きみがわらうとうれしくなる(5)
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たった1回の願い、と言われて思わずハッとなった。彼女には、銀八に対してそれ程強く願う事など何も無いのだ。
「(あら、今度は黙りこくっちゃったわ……)」
思案顔で腕を組む娘を横で見ながら、母親は冗談交じりで笑顔でこう言った。
「デートの申し込みをしてみたら?」
その瞬間、彼女の足先から頭のてっぺんまで一気に熱が込み上がり、今にも湯気が出そうなぐらい頬が真っ赤になってしまった。
「無い無い無い!!!それは無い!絶対無い!うん!無い!」
なら何でそんなに真っ赤になるんだ、と離れた所で父親が怪訝そうに見ているとも知らず彼女は「無い無い!」と叫んでいる。寧ろ自分に言い聞かせているように見えた。
これは地雷を踏んでしまったかも、と母親は曖昧な笑顔だけを浮かべて真っ赤になった彼女を見ていた。
**********
便利券をもらって数日後、劇の方は練習というよりもリハーサルに近い形になり、そろそろ本番が迫っている事を示していた。廊下にも飾りがチラホラと見え始め、家庭科室からは食べ物を提供するクラスが試作品を作っているのか、食べ物の匂いが風にのって職員室に届く様になった。何度か銀八はその試作品を「味見」と称しタダで貰った事があった。
今も3Zの教室までソースの良い香りがするのだが、銀八はどうにも食べに行く気にならない。
狭い教室内で練習をしている教え子達をボンヤリ見ながら、たまに霞む目を右手で擦る。気のせいでなければ軽い眩暈もある。眼鏡の度が合わなくなったのだろうか、と少し汚れかけのレンズを白衣の袖で拭いてみた。
その時、赤い頭巾を被った夏目が近寄ってくる。
「先生、今日の放課後の練習なんですけど、視聴覚室は空いてますか?」
「ん?あー、確認してみるわ」
「ありがとうございます!……そんなに眼鏡を見てどうしたんです」
「いや、また視力が落ちたかなーって…」
「先生のそれ伊達ですよね…?」
「伊達の時もあるけど、度が入ってるのも持ってんだよ」
「へぇ……」
思わぬ新事実に赤ずきんの顔が心なしか輝いていた。それでも霞み目には生憎その顔は見えなかった。
「…先生?大丈夫ですか?」
「?何が」
「…顔色悪くないですか?」
「気のせいだろ」
「そうだと良いですけど…ホントに大丈夫ですか…?」
あまり納得はしていなかったが、お大事に、と言い残してみんなの輪の中へ戻っていく。
6時間目が終わるまで後20分。それまでに視聴覚室が使えるかどうかの確認を職員室でしておかなければならない。時間としては十分あるが、どうにも体が重くて仕方なかった。食欲を刺激してくるソースの香りでさえ今は胃が完全に拒否をしている。
騒ぎながらも練習している教え子達の声が頭痛を増幅させてくるばかり。風邪だろうか、と重い足取で教室を出ようとすれば「先生」と控えめに声をかけられる。
振り返った先には心配そうに銀八を見ている赤ずきんの姿があった。
心底相手を心配しているかの様な表情が、眼鏡越しなら少し雲って見えた。やはりレンズが汚れているらしい。
「やっぱり顔色があんまり良くないですよ…」
「只の糖分切れですぅー。子どもに心配してもらう程じゃありませぇーん」
わざとらしくニヤニヤ言ってみれば、彼女は眉を顰めて口をへの字に曲げる。
「む、人がせっかく心配してるのに」
「はいはい、どうも。ちょっと職員室行って糖分補給してくるわ、それまで眼鏡預かっててくれ。なんか酔った」
「自分の眼鏡に酔うってどういう事ですか…」
呆れつつも小さく笑う彼女の顔に眼鏡をかけて欠伸を一つこぼしながら教室を出た。
廊下の窓から吹き込む秋の風が程好く気持ち良いが、気分はあまり優れない。眼鏡を取って耳と鼻は小さな圧迫から解放されて楽になったのに、頭全体はまだ完全復活といかなかった。額を触っても熱はない。一時すれば治るだろうと思い込み、職員室の自分のデスクに深く座る。
通りかかった職員達に「眼鏡はどうしたんです?」と尋ねられ「赤ずきんに預けました」と答えれば「ああ、夏目さんね」と笑われた。中には教科担任でない職員も居るというのに、赤ずきん=夏目という等式があるのが何とも不思議だった。
見た目は大人しいように見える彼女だが、やはりそこはZ組ブランドがしっかりと貼り付いている。授業中での珍回答は職員室では有名だし、男子生徒にも退けを取らない正義感故の真っ直ぐさは時に教師をハラハラさせる。
掃除の時間中にボクシング部と言い争いをしていた時は、当時担任では無かったがたまたま廊下を通りかかった銀八と教科担任だった服部が止めた様な気がする。1年女子なのに大した根性だ、と怒る気にもなれず変に感心したのを今でも覚えている。
