恋の病に薬なし!
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完璧に演じ切ってみせるわ ー feat. ヴィル ー
✱
万年筆の紙を削る音が、机に染み込んでいく。
インクの匂いが鼻を掠め、少し手を止めて窓の外を見やった。木漏れ日の形をした陰が、手元で揺れている。太陽の光の眩しさに目を細めて、書きかけの紙を陽光に透かす。裏返せば、斜め上に傾いた字が目の前に現れた。
「……字もキレイに」
外見の美しさは、内面から。心の中で唱え、手の中にあった余白の多い紙をくしゃりと丸め込んでゴミ箱に投げる。先客たちに弾かれ、虚しく床を転がった。
その時、コンコン、と弱くも強くもない、至って普通のノックの音が部屋を満たした。
ベッドへと向きかけていた足を正し、「どうぞ」と後ろを振り返る。
「名無し。やっぱり、ここにいたのね」
「はい」
表情ひとつ変わらない私に、忙しい合間を縫って訪ねてきたであろうヴィル先輩は話題を急いだ。
「どう、新しい映画の脚本。少しは進んだ?」
「……考えれば考えるほど、分からなくなるものですね」
「ずっと同じところに篭ってたら、息が詰まるわよ」
「いえ。……どこに行っても、出られるわけではありません」
牢の見えない、果てしなく大きな鳥かごに閉じ込められたみたいだった。
故郷と似た景色を求め、学園裏の森の入口近くに何の用途だったか分からない空き小屋を見つけた。
ここに来れば、少しだけ故郷にいた頃の自分がどんな人間だったのか、思い出せる気がした。そうやって思い出せたら、筆が進んで、書きたかった脚本が書ける。なのに、胸いっぱいに吸い込む空気も、動物たちも、窓枠の中の景色も、どこか違う。
ビルに覆われた狭い空の下、競い合って歩くサラリーマンやOLの姿が見えない。青信号が待ちきれなくて見切り発進する車も、明日の給食のことを話しながら駆けていく小学生の姿も、どこにも見当たらない。文明の利器に囲まれて育ってきたのであって、豊かな自然に囲まれて育ってきたわけじゃない。
その面影と向き合い続けるうちに、いつしか虚しさという言葉の意味を知った。
「アンタが書きたいって言ったんでしょう。やる気があるのないの、どっち?」
「やる気はあります」
「なら手を動かしなさい。そうやって外ばっかり見て、何日経ったの?毎日アンタの様子を見に来れるほど、アタシも暇じゃないのよ」
ああ、怒られてしまった。反省したふりをした私の顔を見て、ヴィル先輩はぎょっと驚いたように大きな目をさらに見開く。
「ちょっと、アンタ……泣くことないでしょう」
「え?泣いてますか……私」
化粧をしていない私の目元に、ぎゅっとハンカチが押し当てられる。反射で目をつぶった瞼の裏に、どこか懐かしい映像が刹那、過ぎった気がした。
「はぁ……世話が妬けるわね。学園に戻るわよ」
「用事ですか?」
「いいから来なさい」
荷物全部置いてていいから、と手を引かれ、ついさっきまで自分が座っていた空の椅子を振り返った。インクに突っ込んだままの万年筆。入れ直されないままの丸まった紙。すぐに戻るから、と心の中で呼びかけて、二人で学園への道を辿った。
門をくぐれば、煌びやかな舞台がそこには待ち受けている。初めのうちは中世ヨーロッパにタイムトラベルした気分だったけど、今となっては日常の一部。自然と背筋が伸びて、長らく使っていなかった筋肉がギシギシとぎこちなく働き出した。
どこに行くかを尋ねる気力もなく、連れられるがまま後を着いていく。ボールルームであれば、あの床のワックスの匂いが故郷で通った小学校の体育館を思い出すからありがたかった。
けれど、向かった先は寮長部屋だった。招かれたのは初めてで、ベッドの向こうの化粧台に映った自分の顔を見て、はっと息を飲んだ。
「ヒッドい顔してるの、自分でも分かるでしょう」
「……はい」
「好きなとこに座りなさい。普段部屋に人なんて呼ばないから、ここに来客用の飲み物は置いてないけど……ついでにスムージーでも作ろうかしら」
アレルギーはないわね?と聞かれ、返事に少し声を張る。どこでもいいと言われたので、ベッドの座り心地だけ確かめて、フットベンチというにはソファ寄りなデザインの椅子に腰掛けた。
遠くでミキサーの音が聞こえてくる。目を閉じてその音を聞いているうちに、すぐに途切れてしまった。
