ゆびきった!
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私が生まれたのは、江戸とは比べ物にならないくらい田舎の町でした。
それでも活気付いていて、生活するにあたって不自由な点を敢えて述べるとするなら、外灯が無いので夜道にたまに田んぼにはまってしまう事ぐらいでした。
鳥目な私は出稽古での帰り道、しょっちゅうと言って良い程田んぼにはまり剣道着を泥だらけにしては「どんくさいなぁ」とお兄ちゃんに笑われていました。
寺子屋で試験の点数が悪くたって、お兄ちゃんは「次頑張れば良いよ」と慰めてくれました。
試合で負けて悔し泣きした時は「相手の努力の方が上だったんだな」と私の足りなかった所を優しく教えてくれました。
両親の命日には、手を繋いでお墓まで一緒に行って、墓石の前で「糸は良い子で毎日頑張ってるよ」と報告してくれていました。
男の子と喧嘩して帰ってくれば、勝っても負けても「怪我を作ったら駄目だぞ」と苦笑いで傷の手当をしてくれたりしました。
稽古中は厳しくて、何度も泣きそうになった事があったけど「女だからって退けを取るな、その瞬間が"負け"なんだ」と、諦めてはいけない大切さを教えてくれました。
お兄ちゃんは、いつの間にか私の生活の中心に立っていました。
私が18歳の時、お兄ちゃんは江戸で"用心棒"という危険な仕事に就きました。
それが嫌で嫌でたまらなくて、見送る当日、私は駅で泣きじゃくりました。
ごめんな、とお兄ちゃんは困ったように笑って、私の頭を優しく撫でてから予定より一本後の電車に乗って行ってしまいました。
江戸に働きに出かけたのが、私の為であったという事を、私は18になっていながらも分かりませんでした。
謝らせてしまったお兄ちゃんの面影を、広くなった家で探す毎日が続きました。
泣いて泣いて、朝は目が真っ赤に腫れる日も少なくありませんでした。
私には、お兄ちゃんしか居なかったんです。
田舎から出た事のない小娘にとって、お兄ちゃんと過ごす毎日だけが世界の全てでした。
それでもクヨクヨしてはいけない、と持ち前の根性を発揮し、お兄ちゃんが江戸に行って一年ぐらい経った後に、会う機会がようやく出来ました。
電話越しのお兄ちゃんの久しぶりの声は、とても優しかった。
涙が出そうなぐらい嬉しくて、私はお兄ちゃんと沢山話をしました。御飯の美味しいお店につれて行って欲しい、ターミナルを案内して欲しい、お兄ちゃんが借りてる部屋でゆっくりしたい。止まらない我が侭の一つ一つに、分かった、とお兄ちゃんは笑って答えてくれました。
出来るだけ荷物を少なめに、当日、私はあまりにも嬉しくて、一本前の電車に乗って江戸を目指しました。
流れる景色に目をやりながら、この一年間お互いにどんな生活をしてきたか話そうと考えていました。
御飯も、洗濯も、掃除も、稽古も、全部頑張ってきたんだよお兄ちゃん。
よく頑張ったな、糸。
きっとそう褒めてくれるだろうと思った。
出来る事なら江戸で一緒に暮らしたいと思った。駄々をこねたらお兄ちゃんなら許してくれると思った。なら嘘泣きをしてでも良いから頼んでみよう、そう思って、酷く幸せな移動時間を噛み締めながら江戸に向かいました。
例え到着予定時間より早く着いても、お兄ちゃんなら一本前ぐらいの時間から待ってくれていると思いました。その予感はあたって、人の多い江戸の駅前で、私はずっとずっと会いたかった人物の姿を人混みの中に見つけました。
話したい事をずっと頭に思い描いていたのに、姿を見つけた途端全て吹き飛ぶくらい再会が嬉しかった。
お兄ちゃん!
そう呼んでみたけど声は届かなくて、お兄ちゃんは呑気に欠伸をして私を待っててくれていました。
刀を2本さしていて、立派にお仕事をしているであろうその姿は純粋に格好良いと思えました。自慢のお兄ちゃんだと、改めて思いました。
慣れない可愛い下駄をはいて、少し長くなった髪も綺麗に梳いて、ちょっとだけおめかしした私を見てお兄ちゃんはどう思うだろう。可愛くなったな、と言って撫でてくれたら嬉しい。あのね、私色々頑張ったんだよお兄ちゃん。
まさか私が一本早く着いているとは思っていないのか、お兄ちゃんは只その場所に立ってもうすぐで来るであろう私をずっと待っててくれていました。
後少しで声が届く。
そんな距離に入った時の事でした。
悲鳴が遠くから聞こえて、お兄ちゃんの目つきがすぐに変わって、風のように抵抗なく人混みの間をすり抜けてその場所へ向かい出しました。
勿論私も追って、でもお兄ちゃんみたいに上手くすり抜けられなくて、四苦八苦しながらも抜け出すと、お兄ちゃんは私が見た事も話した事もないお侍さんに斬られた場面を、この目ではっきり見てしまいました。
心が、割れる音が確かに聞こえました。
お兄ちゃんは優しくて、いつも私を守ってくれました。
私にとって無くてはならない人間で、お兄ちゃんが頑張っているから私も頑張れました。
仲の良い兄妹だねぇ、と周りから言われると嬉しくて、ずっといつまでも仲の良い兄妹でいようと思っていました。
それなのに、呆気なく終わった未来図を前に、只崩れるしかありませんでした。
描いていた何もかもが塗りつぶされて、どこへ行けば良いかも分からず、私は日常を拒絶しました。
お兄ちゃんの居ない世界なんて、生きていたって仕方ないのです。
耳を塞いで、目を瞑って、口を閉じて、周りの何もかもから逃げれば、私を待っているものは一体何なのか。
息を止めれば、きっとお兄ちゃんに会える。
私はひとまず血縁関係者という事で、お兄ちゃんが働いていた幕府という組織に身柄を置かれていました。
この先どうなるのか、全く分からなくて、こじんまりとしたお兄ちゃんのお葬式が終わって、小さな木箱に骨が納まって、それから、それから……。
1年振りにようやく出会えたお兄ちゃんは、軽くて脆い骨になって、私1人が悠々と運べるまでになってしまいました。
明日が分からなくて、本当にどうやって生きれば良いのか分からなくて、泣く事も出来ないままお兄ちゃんとの思い出に浸っていれば、たった一人声をかけてくれる人が現れました。
その人は近藤と名乗って、お兄ちゃんの知り合いだと言った。
正直、知り合いだとか何だとかどうでも良かった。
だからどうした、と私は思いました。
近藤と名乗った男の人は、ウチに来ないか、と突然言い出した。訳が分からなかった。
真撰組という組織に、私を呼んだのです。
声をかけられた瞬間から、私は真撰組隊士の緋村糸となったのです。
未来の私へ、貴女は今、どうやって生きているでしょうか。