信じる、君を
京、梶原邸。
源氏は、屋島の戦い以来、態勢を整えているところである。
屋島では大敗を喫したが、まだ、源氏の方が優勢だ。油断しなければ、勝機はある。
……けれど。
景時は、自分の部屋で書き物をしながらため息をついた。
入り口は、開けている。昼間だ。そちらを向けば、木々の緑や池の青が見えた。鮮やかなそれらが、今の景時にはくすんで見える。おかしいな。見飽きたはずの雪景色の方が、きれいに見えた気がする……。
弁慶が、屋島の戦いで望美をさらって平家に寝返ってしまった。優秀な軍師と、何より白龍の神子を失ったことで、源氏は切り札を失ったと言ってもいい状態になったと景時は思っている。
ーーー「信じて待ってる」。
そう、彼に言ったときのことを思い出している。
それに対して、彼はすぐには返事をしなかった。何拍か間を置いてから、「ありがとうございます」とだけ、言った。
そのときに彼が口にした策とやらを食わされた今となっては、分かる。あんなことをーーー源氏を裏切るなどということをしてしまったのだから、戻ってきたくとも、容易に戻ってこられるわけはない。戦で戦うことになれば、命を奪わなければならなくなるかも知れないし、戻ってこられてもすぐに頼朝に処断されるであろうことは明白である。そして、景時の思いつく他にも、彼が危うくなる可能性などいくらでもあるわけで。
だが本当に……彼は、戻ってきたいのか。
源氏にいたのでは戦を終わらせられないからと、怨霊の力を信じているからと宣言し、望美をさらって平家に寝返った弁慶。普通に考えれば、こちら側に戻ってくる理由はないはずだ。
しかし、屋島に行く前の言葉が嘘だったとは景時には思えない。本当は離れたくはないのだと、戻ってきたいのだと言った彼の声音に偽りはなかった。演技だとも……どうしても、思えない。
だから、希望的すぎる予想かも知れないけれど。
景時は、心の底では弁慶を信じている。何か理由があって、怨霊を肯定するような、心にもないことを言ったのだと。源氏にも平家にもそう見せかけただけで、実際は寝返ったのではなく内側から平家を崩すために入り込んだのだと。それには平家に認めてもらう必要があるから、白龍の神子をさらって平家への見せかけの忠誠の証としたのだろうと。
「……なんて、ね」
本当の本当に、希望的すぎる。
けれど、もう一度会いたいと思う気持ちが、そんな予想をすることをやめさせてくれないのだ。
ーーーとっ、とっ、
廊下を歩いてくる足音が聞こえて、景時は我に還った。今は昼間だ。誰がいつ会いにくるか分からない。できるだけしゃんとしていなければ。
いよいよ足音が近づき、姿を現したのは九郎であった。「景時、今いいか」と聞いてくる顔が、物凄く曇っている。驚いて、挨拶もせぬうちに「何があったの」と聞いてしまった。
「今さっき、報告があってな……」
今にも消え入りそうな声で、九郎が言った。
「弁慶が、厳島まで助けにきてくれと言っているらしいんだ」
「え!?」
「そいつが言うには、弁慶が平家に寝返ったのは実は作戦の一環で、清盛を倒し黒龍の逆鱗を破壊するためなのだと……それにはこうするしか、なかったのだと……」
「………」
「分からないんだ……これを信じていいのか。だからお前に、相談しに来たんだ」
絞り出すように言う九郎の声には、以前の覇気はもう、見る影もなかった。悩み、迷い、挙げ句疲れて果ててしまったというような。ともすれば、泣き出しそうにも見えた。
「お前はどう思う」、九郎が聞いてきた。
その問いに、景時もすぐには答えることができない。なぜなら、信じたい、助けに行きたいという気持ちが強すぎて。本当に信じてもいいのかが、分からなかった。
「……その、報告してきたってのは、信頼できる人なのかい?」
「太田稀人(おおたまれひと)という男だ。稀人は、百川時忠(ももかわときただ)という男にそれを聞いたと。時忠は厳島に潜んでいて、弁慶から直接それを聞いたのだと言っていた。……この二人、知ってるか?」
「ああ……、」
稀人とは、一緒に仕事をしたことがある。誠実で優秀なやつであった。時忠の方は、源氏に与する者というよりは弁慶の部下という印象だった。よく弁慶と行動しているようだったから、それだけ信頼が厚いということなのだろう。
