FF編
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第3話
澄み切った青空を黒雲が覆い尽くし、雷門中全域に影を落とした。ざわりと不安を煽るような轟音が迫り、それが客人の来訪を知らせる。
「来たみたいですね」
共に理事長室から外の様子を伺っていた火来の声に、千紗季の視線は校門前に停車した黒塗りの重機を捉える。
遠征用のバスなんてものではない。移動要塞と呼ぶに相応しい代物だ。
軍服を彷彿とさせる帝国学園の制服を着用した生徒達が、サッカーボールを抱えてぞろぞろと姿を現す。二つの列を成し、構えのポーズをとるその様は、さながら軍隊のようだ。
列の中央にワインレッドの赤絨毯が敷かれてゆく。
次に姿を見せたのは、ゴーグルを着装し、ドレッドヘアを後頭部で一つに束ねた選手──帝国学園サッカー部キャプテンの鬼道有人である。
(あの人、鬼道財閥の……)
彼は、鬼道財閥の御曹司だ。家柄の関係上、パーティで何度か顔を合わせたことがある。
しかし、それも挨拶を交わす程度の関係で、深い交流はない。
帝国学園は、サッカーのみならず学力においても名門だ。彼が首席で入学したという噂は有名な話である。社交界で嫌でも耳に入ってくるような情報だったために、鬼道が帝国の生徒であることは知っていた。
(──けど、サッカー部のキャプテンまでやってたなんてねぇ)
鬼道を筆頭に、帝国学園の選手たちが次々と姿を表す。彼らから漂う圧倒的な強者の風格、それは雷門イレブン達へ大きなプレッシャーを与えた。
フィールドへ降り立った帝国イレブンの元へ、キャプテンである円堂が駆け寄る。挨拶を交わしているのだろう。
しかし、握手を求める円堂の手を、鬼道がとることはなかった。
円堂から背を向け、鬼道は部員達になにやら指示を出している。そうして帝国イレブン達は、フィールドへ広がり、各々ボールを手にしてアップを始めた。
「流石、全国大会四十年無敗の帝国ねー。個々のテクニックが並外れてる」
「ええ」
理事長室からでは雷門イレブン達の表情は伺えないが、誰もが帝国のテクニックに圧倒されていることだろう。この試合に向け特訓を重ねた円堂達だが、とても太刀打ちできるような相手ではないことは明白だった。
(それでも、守は逆に熱くなってるんでしょうねぇ)
円堂の前向きさには誰も敵わないのだろう。
窓辺から雷門イレブンを見守っていると、鬼道の蹴ったボールが円堂へと向かっていく。その威力は遠目でもわかるほどのものだ。
鍛え抜かれた帝国のボールを受け、その実力差を痛感したことだろう。果たしてどう戦うつもりなのだろうか。それも人数すら揃っていない状態で……────
「それはそうと、まだ十一人揃っていないじゃない。まさか、帝国学園相手に十人で試合をするつもりなのかしら」
「しかも、その内二人は入部届け出したの昨日だしねぇ」
昨日の放課後、完全下校時刻の直前に生徒会へと回ってきた入部届が頭を過ぎる。
雷門中の生徒会では、全校生徒が所属する部活動のデータ管理も担っている。顧問に提出された入部届の写しは、情報共有のため生徒会へと流れてくるのだ。
昨日は二件分の入部届が千紗季の元へと渡り、どちらも部活動名の項目には”サッカー部”と記入されていた。
入部希望者は、二人とも千紗季のクラスメイトである松野空介と影野仁だ。
(ようやく十人まで集まったか、と思ったものの……)
入部理由に目を通してみれば、それぞれ”退屈しなさそうだから”、”存在感を出せそうだから”と書かれており、逆に先行きが不安に思えてきたのは言うまでもない。
「ただでさえ実力不足だというのに、昨日入部したばかりの方々が、本当に戦えるのかしらね」
「まあまあ。意外とサッカーできる人達なのかもしれないんだし……────あら、秋が誰か連れてきた」
秋が眼鏡をかけた生徒を連れてベンチに合流している。
彼の名前はなんだったか。クラスメイトでもなければ、夏未のように全校生徒の顔と名前を記憶しているわけでもない。存じ上げず申し訳ないが、同級生であることだけは把握している。
「これで十一人揃ったっぽいわね」
「彼、確か運動はあまり得意ではなかったような気がするのだけれど……」
「わお、個々の能力まで把握しているとは。さすが夏未」
「貴女はせめて同級生の顔と名前くらい覚えたらどうなの?」
「やーよ、めんどくさい。うちの学校、一学年の生徒数多いし」
雷門中は三学年合わせて千人以上の生徒が在籍する、いわゆるマンモス校の部類に入る。単純計算で一学年に三百人以上ということになる。
夏未は一年の頃から当然のように全校生徒の顔と名前を一致させていた。いつの間にやら新入生の情報も把握している。
