君といられる喜びを。─短編集─
あなたのお名前は?
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
上京し、一人暮らしを始めて一年。
やっと仕事と周りの環境とに慣れてきて、自分の生活状況に目がいくようになった時期。
いざ見返してみれば怒涛の如く過ぎていった一年の間に、私の体は「そろそろ手作りのご飯が食べたい」「運動もしなければ」「良質な睡眠が欲しい……」と出来るなら苦労しない悩みを抱えていた。
仕事帰りに疲れて、家に帰ればベッドに直行なのをまず何とかしないといけない。お風呂も入れないし、ご飯も食べられない。
体力がないんだろうか?
同期の女の子聞いてみたところ、「ジム通ってるよ」とありがたい情報を貰い、早速勧められたジムへと体験に行ってみることにした。
(中に入っただけで充実した人生を送ってる気になってきた……)
「こちらへどうぞ」
トレーナーさんに進められるがまま、とりあえずトレーニングジムを月4日ペースで入会してみることに決めたものの……
(一人だとつまんないな……)
若い女性は皆連れ立って来ているようで話題が絶えないし、黙々とトレーニングに励むムキムキマッチョとカテゴリーを一緒にされるというのはアウェー感が否めない。
恥ずかしがらずに、カウンセリング受けてトレーナーと一対一のプログラムを受ければ良かった。
来月からはそれをやってみようと決心し、早速翌月から一ヶ月、給料の一部を投げ打ってトライアルに励んだ。
「ね!名無しちゃん聞いた?今日プロのバレーチームがここの体育館借りてるんだって!」
「そうなんですか?覗き見出来ますかね」
それから私は一ヶ月と言わず、いつの間にかジムの常連へとランクアップしていた。理由は簡単で、痩せるからとか運動が好きだからというよりは、「話せる知り合い」が出来たからだ。
お話し相手は近年二人の息子から子離れしたばかりの、私のお母さんと同年代くらいの女性。口を開けば旦那の愚痴だが、うちの母と似たようなことを言ってるな……と何とも微笑ましい話ばかりで、聞いてるこちらもほっこりしてしまう。
「中には入れないけど、外からちょっと見るくらいなら問題ないわよ!何時に来るのかしらね」
「もしかして、今日ジムに女性が多いのって、その噂聞きつけたからでしょうか」
「勿論よ!ここ、都内では大きくて、色んなスポーツ選手が来ることで有名だからね。それを目当てに入会してる人も多いのよ」
女性の執念というのはある意味すごいな……とどこか他人事のように曖昧に頷く。
でも確かに興味はある。せっかく有給使ってるんだし、プロ選手の一人や二人、眼中に収めないと損な気がする。
しかし昼頃になっても彼らの姿はなく、知り合いの女性は「旦那の分のご飯作らなきゃ。あの人、一人じゃお湯も沸かせないのよ」と泣く泣く退散していった。
写真一枚でも撮ったら見せてちょうだいと言われたが、体育館沿いの廊下に「撮影行為厳禁」と書かれたパネルが置かれており、ジム側も慣れたもんだとスマホをポケットにしまう。
(仕方ない、昼食だけ外で食べて戻ってくるか)
ジムに通うようになって、食べる量も増えた。美味しそうだけど量がな〜、と思っていた管理栄養士の下作られる人気の定食屋さんに足を運ぶのも、今では続けたい日課になっていた。
この店はジムから徒歩で行ける距離もあり、若い男女によく利用される。さっきの話が本当なら、スポーツ選手もよく来るのだろう。
ボリュームたっぷりの日替わり定食を頬張っていると、近くのカウンター席から「あ」と小さく声が聞こえた。
お味噌汁を手にしながらそちらを振り返ると、ガタイのいい男性の後ろ姿が、自分の服のあらゆるポケットを探っている。
何か失くしたのだろうか、とこちらまでハラハラして、食べるのも忘れて見守っているけれど、男性は硬直したまま動く気配がない。
(………まさか……財布忘れたとか!?)
私は水の入ったグラスをトレーの上に無理やり乗せて、荷物ごと男性の座る横の席に移動させる。予想通り、定食はすでに平らげた後だった。
ちら、と見えた横顔に驚いて目を見開いてしまう。つやつやの黒髪に印象的なつり目、すっと通った鼻筋、シャープな顎のラインをいっぺんに見せつけられると(見たのは私だけど)びっくりもしてしまう。
(にしても若い……!学生かな?)
