FF編
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第5話
すっかりと夜の帳に包まれた世界に飛び込んで、千紗季は束の間の休息を得る。無人のバルコニーに吹き抜ける夜風に身を委ね、手すりの上で頬杖をついた。
抜け出してきたパーティ会場では、絶え間なく演奏者らの手によりクラッシック音楽が流れている。
今の千紗季には、締め切った扉から漏れ出る微かな音さえも煩わしくて、音を遮断するように瞼を閉じた。
そうして、さわさわと揺れる木々の音を聴くことに集中する。
夜風が千紗季を煽る度に、パニエでふわりと広がった蜂蜜色のパーティドレスが揺らいだ。
「……はあ。疲れた」
自然と零れた呟きは、誰に拾われることもなく風が攫っていった。
セレブが集うパーティは幼い頃から経験があるものの、純粋に楽しめたことは一度もない。
下世話で野心に溢れた大人たちの相手は慣れないし、飛び交う陰口やくだらない噂話にも辟易としていた。
いや、営業スマイルを乗せて、彼らのつまらない話に付き合うだけなら百歩ならぬ千歩譲ってまだ耐えられる。
千紗季がパーティを毛嫌いする理由は、男性たちから向けられる視線が原因だった。
(今日も肩とかお尻触られそうになるし、食事の誘いはしつこいし……神経すり減るっての)
パーティに参加する度、いい歳したおやじ共から被害に遭うのだ。
そのうえ、学校で名付けられた異名”月下のかぐや姫”までもが、いつの間にやらセレブの間でも広まり、その名で呼ばれてはストレスが溜まる一方であった。
(なんで学校での異名まで知れ渡ってるんだか……)
パーティで挨拶する時なんかは「お噂の通りかぐや姫のようにお美しい」なんて言葉を毎度かけられる。
今日だって歳の離れた男性三名ほどから似たような言葉を送られた気がする。ほとんど聞き流しているので、一人一人の挨拶をきっちりと覚えているわけではないけれども。
こんなことが毎回続くので、お陰様で男から向けられる好意に対し、拒絶反応が出てしまうようになってしまった。
完全な男嫌いにまで発展しなかったのは、幼馴染である風丸や円堂の存在のお陰だと思っている。
(……やっぱりもう帰ろう)
パーティの終了予定時刻まであと一時間ほどあるが、我慢の限界だった。最低限の挨拶は済ませてしまったのだからもう良いだろう。
夏未が出席している時は、彼女に合わせて最後まで残るのだが、生憎とこのパーティには不参加だった。
つまり、千紗季がここに留まる理由は完全に無いのだ。
ぐっと伸びをしてから、パーティバッグを掛け直す。そして、両の手でドレスを掴み、裾がヒールに巻き込まれぬよう持ち上げた。
その時……──
「げっ」
「お前は……」
千紗季が踵を返したと同時に現れた男にぎょっとして、まるで石化してしまったかのように停止する。
ドレッドヘアを一つに束ねた男は、千紗季の姿を目にして僅かに眉を顰めた。
(よりにもよって……)
目の前に立つのは、帝国学園サッカー部キャプテン──鬼道有人である。
彼は鬼道財閥の御曹司だ。このパーティの出席者として招かれていても不思議ではない。
さっさとこの状況から抜け出さねば。
千紗季は再び営業スマイルを乗せて背筋をピンと伸ばす。
「私はこれで失礼しますので、どうぞごゆっくり」
声のトーンを一オクターブ高めに設定し、優雅にお辞儀をして挨拶の言葉を放つ。そして、足早に彼の隣を通過した。
「待て。雷門中生徒会副会長、四条院千紗季」
カツンと、ヒールの音が止む。「どこの誰かしら〜」と適当に返して、今すぐにでもこの場から逃げ出したいところだ。
しかし、深い交流は無けれども、何度か挨拶を交わしたことのある顔見知りの関係だ。残念なことに誤魔化しは効かない。
「何の御用ですか〜。帝国学園の鬼道有人さん」
営業スマイルを取り消し、顰めっ面で鬼道へ向き直る。
「さっきから随分な態度だな。お前に何かした覚えは無いが」