だからといって、「なら大丈夫」とは言えないけれど。「そんなもの信じられない」と一蹴できるような報告でもなさそうだ。
「……頼朝様には? 通ってるの?」
「通ってない。通せるわけがない」
「だよねぇ……」
「となれば、行くとすると勝手に行くことになる。誤魔化すことができなくはないだろうが、最後まで隠し通すことは難しいだろう」
「うん。そしてばれれば、どんな処分を食らうか分からない……」
「ああ。もし、弁慶を無事連れ帰ることができたとしても、あいつは一度源氏を裏切っているんだ。命に関わる処断を下されることも十分あり得るだろう。あいつ本人はもちろん……それを助けた俺たちも」
「……うん、」
「分かっているんだ。何から何まで危険だということなど」
ぐっ。九郎が強く拳を握って、「だが!」と吠える。
「俺はどうしても、助けに行きたいと思ってしまう。だってあいつともう、何年一緒にいたと思う。楽しいこともつらいことも、いくつもいくつも共に経験したんだ。あんなかたちで裏切られたとしても、それまでに重ねた信頼や絆全てをなかったことにするなんて、俺には無理だ」
ーーーああ。
九郎も、自分と同じなのだ。弁慶のことを、信じたくて堪らない。罠かも知れなくとも、どれだけ危険でも、助けに行きたくて行きたくて仕方がない……。
「行こう」
気がつけば、勝手に口が動いていた。
「準備ができ次第、すぐにでも」
「だが、兄上に知られればただでは……」
「分かってるよ」
分かっている。頼朝に知られれば、自分や仲間の身だけでなく家族にも何かをされるだろう。
それが、怖くて仕方がなくて。今まで頼朝の懐刀ーーーもとい、いいように使われる頼朝の犬ーーーで、あり続けたけれど。不思議だ。今は少しも怖くない。根拠もなく、弁慶のことも家族のことも何とかなる気がしてきている。
「でも……そんなことよりも、弁慶を助けたいから。何らかの処分を受けたとしても、ここで行かなかったら一生後悔する」
「後悔……」
「九郎だってしたくないでしょ、後悔」
そう、投げ掛ければ。
揺れていた九郎の瞳に、ふっと炎が戻った。強い決意の色を孕んだ眼光が、自分の目線とぶつかる。
すう、と九郎が息を吸い込み、
「そうだな。行こう、厳島に」
源氏は、屋島の戦い以来、態勢を整えているところである。
屋島では大敗を喫したが、まだ、源氏の方が優勢だ。油断しなければ、勝機はある。
……けれど。
景時は、自分の部屋で書き物をしながらため息をついた。
入り口は、開けている。昼間だ。そちらを向けば、木々の緑や池の青が見えた。鮮やかなそれらが、今の景時にはくすんで見える。おかしいな。見飽きたはずの雪景色の方が、きれいに見えた気がする……。
弁慶が、屋島の戦いで望美をさらって平家に寝返ってしまった。優秀な軍師と、何より白龍の神子を失ったことで、源氏は切り札を失ったと言ってもいい状態になったと景時は思っている。
ーーー「信じて待ってる」。
そう、彼に言ったときのことを思い出している。
それに対して、彼はすぐには返事をしなかった。何拍か間を置いてから、「ありがとうございます」とだけ、言った。
そのときに彼が口にした策とやらを食わされた今となっては、分かる。あんなことをーーー源氏を裏切るなどということをしてしまったのだから、戻ってきたくとも、容易に戻ってこられるわけはない。戦で戦うことになれば、命を奪わなければならなくなるかも知れないし、戻ってこられてもすぐに頼朝に処断されるであろうことは明白である。そして、景時の思いつく他にも、彼が危うくなる可能性などいくらでもあるわけで。
だが本当に……彼は、戻ってきたいのか。
源氏にいたのでは戦を終わらせられないからと、怨霊の力を信じているからと宣言し、望美をさらって平家に寝返った弁慶。普通に考えれば、こちら側に戻ってくる理由はないはずだ。
しかし、屋島に行く前の言葉が嘘だったとは景時には思えない。本当は離れたくはないのだと、戻ってきたいのだと言った彼の声音に偽りはなかった。演技だとも……どうしても、思えない。
だから、希望的すぎる予想かも知れないけれど。
景時は、心の底では弁慶を信じている。何か理由があって、怨霊を肯定するような、心にもないことを言ったのだと。源氏にも平家にもそう見せかけただけで、実際は寝返ったのではなく内側から平家を崩すために入り込んだのだと。それには平家に認めてもらう必要があるから、白龍の神子をさらって平家への見せかけの忠誠の証としたのだろうと。