反対に、千紗季はわざわざ記憶する必要性を感じてはいなかった。時間と労力と脳の容量の無駄遣いだと思っているので、よくもまあこれだけの生徒の情報を把握できたものだと素直に感心する。
とにもかくにも試合の直前ではあるが無事に十一人まで揃い、廃部回避の条件の内、一つを満たすことができた。数名がひっくり返っているところを見ると、眼鏡の彼が即戦力となるか怪しいが。
眼鏡の彼に十番のユニフォームが手渡され、着替えも完了。ようやく試合開始と思いきや──
「一向に始まりませんね」
選手達はベンチに留まったままグラウンドへ整列する気配はない。
よくよく確認してみると、雷門イレブンのベンチには十人しかいない。確かに十一人揃ったはずであるが、残り一人は一体何処へ行ってしまったのやら。
「帝国のデモンストレーションに怖気付いたのかしらね」
「仕方ないんじゃない? 帝国が相手なうえ、こちらは経験も実績も無いんだから」
弱小チームが全国大会優勝常連校と突然試合をしろ等と言われれば、勝ち目がないと戦意喪失するものだろう。
逃げることなく試合へ参加しようとするこの状況の方が、珍しいのではなかろうか。
「帝国は試合に負けた他校を破壊することもあると聞きます。試合で負けることはおろか、もし棄権等ということになったら何をされるか……」
「その時は私が話します」
「話しをしてわかる相手だと良いんだけどねぇ」
「私も気にはなっているのです。あんな弱小のサッカー部に何を求めてあの帝国が試合を申し込んで来たのか。どう考えても実力差がありすぎますからね。この試合の中で、彼らの狙いがわかると思うのですが」
練習試合の申し出を受諾した理由は、サッカー部存続問題を解決する為だけではない。帝国側の目的を探る為でもあった。
「千紗季、貴女はどう思う?」
「何で私?」
「貴女の勘ってよく当たるでしょう? 何か気づいたことや心当たりがあるのではなくて?」
千紗季という少女は、普段は飄々としていて周囲の人間に対する関心が弱い。
けれども千紗季自身、又は千紗季のテリトリーに害を成す者、成そうとする者に対する警戒心は強く、いつもに増して用心深くなる。
故に、千紗季が積み重ねた経験とその慎重な性格が、彼女の女の勘や悪い予感の的中率を的確なものにしていた。
夏未自身そうした千紗季の能力に何度も助けられたことがある。
だから今回も帝国が雷門に接触を図った理由を感じ取っているのではないかと、質問を投げかけてみたわけだ。
「まさか。エスパーじゃあるまいし」
しかし、流石の千紗季も今回の件に関しては心当たりはなく、夏未の問いにあっさり否を返した。
期待外れの返答に、夏未はがっかりと言わんばかりに肩竦めて再び双眼鏡を覗き込もうとする。
「まあでも、そうねぇ……手持ちの情報だけで、帝国の目的を絞り込むことはできるかも?」
「聞かせていただこうかしら」
まるで独り言のように紡がれた言葉に、夏未の双眼が再び千紗季を捉えた。
「帝国はウチのサッカー部自体に興味があるように見えない」
「何故?」
「それなら向こうからとっくに何らかのアプローチがあったっておかしくないでしょ」
雷門サッカー部の復活は、今から一年前のこと。もし円堂達が狙いであるならば、既に接触があったことだろう。
「つまり、このタイミングでなきゃいけない理由がある。そして、帝国学園との練習試合、この情報をチラつかせることで、何かをおびき寄せたいのかも」
「おびき寄せる……人を待っている、ということ?」
「ん。単なる思いつきだから、確証は全くないけどね」
「ではその仮説が正しい場合、それは誰だというの?」
「さあ?」
夏未と会話を交わしながら、千紗季は窓辺に頬杖をついて思案する。
(もし帝国の狙いが人であれば、お目当ては雷門中に所属する教師か生徒ってことになると思うんだけど……)
新年度を迎えたことで、教師は数名ほど入れ替えがあった。そして、今年も三百名ほどの新入生が入学している。そこにお目当ての人物が居るのかもしれない。
しかし、新年度が始まってからもう日が経っている。すぐに接触できない理由があったのか、ただ単にお目当ての人物を把握し損ねていたのか、敢えてこの時期を選んだのか。
(でも、どれもピンと来ないのよねぇ)
当然、帝国学園の狙いはサッカーに関連する者なのだろう。選手ではなく監督やコーチという方向性も考えられる。
(そもそもの話、やり方が回りくどすぎないかしら?)
目当ての人物と接触を図りたいのであれば、わざわざ試合を行う必要など無いのではなかろうか。帝国の監督や選手たちが、その人物と個人的に連絡を取り、話の場を設ければ良い。
(わざわざこんな方法をとるってことは、目的の人物の実力を見たい、ってことよね?)