戻ってきたヴィル先輩が手に持っていたグラスは一つだけだった。ヴィル先輩の分はと聞くと、今は飲む時間じゃないの、と説明される。
「忙しいのに、すみません……」
「無駄にならないことを祈るわ。別の世界から来た人間のセンチメンタルを叩き直す方法なんて、誰も分からないもの」
てっきり苦いと思って覚悟して口をつけたスムージーは、思っていたよりずっと甘くて。驚いて顔をあげれば、ちょっとはマシな顔になったわね、と頬杖をつくヴィル先輩。
「バナナ……、私好きです。それにすっごく甘い」
「知ってるわ。栄養はあるけど、それ太るからアタシは滅多に飲まない」
「激しい運動した後とかに飲むんですか?」
「撮影が上手く行かない時とか、嫌なことが重なった時に、量決めて飲むようにしてるの」
理性的に、徹底的に己を律するヴィル先輩の、ささいな羽目の外し方。分からないといいつつ、自分に当てはめて私の元気が出るように試行錯誤してくれているのが容易に分かった。
スムージーの入ったグラスを両手で包んで、少しずつ喉に流していく感覚。さっきハンカチが目元を覆った時も感じた、懐かしい温かさ。
「昔お母さんが、よく……」
ぽつり、と言葉が零れる。
お母さん、なんて、この世界で口にしたのは初めてだったか。会話の中に登場していたかもしれないけど、少なくとも最近ではなかった。
「私は泣き虫だったので、階段に蹲って泣いているところを、大丈夫、ママがいるからってティッシュで涙を拭いてくれてたんです」
「……そう」
こんな弱気な話は、本来なら二つしか年の変わらない男の先輩にするものじゃない。なのに、スムージーの柔らかい甘さは、どんどん私の唇をほぐして達者にしていく。
「それに、私が落ち込んでる時は、私の好きなハンバーグを作って待っててくれてたり。具合が悪くなった時は、毎食出来たてのおかゆ食べさせてくれたり……っ」
あの優しい笑顔が、忘れられなくて。
そう続けようとして、息を止めた。
「思い出すと寂しいけど……、思い出せないと、もっと寂しいんです」
「……」
「だから、毎日ちゃんとお母さんとの思い出振り返って、あの時どうやって迎えに来てくれたんだっけとか、どうして喧嘩したのに映画館に連れてってくれたんだろうとか、そういうこと考えて忘れないようにしないと……っ」
いつかあの愛情を忘れていくのが、怖い。
もう会えないかもしれないと思いながら過ごす日々は、虚しい。
忙しなく過ぎていく学園生活の隙間を縫って顔を出す、往生際の悪い一縷の希望。
それに少し、疲れてしまったのかもしれなかった。
「だから、忘れないために、形に残すために、脚本を書きたいんでしょう?」
「っ……」
「アタシは何もアンタの日記帳にするために脚本作りを許可したわけじゃないわ。脚本そのものはもちろん、それを通じてアンタの人間性がどうやって描かれるのか、楽しみにしてるんだから」
駄作にするつもりはないわよ、と言われ、久しぶりに頬が緩んだ。
「……私、脚本が出来たら、母の役をヴィル先輩にやって欲しいです」
「あら、主役は母親なの?」
「はい、お母さんと私のダブル主演です」
「そう。高くつくわよ」
「私の思い出も、タダじゃないので」
「言うじゃない。どんな役でも完璧に演じ切ってみせるわ」
女性の役なんて初めてなんだけど、と会話を弾ませるヴィル先輩は、何だか楽しそうで。
私の中で世界一強くて優しい人は、向こうの世界ではお母さんで、こちらの世界では目の前にいる彼のことを指す。
どうして母親の役に抜擢したのか、もし聞かれた時はそうやって答えよう。
いきなり今から森の中の小屋に置いてきた荷物を全部片付けて脚本を最後まで書き切る、なんて勢いは出ないけれど。
でも、それをエンディングに入れるのも悪くない。
「あら、もう行かなきゃいけない時間だわ。一人で戻れるわね?」
「はい。……ヴィル先輩」
「なに?」
「本当に、……本当にありがとうございました」
次第に声が出なくなって、泣き虫なの直さないと、と呆れられる前に乱暴に腕で拭う。
「別に、無理に変わらなくていいんじゃない?」
「え……」
「アタシの前では、役者にならなくていいの。下手な演技は黙って見てられないわ」
その言葉は、私すら気づいていなかった、涙に溺れかけていたボロボロの心ごと包み込んでいくようで。追いつけない背中だと思えば思うほど、その姿に母を重ね、私は鼻水を啜りながら飛びっきりの笑顔で「はいっ」と頷いた。
