カウントダウン(5)
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
**********
「ワリ、やらなきゃいけねー事があるんだわ。他に代役立ててやっから。」
そう言った俺を、アイツは何の疑問を抱く筈もなく笑顔で「じゃあまた今度お願いします」と言ってきた。その屈託のない笑顔に大人の俺の胸が痛む。ゴメンな、と言って笑ってはみたものの、自然に笑えていただろうか?
剣道部の合宿に行っていた時の俺は特に考え無しで、いやもう本当に考え無しで、普通に"教師と生徒"として接してた……と思う。
本当に、何処から間違えたんだか今じゃ見当もつかない。アイツは元々表情がよく変わる奴だ。怒ったり笑ったり、誰の前でも自然体で接する事が出来る俺の教え子。
その態度の真意に気付いてしまった俺が駄目だったのか。
きっと今まで何度も気付くキッカケはあっただろう。そういう時ってのは変に勘が良くなるってもんだ。でも何とか"勘違いに決まってる"と勝手に思い込んで、わざと見ないように蓋をしはじめたのはあの時からだ。アイツが、夏目がようやく自分の行きたい学校を話してくれたときの事だ。からかい甲斐のある奴だから、その時もわざとからかってみた。いつものノリで、本当に何気なく。そしたら返って来た答えは衝撃以外の何者でもなくて、困った事に、その時から只の勘違いは確信へと変わりつつあった。
それからの数日間、いや、数週間?俺は夏目の入試まで、放課後は付きっきりで手伝ってやる事が増えた。論文や願書の書き方、面接会場での礼儀作法…何度も繰り返し勉強して覚えようとする夏目を俺は純粋に応援していた。言葉に出して励ますような柄じゃねーし、あまりに励まし過ぎてプレッシャーで潰れられるとそれはそれで困る。だから力ませすぎず、何とも難しい力の入れ具合でサポートしてたつもりが、アイツは色々とやらかしてくれた。論文を提出するのを忘れそうになるは、しかも自転車がパンクして郵便局に間に合わないだとか、俺が居なかったらどうなっていた事か…。
論文が完成するまでの数日間、夕陽に照らされる教室で、俺は何を話すでもなくその場に居た。それは教員として。何も楽しい事などない、堅苦しい論文を書いて、その中で間違いを指摘して書き直させて…学生に取ったら楽しい事など一つもないのだ。それなのに夏目はいつも笑っていた。先生、と呼んで、笑っていたのだ。
自転車の後ろに乗せた時の仄かな重み。ペダルを踏みながらそれを噛み締めて、郵便局に間に合った時はホント夏目より俺の方が達成感に溢れていたように思う。到着次第すぐに行かせて、数分したら中から出てきて、俺の姿を見るや否や笑顔で親指を立てていた。あの晴れ晴れしい笑顔を見れば、「しっかりしろ!」と怒る筈だった俺の気力も何故だか削がれた。ありがとう先生、と言いながら笑うアイツを「仕方ねぇなぁ」と許す事が出来た。胸には確かな違和感を感じながら。
夏目が俺にかけてくれる言葉の一つ一つに、他の奴等とは少し違う意味を含んでいるのではないかと、気付いてしまった。
そして俺は、その違和感をようやく確信へと変えた。あの日たまたま見えた図書室の窓際で寝ているアイツを見かけた時、足が急にピタリと止まった。行ってはいけない、と膨らみはじめた確信が止めたのだ。今までは半信半疑だったものの、夏目と俺は生徒と教員として接する事が出来た。しかし心のどこかで気付いてしまった以上、それから夏目という生徒に踏み込んでいくのは如何なものかと大人の俺は言う。
勘が良いっていうのは本当に困る。気付いたからには、俺はもう、夏目と何を話せば良いかさえ分からなかった。いつもの様にふざけて話せば良いのだという事も分かる。話題がつきたって、元・剣道部なのだから部活の話できっと場は繋げる。けれど俺にとって事態はそう簡単なものじゃない。そんじゃそこらの教科担任に比べりゃ、俺の方が夏目の事を断然知っている。そんなのは当たり前だ、俺はアイツの担任なのだ。そんな俺が言える事は、夏目も変に空気が読めるタイプだから、きっと俺が自分の想いに気付いている事を薄々理解してくるだろう。そうなってしまえば入試はどうなる。今のアイツにはなるだけ不安要素など与えたくない。頑張って面接練習して、その成果を本番で存分に発揮できれば言う事なしだ。
「ゴメンな、やる事があんだよ」
そのクセ、俺はアイツを避けた。ちゃんと俺が空いている時間を見計らって頼みに来てくれたというのに、その時の俺は特に用事など無かったというのに…。
誰一人居ない廊下のど真ん中、向かい合うように立っていた夏目の顔が少しだけ凍りついたのを見たような気がする。きっと俺はちゃんと笑えなかったのだろう。だから、夏目も薄々気付いてしまったのだ。コイツは何かを隠しているぞ、と。それから踵を返して歩き出した俺の背に、夏目は呆然と視線を投げかけていたような気がする。アイツはどこまでも純粋な生徒だ。それは長所だと思う。でもその時ばかりは、その純粋が刺さって心が痛む。どうすれば良いか分からない俺は、そうやって去る事しか出来ないのだ。
それでも夏目は、俺の授業中は決して寝なかった。睡眠魔である沖田とは違い、真面目にシャーペンを走らせる姿は理想の生徒像そのもの。否定する所など一つもない。只そんな姿に目を合わせられなかったのは、俺が只、どんな顔をしてアイツを見れば良いか分からなかっただけだ。かっこ悪いったらありゃしねぇ。
ホント俺は大馬鹿で、でもそれ以上に…――。
「せんせい」
その一言で歩いていた足がピタリと止まる。それはそう、あの渡り廊下の出来事のように。
ゆっくりと振り返った先には、ゴミ袋を持った夏目が俺を真っ直ぐ見据えていた。