男性は私がすぐ隣に座ったことも全く気づかず、初めて見た顔でも焦っていることは容易に察せた。
大慌てで味噌汁とご飯をかき込むと、「すみません、お会計!」と大きめの声で叫んだ。その時初めて、小さく肩を揺らしてこちらに視線を寄越したのが視界の隅で見えた。
カウンター席でよかった。テーブル席なら「失礼いたします!」とレシートをひったくるしか手段がなかったから。
「二人分のお会計お願いします」
「えっ」
「……?分かりました!では……2,640円です」
「カードでお願いします」
思わぬタイミングで「社会人になったらやりたいことその32、〝カードで奢る〟」を達成する。
「あの、ありがとうございます。財布忘れてきたのさっき気づいたんで助かりました」
「あ、やっぱり忘れちゃったんですよね。実は私もスーパーでだけど、やっちゃったことあるので分かるんですよ」
声まで透き通ってて綺麗だ…!反則だ!と心の中では悶えながらも、顔には出さず頑張って「東京のお姉さん」ぽく振舞ってみる。
領収証を受け取って店を出ると、そわそわしてるその男性に何か言われる前に「じゃ、私こっちなので!」と距離をとった。
「俺もそっちです」
「あっ……」
「というかすぐそこのジムに財布あるんで、ちょっと待ってて貰えませんか」
すぐそこのジムって………私と行き先一緒じゃない!
「いえ!あの、ホントに気にしないでください!ほら、未来ある若者への投資というか!自己満足なので!ほんと!」
「若……って、あなたも若く見えますけど」
若いと言われて喜べるほど歳とってないんだよなぁ……と思っているうちにジムの前まで着いてしまい、「待っててくださいね」と念押しされ私はぽつんとロビーで待つことになってしまった。
(……このままバックれてもいいと思うけど……)
律儀な青年だなぁ、と思いながら遠ざかる背中を眺めていたら、彼はすたすたと確かな足取りで──「撮影行為厳禁」と書かれた入口のパネルの横を通り過ぎ──その体育館の中へと入っていった。
「………………えっ」
だだっ広いロビーの中で虚しく投げ出される私の声。
受付の男性に「すみません、今あの体育館貸切にしてるのってどこの団体ですか!?」と前のめりで尋ねた。
「あっはい、えーとプロバレーチームのシュヴァイデンアドラーズってとこです」
「しゅ、しゅば……?すみませんもう一度……!」
スマホのメモ機能に一言一句漏らさず書き留め、電光石火のごとくトレーニングルームへと雲隠れする。
(ぷ、プロのひとだったんだ……!学生なんかじゃないじゃん!ヤダ私横柄な態度とってなかったかな!?)
心做しかがらんどうとしたトレーニングルーム。なるほど、あの青年のいる体育館の外へと流れているようだ。
勢いで逃げてきちゃったのはいいけれど、この後何時間も彼らが居座ることを考えたら相当間が悪い。いやでも、何も知らない人ですよ〜風を装って通り過ぎれば問題ない!
ストレッチマットの上で寝転びながらそんなことを考えていたら、視界いっぱいに広がっていた天井ににゅっと先程の青年の顔が現れた。
「っうわーびっくりしたあぁ」
「すみません、受付の人からここにいるって聞きました。会員だったんですね」
そうだよ!会員の情報漏洩じゃん!と心の中で難癖つける私の横にしゃがむ。手を差し出されたのでおずおずと私も手を出すと、ぎゅっと握られてその上にお札を置かれた。
「金額忘れたんでこれで」
「!?いやいや、こんなに貰えないですよっ……」
「いえ。何か、元気出たんで。じゃあ」
青年はぺこ、と深くだけど素早く一礼して、再び迷いない足取りでトレーニングルームを出ていく。
手元の諭吉に目を落としてみるも、もう追いかける体力と勇気はどこにも残っていなかった。
「元気出たって……どういうことだろ……」
全然分かんないけど、元気が出た、と言うのなら彼なりの感謝の気持ちを返してくれたのかもしれない。それには金額なんてどうでもいいのだろうなと思うと、仕方ないから素直に受け取るか、と頬が緩んだ。
後日、仕事帰りに寄った本屋で、興味本位でスポーツ誌のあるコーナーへふらふら〜っと引き寄せられる。
(月刊バリボー6月号……あった!こう見ると結構目につくなぁ)
シュヴァイデンアドラーズの特集が組まれているとの情報を入手したので、気になっていたのだ。最短距離でレジにて購入し、浮き足立って家に帰る。
直接聞けず、携帯に教えてもらった青年の名前・〝影山飛雄〟の四文字を探し出すと、ページ一面にいっぱい特集が組まれていた。
「うわーーっちょっと沢山書いてあるじゃん!インタビューも!!待って待って先にご飯とかお風呂済ませちゃおうっ」
誰もいない家の中、つい独り言が零れてしまう。私の平凡な日常が一気に彩られる。きっと一生忘れないんだろうなと余韻に浸りながら、用事を済ませてソファへと腰を沈ませた。
おおーっとかへーー!とか盛り上がりながら読み進めていると、〝気になる一般女性とのスキャンダル騒動!真相は!?〟なんてタイトルが目に飛び込んできた。
───Q.試合成績も好調ですが、プライベートの充実が力の源でしょうか?