であれば、帝国がわざわざ雷門中へ練習試合を申し込んだ理由にも筋が通ってくる。
しかし、それならばその人間がサッカー部に所属していることが大前提となるはずだ。そうでなければ、試合には参加できない。
けれども、練習試合が決まってから入部した人間の中に、サッカー関連で活躍した人物はいない。
(ああ、もう。頭がこんがらがってきた。もう一度、落ち着いて情報を整理するのよ……)
千紗季は深呼吸をして、一度ごちゃついた脳内を整える。
入学式・始業式を終えてから日が経ったこの時期に、帝国学園からの接触。
目的は、彼らが一目置く程のサッカーに関連した人物であり、その実力を確かめること。しかし、それらしき人間は、未だサッカー部には所属していない。
『俺のクラスに転校してきたやつが、すっげぇシュート打つヤツでさ!』
突然だった。
数日前に、円堂から聞いた話が、千紗季の脳裏にふっ……と浮かび上がる。
『何度も誘ってみたんだけど、ずっと断られちゃってて……あいつとサッカーやりてぇ〜〜!!』
バラバラだったパズルのピースが、ほんの少し埋まっていく気がした。
(もし帝国の狙いが転校生であれば、この時期に試合を申し込んだ理由とも辻褄が合う……)
転校生の名前は何だったか。夏未から学校名まで聞いていた気がするが、思い出せない。
生憎、自分と関わりのない人間には興味を示さない性質なので、千紗季の頭からすっかりと情報が抜け落ちてしまっていた。
「夏未、ちょっとパソコン借りる。それとデータベース、アクセスしても良い? 名簿確認したくて」
全校生徒の名簿を閲覧できるデータベースは、生徒会にもアクセス権限があった。生徒の住所や連絡先など、プライバシーに関する情報は表示されないため、取り扱いが許されている。
確か転校生については、備考欄に前籍校の記載があったはずだ。
「別に構わないけれど。もしかして、何かわかりそうなの?」
「私の読みが正しければね」
転校生の名前や学校名を把握したければ、夏未に確認する方が手っ取り早いだろう。
しかし、心当たりの転校生が、帝国が狙う人物であるという確証はない。まだ話さない方が良いだろう。
(さて、と。まずは転校生の名前から調べるとしようかな)
窓辺から離れた千紗季は、来客用のソファに腰掛け、パソコンを立ち上げるのだった。
***
ホイッスルの音が理事長室まで響く。
続いて、雷門イレブン達の掛け声とボールを蹴る音が、千紗季の耳に届いた。どうやらようやく試合が始まったらしい。
千紗季は一度マウスから手を離し、窓辺で様子を伺っている夏未の隣へと並ぶ。
「やっと始まったか〜。どんな感じ?」
「上手くボールを回しているみたいだけれど、手加減されているのは一目瞭然ね」
「完全にナメられてるなあ……」
千紗季が窓からグラウンドの様子を覗いてみると、ちょうど染岡がシュートを決めようとしていたところだった。彼の蹴ったボールが、ゴールへと向かっていく。
決まった。
──と、一部の人間は思ったことだろう。
けれども、染岡が放ったボールは、相手キーパーに楽々と止められてしまった。幾つかの落胆の声がこちらにも伝わってくる。
「まあ、こんなものよね」
千紗季の隣で、夏未は顔色を変えることなく呟いた。
相手は全国一位の実力を持つ者達だ。雷門イレブンが、今日まで特訓を重ねたとて、弱小チームがいきなり華麗にシュートを決められる、なんてドラマが起きるほど現実は甘くはない。
キーパーによって投げ出されたボールが、鬼道の元へと転がってゆく。鬼道がそれを受けた直後、帝国側の空気が一変した。
強力なシュートが雷門ゴールへ向かっていく。円堂は両手を前に翳すも、受け止めきれずボールごとネットへと押し込まれてしまった。
圧倒的。
彼らの力は、まさにその一言に尽きた。
その後も、為す術なく何度も帝国に点を取られ、10対0という大差で前半が終了。
ハーフタイムに入りベンチへと戻った雷門イレブンは、帝国との圧倒的な力の差に戦意を失いかけている様子だった。
項垂れる彼らに対し、円堂が必死に訴えかけているのが見て取れる。
(守はまだ諦めていないのね。あの子らしいなあ)
大方、「やってみなくちゃわからない」と、そんな主張をしているのだろう。けれど、彼らの顔は俯いたままだ。
「お嬢様、前半までで気になること、というのはわかりましたか?」
「さきほど千紗季が仮定した通り、彼らは何かを待っています。何かを……────」
夏未と火来の会話を耳に入れながら、千紗季は再びソファへと腰掛けた。まだ調べなければならない事が残っている。
「千紗季、調べ物の方はどう?」
「もうちょいかかりそうかな〜。後半始まったら呼んで」
「わかったわ」
データベースから、転校生が豪炎寺修也という男子生徒であること、雷門中へ転校する前は木戸川清修中学に在籍していたことを把握した。その情報から、木戸川清修がサッカーの強豪校であることも。
(けど、これだけじゃ帝国の狙いが豪炎寺くんだとは、まだ言いきれないわね)
サッカー部に所属していたのか、そこで彼がどういう役割を担っていたのか、どれほどの実力を持っていたのか。そして、木戸川清修のフットボールフロンティアの戦績も調べる必要があるだろう。
特定すべき情報を脳内で整理しながら、千紗季はパソコンとの睨めっこを再開するのだった。
***
「ちょっと、何なのアレ……」
眼下で繰り広げられている状況に、千紗季は不快だと言わんばかりに眉を顰めた。
後半が始まり、パソコンを抱えて窓辺に移動した千紗季の目に飛び込んできた光景。それは、帝国の選手達から強力な必殺技を何度も浴び、ボールを叩きつけられている雷門イレブン達の姿だった。
「千紗季、眉間に皺が寄ってるわよ」
「そりゃ寄るわよ。流石に見てて気分の良いものじゃないわね」
「ゴールキーパーの彼、貴女の幼馴染だものね」
「それもあるけど……」
純粋に、単なる実力差で負かされるのであれば、何とも思わない。
しかし、いま帝国が見せているプレーは、試合をするためではない。自分達の目的を達成させるためのパフォーマンスに過ぎないのだ。
それに利用されているだけならまだしも、あそこまで滅多打ちにされるなど────
