カウントダウン(5)
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気がついたら先生が見えた廊下まで駆け足で向かっていた。ゴミ袋はまるで重さを感じなくて、寧ろ持ってないんじゃないか、というぐらい軽くて、私はアッサリと先生の背に追いつく事が出来た。
そこは先生の笑顔に違和感を持った時と同じように、少し薄暗くて誰も居ない廊下だった。せんせい、と変に冷静な自分の声に驚きながらも、少し乱れた呼吸をなんとか戻そうと喉元にたまっている唾を飲み込んだ。真っ直ぐに先生を見据えれば、ゆっくりと振り返ってくれた。
「夏目…」
「……せんせいっ!」
何でだろ、論文を見てもらってたオレンジ色に包まれた教室とは違って、今じゃ情けない声しか出ない。「先生」って呼ぶだけなのに、あの時は幸せに浸って弾んだ声で呼べたのに、今の声はすぐに足元に落ちてしまう程重苦しく、それからやっぱり情けない。泣きたい訳じゃない。決して泣こうとは思ってないのに、どことなく声が震えているのが自分で分かった。
「先生、私、明日…っ」
「あ、あぁ、明日は…そうか、そうだたったな……」
まるで今思い出したかのような口ぶりに、今までにないぐらい胸がズキンと痛んだ。何かの病気ではないか、というぐらい痛んで、すぐにでも泣いてしまいたいぐらいツライ波が涙腺を襲う。
ようやく目は合ったけど、合わさなきゃ良かった声なんか掛けなきゃ良かった、という気持ちも同時にわいた。もう本格的に訳が分からない。18歳の私の頭じゃ何を考えても分からない。
「頑張れよ、夏目」
先生の目元が細められて、口角が仄かに上がる。
待ちわびた言葉がようやくかけられた瞬間だ。だと言うのに先生はまたあの何かを隠したような笑みで笑う。何だ、何だというのだ。折角の言葉なのに私の気持ちは一向に弾まない。重い何かをまた胸の内に残していくだけだ。
「……何でそんな風に言うんですか…」
「…夏目…?」
「そんな風に言われてもちっとも嬉しくないですよ先生…」
これなら、いつもみたいにヘラヘラ笑ってくれる方が全然良かった。
「面接の練習なんか一回もしてくれなかったですし…」
これは私の只のいじけだけど、言ってしまったからには仕方ない。ここ数日たまっていたモヤモヤが徐々に気管を通り外へ出ていこうとする。止める方法を、私は生憎知らなかった。
「そりゃ論文とか?願書の書き方とか?面接の礼儀とか?たっくさんの事を教えてもらいましたけども!ここ数日の先生ってばなんなんですか!皆は気付いてないと思うけど、明らか分かるんですよ!あぁ私の事避けてるなぁ、って!」
「……なんで、そんな事分か…――」
「分かりますよそりゃ避けられてる本人ですから!」
こんな事を自分で言うのはなんとも悲しい。でもそんなのを考えれる程頭に余裕はなかった。ただ、先生が私を避ける理由を知りたいと思ってしまった。先生を目の前にすると、やっぱり避けられているという事実は悲しい。聞いちゃ駄目だと心のどこかで思っていても…。
「それにやっぱり…!」
(先生は知らないんだよ)
「私は…!」
(私が、どれだけ先生の事が好きか、先生は知らないんだよ)
気がつけば視線は先生を追ってたり、褒められようと良い点数を取ってみたり、その気持ちの大きさを先生は知らない。
私は、先生が好きだから、やっぱりそういうのはよく分かるよ。
思わず口に出してしまいそうな想いだった。勢いっていうのは本当に恐ろしい。アルコールの力を借りて言うのってこんな感じなのかな。大人になれば何でもアルコールの力を借りる事が出来るのか。でも私はまだ高校生な訳で、そんなものに力を借りる事は出来ない。こんな風に抑えられない我が侭や甘えと一緒に言ってしまうしかないのだ。
そんな私の想いを止めたのは、先生のたった一言だった。
「何で俺なんだ」
頭が、一気に冷える。"何で俺なんだ"?冬がやって来たか、足が凍って動かない。
幾ら馬鹿な私でも、まだアルコールが飲めない私でも、その一言で充分だった。
「(嗚呼、そうか、そうだったのか…)」
先生がまさかこんな苦しげに顔を歪める日がこようとは。もしかして私、とんでもない事しちゃってますよね?いや、とんでもない事言われたのか?もう訳が分からん。
私の手から滑り落ちたゴミ袋が、どさ、と音を立てる。先生は一瞬我に返ったかのように目を見開かせた。先生も勢いにまかせて言ってしまった言葉なのだろうか?ならそれは、"本音"として受け取るしかない。
何で俺なんだ、か…。ホントにね、何で先生だったんだろうね。
「…ごめんなさい、先生」
くしゃりと顔を崩して精一杯の笑顔を作る。泣くな泣くな泣くな、と暗示をかけるように心中呟いてみる。
「夏目」
「あはは、ホント私ってば先生を困らせてばっかりですねぇ」
何かを言いかけた先生の言葉を遮って自分の気持ちを言った。下手な慰めなんかもらってしまえば、また泣きそうになってしまうじゃないですか。
「それじゃあ先生、私明日頑張ってきますから!あっ、安心して下さい!公欠届けはちゃんと出してますからっ」
もう笑えてんだか泣きそうなんだか混乱した表情のまま言い続けた。後はもう言う事なんかないぞ。どんな形であれ先生に「頑張れ」と言ってもらえた。これ以上の我が侭を願っては天罰が下る。ましてや先生の本音が聞けた、それは勢いの事故であれ、凄い事だ。例え結果が痛く胸を刺したとしても。
履きなれた上履きを強く踏んで、先生に背を向けて走り出していた。最後に見た先生の顔は、やはり苦しげに顔をゆがめている。
あ、ゴミ袋置きっぱなしだ。
「(……もう良いや、何でも…)」
泣きはらした後でもないのに、心は妙に軽かった。あぁ、終わったぞ、後は、そうだな、面接を頑張るだけか、あはは。
すっかり生徒の居なくなった校舎を走り、Z組の教室まで走り続けた。散々傷みつけられているドアを労う気もなく強く開け、また強く閉めて、それに背を預けて呼吸を整える。
「夏目?」
まさかまだ人が残っているとは露知らず、バンッ、という大きな開閉の音に驚いた声音で私を呼ぶ声が聞こえた。驚いたのはコッチだ。