼をどこか人気のないところへ連れ込み、彼にーーーというよりは自分の身体に証明してやろうと思った。自分が彼を拒むことなど、ないのだと。
「どこへ行くつもりだ」
敦盛が、立ち止まって問うてきた。ヒノエも歩みを止め、振り返ってぶっきらぼうに答える。
「どっか、誰にも見つからないようなとこ」
「何をしに」
「さあ。行ってから教えてやるよ」
「……。駄目だ」
「どうして。オレとやんのは嫌かい」
「そういう問題ではない。分かって……くれ」
「分かんないね。生ける者と死する者の、難しい問題なんざ」
言い合っている間も、敦盛と手を繋いだままだ。その、敦盛の手を握る手のひらがひりひりと痛くなってきたけれど、離したくない。
「君の身体に、障る」
「別に構わないけどね、オレは」
「君が良くても、他の者が困る」
「……」
「君も八葉の一人、神子を守る一柱。そして平家との決戦に必要不可欠な熊野水軍の頭でもある。そんな君が今、倒れてしまったら。一体どうなると思う」
「……」
「本当に、洒落にならないことになるかも知れない。それは避けなければならない」
「…………」
ぎりりと奥歯を噛み締め、ヒノエは黙る。敦盛の言うことが、あまりにも正しいから。言い返す言葉など、なんにも、なかった。
「……それじゃあ、」
敦盛の手を離して、己の拳をぎゅっと握る。
「戦が終わったら」
「……」
「戦が終わって、てことは怨霊の問題も片付いてる。水軍ももうあとは熊野へ引き上げるだけだ。そうなったら、そのときは、いいってことだよな」
「いや、良くは……」
「言わせない」
「え」
「オレがどうなろうと、もうオレ以外、そこまで致命的には困らないはずだから。熊野のことはあるけど、しばらく別当が不在なくらいなら問題ないさ。皆優秀だし、最悪、親父もいるし」
「だが、私だって、君を傷つけたくない。私のせいで君に何かあっては、浮かばれるものも浮かばれなくなる」
「……そうかも、知れないけどさぁ」
ーーー譲れない。
敦盛とは気持ちも通じていて、手を伸ばせばいつでも何でもできるようなところにいるのに、少し触れることもできない。今日のように無理をすればできるけれど、無理をしないと、できない。
こんなにも、いとしいのに。色々と、したいのに。足りないのだ。近くで語らうだけでは。衣の上から、抱き締めるだけでは。
「何にもないままお前と来世までさよならってことになったら、オレ、一生後悔するよ。そうならないためなら、どれだけ身体の具合が悪くなったって構わない」
「……」
「ま、嫌がってる相手に無理矢理やるようなことはしないけど……そういうわけじゃ、ないだろ。難しい問題がなきゃ、お前だってやぶさかじゃないと思ってると……オレは、思ってる」
「それは……その」
と、濁したきり敦盛が黙り込んでしまった。迷っているのだろう。
自分のせいでヒノエの具合が悪くなると分かりきっている。しかし、敦盛にはヒノエの気持ちはきちんと伝わっている。一生の後悔を背負わせたくないという思いもあるのだろう。それに、敦盛自身も、ヒノエと契りたいというのも……なくはない、と思う。
しばらく間があり、敦盛がついに口を開いた。その口から出た言葉というのが、
「……すまない。考えさせてくれ」
「……」
すっきりしねえな。
と思ったが、これはかなり難しい問題であることはヒノエにも分かっている。断じて断る、ではなかったことを、喜ばねばならない。
「分かったよ、戦が終わるまで、ゆっくり考えてくれていい」
そう返してやれば、敦盛がもう一度、本当に申し訳なさげに「すまない」と。
「……お前が謝る必要は、ないよ」
だって本当に謝らねばならぬのは、ヒノエの方だ。ヒノエの身体の具合を悪くしてはならぬから、という敦盛の思いを無下にして、わがままを言っているのだから。
「……」
また黙ってしまった敦盛を、静かに抱き締めた。すでにまあまあ触れた後だ。今更、多少さらに穢れが移ってきたところで、もう気にしない。