(流石に限度ってものがあるでしょ)
睨みつけるように帝国のプレイを目で追っていると、倒れ込んでいた風丸がふらりと立ち上がり、ゴールに向かって駆け出す姿を捉えた。
「えっ」
気づいた頃には、風丸がネットへと弾き飛ばされていた。
容赦なく帝国の攻撃を受け続ける円堂を見ていられなかったのだろう。再び敵のシュートを止めようと構える円堂を押しのけて、庇うように風丸が自身の頭で強烈なボールを受けたのだ。
「────ッッ!?」
サァッ……と全身から血の気が引いていく。
「千紗季、落ち着いて」
今にも窓から飛び降りそうな千紗季を、夏未がその隣から静かに宥めた。
雷門側のゴールでは円堂と風丸が言葉を交わしていた。
強力なシュートを浴びた風丸は、自力で立ち上がることすら難しい様子だった。
(一郎太、大丈夫かな……)
円堂の手を借りなんとか立ち上がった風丸は、フラつきながらも一度ゴールから離れ、自分のポジションへ戻っていく。まだ歩く力は残っているようで、その様子にひとまず安堵する。
ゴール前では、怒りを宿した円堂が立っていた。目の前に立ちはだかる鬼道たちを、強く睨みつけている。
(……そうよね。ここで諦めたりなんかしないわよね、守は)
円堂の諦めの悪さは、今に始まったことではない。幼い頃からそんな彼の姿を飽きるほど見てきた。試合が終わるまで、何度も立ち上がるのだろう。
何度目か分からない帝国の攻撃が、再び円堂に襲いかかる。
円堂は敵の攻撃を両手で受けるも、その力が及ぶことはなかった。またもやボールごとゴールに叩き込まれ、円堂の体がグラウンド上に沈んだ。
帝国の力に圧倒され、部員の一人──目金欠流が、とうとう耐えきれなくなり、ユニフォームを脱ぎ捨て去っていく。彼の敵前逃亡により、雷門イレブンは十人となってしまった。
「嘘でしょ……」
「どうしたものかしらね、この状況」
千紗季は再び雷門側のゴール──地面に倒れ込んでいる円堂を捉える。
『せっかくの試合なんだ。やるからには勝ってみせる!!』
あの日の円堂の言葉が、どこからか聞こえた気がした。それを皮切りに、サッカー部が復活してから、小さな特訓を積み重ねてきた彼らの姿が脳裏を駆ける。
当然のことながら、帝国は特訓に明け暮れた円堂達の姿など知るはずがない。実力と結果が全てであるスポーツの世界に、試合に、円堂達の事情など関係ない。
けれども、どんな目的があろうと、どれだけ優れた戦績を収めていようとも、帝国が彼らの努力を笑って良い理由にはならない。
なのに。
何故。
どうして……────
(あんなに楽しそうに笑ってられるの)
地面に伏す円堂を嘲笑する帝国イレブンたち。千紗季の中に苛立ちが募り、思わず拳を握った。
それでも、円堂は諦めない。
何度倒れようと、惨めだと笑われようと、彼の闘志は消えやしない。円堂には、諦めるという選択肢が、そもそも存在しないのだ。
(頑張れ、守)
再び立ち上がった円堂は、地面を踏みしめ、両の手を構えた。
帝国の選手がボールを放ち、円堂がそれを受ける。
同じ光景が何度も繰り返される。
円堂の心は折れない。けれども、帝国の力に抗う術など、そう簡単に見つかるはずもない。
またも力なく地面に倒れ込む円堂。帝国側の得点が、とうとう二十点に達した。
その様を目にした夏未は、これ以上見る価値がないと判断し、グラウンドから顔を背けて言い放つ。
「もう、見るまでもありませんね。これで雷門サッカー部は──」
「ストップ、夏未」
千紗季の静止が入る。
その直後のことだった。
「誰だあいつ!?」
「あんなやつ、うちのチームに居たか!?」
試合を観戦しているギャラリーたちが、驚愕と困惑を滲ませ声を上げる。
一転した空気を感じ取った夏未が、長い髪をふわりと翻す。再び窓辺へと立ち、双眼鏡を介してグラウンドの様子を確認した。
『昨年のフットボールフロンティアで、一年生ながらその強烈なシュートで一躍ヒーローとなった────』
実況の解説と共にグラウンドへと姿を現したのは、目金が脱ぎ捨てた十番のユニフォームを背負った男子生徒。
『豪炎寺修也!! その豪炎寺くんが、なんと雷門のユニフォームを着て、我々の前に登場!!』
その解説を耳にした夏未は、そこで帝国の目的を理解する。
「もしや、帝国学園の狙いって……彼!?」
「みたいね」
夏未が手にしている双眼鏡を横からひょいと奪い取り、今度は千紗季がそれを覗き込んだ。
「帝国キャプテンさんの顔つきが変わったわ」
獲物を捕らえたと言わんばかりに、鬼道は口角を上げている。
その不敵な笑みが気に食わなくて、千紗季はムッとしながら双眼鏡を持ち主へと返却した。
そして、抱えていたパソコンを手に、調べた内容を読み上げる。
「豪炎寺修也くん。木戸川清修中学校元サッカー部、ポジションはFW、天才ストライカーと称されている。木戸川といえばサッカーの強豪校で、昨年のフットボールフロンティアの成績は準優勝……こんなとこかな」
ハーフタイムの間に調べたので、検索すればすぐにヒットするような内容ばかりだが、参考にはなるだろう。
「……準優勝ということは、決勝戦で彼と試合をして、その実力を改めて確かめに来たってことかしら」
「ん〜それはちょっと違うかなあ」
「どういうこと?」
「彼、どうやら決勝戦には出てないらしいのよ」
「どうして?」
「さあ。そこまでは流石にわかんないわ」
準決勝までは全ての試合に出場しているようだが、何故だか決勝のみ不参加となっていた。
とはいえ、欠場の理由は、単純に身内の不幸や怪我などが挙げられるので、不思議なことではないのだが────
(でも、気になることがあるのよねえ)
帝国学園から練習試合の申し込みがあったのは、豪炎寺が転校する前の日だ。まるで、元から彼が雷門中へ編入することを知っていたようではないか。
(引っかかるなあ……)
ホイッスルが響く。
千紗季が考え事をしている間に、いつの間にか豪炎寺の加入が認められ、試合が再会していた。
帝国の必殺技”デスゾーン”が放たれる。その直後、豪炎寺は敵陣ゴールに向かって走り出した。
(フォローに入らない……? どうして?)