あの時はまだ髪が長かった様な気がする。二つくくりの髪が、彼女が口を開く度にゆらゆらと揺れていた。ガタイの良いボクシング部にあれ程勇ましく意見するにはそれなりに度胸が要る筈なのに、彼女はそれを平然とする。その男子生徒が手を上げるとは思っていないが、心配してしまうのも仕方ない。銀八と服部から見れば、小動物が猛獣にキャンキャン吠えている様にしか見えなかった。
その女性徒をまさか3年になって担任をするとは思ってもみなかった。
まだ中学生らしさを捨てきれていなかったあの長い髪が今は少し懐かしい。幼く見えてしまうが、尻尾みたいに揺れるあの髪は彼女によく似合っていたし、下手に厚化粧をする生徒よりよっぽど可愛かった。
「(ってコラコラコラ……)」
少し眠ってしまっていたのだろうか。ボンヤリとした頭を起こす様に掻いた。"可愛かった"等、思ってはいけないだろうと少し反省もした。
そろそろ教室に戻らないと、と立ち上がり、耳に手をかける。しかしそこには眼鏡も何もかかっていない。
「あぁ、そうか、夏目か…」
寝起きのせいでフラフラするのか、体調が悪いせいなのか今一はっきりしない。だが家庭科室から匂う甘い香りを今は「気持ち悪い」と感じてしまうあたり末期だという事は分かった。これは真剣に宜しくないな、と思わず階段の踊り場で壁にもたれかかる。
「あー……気持ち悪ぃー……」
目が霞むのは眼鏡のせいでない事がようやく分かった。大丈夫ですか、と彼女に聞かれた時に素直に大丈夫じゃないですと答えておけば良かったと後悔しても、もう遅い。
「って何だこれ。寝ても覚めても夏目の事ばっかじゃねぇか」
いつもなら悪い冗談だと自分の事を笑ってやる事も出来るが、冷や汗まで出てきてしまった今、とにかく教室に戻るのにいっぱいいっぱいだった。
いつもは難なく上る階段を何とか上りきって、生徒の声で溢れる3年の学年の廊下までようやく辿り着いた。それぞれの教室から賑やかな声が聞こえるが、どれもZ組の賑やかさには敵わない。あの教室にはベッドも何も無いが、いつもは五月蝿くて仕方ない賑やかな教え子の声を聞けば気分不良も治る気がした。
すれ違う生徒数人に大丈夫ですかと声をかけられ、曖昧な笑みだけを返しておいた。
違う、この声じゃない、と否定的な自分に驚きながらも足を進める。
今じゃすっかり気まずさを感じさせない彼女の態度に銀八は随分救われた。自分ばかりが大人だという考えは改めて、何の計算もなく他人を心配してくれる彼女の方がよっぽど出来た人間の様な気がしてならない。
「…………気持ち悪ぃ…」
とにかく今は教室に戻るのが先決だと、出来るだけ頭を空っぽにして歩く。
すると、ざわついている廊下の音に混じって聞こえる彼女の声。
「これ美味しいの?」
「食ってみ」
「絶対おかしいって!シュークリームはこんな色してないもん!中に絶対変なの入ってるし!」
「失礼な奴だなお前」
Z組の教室の前で「絶対ロシアンルーレットだ!」と叫んでいるのは間違いなく夏目だった。トレードマークの赤い頭巾が、ぼんやりとした視界の中でもはっきりと見える。
トレイに乗せられているのは小さなシュークリームだろうか。恐らく、食品提供クラスがふざけて作って持ってきたのだろう。
どれが一番美味しいの、と聞く彼女に対し、全部美味いから、と笑っているのは見覚えのある男子生徒。
勘違いでなければ1年の時にぶつかっていた二人ではないだろうか。
あの喧嘩を機に意気投合でもしたのか?
まあ、それはどうでも良い。
糖分の宝シュークリームにクリーム以外をいれるなんて何と無礼な。
糖分なら俺に寄越せっての。
あ、でも今食べたら絶対吐くな、ロシアンルーレット的な意味じゃなくて。
あー、夏目、お前カラいもの苦手なんだから興味本位で食うなよ痛い目見るぞ。
って言うかお前等いつの間にそんなに仲良くなった訳?
そもそもあの喧嘩は何が理由だったんだっけか?
こら、そんな警戒心の無い顔はしてはいけまセン。
男はみんな狼だ、って言った事がある様な無い様な。
お前も、そいつに構ってないで家庭科室に戻れっての。
ウチの赤ずきんはこう見えて忙しいんだよ。
あ、視聴覚室が空いてるかどうか見てくるの忘れた。
駄目だ駄目だ、やっぱ気持ち悪ぃ。
極力考え事をしない様に歩いていたのに、一気に沢山の事が頭に入ってきて、今日一番の頭痛と眩暈に端整な顔が思わず歪んだ。自分が立っているのか座っているのかどうかも最早分からない。
「あ、せんせ……―――」
銀八が帰って来た事に気付いた赤ずきんの声と、チャイムが重なって聞こえたのは分かる。それ以外は、本当に自分自身の状態がよく分からない。
わ、ちょ、先生!どうしたんです!みんな!先生が大変!保健室に運ばないと!ど、どうしよう!先生死なないで!あ、黒飴!黒飴食べたら元気になりますから!!わー、黒飴がもうないー!神楽!さっきあげた黒飴返して!んでもって先生にあげて!先生もそれ食べて復活して下さい!死なないで先生!!
黒飴にホイミ効果はありません、と突っ込みたかったがそれは生憎言葉としては出なくて、耳元で聞こえる赤ずきんの焦りの入った声を聞きながら、押し寄せる睡魔に似た何かに負けて銀八は意識を手放した。
