君といられる喜びを。─短編集─
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いつも食ってるはずの俺の握り飯を、今日は両手で持って、いつも以上にちまちま食べ進める。海苔を挟む指は綺麗に手入れされているけれど、最近は忙しくてネイルできていないのだ、という話を本人から聞いたのは記憶に新しい。
「どう、最期の晩餐」
「死ぬみたいやん、やめてや」
「日本食は最後かも知れんやん」
「え〜、向こうに売ってないかなぁ」
おにぎり宮の閉店後でも、名無しが一人いれば商店街のBGM並みに賑やかだった。それが今日は、沈黙が次の会話を今か今かと待ちわびているみたいだ。
ここ、海の中とちゃうか。
水中潜ったら、どんなにうるさい奴でも静かなるし。
手持ち無沙汰に携帯を弄る。
検索履歴には、ずらっと「海外 遠距離」「遠距離恋愛 会いに行く」「海外 通話料金」……と未練がましさの化身が並んでいて、ふ、といつの間にやら止めていた息を吐いた。
さすがは文明の利器。
何も知らんくせに、毎度一言で片付けよる。
「治」
「ん?」
「ちょっとこれいつもより出汁濃いめにした?」
「おん。濃いめにした」
「ええなぁ。こっちもめっちゃ好き」
チラ、と壁掛け時計を確認すると、短針がもうすぐ11を指そうとしていた。そんな俺の様子を見てか、名無しも「あ、ごめんな遅くまで」と空になった茶碗と箸を置いた。
「さてと。明日も朝早いし、そろそろ帰ろかな」
「明日何時に空港?」
「うーんと、7時23分の便やから……6時半には着きたい」
「早いな」
「時差の関係でな〜、向こう着いたらとりあえず初日は寝るだけにしたいから」
「ふーん。……車出すわ、6時に家でええ?」
「わーい、ありがとう!お願いしま〜す」
店ののれんをくぐれば、その先は夜の闇。
エプロンを脱いで、店の電気を消して、シャッターを閉めてから車を動かす。その間名無しは、いつにも増して「おにぎり宮」の看板を目に焼きつけるように眺めていた。
「日本食は最後かも知れんって言ったやん」
「おん」
エンジン音に被せて、名無しは頬杖をついたまま話しかけてくる。ちょうど赤信号に引っかかり、ゆっくりと減速した。
「私、普通に数年で帰ってきますけど」
「知っとるよ。でも俺ら、まだ二十数年かそこらしか生きてないんやで。人生全盛期の数年は一生みたいなもんやわ」
名無しの相槌を待たずに、スマホが着信を知らせる。発信相手はツムだったらしく、出発明日よな、お見送り行けんから電話でごめんな、頑張ってこい、という趣旨の話をしていたようだ。通話は一分ほどで切れた。
「私が寝てるかもとは思わんかったんかな……」
「もしそうなら伝言残しとったやろ」
なるほど、と頷いてスマホを膝の上、定位置に戻す。俺は俺で、今ツムを頭の中に思い浮かべたら、関連する話題は一件しかヒットしない。
「名無しは、俺より長くツムと知り合いやっとるやん」
「侑君経由やもんな、私ら」
「兄弟とかもそうやけど、絶対先に生まれた方がより長い間親の顔見てる。やからその時間の差、はよなくしたいねん、ほんまは」
「差なんかとっくになくなってるわ。私は侑君のは知らんけど、治のは分かるよ。食べる順番とか、甘えたい時の癖とか」
「でも海外行くって話、俺より先にツムに話したやろ」
二度目の赤信号から、青に変わる。
アクセルペダルを踏む足に力が入り、少し勢い余って発進する車。 苛立ちといえば容易いけれど、それは名無しに向けてじゃなく、言うつもりのなかったことを土壇場で吐いてしまう自分の不甲斐なさに対してだった。
案の定、返事はすぐに返ってこない。その数秒が愛おしくて憎らしい。
「だって、重い女やって思われるの嫌やってんもん」
「……どういうこと?」
「ギリギリまで悩んでてん、日本出るかどうか。治と離れたくないから、どうしよって侑君に相談したかってん」
侑君なら、私よりずっと長い間治と一緒におるからまともな話聞けるはずやって思って、と話す名無しの声が、周りの雑音から浮いて鮮明に切り取られる。
だんだん名無しの声が高く小さくなって、鼻を啜る音が聞こえた直後に、「すまん」と口から溢れ出た。
「俺ら、お互いのこと好きすぎやな」
「んふふっ、うん、めっちゃ好き」
「俺も好きや。あーあ、ほんまは言うつもりなかったけど言ってよかったわ」
「侑君への闘争心は凄いな」
「あいつもやけど、名無しのことやったから。二人とも関わってたから、もう情緒がよう分からんことなったんや」
そっから名無しの家に着くまで、面白いほど信号に引っかかることはなかった。
.