豪炎寺の行動が読めない。
しかし、円堂は瞬時に彼の意図を汲み取ったらしい。
円堂は右手を強く握り込む。
瞬間、
(なに、アレ……?)
初めて目にする現象に戸惑う。
だが、すぐに気がついた。
これは、おそらく……────
「はああぁぁぁあああ!!!!」
円堂の雄叫びが、理事長室にまで轟いた。
「必殺技ってやつ……?」
円堂の拳から稲妻が迸る。
現れる黄金の巨大な”ヒトの手”。それが、帝国のシュートを受け止めた。
まさかの展開に、全員が唖然としている。
「……まさか、こんなことが」
流石の夏未も、円堂がこの土壇場で必殺技を編み出し、敵のシュートを止めるところまでは予想していなかったらしい。いつもの涼しい顔が崩れ、目をまん丸くさせていた。
「──っ、ふふっ、ふふふっ、何なのよもう、守ってば、ほーんといつもびっくりさせるんだから……!!」
思わず笑いが込み上げ、千紗季は腹を抱えて目尻に溜まった涙を払う。
必殺技となって特訓の成果が出たこと、そして、敵のシュートを止めた事実に、ようやく円堂から笑みが溢れる。
そして、ボールは円堂から豪炎寺へ託された。パスを受け高く飛び上がった豪炎寺は、その両足に炎を纏い、必殺技を放つ。
「ファイアトルネード!!」
その華麗なシュートは、凄まじい勢いで敵陣ゴールを貫いた。
雷門側の得点板に、とうとう1点が刻まれる。
その直後のことであった。審判によりゲームの終了が告げられる。後半戦の時間はまだ残っているが、どうやら帝国が途中棄権を申し出たらしい。目的を達成したからだろう。
『なんと!? 帝国学園、試合を放棄! これは実質的に、雷門イレブンの勝利ともいえる事態ですっ!』
鬼道は、真紅のマントを靡かせ雷門中を去って行く。
その後ろ姿を、千紗季は物言いたげな表情で見下ろしていた。次に彼と顔を合わせる機会があるとすれば、社交の場となるだろう。
一体どんな顔で挨拶をすべきだろうか。身内を袋叩きにされた不満が表情に溢れそうだと、千紗季は気怠そうに溜息を零す。
「豪炎寺君の登場が、試合を変えた?」
「いいえ、彼を呼び寄せた者が流れを変えたのです。あえて言うなら、”あの諦めの悪さ”……というところでしょうか」
「あらあら、なあに? 夏未ってば、守のことちょっと見直したの?」
「勘違いしないで。私は、客観的にこの試合に起きた出来事を評価しただけです」
「ふぅん?」
夏未の表情は、いつもの取り澄ましたものに戻っていた。けれども、その瞳と口ぶりから、ほんの少しの期待が込められていることを、千紗季は見逃さない。
あれだけ邪険にしていたサッカー部を見る目が、どうやら変わったらしい。
「で、どうするのよ、廃部の話。さっき実況クンも言ってたけど、これ実質うちの勝利ってことになるわけだけど?」
「さあ、どうしましょうね」
そうね、とすぐさま肯定しないところが夏未らしい。窓辺から背を向ける夏美へ「素直じゃないんだから」と返してやった。独り言を呟く程度の声量なので、彼女に届いていたかはわからないが。
グラウンドに目をやると、円堂達が中央に集って勝利の喜びを分かち合っていた。
そこに豪炎寺の姿は無い。いつの間にやら去ってしまったようだ。
(良かったわね、守)
溢れんばかりの笑顔で風丸達と言葉を交わす円堂に、勝利を讃える。
「さて、四条院副会長」
「なんでしょう、雷門会長」
「ちょっと調べ物を手伝ってほしいのだけど」
理事長専用のデスクに腰掛けた夏未は、ついさっき千紗季が使っていたパソコンを再起動させる。
「今回は何についてでしょうか?」
「本日から数日間、サッカー部に関する噂話の情報をまとめておいてちょうだい」
この試合で雷門サッカー部の可能性を見出したのか。夏未の思惑はわからないが、生徒会長に指示を出された千紗季の返事は一つしかない。
「了解した」
***
「…………ただいま」
帝国との試合を終えた風丸は、ボロボロになった体を引きずりながらようやく帰宅した。
長時間動き回っていたうえ、帝国の攻撃に翻弄されて体はもう悲鳴をあげている。おまけに強烈なボールを何度もぶつけられ、体のあちこちにまだジンジンとした痛みが残っていた。
玄関扉の施錠を確認し鞄を置くと、崩れ落ちるように床へ座り込む。そうして、ふぅっ……と一息。緊張が解けてゆく。
「おかえり〜……って、ほんとに傷だらけじゃない!?」
リビングから顔を覗かせた母が、傷だらけ泥だらけの息子を目にして、慌ててタオルで包んだ保冷剤を押し当ててくる。
熱が籠った頬が突然冷え、思わず「つめてっ!!」と声を上げた。
「あれ、なんで氷……」
まるで自分がボロボロになって帰ってくることを見越し、予め用意していたようではないか。
「千紗季ちゃんが教えてくれたのよ」
「……え、あいつうちに来てるのか」