───A.いつも通り充実してます。勝つための努力は怠りたくないので。
───Q.それを支える女性の影もあったり?
───A.女性ですか。いえ、特に思い浮かばないです。
いつの間にかドキドキしていた私だけど、ふーっと何か成し遂げたみたいな大きなため息をつく。
そうだよね、スポーツ出来てかっこよかったら、それだけでメディアの格好の餌だよね……。
───Q.飲食店から女性と一緒に出てきたというお話がありましたが?
───A.あ、はい。全然知らない人です。
「あはは!そうだけど言い方!」
時期的にも私のことを言ってるので間違いないだろう。彼の緊張感の無さに涙が出るほど笑ってしまう。
その後も知らない人なのに…?みたいな困惑した質問があったが(当然といえば当然)、彼は詳細は一切話さず終いだった。覚えてない、というのが正しい可能性もあるかもしれないが、そんなことは今の私にはさほど重要ではなかった。
しがない一般人の私と、世界に期待されるプロのバレーボール選手とじゃ住む世界が違う。だからこそ、一瞬交差したあの日は私の宝物だ。
未来への投資とか言っておきながら金銭的には既に倍以上にして返してもらっているけれど。
昼食一食分の小さな投資が、今後の私の人生をこんなに豊かにしてくれるものになろうとは思いもしなかったのだ。
.
やっと仕事と周りの環境とに慣れてきて、自分の生活状況に目がいくようになった時期。
いざ見返してみれば怒涛の如く過ぎていった一年の間に、私の体は「そろそろ手作りのご飯が食べたい」「運動もしなければ」「良質な睡眠が欲しい……」と出来るなら苦労しない悩みを抱えていた。
仕事帰りに疲れて、家に帰ればベッドに直行なのをまず何とかしないといけない。お風呂も入れないし、ご飯も食べられない。
体力がないんだろうか?
同期の女の子聞いてみたところ、「ジム通ってるよ」とありがたい情報を貰い、早速勧められたジムへと体験に行ってみることにした。
(中に入っただけで充実した人生を送ってる気になってきた……)
「こちらへどうぞ」
トレーナーさんに進められるがまま、とりあえずトレーニングジムを月4日ペースで入会してみることに決めたものの……
(一人だとつまんないな……)
若い女性は皆連れ立って来ているようで話題が絶えないし、黙々とトレーニングに励むムキムキマッチョとカテゴリーを一緒にされるというのはアウェー感が否めない。
恥ずかしがらずに、カウンセリング受けてトレーナーと一対一のプログラムを受ければ良かった。
来月からはそれをやってみようと決心し、早速翌月から一ヶ月、給料の一部を投げ打ってトライアルに励んだ。
「ね!名無しちゃん聞いた?今日プロのバレーチームがここの体育館借りてるんだって!」
「そうなんですか?覗き見出来ますかね」
それから私は一ヶ月と言わず、いつの間にかジムの常連へとランクアップしていた。理由は簡単で、痩せるからとか運動が好きだからというよりは、「話せる知り合い」が出来たからだ。
お話し相手は近年二人の息子から子離れしたばかりの、私のお母さんと同年代くらいの女性。口を開けば旦那の愚痴だが、うちの母と似たようなことを言ってるな……と何とも微笑ましい話ばかりで、聞いてるこちらもほっこりしてしまう。
「中には入れないけど、外からちょっと見るくらいなら問題ないわよ!何時に来るのかしらね」
「もしかして、今日ジムに女性が多いのって、その噂聞きつけたからでしょうか」
「勿論よ!ここ、都内では大きくて、色んなスポーツ選手が来ることで有名だからね。それを目当てに入会してる人も多いのよ」
女性の執念というのはある意味すごいな……とどこか他人事のように曖昧に頷く。
でも確かに興味はある。せっかく有給使ってるんだし、プロ選手の一人や二人、眼中に収めないと損な気がする。
しかし昼頃になっても彼らの姿はなく、知り合いの女性は「旦那の分のご飯作らなきゃ。あの人、一人じゃお湯も沸かせないのよ」と泣く泣く退散していった。