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完璧に演じ切ってみせるわ ー feat. ヴィル ー
✱
万年筆の紙を削る音が、机に染み込んでいく。
インクの匂いが鼻を掠め、少し手を止めて窓の外を見やった。木漏れ日の形をした陰が、手元で揺れている。太陽の光の眩しさに目を細めて、書きかけの紙を陽光に透かす。裏返せば、斜め上に傾いた字が目の前に現れた。
「……字もキレイに」
外見の美しさは、内面から。心の中で唱え、手の中にあった余白の多い紙をくしゃりと丸め込んでゴミ箱に投げる。先客たちに弾かれ、虚しく床を転がった。
その時、コンコン、と弱くも強くもない、至って普通のノックの音が部屋を満たした。
ベッドへと向きかけていた足を正し、「どうぞ」と後ろを振り返る。
「名無し。やっぱり、ここにいたのね」
「はい」
表情ひとつ変わらない私に、忙しい合間を縫って訪ねてきたであろうヴィル先輩は話題を急いだ。
「どう、新しい映画の脚本。少しは進んだ?」
「……考えれば考えるほど、分からなくなるものですね」
「ずっと同じところに篭ってたら、息が詰まるわよ」
「いえ。……どこに行っても、出られるわけではありません」
牢の見えない、果てしなく大きな鳥かごに閉じ込められたみたいだった。
故郷と似た景色を求め、学園裏の森の入口近くに何の用途だったか分からない空き小屋を見つけた。
ここに来れば、少しだけ故郷にいた頃の自分がどんな人間だったのか、思い出せる気がした。そうやって思い出せたら、筆が進んで、書きたかった脚本が書ける。なのに、胸いっぱいに吸い込む空気も、動物たちも、窓枠の中の景色も、どこか違う。
ビルに覆われた狭い空の下、競い合って歩くサラリーマンやOLの姿が見えない。青信号が待ちきれなくて見切り発進する車も、明日の給食のことを話しながら駆けていく小学生の姿も、どこにも見当たらない。文明の利器に囲まれて育ってきたのであって、豊かな自然に囲まれて育ってきたわけじゃない。
その面影と向き合い続けるうちに、いつしか虚しさという言葉の意味を知った。
「アンタが書きたいって言ったんでしょう。やる気があるのないの、どっち?」
「やる気はあります」
「なら手を動かしなさい。そうやって外ばっかり見て、何日経ったの?毎日アンタの様子を見に来れるほど、アタシも暇じゃないのよ」
ああ、怒られてしまった。反省したふりをした私の顔を見て、ヴィル先輩はぎょっと驚いたように大きな目をさらに見開く。
「ちょっと、アンタ……泣くことないでしょう」
「え?泣いてますか……私」
化粧をしていない私の目元に、ぎゅっとハンカチが押し当てられる。反射で目をつぶった瞼の裏に、どこか懐かしい映像が刹那、過ぎった気がした。
「はぁ……世話が妬けるわね。学園に戻るわよ」
「用事ですか?」
「いいから来なさい」
荷物全部置いてていいから、と手を引かれ、ついさっきまで自分が座っていた空の椅子を振り返った。インクに突っ込んだままの万年筆。入れ直されないままの丸まった紙。すぐに戻るから、と心の中で呼びかけて、二人で学園への道を辿った。
門をくぐれば、煌びやかな舞台がそこには待ち受けている。初めのうちは中世ヨーロッパにタイムトラベルした気分だったけど、今となっては日常の一部。自然と背筋が伸びて、長らく使っていなかった筋肉がギシギシとぎこちなく働き出した。
どこに行くかを尋ねる気力もなく、連れられるがまま後を着いていく。ボールルームであれば、あの床のワックスの匂いが故郷で通った小学校の体育館を思い出すからありがたかった。
けれど、向かった先は寮長部屋だった。招かれたのは初めてで、ベッドの向こうの化粧台に映った自分の顔を見て、はっと息を飲んだ。
「ヒッドい顔してるの、自分でも分かるでしょう」
「……はい」
「好きなとこに座りなさい。普段部屋に人なんて呼ばないから、ここに来客用の飲み物は置いてないけど……ついでにスムージーでも作ろうかしら」
アレルギーはないわね?と聞かれ、返事に少し声を張る。どこでもいいと言われたので、ベッドの座り心地だけ確かめて、フットベンチというにはソファ寄りなデザインの椅子に腰掛けた。
遠くでミキサーの音が聞こえてくる。目を閉じてその音を聞いているうちに、すぐに途切れてしまった。
戻ってきたヴィル先輩が手に持っていたグラスは一つだけだった。ヴィル先輩の分はと聞くと、今は飲む時間じゃないの、と説明される。