「そうよ。今あんたの部屋にいるわ! ほら、行ってあげなさい。あ、後でケーキ持っていくから」
そう言ってリビングへ戻っていく。ふわりと食欲を唆る香りが漂っているので、夕飯の支度をしている最中なのだろう。
夕飯前にケーキなど食べても良いのだろうかと疑問が生じる。ボロボロになってまで試合を頑張った息子へのご褒美ということだろうか。
勝手にそう解釈して、千紗季が待っているであろう自分の部屋へ移動する。
「千紗季ー、入るぞー?」
自室に向かって声をかけるのもおかしな話だが、お互いもう中学生だ。無いとは思うが、部屋で着替えなどしていたら、たまったものではない。
ということで、千紗季が部屋に訪れている時は、必ず声をかけてから入室するようにしていた。
しかし、返答がない。
「……はあ、またか」
溜息を吐いて扉を開けると、勝手に部屋に転がり込んだ幼馴染は、予想通り人のベッドを占領してスヤスヤと居眠りタイム中であった。
この光景は昔からのことで、今更文句を言うつもりはない。が、寝返りする度に、ストッキングに包まれた太腿の面積がどんどん広がっていくのだけはどうにかならないだろうか。
千紗季はただの幼馴染ではなく、今の風丸にとっては好いている女の子。ダメだとわかっていながらも、ついチラチラと視線を寄越してしまう。
「ったく……おい、千紗季。帰ったぞー? 起きろ〜」
とにかく起きてもらわねばと肩に手を置いて揺するが、目を覚ます気配はない。
「おーい、千紗季ー! 起きろって!」
「んぅ……」
少し強めに揺らせば、ようやくうっすらと目を開けた。口から盛れた声と、ぼんやりとこちらを見上げる表情と、仕草の全てがなんとなく色っぽくて、風丸の心臓がドキリと一つ音を立てる。
「…………ん。あれ。お帰り、いちろーた」
「はいはい、ただいま。さっさとベッドから降りてくれないか?」
「ふわぁ……しょーがないなあ」
「何がしょうがない、だ。ここ俺の部屋なんだぞ?」
のっそりと起き上がって、一つ大きな欠伸を見せる。グッと伸びをして、ようやくベッドから退いた。
降りてすぐ座り込んだ千紗季は、そのまま自分の鞄を手に取り、ごそごそと何やら中を漁り始める。
風丸は彼女の隣に腰を下ろし、ベッドに背を預けて体の力を抜いた。
ほっとしたのも束の間、すぐ真横に千紗季がいるせいか、試合の時とはまた違った緊張感がじわじわと込み上げてくる。
「顔、大丈夫なの?」
「え?」
「思いっきりボールぶつけられてたじゃない」
「試合、見てくれてたんだな」
「理事長室からね」
ということは、雷門夏未と一緒だったのだろう。
千紗季とは幼馴染だが、夏未と個人的な交流があることは、雷門中に入学してから初めて知ったことだった。驚きはしたものの、お嬢様同士であることを考えれば納得できる。
入学してから、千紗季はほとんどの時間を夏未と過ごしていた。生徒会にだって、夏未の推薦で入ることになったのだとか。
(中学に入る前までは、よく一緒にいたんだけどな……)
千紗季の隣は、いつだって自分が居たのに。
ほんの少しの寂しさとモヤッとしたものが、時折、風丸の心を覆っていた。
一年の頃はクラスも別で、教室自体も離れていた。その上、部活や生徒会で一日のスケジュールも異なり、自然と会う機会も減っていたのだ。
きっと、こうしてどんどん共に過ごす時間が無くなっていく。これが大人になっていく、ということなのだろう。
「──ッッ!! おわっ!!」
ぼーっと考え込んでいた風丸の頬に、またも突然冷たい何かが当てられる。
バッと勢いよく顔を向ければ、目の前には見慣れたラベルが貼りつけられたペットボトルがあった。風丸が好んでよく購入しているスポーツドリンクだ。
「はい、あげる」
「お、おう……サンキュ」
戸惑いながらもドリンクを受け取り、キャップを外して口内へ流し込む。キンキンに冷えた液体が、体内に流れ込む感覚が心地よかった。
「にしても、一郎太も今回はけっこう無茶したわよね」
喉を鳴らしてドリンクを一気飲みしていた風丸は、思わず手を止める。
無茶とはきっと、ゴールを守る円堂の前に飛び出して、ボールを受けたことについてだろう。
「そう、か?」
「そうよ。守のは今に始まったことじゃないけど」
じぃっとこちらを見る千紗季は真顔だった。怒ってはいないが、呆れが滲んでいる。
そのまま千紗季は、か細い声で拗ねたように訴えた。
「心配したんだから」
「……すまん」
あの時はただただ必死だった。
円堂へ無闇矢鱈とボールを打ち付け、嘲笑する帝国イレブンが許せなかったのだ。
雷門サッカー部の皆が、この日までどんな思いで特訓を重ねてきたことか。助っ人として最も近くで時間を共にしたからこそ、彼らのこの試合にかける想いは誰よりも知っている。
だから、だろうか。
気づいたら、怒りに任せて体が動いていたのだ。
「ま、そこが一郎太の良いところね」