「……好きだよ」
言えば、敦盛が「ああ」と返事して、しっとり、抱き締め返してくれた。
ヒノエは、敦盛を好きである。
ただの友情に、どうして恋慕の感情が混じってきたのかは定かではないけれど。八葉として共に過ごすうち、どうしようもなく惹かれてしまった。そもそも男には全く興味はないはずの自分が、こんな野郎に……と悔しいような気もしてくるが、好きになってしまったものは仕方ない。悩んだ末に想いを伝えてみれば、なんとあちらも似たようなことをヒノエに思っていたらしい。しかし、えっ、と嬉しくなったのも束の間、
「私は怨霊なんだ」
と。
だからそういう関係にはなれないと、言われた。それならばさすがに、諦めざるを得ないとそのときは思ったが。不思議なもので、諦めねばと思えば思うほど、ますます彼を好きになっていく。我慢できずに「怨霊でもいいから」と言えば、彼が「正気とは思えない」と呟いて、はらり、涙を流したのだった。
そのときから、ヒノエと敦盛は、互いに特別な関係になったのであった。
「……もうすぐで、かたがつきそうだな」
敦盛が言った。かたがつきそう、とは戦のことであろう。
「そうだね。お前には辛いかも知れないけど、はっきり言って……平家に勝ち目はないに等しいよ。源氏には神子が揃ってる。熊野の水軍も協力する。平家の強みである怨霊と海上戦に対抗できる力を、源氏はもう持ってるからね」
「ああ。覚悟はできているつもりだが……」
「……」
「……こんなことを言っていては、いけないのかも知れないが。自分の一門が滅ぶことを思うと、やはり胸が苦しくなってしまうな」
言うと、敦盛が月を仰ぎ見た。その横顔が、言いようもなく、哀しいものだから。
ーーー抱き締めて、慰めてやりたくなる。
「! だ、駄目だ」
しかし抱き寄せればすぐに、敦盛がもがいて離れてしまった。
「君、忘れたわけはないだろう。穢れが移る」
「……それが何だっていうんだよ」
「分かるだろう」
言って、敦盛が何とも言えぬ表情で俯いた。
ヒノエは、何も言い返せずに黙り込む。敦盛の言う通りだ。彼の言いたいことが、分からないわけはない。
ーーー今は最早、ヒノエは自分のことだけを気にしていればいいわけではないということだ。
ヒノエは八葉であると同時に熊野別当である。この戦にとっても、そして熊野にとっても重要な人間だ。
そんな者が、あろうことか自ら進んで怨霊と触れ合い穢れを纏うなど、どう考えても褒められた行為ではあるまい。
「分かるよ。分かる、けど」
「それならばやめておくことだ。頭の良い君なら……、」
ーーーうるせえ。
続けようとした敦盛の言葉は、続かなかった。ヒノエが己の唇で、彼の唇を塞いでやったからだった。
その瞬間、ぞくりと悪寒。接した唇は確かに柔らかく、人肌に温かいのに、何故だか「ああ死人だ」と直感的に思った自分が嫌だった。いとしい者を抱き寄せ口づけ、それなのに心地よく感じないなんて。
畜生。
半ば意地になって、敦盛が抵抗するのに構わずあと幾度か口づけてみる。が、感じるのはやはり気味の悪い寒気、その上少し身体が重く感じるようになってきたのが分かって、余計、哀しくなってしまう。
「ヒノエ、!」
鋭く呼ばれて、我に返った。敦盛がヒノエの肩を掴んでぐっと押し退けてきていた。と思ったら、袖で頬を撫でてきた。そこで気がついた。自分は、泣いていた。
「無理を……、無理をするものではない」
「無理なんかしてないっての」
「いいや。君の身体は私を拒絶しているはずだ」
「そんなこと、あるわけない。だってオレは、こんなにもお前のことが好きなんだよ。なのにそんなこと……あってたまるか」
「!」
敦盛の手を引いて、立ち上がる。彼をどこか人気のないところへ連れ込み、彼にーーーというよりは自分の身体に証明してやろうと思った。自分が彼を拒むことなど、ないのだと。
「どこへ行くつもりだ」
敦盛が、立ち止まって問うてきた。ヒノエも歩みを止め、振り返ってぶっきらぼうに答える。