国内旅行じゃないから、海を渡るから、弁当は持たせてやれない。荷物検査で弾かれる。
だから昨日夜遅くに、自分の彼女一人のために店を開けていた。
今日は見送るだけ。持ち物はスマホと財布、車の鍵 と、水族館で買った名無しとお揃いのキーホルダーのみ。
こんな玩具みたいなもん、買っても捨てるだけやんと思ってたけど、今となっては思い出を金で買えるんやから便利なモンやなとさえ思う。
諸行無常。名無しと出会ってから、それを実感する日々。
「向こう着いたら連絡してな」
「もちろん。写真付きで」
「何かあったらすぐ相談しいや」
「ありがとう。治もな。日本に飛んで帰るわ」
「ええわ、その時は店閉めて会いに行く。ちょい金と時間かかるけどしゃあないな」
名無しの乗る便のインフォメーションアナウンスが鳴り響く。スーツケースを引く音が遠ざかる。
不思議と涙も出てこんし、そんなに名残惜しくも感じん。
ただ、こっから店に戻って、また携帯弄ったりメシ作ったりするたんびに、ちょっとずつ名無しがおらんくなった余白に気づいていく。
それを他の何で埋めようか、試行錯誤してるうちに多分あいつ帰ってきよるんやろなぁ。
「……店開けんならな」
俺ら以外はいつも通りや。
客来るし、そろそろ戻らんなら。
冷え込む朝の中、ちょっと温度が下がった車に乗り込み、エンジンのスタートボタンを押した。
.
「どう、最期の晩餐」
「死ぬみたいやん、やめてや」
「日本食は最後かも知れんやん」
「え〜、向こうに売ってないかなぁ」
おにぎり宮の閉店後でも、名無しが一人いれば商店街のBGM並みに賑やかだった。それが今日は、沈黙が次の会話を今か今かと待ちわびているみたいだ。
ここ、海の中とちゃうか。
水中潜ったら、どんなにうるさい奴でも静かなるし。
手持ち無沙汰に携帯を弄る。
検索履歴には、ずらっと「海外 遠距離」「遠距離恋愛 会いに行く」「海外 通話料金」……と未練がましさの化身が並んでいて、ふ、といつの間にやら止めていた息を吐いた。
さすがは文明の利器。
何も知らんくせに、毎度一言で片付けよる。
「治」
「ん?」
「ちょっとこれいつもより出汁濃いめにした?」
「おん。濃いめにした」
「ええなぁ。こっちもめっちゃ好き」
チラ、と壁掛け時計を確認すると、短針がもうすぐ11を指そうとしていた。そんな俺の様子を見てか、名無しも「あ、ごめんな遅くまで」と空になった茶碗と箸を置いた。
「さてと。明日も朝早いし、そろそろ帰ろかな」
「明日何時に空港?」
「うーんと、7時23分の便やから……6時半には着きたい」
「早いな」
「時差の関係でな〜、向こう着いたらとりあえず初日は寝るだけにしたいから」
「ふーん。……車出すわ、6時に家でええ?」
「わーい、ありがとう!お願いしま〜す」
店ののれんをくぐれば、その先は夜の闇。
エプロンを脱いで、店の電気を消して、シャッターを閉めてから車を動かす。その間名無しは、いつにも増して「おにぎり宮」の看板を目に焼きつけるように眺めていた。
「日本食は最後かも知れんって言ったやん」
「おん」
エンジン音に被せて、名無しは頬杖をついたまま話しかけてくる。ちょうど赤信号に引っかかり、ゆっくりと減速した。
「私、普通に数年で帰ってきますけど」
「知っとるよ。でも俺ら、まだ二十数年かそこらしか生きてないんやで。人生全盛期の数年は一生みたいなもんやわ」
名無しの相槌を待たずに、スマホが着信を知らせる。発信相手はツムだったらしく、出発明日よな、お見送り行けんから電話でごめんな、頑張ってこい、という趣旨の話をしていたようだ。通話は一分ほどで切れた。