写真一枚でも撮ったら見せてちょうだいと言われたが、体育館沿いの廊下に「撮影行為厳禁」と書かれたパネルが置かれており、ジム側も慣れたもんだとスマホをポケットにしまう。
(仕方ない、昼食だけ外で食べて戻ってくるか)
ジムに通うようになって、食べる量も増えた。美味しそうだけど量がな〜、と思っていた管理栄養士の下作られる人気の定食屋さんに足を運ぶのも、今では続けたい日課になっていた。
この店はジムから徒歩で行ける距離もあり、若い男女によく利用される。さっきの話が本当なら、スポーツ選手もよく来るのだろう。
ボリュームたっぷりの日替わり定食を頬張っていると、近くのカウンター席から「あ」と小さく声が聞こえた。
お味噌汁を手にしながらそちらを振り返ると、ガタイのいい男性の後ろ姿が、自分の服のあらゆるポケットを探っている。
何か失くしたのだろうか、とこちらまでハラハラして、食べるのも忘れて見守っているけれど、男性は硬直したまま動く気配がない。
(………まさか……財布忘れたとか!?)
私は水の入ったグラスをトレーの上に無理やり乗せて、荷物ごと男性の座る横の席に移動させる。予想通り、定食はすでに平らげた後だった。
ちら、と見えた横顔に驚いて目を見開いてしまう。つやつやの黒髪に印象的なつり目、すっと通った鼻筋、シャープな顎のラインをいっぺんに見せつけられると(見たのは私だけど)びっくりもしてしまう。
(にしても若い……!学生かな?)
男性は私がすぐ隣に座ったことも全く気づかず、初めて見た顔でも焦っていることは容易に察せた。
大慌てで味噌汁とご飯をかき込むと、「すみません、お会計!」と大きめの声で叫んだ。その時初めて、小さく肩を揺らしてこちらに視線を寄越したのが視界の隅で見えた。
カウンター席でよかった。テーブル席なら「失礼いたします!」とレシートをひったくるしか手段がなかったから。
「二人分のお会計お願いします」
「えっ」
「……?分かりました!では……2,640円です」
「カードでお願いします」
思わぬタイミングで「社会人になったらやりたいことその32、〝カードで奢る〟」を達成する。
「あの、ありがとうございます。財布忘れてきたのさっき気づいたんで助かりました」
「あ、やっぱり忘れちゃったんですよね。実は私もスーパーでだけど、やっちゃったことあるので分かるんですよ」
声まで透き通ってて綺麗だ…!反則だ!と心の中では悶えながらも、顔には出さず頑張って「東京のお姉さん」ぽく振舞ってみる。
領収証を受け取って店を出ると、そわそわしてるその男性に何か言われる前に「じゃ、私こっちなので!」と距離をとった。
「俺もそっちです」
「あっ……」
「というかすぐそこのジムに財布あるんで、ちょっと待ってて貰えませんか」
すぐそこのジムって………私と行き先一緒じゃない!
「いえ!あの、ホントに気にしないでください!ほら、未来ある若者への投資というか!自己満足なので!ほんと!」
「若……って、あなたも若く見えますけど」
若いと言われて喜べるほど歳とってないんだよなぁ……と思っているうちにジムの前まで着いてしまい、「待っててくださいね」と念押しされ私はぽつんとロビーで待つことになってしまった。
(……このままバックれてもいいと思うけど……)
律儀な青年だなぁ、と思いながら遠ざかる背中を眺めていたら、彼はすたすたと確かな足取りで──「撮影行為厳禁」と書かれた入口のパネルの横を通り過ぎ──その体育館の中へと入っていった。
「………………えっ」
だだっ広いロビーの中で虚しく投げ出される私の声。
受付の男性に「すみません、今あの体育館貸切にしてるのってどこの団体ですか!?」と前のめりで尋ねた。
「あっはい、えーとプロバレーチームのシュヴァイデンアドラーズってとこです」
「しゅ、しゅば……?すみませんもう一度……!」
スマホのメモ機能に一言一句漏らさず書き留め、電光石火のごとくトレーニングルームへと雲隠れする。
(ぷ、プロのひとだったんだ……!学生なんかじゃないじゃん!ヤダ私横柄な態度とってなかったかな!?)