顔を合わせた瞬間、歓迎していないと言わんばかりの反応に彼も気を悪くしたことだろう。
それについてはほんの少しだけ申し訳ないとは思う。だが、あの練習試合の一件から、鬼道に対し好印象を抱けるはずもなかった。
だから、こう言い返してやるのだ。
「そうね、貴方に直接何かされた覚えは無いけれど、其方様のご都合でうちのサッカー部に押しかけてきたことについては腹立ってるので」
「それは──」
「貴方達の狙いは豪炎寺くんだったようだけど、その目的の為に大事な友人が一方的にボコボコにされてる姿を見て、良い気になる人間はいないと思うんだけど」
「…………」
「随分と楽しそうに痛ぶってくれたじゃない?」
最終的に円堂は必殺技を習得し、部員達の士気も上がり、サッカー部の存続問題も保留となった。
しかし、鬼道らが円堂達を滅多打ちにした話はまた別の問題であると思っている。
さっさとここから立ち去ってしまおうと、千紗季は再びドレスを掴み彼から距離を取ろうとした。
「──すまなかった」
謝罪の言葉が、千紗季の足を止めた。
鬼道は、ただ師の命令に従い目的を果たしただけだ。
しかし、千紗季の主張は確かに筋が通っている。だから素直に非を認めたのだ。何よりここで他家の者と諍いを起こす訳にはいかない。
一方、思いのほか殊勝な態度に千紗季はほんの少しだけ戸惑っていた。その動揺が彼に伝わることのないよう毅然と振る舞う。
「……私に謝ったってしょうがないでしょ」
「それもそうだな」
公の場では誰もが社交辞令という仮面を被っているものだ。だから、練習試合の時に彼が見せた
「お前は、」
「では、しつれ〜い」
「っ、おい!」
何か言いかけていたが、千紗季は気づかないフリをして雑に頭を下げると、脱兎のごとく逃げ出した。
鬼道がどういうつもりで会話を続けようとしたのかはわからない。サッカー部の情報が目的とも考えたが、帝国にとって有益となる情報は持ち合わせていないはずである。
であれば、互いの家に関する事柄か。もしくは単なる世間話か。
どの道、千紗季にとって有意義といえる時間は過ごせないだろう。何より────
(早く帰りたい!!)
この息が詰まるようなパーティから、体を締め付けるドレスから、一刻も早く解放されたい。
すっかりと帰る気でいた千紗季にとって、これ以上この場に留まることは苦痛でしかなかった。
ホテルを出るには、一度会場へ戻らねばならない。
千紗季は再び会場へ足を踏み入れると、主催者を探し呼び止める。二言三言、言葉を交わした後、足早に出口を目指した。
途中、またもや千紗季を狙う男数名から声をかけられたが、失礼にならない程度に受け流して強行突破する。そして、会場の扉を開け放った。
廊下に飛び出すと階段を駆け下り、自分を待っているであろう穂波や護衛達と合流するため、エントランスへ向かう。
(これから護衛厳禁のパーティには参加しないようにしよう)
今宵の夜会には、大手企業の会長や社長、財政界の重鎮、芸術界の巨匠までもが一堂に会する、言うなれば上流階級に属する者たちの集まりであった。
夜会自体の格式も高く、会場へは招待者のみしか入場できない。従者や護衛は、外で待機せねばならなかった。
一階へと降り立った千紗季は、柱の影からチラリとエントランスの様子を伺う。
侍女の穂波や護衛達の姿を見つけたが、数人の男性と話し込んでいるようだった。営業スマイルを貼り付け、嫌々対応しているのが伝わってくる。
ふと千紗季の視線が彼らの胸ポケットへと流れる。そこには他家の家紋が掘られたピンバッチが付けられていた。
(……あの家紋って)
パーティに出席すると、毎度必ず千紗季へよこしまな視線を注いでくる三十代の男がいた。あの家紋は、その男の家のものだ。
そして、穂波たちを囲っている者達は、男の従者で間違いない。
おそらくは主人の指示によるものか。千紗季との接触が失敗した場合を見越して、侍女や護衛にも目をつけていたらしい。
大方、千紗季が穂波たちと合流したところで、代わりに会食の予定でも捩じ込むよう命じたのだろう。