「……なんて、ね」
本当の本当に、希望的すぎる。
けれど、もう一度会いたいと思う気持ちが、そんな予想をすることをやめさせてくれないのだ。
ーーーとっ、とっ、
廊下を歩いてくる足音が聞こえて、景時は我に還った。今は昼間だ。誰がいつ会いにくるか分からない。できるだけしゃんとしていなければ。
いよいよ足音が近づき、姿を現したのは九郎であった。「景時、今いいか」と聞いてくる顔が、物凄く曇っている。驚いて、挨拶もせぬうちに「何があったの」と聞いてしまった。
「今さっき、報告があってな……」
今にも消え入りそうな声で、九郎が言った。
「弁慶が、厳島まで助けにきてくれと言っているらしいんだ」
「え!?」
「そいつが言うには、弁慶が平家に寝返ったのは実は作戦の一環で、清盛を倒し黒龍の逆鱗を破壊するためなのだと……それにはこうするしか、なかったのだと……」
「………」
「分からないんだ……これを信じていいのか。だからお前に、相談しに来たんだ」
絞り出すように言う九郎の声には、以前の覇気はもう、見る影もなかった。悩み、迷い、挙げ句疲れて果ててしまったというような。ともすれば、泣き出しそうにも見えた。
「お前はどう思う」、九郎が聞いてきた。
その問いに、景時もすぐには答えることができない。なぜなら、信じたい、助けに行きたいという気持ちが強すぎて。本当に信じてもいいのかが、分からなかった。
「……その、報告してきたってのは、信頼できる人なのかい?」
「太田稀人(おおたまれひと)という男だ。稀人は、百川時忠(ももかわときただ)という男にそれを聞いたと。時忠は厳島に潜んでいて、弁慶から直接それを聞いたのだと言っていた。……この二人、知ってるか?」
「ああ……、」
稀人とは、一緒に仕事をしたことがある。誠実で優秀なやつであった。時忠の方は、源氏に与する者というよりは弁慶の部下という印象だった。よく弁慶と行動しているようだったから、それだけ信頼が厚いということなのだろう。
だからといって、「なら大丈夫」とは言えないけれど。「そんなもの信じられない」と一蹴できるような報告でもなさそうだ。
「……頼朝様には? 通ってるの?」
「通ってない。通せるわけがない」
「だよねぇ……」
「となれば、行くとすると勝手に行くことになる。誤魔化すことができなくはないだろうが、最後まで隠し通すことは難しいだろう」
「うん。そしてばれれば、どんな処分を食らうか分からない……」
「ああ。もし、弁慶を無事連れ帰ることができたとしても、あいつは一度源氏を裏切っているんだ。命に関わる処断を下されることも十分あり得るだろう。あいつ本人はもちろん……それを助けた俺たちも」
「……うん、」
「分かっているんだ。何から何まで危険だということなど」
ぐっ。九郎が強く拳を握って、「だが!」と吠える。
「俺はどうしても、助けに行きたいと思ってしまう。だってあいつともう、何年一緒にいたと思う。楽しいこともつらいことも、いくつもいくつも共に経験したんだ。あんなかたちで裏切られたとしても、それまでに重ねた信頼や絆全てをなかったことにするなんて、俺には無理だ」
ーーーああ。
九郎も、自分と同じなのだ。弁慶のことを、信じたくて堪らない。罠かも知れなくとも、どれだけ危険でも、助けに行きたくて行きたくて仕方がない……。
「行こう」
気がつけば、勝手に口が動いていた。
「準備ができ次第、すぐにでも」
「だが、兄上に知られればただでは……」
「分かってるよ」
分かっている。頼朝に知られれば、自分や仲間の身だけでなく家族にも何かをされるだろう。
それが、怖くて仕方がなくて。今まで頼朝の懐刀ーーーもとい、いいように使われる頼朝の犬ーーーで、あり続けたけれど。不思議だ。今は少しも怖くない。根拠もなく、弁慶のことも家族のことも何とかなる気がしてきている。
「でも……そんなことよりも、弁慶を助けたいから。何らかの処分を受けたとしても、ここで行かなかったら一生後悔する」
「後悔……」
「九郎だってしたくないでしょ、後悔」
そう、投げ掛ければ。
揺れていた九郎の瞳に、ふっと炎が戻った。強い決意の色を孕んだ眼光が、自分の目線とぶつかる。
すう、と九郎が息を吸い込み、
「そうだな。行こう、厳島に」