明るいほうへ
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目に浸透していくようだった。
頑張るから、と思った矢先、ボンヤリとした優しい光が私の目であろう場所に広がっていったのだ。お陰で真っ暗だった世界は暖かいオレンジ色に。そして気付けば見た事のない天井が見えた。
「……どこだココ……」
額の上に何か乗っている。久しく感じていなかったそれは冷えピタという奴では無いだろうか。完全にジェル部分が乾ききっているそれは簡単に剥がせた。どれだけ長い時間貼っていたかが分かる。
でも、私はこれを貼った覚えが無い。
と言うかこの天井は私の家の天井じゃない。私の天井の色は"白"で、こんなに温もりのこもった茶色ではない。
なんとか上半身を起こしてみようと力をいれてみれば、筋肉痛かのように節々が痛んだ。そして散々悩まされているこの頭痛。額に貼られている冷えピタ。
……完全に風邪をひいている人間じゃないか。
「病院…でも無いなぁ…」
消毒の嫌な匂いなんて一切なくて、寧ろ何かを煮込んでいるような良い香りがしてくる。微かに開いている窓からはあたたかい光が差していて、こじんまりとした和室に優しさが溢れているような安心感があった。
それでも体に寒気が走り、かけられていた布団に潜り込んだ。
私は一体どうしたのだろう。
風邪をひいて、何処で寝込んでいるのだろう。
「………」
それにしてもこの実家のような落ち着きぶり。
「…………」
喉が痛い。それ以上に頭はまだ痛いけど、起き上がる力はきっと残ってる筈だ。まずここが何処か分かるまで呑気に寝ている場合じゃないぞ私!
やけに腹回りがキツイなと思ったら何とスーツのままで、もう何が何だか分からないけど、極力音を立てないように起き上がって襖にソッと手をかける。
そこにはソファーが二つ、その間に机が一つ、社長デスクが一つ、後はテレビがあって黒電話があって……。まるでどこかの事務所のような雰囲気だが、明かりはついていない。たまたま見えた時計は5時を示していた。
すると奥から食器同士が合わさる音が聞こえて、目が時計から廊下の方へと向けられる。台所でもあるのか、良い匂いもそこから香ってくる。
妙に落ち着く空気にすっかり警戒心を緩めて、誘われる様に足が動いた。
酸素が足りないのか、ボンヤリとした頭で忍び足で歩く。そしたら急に嘔吐感が腹の底から込み上げてきて、思わず壁に寄りかかりずるずると座り込んでしまった。
歩く事もままならない。こんな所でへばってる場合じゃないのに…。
山積みの仕事が家にも職場にもあるのだ。休憩してる暇なんてない。今もこうしてる間にどんどんと仕事が増えていってる筈なのに、風邪なんかにやられて足止めをくらってちゃ情けない。
「(と言うか今日は何月何日の5時なんだろ……仕事は…休みだっけ…?朝に帰って来たんじゃなかったっけ……?)」
そうだ、確か残業してたら終電が無くなって、始発の電車で帰ってきてシャワーだけ浴びて昼出勤しようとか考えてたんだ。
「!!」
なら私がこんな所に居るのはおかしい!
っていうか大変!
む、無断欠勤してしまった…!
血の気が引けば視界も一気にぐらついた。少しでも気を抜けばここ数日ロクなものを食べていなかった胃が限界を迎えて、胃液やら何やらが溢れてしまいそうだ。
見知らぬ場所でそれだけは避けたいと思い、目をつむって深呼吸を繰り返す。
早く何とかしないと…。
でも焦れば焦る程変な汗が滲んできて、どうすれば良いか分からなくなってくる。
どうしよう…!
「…どうしよう……」
「ホントどうしよう、だな」
「ですよね、ホントにどうしましょ……う……?」
いつの間にか会話が成立していた事に驚き、それも聞いた事のある声である事に更に驚き、瞑っていた目を見開きゆっくりと声の方を向く。そこにはいつも私のピンチを助けてくれる坂田さんが居て、もうコレ夢なんじゃないかと思って頬を思いっきり抓った。
「いでででで!!!おま、何で俺の頬をチョイスする訳!?」
「あれ痛くない……やっぱり夢だ…」
「俺は凄い痛いんですけど!!」
私に目線を合わせるかのようにしゃがんでいた坂田さんの手がこっちに伸びてくる。きっと同じように抓られるんだろうなとボンヤリ考えてみれば、それは頬に触れる事はなく額に当てられた。
その瞬間、細く長い息と共に体の力が抜けてしまった。水仕事をしていたのか、坂田さんの手は冷えピタより冷たい。
ずっと堪え続けていた嘔吐感は、彼の手の平から吸い取られたのか、変わりに満ちてきたのは安堵感だった。
坂田さんが目の前に居る。それだけで、物事全てが上手くいきそうな感覚になってしまう。
でも、世の中そんなに都合よく出来てる訳がなく…。
「さ、坂田さん!」
「なに」
両腕を掴んで、まるで彼に縋るようにして「仕事が…!」と言ってしまった。
大人なんだからもっとしっかりと説明ぐらい出来るくせに、頭が働かず子どものように断片的な言葉しか出てこない。
熱のせいか、それとも自分の情けなさか、坂田さんの顔がじわりと歪んでくる。
「仕事が……なに?」
「きょ、今日、無断で欠勤……!」
「…その体調で行く訳?って言うかもう夕方だし」
「っ…!」
そうだ、もう夕方なんだ、今からいったって遅い。
彼を掴んでいた手は力なく床に落ちた。
「……せめて電話をお借りして良いですか…?……ここ…万事屋さんですよね…?」
いつの日だったか、万事屋さんの中へ入る機会があったけれど、シャイ星から生まれた私がそんな大胆な事を出来る筈がなく断った事があった。スクーターの後ろに乗せてもらっただけで充分で、でもちょっと惜しい事しちゃったかなと後悔してたのは内緒だ。
…まさかこんな形で万事屋さんの中に入ると思わなかった。私、もしかして道でぶっ倒れてた所を運良く坂田さんに拾われてここに居るのかな…。
「……電話はこっち」
「あ、ありがとうございます!」
澱みなく立ち上がって歩き出した坂田さんに倣い、私も床に手をつき腰を上げようとする。が、その瞬間に空気が抜けるかのように膝が落ちた。
「(あれ…?)」
「………自分の体調も管理できねーくせに、なぁにが"仕事"だ」
「う……!」
全くもってその通りで、反論出来ない私は彼の鋭い視線が逃げるように顔を背けた。
少し棘のある言い方だったけれど、全くもって彼の言う通りで、反省すればする程また視界が歪む。
「……立てるか」
「……立てます」
壁に手をかけて今度こそ立ち上がる。筋肉痛より遥かに関節が痛んだけど、それより何より電話をする方が先だ。
明かりのついていない部屋で、坂田さんの大きな背中が白く浮かんでいるように見えた。