心做しかがらんどうとしたトレーニングルーム。なるほど、あの青年のいる体育館の外へと流れているようだ。
勢いで逃げてきちゃったのはいいけれど、この後何時間も彼らが居座ることを考えたら相当間が悪い。いやでも、何も知らない人ですよ〜風を装って通り過ぎれば問題ない!
ストレッチマットの上で寝転びながらそんなことを考えていたら、視界いっぱいに広がっていた天井ににゅっと先程の青年の顔が現れた。
「っうわーびっくりしたあぁ」
「すみません、受付の人からここにいるって聞きました。会員だったんですね」
そうだよ!会員の情報漏洩じゃん!と心の中で難癖つける私の横にしゃがむ。手を差し出されたのでおずおずと私も手を出すと、ぎゅっと握られてその上にお札を置かれた。
「金額忘れたんでこれで」
「!?いやいや、こんなに貰えないですよっ……」
「いえ。何か、元気出たんで。じゃあ」
青年はぺこ、と深くだけど素早く一礼して、再び迷いない足取りでトレーニングルームを出ていく。
手元の諭吉に目を落としてみるも、もう追いかける体力と勇気はどこにも残っていなかった。
「元気出たって……どういうことだろ……」
全然分かんないけど、元気が出た、と言うのなら彼なりの感謝の気持ちを返してくれたのかもしれない。それには金額なんてどうでもいいのだろうなと思うと、仕方ないから素直に受け取るか、と頬が緩んだ。
後日、仕事帰りに寄った本屋で、興味本位でスポーツ誌のあるコーナーへふらふら〜っと引き寄せられる。
(月刊バリボー6月号……あった!こう見ると結構目につくなぁ)
シュヴァイデンアドラーズの特集が組まれているとの情報を入手したので、気になっていたのだ。最短距離でレジにて購入し、浮き足立って家に帰る。
直接聞けず、携帯に教えてもらった青年の名前・〝影山飛雄〟の四文字を探し出すと、ページ一面にいっぱい特集が組まれていた。
「うわーーっちょっと沢山書いてあるじゃん!インタビューも!!待って待って先にご飯とかお風呂済ませちゃおうっ」
誰もいない家の中、つい独り言が零れてしまう。私の平凡な日常が一気に彩られる。きっと一生忘れないんだろうなと余韻に浸りながら、用事を済ませてソファへと腰を沈ませた。
おおーっとかへーー!とか盛り上がりながら読み進めていると、〝気になる一般女性とのスキャンダル騒動!真相は!?〟なんてタイトルが目に飛び込んできた。
───Q.試合成績も好調ですが、プライベートの充実が力の源でしょうか?
───A.いつも通り充実してます。勝つための努力は怠りたくないので。
───Q.それを支える女性の影もあったり?
───A.女性ですか。いえ、特に思い浮かばないです。
いつの間にかドキドキしていた私だけど、ふーっと何か成し遂げたみたいな大きなため息をつく。
そうだよね、スポーツ出来てかっこよかったら、それだけでメディアの格好の餌だよね……。
───Q.飲食店から女性と一緒に出てきたというお話がありましたが?
───A.あ、はい。全然知らない人です。
「あはは!そうだけど言い方!」
時期的にも私のことを言ってるので間違いないだろう。彼の緊張感の無さに涙が出るほど笑ってしまう。
その後も知らない人なのに…?みたいな困惑した質問があったが(当然といえば当然)、彼は詳細は一切話さず終いだった。覚えてない、というのが正しい可能性もあるかもしれないが、そんなことは今の私にはさほど重要ではなかった。
しがない一般人の私と、世界に期待されるプロのバレーボール選手とじゃ住む世界が違う。だからこそ、一瞬交差したあの日は私の宝物だ。
未来への投資とか言っておきながら金銭的には既に倍以上にして返してもらっているけれど。
昼食一食分の小さな投資が、今後の私の人生をこんなに豊かにしてくれるものになろうとは思いもしなかったのだ。
.