「どっか、誰にも見つからないようなとこ」
「何をしに」
「さあ。行ってから教えてやるよ」
「……。駄目だ」
「どうして。オレとやんのは嫌かい」
「そういう問題ではない。分かって……くれ」
「分かんないね。生ける者と死する者の、難しい問題なんざ」
言い合っている間も、敦盛と手を繋いだままだ。その、敦盛の手を握る手のひらがひりひりと痛くなってきたけれど、離したくない。
「君の身体に、障る」
「別に構わないけどね、オレは」
「君が良くても、他の者が困る」
「……」
「君も八葉の一人、神子を守る一柱。そして平家との決戦に必要不可欠な熊野水軍の頭でもある。そんな君が今、倒れてしまったら。一体どうなると思う」
「……」
「本当に、洒落にならないことになるかも知れない。それは避けなければならない」
「…………」
ぎりりと奥歯を噛み締め、ヒノエは黙る。敦盛の言うことが、あまりにも正しいから。言い返す言葉など、なんにも、なかった。
「……それじゃあ、」
敦盛の手を離して、己の拳をぎゅっと握る。
「戦が終わったら」
「……」
「戦が終わって、てことは怨霊の問題も片付いてる。水軍ももうあとは熊野へ引き上げるだけだ。そうなったら、そのときは、いいってことだよな」
「いや、良くは……」
「言わせない」
「え」
「オレがどうなろうと、もうオレ以外、そこまで致命的には困らないはずだから。熊野のことはあるけど、しばらく別当が不在なくらいなら問題ないさ。皆優秀だし、最悪、親父もいるし」
「だが、私だって、君を傷つけたくない。私のせいで君に何かあっては、浮かばれるものも浮かばれなくなる」
「……そうかも、知れないけどさぁ」
ーーー譲れない。
敦盛とは気持ちも通じていて、手を伸ばせばいつでも何でもできるようなところにいるのに、少し触れることもできない。今日のように無理をすればできるけれど、無理をしないと、できない。
こんなにも、いとしいのに。色々と、したいのに。足りないのだ。近くで語らうだけでは。衣の上から、抱き締めるだけでは。
「何にもないままお前と来世までさよならってことになったら、オレ、一生後悔するよ。そうならないためなら、どれだけ身体の具合が悪くなったって構わない」
「……」
「ま、嫌がってる相手に無理矢理やるようなことはしないけど……そういうわけじゃ、ないだろ。難しい問題がなきゃ、お前だってやぶさかじゃないと思ってると……オレは、思ってる」
「それは……その」
と、濁したきり敦盛が黙り込んでしまった。迷っているのだろう。
自分のせいでヒノエの具合が悪くなると分かりきっている。しかし、敦盛にはヒノエの気持ちはきちんと伝わっている。一生の後悔を背負わせたくないという思いもあるのだろう。それに、敦盛自身も、ヒノエと契りたいというのも……なくはない、と思う。
しばらく間があり、敦盛がついに口を開いた。その口から出た言葉というのが、
「……すまない。考えさせてくれ」
「……」
すっきりしねえな。
と思ったが、これはかなり難しい問題であることはヒノエにも分かっている。断じて断る、ではなかったことを、喜ばねばならない。
「分かったよ、戦が終わるまで、ゆっくり考えてくれていい」
そう返してやれば、敦盛がもう一度、本当に申し訳なさげに「すまない」と。
「……お前が謝る必要は、ないよ」
だって本当に謝らねばならぬのは、ヒノエの方だ。ヒノエの身体の具合を悪くしてはならぬから、という敦盛の思いを無下にして、わがままを言っているのだから。
「……」
また黙ってしまった敦盛を、静かに抱き締めた。すでにまあまあ触れた後だ。今更、多少さらに穢れが移ってきたところで、もう気にしない。
「……好きだよ」
言えば、敦盛が「ああ」と返事して、しっとり、抱き締め返してくれた。
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