「私が寝てるかもとは思わんかったんかな……」
「もしそうなら伝言残しとったやろ」
なるほど、と頷いてスマホを膝の上、定位置に戻す。俺は俺で、今ツムを頭の中に思い浮かべたら、関連する話題は一件しかヒットしない。
「名無しは、俺より長くツムと知り合いやっとるやん」
「侑君経由やもんな、私ら」
「兄弟とかもそうやけど、絶対先に生まれた方がより長い間親の顔見てる。やからその時間の差、はよなくしたいねん、ほんまは」
「差なんかとっくになくなってるわ。私は侑君のは知らんけど、治のは分かるよ。食べる順番とか、甘えたい時の癖とか」
「でも海外行くって話、俺より先にツムに話したやろ」
二度目の赤信号から、青に変わる。
アクセルペダルを踏む足に力が入り、少し勢い余って発進する車。 苛立ちといえば容易いけれど、それは名無しに向けてじゃなく、言うつもりのなかったことを土壇場で吐いてしまう自分の不甲斐なさに対してだった。
案の定、返事はすぐに返ってこない。その数秒が愛おしくて憎らしい。
「だって、重い女やって思われるの嫌やってんもん」
「……どういうこと?」
「ギリギリまで悩んでてん、日本出るかどうか。治と離れたくないから、どうしよって侑君に相談したかってん」
侑君なら、私よりずっと長い間治と一緒におるからまともな話聞けるはずやって思って、と話す名無しの声が、周りの雑音から浮いて鮮明に切り取られる。
だんだん名無しの声が高く小さくなって、鼻を啜る音が聞こえた直後に、「すまん」と口から溢れ出た。
「俺ら、お互いのこと好きすぎやな」
「んふふっ、うん、めっちゃ好き」
「俺も好きや。あーあ、ほんまは言うつもりなかったけど言ってよかったわ」
「侑君への闘争心は凄いな」
「あいつもやけど、名無しのことやったから。二人とも関わってたから、もう情緒がよう分からんことなったんや」
そっから名無しの家に着くまで、面白いほど信号に引っかかることはなかった。
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国内旅行じゃないから、海を渡るから、弁当は持たせてやれない。荷物検査で弾かれる。
だから昨日夜遅くに、自分の彼女一人のために店を開けていた。
今日は見送るだけ。持ち物はスマホと財布、車の鍵 と、水族館で買った名無しとお揃いのキーホルダーのみ。
こんな玩具みたいなもん、買っても捨てるだけやんと思ってたけど、今となっては思い出を金で買えるんやから便利なモンやなとさえ思う。
諸行無常。名無しと出会ってから、それを実感する日々。
「向こう着いたら連絡してな」
「もちろん。写真付きで」
「何かあったらすぐ相談しいや」
「ありがとう。治もな。日本に飛んで帰るわ」
「ええわ、その時は店閉めて会いに行く。ちょい金と時間かかるけどしゃあないな」
名無しの乗る便のインフォメーションアナウンスが鳴り響く。スーツケースを引く音が遠ざかる。
不思議と涙も出てこんし、そんなに名残惜しくも感じん。
ただ、こっから店に戻って、また携帯弄ったりメシ作ったりするたんびに、ちょっとずつ名無しがおらんくなった余白に気づいていく。
それを他の何で埋めようか、試行錯誤してるうちに多分あいつ帰ってきよるんやろなぁ。
「……店開けんならな」
俺ら以外はいつも通りや。
客来るし、そろそろ戻らんなら。
冷え込む朝の中、ちょっと温度が下がった車に乗り込み、エンジンのスタートボタンを押した。
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