【一次創作】過去編
和の過去編1
*
それは、しんと冷える冬の黄昏時だった。刻々と闇に呑まれる空に、真ん丸に満ちた月が浮かんでいたのを鮮明に覚えている。
薄闇のなか、学校から出た俺たちは自宅を目指して住宅街の外れを歩いていた。
「ねえ和。今日はきれいな真ん丸お月様だよ! ほら見て見て」
俺の少し前を行く妹の香は、ランドセルの肩紐を両手で握りながら、さも嬉しそうに夜空を仰いでいた。
香のすみれ色をした長い髪がさらさらと揺れる。寒さをものともせず元気に跳ねるので、マフラーが外れかけていた。
「……香、早く帰らないと。お母さん言ってたじゃん。月が出る夜は凶暴な人外に気をつけろって」
「うーん、そうだけど。和と一緒だから大丈夫、怖くないよ!」
いつもならもっと明るいうちに帰宅するのが、この日は俺の委員会が長引いてこんな時間になってしまった。先に帰るよう言っておいたのだが、香は「和と一緒に帰るんだ!」と頑として聞かなかった。
でも、幼い香を一人で帰らせるよりかはましか、と思い直し俺は自分をそう納得させた。
街灯が俺たちの背中を照らし、ひとけのない平坦な道沿いに二つの小さな影を作り出す。薄暗い足元に目を落とし、ぼんやりと自分の影を見つめた。
俺はなんとなく夜を恐れていた。おそらく、昔から両親に口を酸っぱくして言われたことが原因だろう。
『月の出る夜には、あまり外に出てはいけない。凶暴で不審な人外に襲われるかもしれないから』
両親は人外に対して偏見が強いところがある。それを子供心に信じていた俺と香は、夜や月というものに畏怖の念を抱いていたのだが、実際にそういった人外に遭遇したことはなかった。
学校にいる人外の子たちも、みんな人間と変わらず平穏に暮らしているからそんなものなのかもしれない。俺はぼっちだからよく知らないけど。
「でも真ん丸お月様ってきれいだね。思ってたよりずっと明るい」
普段夜に外出しないためだろう。未だ馴染みのない月に見とれている香は、白い息を吐きつつ楽しげに笑い声をあげた。
俺は歩みを進めて香に追いつくと、ずれていたマフラーを巻き直してやった。
「……早く帰ろう。多分お母さん心配してる」
俺の言葉に香がこちらを振り返ってうん、と大きくうなずいたその瞬間。
夜風とは違う歪な風の動きを感じ取った。小柄な香の後方で、見上げるほどの黒い影がよぎったのを目は捉えた。
一瞬だけ時が止まったような錯覚を覚えた。
「——かおりっ!!」
俺は香の手を引こうと即座に手を伸ばしたが、驚いた分一拍遅かった。
黒い影——人外の鋭利な爪が、香の首めがけて大きく振りかぶられた。風を切る音がして、目前で鮮やかな赤が散る。
伸ばしかけた手をそのままに、目を見開く。足元から聞こえたドサッという鈍い音で我に返り、ゆっくりと視線を落とす。
「……え? ……か、おり……?」
地面に横たわり、首元の傷口から鮮血を流す香を目にして戦慄した。赤黒いそれは辺りを濡らし、アスファルトの黒をみるみる濃く染めていく。
何が起きたのか理解が及ばなかった。
得体の知れない恐怖と混乱で、心臓の音が耳を塞ぐほどうるさく脈打ち出す。
「おい! 香! 大丈夫!?」
血溜まりの中の香に駆け寄り、何度も呼びかける。はっとして周囲を見渡すと、その人外は既に夜の闇に姿を消していた。
ど、うしよう。病院……救急車……は呼び方が分からない。
ひとけが少ないとはいえ、幸いここは住宅街の外れだ。いつもならそんな勇気はないのだが、近くの家の人に助けを求めていた。
その日、その後の記憶はほとんどない。親の青ざめた顔と重体の香、救急車のサイレン音がぼんやりと思い出せるだけだ。
後日、親に連れられ葬式に参列した。黒一色の大人たちに囲まれながら、俺は子供ながらに香の死を悟った。それと同時に、世の中は不条理に溢れていることも知った。
この日以来、香という光を失い俺は生きる糧を失った。だが、不思議と涙は出てこなかった。
悲しみよりも俺を蝕んでいたのは、人外と自分自身に対する憎悪と激昂だったのだ。
ある日のニュース番組で、この一連の出来事が取り上げられているのを見た。人外による通り魔事件として報道され巷でも話題になったが、しばらくするとよくある事件の一つとして消費され、世間からは忘れ去られていった。
*
和は銃の引き金を引き、目の前の敵性人外にとどめを刺す。鋭い銃声の音が耳をつんざき人外が膝から崩れ落ちたのを見て、意識が現実に引き戻された。
和は倒れ込んだ人外の近くまで行って屈むと、その首元に指先を当てて脈を失ったのを確認した。
「おーい、和〜! 指名手配の人外どうなった?」
背後からの聞き慣れた声に、和は立ち上がって振り返る。
「……理性を失っていて捕獲が難しいと判断した。結果、やむを得ず排除する形になった」
「了解。これで今日の仕事は片付いたね。結菜には僕から報告しておくよ」
そう言いながら無線機を取り出して話し出す蛍を眺めつつ、和はとうにいなくなった妹に思いを馳せる。
香はこんな自分を許してくれるだろうか。小さい頃、怖気づいて身動きがとれず、何もできなかったこんな小心者を。
今となってはその返答を聞くこともできない。だが、政府軍として人外を取り締まり駆逐するたびに、過去の復讐となり香も自分も救われる。和はそう信じて疑わなかった。
了
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