「千紗季……」
「かっこよかったじゃない」
「かっ!?」
風丸の頬に熱が集う。好きな女の子から、涼しい顔でサラリと褒め言葉という爆弾をとつぜん投下されたのだ。誰だって動揺するに決まっている。
当然、風丸の想いを知らない千紗季からすれば、そんな幼馴染の反応は不思議なものでしかなかった。訝しげに眉を顰めている。
「なによう、その反応。なんか顔も赤いし」
「あ、やっ……その……」
「なあに? 照れちゃって〜」
「う、うるせー……」
また始まってしまった。千紗季の揶揄い癖が。どう返すべきか。
混乱した頭で返事の内容を考えていると、コンコンと扉からノック音が響く。
「一郎太、千紗季ちゃん、入るわよ?」
「っ、ああ!」
慌てて返事をすれば、お盆に二人分のケーキとティーカップを乗せた母が顔を覗かせた。
「はい、ケーキの用意できたわよ」
「わ〜! ありがとー、いちママ!」
ケーキを目にした千紗季は目を輝かせて立ち上がり、お盆を受け取る。
「一郎太、千紗季ちゃんが買ってきてくれたものだから、ちゃんとお礼言っておきなさいよ? あ、そうそう千紗季ちゃん、お夕飯これからだけどせっかくだしうちで食べてく?」
「いいの? じゃあ食べてく!」
「わかったわ。ご飯できるまでゆっくりしててね」
「はーい。いちママのご飯久しぶりだから楽しみ〜」
部屋の主を差し置いて、この後の予定を勝手に決めていくマイペースな二人に、風丸は溜息を零した。
とりあえずケーキを食べるために小テーブルの用意でもしようかと立ち上がる。
設置が完了したタイミングで、会話を終えた千紗季がテーブルにお盆を乗せ、そのまま再び風丸の隣に腰掛けた。
「ケーキ、ありがとな」
「いいえ〜。あ、抹茶ケーキは私のね?」
「はいはい、わかってるよ。俺のはチョコだろ」
好物の抹茶ケーキまでちゃっかり買っているということは、最初から家に居座るつもりだったのだろうか。
お手拭きで手を拭った千紗季は、「いただきまーす!」と上機嫌に唱えると、フォークを手にして抹茶ケーキの欠片を口へ運ぶ。
「んんー、おいしい! この抹茶のケーキ新作らしくって」
「あー……なんで突然ケーキの差し入れなんか、と思ったが……それが狙いか」
「ひっどい。ちゃんと差し入れ買う目的でお店行ったら、たまたま新作が抹茶のケーキだっただけですー。ほら、一郎太も守も試合がんばったわけだしね?」
ここで円堂の名前が挙がるということは、風丸家へ来る前に円堂家にも訪問していたらしい。
「で、これからどうするの?」
「何が?」
「帝国戦のための助っ人なのかと思ってたから。もう陸上部に戻るのかなーと」
「いや、まだ部員の人数も安定してないしな。もう少しいるつもりだ。念のため確認なんだが……サッカー部、廃部にならないんだよ、な……?」
廃部から逃れる条件は、部員を十一人まで集めること、あるいは、帝国学園との練習試合に勝つこと。
帝国側の試合放棄により、夏未から出された条件はどちらもクリアしたことになる。
とはいえ、帝国との実力差は一目瞭然。試合放棄がなければ、確実に廃部の道を辿っていたのだ。この結果を学校側がどう判断したのか。確かめるまで安心はできない。
「そうね、とりあえずは」
「そっか、よかった」
千紗季の返答に、風丸はひとまず胸を撫で下ろす。
「ただ、あくまで首の皮一枚繋がったってだけ。今後、夏未がどういう判断を下すかは、私もわからないわ」
「じゃあ、まだ完全に廃部の件が撤回されたわけじゃないってことか」
練習試合の結果は、完全勝利とはいえない。保留となるのも頷ける。
しかし、今回の試合で得られたものは大きい。円堂は特訓の成果を発揮し、必殺技を習得した。チームの士気も上がっている。
「……サッカー部、このまま軌道に乗るといいわね」
「だな」
風丸も千紗季も、円堂のサッカーにかける想いを昔から知っているからこそ、心から願うのだった。
***
千紗季を交えた本日の風丸家の食卓は、大層賑やかなものだった。と言っても、意気投合していたのは母と千紗季の女性陣だ。
風丸と父はそんな二人を眺めながら黙々と箸を進めていたのみである。テレビを観ているような感覚だった。
父は微笑ましそうに二人の様子を見守っていたので、何だかんだ楽しんでいたのだろう。
食事を終えると、千紗季はいつもの如く洗い物の手伝いまで済ませてしまった。
馴染みの家でも礼儀を欠かさないところは、毎度、彼女の人柄と育ちの良さを実感させられる。
「うんうん、いつお嫁に出しても大丈夫ね」
なんていう母の発言に、風丸が盛大に噎せたことは言うまでもない。父から注がれる暖かい視線の意味は考えないでおく。
「ご馳走様でした〜! 久々のお夕飯とっても美味しかった!」
「よかった! 千紗季ちゃんならいつでも大歓迎だから、また来てね」