(いま合流すると面倒なことになりそうね……)
ここで千紗季が登場すれば、こちらの護衛を口実に騒ぎを起こされるかもしれない。”会食の誘いをしただけで牽制された”等と言われれば、こちらの立場がなくなってしまう。
護衛が主人の安全確保のために動くことは当然であるが、この場においては、そのような行為が必ずしも最適解とは限らない。社交の場で問題を起こせば、確実に家の名誉に傷がついてしまう。
(……ここは、私一人で片をつけるしかないわね)
今は穂波や護衛達に頼る行為は避けるべきだろう。
千紗季は手持ちのバッグからレモン色の携帯を取り出し、メールの入力画面を開く。
(”エントランスの状況は把握してる。裏口から出るから、何人かはそちらに待機してて。裏口に到着したら連絡ちょうだい。それまではホテル内で待ってるから。”と……これでよし)
宛先欄に穂波と護衛の数名をまとめて登録し、メールを送信する。
さて、護衛が裏口に移動するまで少し時間を要することだろう。
どこで待機すべきか。夜会前に脳内へ叩き込んだ施設内のマップを辿る。
(挨拶した以上、会場に戻るのもなあ。また他の男に狙われるのも面倒だし。まあ、それはここで待っていても一緒なんだけど……化粧室に逃げ込む?)
女性用トイレに併設されている化粧室であれば、男の入室は不可能だ。
しかし、化粧室付近は、監視カメラはあれど人通りが少ない。問題が発生し声を上げても、駆けつけてもらえる可能性は低いのだ。
個室に身を潜める行為は、自ら行き止まりに向かうも同然。得策ではない。
(関係者室の近くで待機するのが正解かなあ)
関係者室であれば、中で待機している人間にこちらの悲鳴も届くはずだ。
護衛から連絡が来るまでの間はそこで待たせてもらうことにしよう。
千紗季はヒールの音が響かぬよう、そろりとその場から離れる。元来た道を引き返し、関係者室を目指して進んだ。
その道すがら、ぬっと一つ先の曲がり角から人が現れる。
「おや」
「──ッ!?」
千紗季の足は、時が止まったかのように停止した。
一瞬、呼吸を忘れる。
不幸なことに目の前に現れた人間は、今まさに千紗季が遭遇したくないと願っていたあの家紋の男だった。
(パーティ会場にいたと思ったのに、なんでこんなところに……)
男は千紗季を認識した瞬間、ニタリと笑みを浮かべて千紗季の元まで歩み寄る。
そして、まるで関係者室へと続く通路を防ぐようにして、ぴたりと立ち止まった。
「こんなところでまたお目にかかれるとは……光栄でございます、千紗季お嬢様」
「……ええ、偶然ですね」
気味の悪い笑みと視線、そして名前呼びに、千紗季の体にぞわりと悪寒が走る。
しかし、怯んではならない。
千紗季は警戒心を強め、咄嗟に営業スマイルを作って見せた。
(これじゃあ部屋に進めない……)
それどころか、関係者に助けを求めることすら難しい状況となってしまった。
であれば────
(このまま裏口に向かう。万が一、追いかけてきたら、それを理由に警備員へ男を任せてしまえばいい。ただ、問題は……)
ドレス姿にヒールというこの出で立ちで、果たして成人男性を撒くことができるのか。
千紗季の身を案じた家族や使用人らの言いつけで、体は日頃から鍛えてはいるが、だからといってそれが安心材料にはならない。
大人の男性に抑え込まれれば、おそらく抵抗しても敵わないだろう。
しかし、いま裏口へ向かったとしても護衛の移動が間に合わないだろうが、一通りの少ないこの場で男の相手をするより、確実に助けを求められる方法を選ぶ方が良い。
「それでは、わたくしはこれで」
千紗季はピンと背筋を伸ばし、優雅にお辞儀をしてみせる。そうして、男の横を通り過ぎようとした。
「お待ちください」
しかし、腕を掴まれ身動きが取れなくなってしまった。突然のことで、腕に下げていたパーティバッグを危うく落としかける。
この危機的状況に、千紗季は相手に勘づかれぬ程度に、咄嗟にチラリと天井の監視カメラの位置を確認した。