「忙しいのに、すみません……」
「無駄にならないことを祈るわ。別の世界から来た人間のセンチメンタルを叩き直す方法なんて、誰も分からないもの」
てっきり苦いと思って覚悟して口をつけたスムージーは、思っていたよりずっと甘くて。驚いて顔をあげれば、ちょっとはマシな顔になったわね、と頬杖をつくヴィル先輩。
「バナナ……、私好きです。それにすっごく甘い」
「知ってるわ。栄養はあるけど、それ太るからアタシは滅多に飲まない」
「激しい運動した後とかに飲むんですか?」
「撮影が上手く行かない時とか、嫌なことが重なった時に、量決めて飲むようにしてるの」
理性的に、徹底的に己を律するヴィル先輩の、ささいな羽目の外し方。分からないといいつつ、自分に当てはめて私の元気が出るように試行錯誤してくれているのが容易に分かった。
スムージーの入ったグラスを両手で包んで、少しずつ喉に流していく感覚。さっきハンカチが目元を覆った時も感じた、懐かしい温かさ。
「昔お母さんが、よく……」
ぽつり、と言葉が零れる。
お母さん、なんて、この世界で口にしたのは初めてだったか。会話の中に登場していたかもしれないけど、少なくとも最近ではなかった。
「私は泣き虫だったので、階段に蹲って泣いているところを、大丈夫、ママがいるからってティッシュで涙を拭いてくれてたんです」
「……そう」
こんな弱気な話は、本来なら二つしか年の変わらない男の先輩にするものじゃない。なのに、スムージーの柔らかい甘さは、どんどん私の唇をほぐして達者にしていく。
「それに、私が落ち込んでる時は、私の好きなハンバーグを作って待っててくれてたり。具合が悪くなった時は、毎食出来たてのおかゆ食べさせてくれたり……っ」
あの優しい笑顔が、忘れられなくて。
そう続けようとして、息を止めた。
「思い出すと寂しいけど……、思い出せないと、もっと寂しいんです」
「……」
「だから、毎日ちゃんとお母さんとの思い出振り返って、あの時どうやって迎えに来てくれたんだっけとか、どうして喧嘩したのに映画館に連れてってくれたんだろうとか、そういうこと考えて忘れないようにしないと……っ」
いつかあの愛情を忘れていくのが、怖い。
もう会えないかもしれないと思いながら過ごす日々は、虚しい。
忙しなく過ぎていく学園生活の隙間を縫って顔を出す、往生際の悪い一縷の希望。
それに少し、疲れてしまったのかもしれなかった。
「だから、忘れないために、形に残すために、脚本を書きたいんでしょう?」
「っ……」
「アタシは何もアンタの日記帳にするために脚本作りを許可したわけじゃないわ。脚本そのものはもちろん、それを通じてアンタの人間性がどうやって描かれるのか、楽しみにしてるんだから」
駄作にするつもりはないわよ、と言われ、久しぶりに頬が緩んだ。
「……私、脚本が出来たら、母の役をヴィル先輩にやって欲しいです」
「あら、主役は母親なの?」
「はい、お母さんと私のダブル主演です」
「そう。高くつくわよ」
「私の思い出も、タダじゃないので」
「言うじゃない。どんな役でも完璧に演じ切ってみせるわ」
女性の役なんて初めてなんだけど、と会話を弾ませるヴィル先輩は、何だか楽しそうで。
私の中で世界一強くて優しい人は、向こうの世界ではお母さんで、こちらの世界では目の前にいる彼のことを指す。
どうして母親の役に抜擢したのか、もし聞かれた時はそうやって答えよう。
いきなり今から森の中の小屋に置いてきた荷物を全部片付けて脚本を最後まで書き切る、なんて勢いは出ないけれど。
でも、それをエンディングに入れるのも悪くない。
「あら、もう行かなきゃいけない時間だわ。一人で戻れるわね?」
「はい。……ヴィル先輩」
「なに?」
「本当に、……本当にありがとうございました」
次第に声が出なくなって、泣き虫なの直さないと、と呆れられる前に乱暴に腕で拭う。
「別に、無理に変わらなくていいんじゃない?」
「え……」
「アタシの前では、役者にならなくていいの。下手な演技は黙って見てられないわ」
その言葉は、私すら気づいていなかった、涙に溺れかけていたボロボロの心ごと包み込んでいくようで。追いつけない背中だと思えば思うほど、その姿に母を重ね、私は鼻水を啜りながら飛びっきりの笑顔で「はいっ」と頷いた。
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