きたれ春!
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8月を目の前にして、私は宿題に目もくれず剣道ばかりに明け暮れていた。ああ、勉強しなきゃな、と思ったって、朝起きたらまずクラブの準備をして後輩たちと連絡とったり、全てが剣道に関わる事ばかり、母も口うるさく「勉強しなさい」と言わないようになった。それどころか、応援してくれるようにもなった。この夏の大会が終わるまで頑張りなさい、ハルが好きで入ったクラブだもんね。蒸し暑い夜に、母は言ってくれたのだ。やけに優しい笑みに私は思わず涙ぐんで、居間のソファーに座りながらクッションに顔をうずめて、テレビから聞こえる笑い声に鼻をすする音を紛らわせた。やれるだけ頑張って。そう言ってくれた母の為にも私は頑張ろうと思うのだ。
頑張ろう。
全国大会がどれだけレベルが高くて、それ以前に地区大会で何人もの強敵が居るのはよく分かっている。でも、クラブに行く事を快く許してくれた母の為にも、私はまだ学校の剣道場に入り浸っていた。
「お疲れ様でした!!!」
威勢の良い声にハッと我に返った。
「夏目先輩お疲れ様でーす」
「あ、お、お疲れ…」
まるで家に居るような感覚だったけど、実際に居るのは剣道場で、クラブが終わったばかりであった。頭がぼーっとするのは、面越しに叩かれすぎたのかそれとも夏バテか、どちらにしろ疲れがたまっているのかもしれない。
妙に心あらずの私を見かねて、大丈夫か、と土方君が声をかけてくれた。しんどい訳ではないので、大丈夫だよありがとうと言ってから暑い剣道場を出た。その後を、総ちゃんが追ってきてくれた。
剣道着のまま道場を出て、いつも休憩場所に選んでいる体育館の裏にまでやってきた。コンクリートが冷たくて気持ちよくて、私と総ちゃんは同時に腰を下ろした。数秒沈黙が流れて、総ちゃんは口を開いた。
「今日も銀八のやろー来てくれやしたねィ」
「うん、びっくりした」
「…ちゃんと集中してやしたかィ?」
「それはそれ、これはこれ、あれはあれ!区別ぐらい付けられるよ!」
「はあ、それなら良いんですけどねィ」
ライト走れー、という声がグラウンドから聞こえる。何故かここに来るといつも野球部の掛け声が聞こえてくる。けれど夏休み前と今とで違うのは、その掛け声が何だか若々しく思えてしまう事。3年生がほぼクラブに来ていないからだ。甲子園を目指し予選に臨んだけれど、悔しくも3回戦で負けてしまった我が野球部3年は、それで引退という決まりがある。勿論来てはいけないって訳じゃない。まだまだ来てくれている3年も居るし、1・2年だけで盛り上げてる様でもない。
「……」
「…ハル?どうかしやしたかィ?」
そんな野球部を見ていると、私何してんだろう、という気分になってくる。それは数日前の、彼等の予選が終わってから感じていた。クラブが邪魔だと言ってる訳じゃない。と言うか邪魔だと言える程勉強をした覚えは無い。今は地区大会で勝ち抜くという確かな目標があるのに、何でこうモヤモヤとした気持ちが生まれるのだろうか?