「まだ何か?」
「そう警戒なさらないでください。私はただお嬢様とお話をしてみたいだけなのです」
「まだ子供のわたくしが、お話し相手などとても務まるとは思いません」
「そんなことはございません。お嬢様の数々のご功績は存じ上げております。ぜひ一度、食事にでも──」
「申し訳ございませんが、人を待たせておりますので。離していただけます?」
訴えるも、男は笑みを湛えたまま、更に千紗季を掴む手に力を込める。
「あの、離してっ」
「では、連絡先の交換はいかがでしょう? お時間のあるときにでも──」
「……ッ!!」
完全に身動きが取れなくなる前に、千紗季は男の言葉を遮り、空いている手で男の手首を強く掴むと、容赦なく捻りあげた。
「い”っ」
千紗季を捕らえていた男の手が離れる。
そして……──
「はっ……!!」
自由の身となった千紗季は、思い切り背負い投げを決め、男を大理石の床に叩きつけた。
ガンッと床が揺れ、硬い音が響く。
千紗季はすぐさま距離を取って、全速力で裏口へと走り出した。
(ほーんと、じい様たちの言いつけを守って、真面目に護身術の訓練をしていて正解ね)
我が家の護衛直々の指導で、数年かけて柔道や合気道を仕込まれてきた。更には、緊急時にドレスやヒールでも動けるよう叩き込まれている。
これほどの状況ではないが、過去にも何度か身につけた技で男を撒いた経験があった。改めて護身術の必要性を痛感する。
背後から「待て!」と叫ぶ男の声は、荒々しいものだった。これまで見せていた穏やかな印象とは正反対だ。
(とうとう素顔を見せたわね。こうまでして私とお近づきになりたい理由はなんなのかしら。気持ちが悪い)
あの男から目をつけられるようになったのは、小学六年生のとき。最初は何かにつけてプレゼントを贈り付けてくるうえ、食事の誘いもしつこく、全て適当にあしらっていた。
直接、挨拶を交わすことがあっても、これまでは必ず傍に家族や護衛が付いていたために、大きな被害にはなっていなかった。
今回このような過激な行動に出た理由は、護衛が不在であったからだろう。好機と捉え、千紗季に迫ったのだ。
カツ、カツ、カツ。
ヒールのせいで上手く走れない。足を捻らないように、某童話のプリンセスのように靴が脱げないように、注意しながら裏口へと急いだ。
後方からドタバタと騒がしい足音が迫ってくる。振り返らずとも男のものであることは明らかだった。
千紗季は、万が一追いつかれた時のために、速度を保ちながら携帯を取り出す。電話帳を開いている内に、裏口と警備室が見えた。
窓口へ回り込むと、部屋の奥で警備員が待機していた。
大きな欠伸をしながら、カップラーメンを啜っている。なんとも緊張感のない空気感である。
千紗季は内心呆れながらも喝を入れるかのように、警備員に向かって腹から声を出して呼びかけた。
「──すみませんっ!!」
「な、なんでしょう!」
「男の人に追われてるんです……た、助けてください!」
わざと肩を縮こませ、少々大袈裟に警備員へ訴える。
千紗季の主張からただ事ではないと感じ取った警備員は、すぐに警備室から飛び出した。
同時に、千紗季を追っていた男も姿を現す。男は警備員を認識した途端、ピタリと足を止めて引き返す素振りを見せた。
「警備さん、あの人です!」
「待ちなさい!!」
慌てて逃げる男を警備員が追いかけていく。
しかし、まだ油断はできない。無いと思いたいが、万が一警備員が倒されるか、もしくは他の追っ手が迫ってきた時のことを考えて、千紗季もここを離れるべきだろう。
(まずは、裏口の外の状況を確認しなきゃね)
門からひっそりと顔を出し、外の状況を確認する。
しかし、護衛たちの姿は見当たらない。やはり移動が間に合っていないようだ。あの男の従者たちを撒くのに、相当手こずっているらしい。
注意深く他へと視線を流すと、三十メートルほど先の建物の影に、車が一台停車していた。まず、確実に我が家の車ではない。
(……まさかとは思うけど、あの男のもの?)