「は〜い」
玄関で仲良く挨拶を交わす二人を尻目に、風丸も千紗季を家まで送り届けるため靴紐を結び直す。
「一郎太、ちゃんと千紗季ちゃんを無事に送り届けるのよ?」
「言われなくとも」
「またね、いちママ! お邪魔しました〜」
ご機嫌な母の眼差しを受けながら、千紗季を連れて外へ出る。
つい三秒ほど前まで賑やかな空間に居たせいか、外が随分と静かに感じられた。その温度差が居心地悪くて、風丸はふっ……と小さな溜息を零す。
「別にすぐ裏なんだから、送ってくれなくてもいいのよ? 無茶苦茶な試合して疲れたでしょ?」
その溜息が、今日の疲労によるものだと勘違いしたらしい千紗季が、風丸の顔を覗き込んで気遣うように声をかける。
四条院家の豪邸は、ごく普通の住宅街の一角にあった。風丸家の区画の裏手に回ると、塀に囲まれた日本家屋の敷地が広がっている。三分ほどあれば、お互いの家を十分に行き来できるのだ。
「この短い距離の間で、何かあるかもしれないだろ」
「過保護だな〜」
「お前なあ……」
家が近かろうが、どれだけ疲労が蓄積されていようが、風丸は必ず千紗季を送り届けるようにしている。
幼い頃からそうしていたわけではない。昔は自宅の玄関までしか見送っていなかった。
この習わしが始まったのは、中学に入学して少し経ってからのこと──風丸が千紗季を明確に意識するようになってからだった。
「何かあってからじゃ、遅いんだぞ?」
人伝──母から聞いた話だが、千紗季は中学生になってから、街中でよく声を掛けられるようになったのだそうだ。
時にはナンパに遭い、時にはアイドル事務所の人間からスカウトされ、しつこく付き纏われたこともあるらしい。”かぐや姫”と謳われるほどの美貌を持っているのだから、当然起こりうることだ。
「そんなに心配?」
「当たり前だろ」
千紗季が護身術を身につけていることも、専属の護衛たちから非常時の訓練を受けていることも知っている。
それでも、だから絶対に安全というわけではない。不意を突かれて大人や男に押さえつけられでもしたら、抵抗できないだろう。
「……千紗季に何かあったら、俺が嫌なんだよ」
傍に居るだけで必ず守り切れるとは言わないが、一人で出歩かせるよりかは幾分かマシだろう。本音を言えば登下校だって傍についていたいほどだ。
好きな女の子とできるだけ過ごしたいから、などという願望は微塵もない……──と、完全に否定はできないが。
「……一郎太の負担になってないなら、まあいいんだけど」
「負担に思ったことなんか一度もないさ」
まさか今までそんなことを気にしていたのだろうか。
チラリと千紗季の横顔を盗み見るが、暗くてはっきりと表情は伺えなかった。
「ほんとに?」
「ああ」
「……そう? なら、これからもお言葉に甘えようかな」
「そうしてくれ」
穏やかな時間だった。
このまま彼女の手を取って、彼女の温もりを感じながら歩けたら、どれほど幸福だろうか。
そんな風に考えてしまうのは、別れの時間が惜しくてたまらないからだろう。
四条院家の四脚門は、すぐそこにある。重厚な門扉を目にした瞬間、二人の時間の終わりを告げられたようだった。
「送ってくれてありがと」
とたたっ……と風丸の傍を離れて、千紗季は自宅の扉の前に立つ。
無意識に風丸の手が千紗季へと伸びそうになった。────が、すんでの所で抑える。
「ちゃんと体、休めなよ?」
「あ、ああ……もちろん」
風丸の返答に、千紗季は満足したように微笑む。
扉の開く音が聞こえた。これは正門ではなく、その真横に併設された潜り戸のものだ。
ゆっくりと開かれた扉から、四条院家の使いが顔を出す。ポーカーフェイスに眼鏡を乗せた彼は、
「お帰りなさいませ、お嬢」
「ん、ただいま。お出迎えご苦労さま〜」
続いて貝塚は、主人の友人である風丸へといつもの如く深く丁寧なお辞儀をして見せる。風丸も夜の挨拶を添えて会釈した。
「じゃあ、また明日ね。一郎太」
「ああ、また明日な。千紗季」
夜の景色と同化した彼女の黒髪が、潜り戸の奥へと消えてゆく。
ガシャンと、扉が閉まる音。
続いて、施錠の音。
日が沈みきった静かな住宅街には、それらの音がよりクリアに聞こえた。音がやけに寂しげに思えたのは、千紗季との別れを惜しむ心が、そうさせているのだろうか。
無事に千紗季を送り届けた風丸がここに居る理由は、もうない。
「……俺も帰るか」
朝が来れば、また千紗季に会える。
中学に入ってから、彼女と過ごす時間はうんと減ってしまったが、今は同じクラスで席は隣同士。幼馴染で家が近いなんて特権に加え、学校でも恵まれた環境にいるのだから、悲観することはない。
目の前に広がる豪邸からくるりと背を向け、風丸は来た道を引き返していく。
千紗季と歩いたからだろうか。金木犀の香りが、微かに残っているように感じられた。