「野球部のみんなは勉強してんのかなぁ…」
たまたま近くにあったバドミントンのシャトルの羽を整えながら私は思わず口にする。嫌だな、弱音みたいだ。ぶち、と音を立てて羽が少し抜けてしまった。それを日向に向かって投げてみる。不安定に回転しながら、それは全然飛んではいかなかった。不恰好に風にふかれ、草むらへと流されてしまった。
「野球部の主将知ってるかィ?」
「うん。小学校確か一緒だった子だよね」
「そいつは医学部を受けるらしいぜィ」
「すごっ!?この学校から医学部を目指すんだ!?」
「まぁ無理な話では無いですからねィ」
「凄いなぁー…」
夢が全く無い私じゃないけれど、どの学科が良いかなんて深く考えた事は無かった。怠けてるな私。そうやってすぐに自分の非を見つけれるのに、どうして考えるだけで終わらせるのか。そういう私は大嫌いだ。
「……総ちゃんはどの学校に行くか決めた?」
「まあねィ。でも取り合えず地区大会に勝たねぇと」
「だよねー明後日だよねー」
「なぁんか気分がのらねぇんだよなァ…」
「それ私もです」
「夏バテかな…」
「それ私もです」
二人そろってウダウダと、クラブが終わったからと言って気が抜けすぎだろうか?夏バテのせいにして、土方君にスポーツ飲料をおごってもらいたい。
さっきのシャトルみたいに、不安定ながらでも、一瞬でも良いから飛べれば良い。結果がどうであれ、その一瞬に全てをつぎ込める環境があるのが幸せだというのはよく分かっている。何よりその環境が今の私にはあるじゃないか。揃えてくれる人たちが居るじゃないか。こうやって休憩に付き合ってくれる総ちゃんとか、稽古を一生懸命見てくれる近藤君や土方君とか、怪我の具合を心配してくれる山崎君とか、励ましてくれる後輩たちや、試合練習をしてくれる坂田先生…。あぁ、言い出したらキリが無い。なんて私は幸せ者なんだろう。あの時、洗い物をしながら、頑張れ、と言ってくれた母。愛されてる事が分かって、本当に泣きそうになったんだ。バラエティー番組を見て、半ば無理矢理笑って、そして誓った。まだ泣かないでおこう。
”お母さん、…。”
台所に居る母を小声で呼んでみれば、手についている水を拭いて振り返ってくれた。
”なぁに?”
また優しそうな笑顔に、私は少なからず思った。あと少しだけ、頑張らせて。「何でもない」と言った私に、母は少しだけ笑っていた。
笑っても泣いても明後日が最後になるかもしれねぇ。総ちゃんがそう言った。最後?そう聞き返すと総ちゃんは頷いた。
「明後日でまぁ俺達のクラブの行く末が決まるだろ?負けたら終わりでさァ」
「ま…負けとか言わないでよ」
「試合なんてどうなるか分かったもんじゃねーからなあ…。強い奴が負ける事もあらァ」
「まぁそうですけども…」
そうか、明後日が過ぎれば後は何も残らないかもしれないのか。剣道場に毎日稽古に来る事も、宿題も勉強にも触れずに竹刀ばかりを握る事も。そんな簡単な事、みんなよく分かっているだろう。私、何か格好悪いな…。言葉にはしなかったけど、ため息をついてみる。ハルらしくねぇなぁ、と総ちゃんは笑って立ち上がった。その手にはシャトルが握られてあった。それはさっき私が飛ばしたシャトルより、もっと傷んだものだった。
「腹減ったな…。昼飯食いにいこうぜィ」
言いながら飛ばしたシャトルは、上手く風にのって、学校の一部分を囲んでいる緑のネットに引っ掛かった。
「……あんな遠くの高い所に引っ掛かっちゃって……誰も取れないよ?」
「ま、いんじゃね?」
総ちゃんは座りっぱなしの私の腕をぐいと持ち上げた。立てという意味なのか、私はその通りにした。
「よし!近藤さんと土方さんに飯おごってもらいやしょう!」
「お好み焼きが良いなー、でも中華も捨てきれないなー」
おーい帰るぞー、と近藤君の声が聞こえた。どうやら私たちを待ってくれているようで、まだ剣道着である事に気がついた私たちは急いで体育館の角を曲がった。「昼飯食いに行きやしょー!」と言いながら走る総ちゃんの後ろで、私は一度だけ後ろを振り返った。私の飛ばしたシャトルは分からないけど、総ちゃんが飛ばしたシャトルはまぁ見事にネットに引っ掛かっている。泣いても笑っても明後日が最後になるかもしれない。その言葉を噛み締めた瞬間に、剣道場に貼ってあるあの張り紙を思い出した。立派な字で書かれてあったあの紙…。あれに飛び込んで行ったのは私からだ。後悔しないよう、不恰好ながらにも私はまだ飛んでいく。
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