暗くてわかりにくいが、おそらくあれは高級車だ。その時点で、パーティの参加者のものだろう。
とはいえ、男の所有物であるかまでは把握できない。
しかし、確実に言えることは、あのような場所に車が停まっているという事実が不自然だということ。
(もし、あの男の車だったら、中で待機しているのは男の従者……いま裏口を出たら、また捕まるかしら)
けれども、ここに留まっていても状況は変わらない。
主人が警備員に追われていることを従者が未だ把握できていなければ、指示通り千紗季に接触を図ろうとするはずだ。
会場に戻ったところで、また別の従者に待ち伏せされている可能性だって考えられる。わざわざ侍女や護衛にまで徹底的にマークをするほどなのだから、そのような事態も想定して動かねば。
(それなら……────)
千紗季は再び携帯の電話帳を開く。対応に追われているであろう穂波ではなく、護衛の一人を選択した。
数コールの後、「お嬢!? ご無事っすかあ!?」と慌てた声が鼓膜を突き抜ける。
この声は、護衛の中でも一番の若造──
声を抑えているのは、まだあの男の従者に足止めを食らっているからだろう。
「
『そ、それが……────』
穂波たちの状況を確認したところ、やはり裏口への移動に手こずっている様子だった。まだ少し時間がかかることだろう。
千紗季もこちらの状況を手短に伝え、指示を出す。
「私はひとまず人通りの多いところに移動するわ。駅前通りまで、ここからそう遠くないしね」
このホテルは、稲妻町駅から少し離れた裏通りに位置している。三分ほどあれば、賑やかな表通りに出られるのだ。
パーティドレスを身にまとったまま、賑わう街中を歩くのは少々気が引けるが、今は身の安全が何よりも最優先だろう。
(……けど、表通りに出るまで男の従者が控えていたら?)
本当にこれで良いのだろうか。ここで大人しく護衛を待つ方が賢明ではないか。
また新たな可能性が浮かび上がり、千紗季は躊躇する。
しかし、あの男も千紗季が異性に目をつけられやすいことは承知のはず。侍女や護衛と常に行動を共にすることを前提に、従者へと指示を出していたとすれば……────
(わざわざ会場の外にまで、従者を待機させるかしら?)
もし、千紗季が護身術を身につけていることを男が把握していれば、女こども相手とはいえ普通ならば多少の警戒は持たれるはずではなかろうか。
けれども、千紗季の功績を存じていると言った割に、あっさりと背負い投げを決められたのは、男が千紗季を”か弱い女子”と認識している証拠ともいえる。
であれば、千紗季が単独で会場外へ抜け出す発想には至らないのでは。
(……どの道、ここに留まっていても危険であることに変わりは無い)
今この瞬間にも、警備員から逃れた男が、あるいは彼の従者が現れるかもしれない。
幸い表通りまでは住宅街だ。万が一、男の従者に待ち伏せされ捕まった場合は、護身術で対応しつつ、周辺住民に助けを求めることもできなくはない。
意を決して、千紗季は再び
「……こちらの状況がそっちも把握できるように、通話はこのまま繋げた状態にしておいて」
『はい。あの、お嬢……』
「なに?」
『その、ホテルの正面玄関へ向かった方が、距離的に俺たちとすぐ合流できるんじゃないすか……?』
「そうしたいのはやまやまだけど、正面玄関の方向にさっき話した謎の高級車が停車しているのよ」
『あっ』
もしあの高級車で待機している人間が、男の従者であったとしよう。接近すれば確実に目をつけられるはずだ。
車内に連れ込まれてしまえば、いくら護身術を身につけていようと、成人男性相手に抵抗できるわけがない。そのような最悪な事態だけは、絶対に避けねばならない。
ならば、少々遠回りであっても、往来が盛んな場所を目指し、真反対へ進む方がまだ安全であると考えたのだ。
「そういうわけだから、私は駅前を目指すわ。私に付けてあるGPSはちゃんと機能してる?」
『──……はい! 問題ないっす!』
「ん。なら後は、
護衛のリーダーを務める男だ。状況把握や情報処理、判断力に長け、リスクを想定した計画立案、現場の指示のほとんどは彼が担っている。
ちなみに、千紗季に非常時の訓練を施したのも蓬莱である。
護身術を始め、逃走時のシミュレーション法も彼の教えによるものだ。社交の場に出向くときは、必ず会場マップを暗記させるなど、千紗季が一人で対処できるような対策をも練ってくれる。
不安を抱えつつも、千紗季がこうして逃走を図ることができるのは、蓬莱の教えがあってこそなのだ。
「迎えに来てくれるの待ってるから」
『了解っす。お嬢、気をつけてくださいね……』
ドレス姿の千紗季を一人で出歩かせることが不安なのだろう。
「……うん、ありがと。じゃ、行くね」
通話を切らずに携帯を握り締めたまま、千紗季は裏口の門に手を触れた。
錆びた鉄の音が、静寂の中で響く。
できる限り大きな音を立てぬよう、数ミリ単位でゆっくりと門を動かして、僅かに開いた隙間から裏口の外へ踏み出す。同じようにして、今度はゆっくりと門を閉じた。
千紗季はちらりと高級車を確認する。数分前と全く変わらぬ光景に安堵した。
(……よし、行くか)
再びドレスを持ち上げる。
ヒールの音が鳴らぬよう、つま先を使って駅前通りを目指し走り出した。
静かな夜道に、チカチカと点滅する街灯が、ほんの少しだけ千紗季の心をざわつかせた。
あの男がまた追ってきたら。
高級車の人間が男の従者だったら。
逃げたことがバレて追われたら。
また別の変質者が現れて捕まったら。
漠然としていた不安が、明確な文字となって浮かび上がってくる。
(落ち着いて。まだ追っ手は来てない)
チラリと後方へ視線を流す。
後ろから何かが迫ってくる様子は見られないし、気配も感じない。そのことに再び安堵した。
裏口から十分に距離を取ったところで立ち止まると、ようやく踵を地面に下ろした。コツンと、小さな音が漂う。
(もう普通に走っても大丈夫よね……?)
ここまで来れば、この静かな夜道でもあの高級車までヒールの音は届かないはずだ。
一息ついて、数秒ほど足を休めてから千紗季は再び走り出した。
カツカツ、カツカツ。
コンクリートと接触する度にテンポの速い跫音が鳴る。
一人きりの夜道からさっさと抜け出したくて、途中で足を捻りそうになりながらも、全速力で駅前通りを目指した。
(────っ、もうすぐっ!)
あと数メートルで、表通りに辿り着く。
建物の隙間から見えるビルの明かりや信号の光が、今の千紗季には希望の灯火のようにすら感じられた。
あと五メートル。
三メートル。
一メートル。
──そして、千紗季は街明かりの中に飛び込んだ。
