夜に爪をたてた
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光の隙間が無い暗闇だと言うのに、自分の制服から香る鉄の匂いに顔を軽く歪めた。捕り物を終えてようやく屯所に戻ってこれたのに、廊下の灯りの下で確認できた自分の出で立ちにため息が出る。風呂入ってようやく眠れる、と思っていたが、これでは眠る気が無くなってくる。さっきまでは集中して刀を振るっていたせいか、音も映像も全てが入ってきていなくて、只感覚的に動き時間を過ごしていたような気がする。つまりは頭で考えずに、向かってきた敵は本能で斬り倒す、というヤツだ。殺した人数はいざ知れず、自分は腕にかすり傷一つだけなのだから出来としては土方さんも満足するだろう。
闇の中では分からなかったが、あの人も多分血みどろだから役人に引継ぎが終わったらすぐに帰ってきて風呂に直行に違いない。お湯に少しでも血が滲む前に自分が一番乗りしてやろう。そう思いフとあいつの部屋の前を通った。一番隊隊員として今回の捕り物に参加していたのだ。腕は中々、負けん気が一際強い女である。攘夷志士がたまっているという通報を受け向かった先は一件の旅籠だった。二階の一室だけ微かな光が灯っているのは下から確認できた。みなが路地裏からそれを眺め、突撃の合図が来るまで息を潜める。
"早く終われば良いですね"
俺の隣に居たそいつは少し笑った。俺は横目でチラリ、そうだな、とだけ返しておいた。灯りが一つも無い路地裏で、そいつの笑みはどうにも綺麗すぎて仕方なかった。容姿的にではなく、それはそいつの内面から溢れているものにあてられてである。そいつが見せる、まだ人を斬った事がない笑みは、鬼の申し子である俺には到底出来ない事。そうだな。もう一度だけ言って、俺はその場所から夜空を見上げた。あの時は月も星も、何もかもが雲に隠れて顔を見せていなかった。それなのに今はどうだ。俺がこいつの部屋の前に来た途端大きな月が顔を出しやがる。足元が照らされ、俺の影がどんどん伸びていく。
「……糸」
開いている障子から見えた糸は刀を握ったまま畳に寝転んでいた。鞘におさめられていないソレは、浴びたての血を未だに被っている。糸自身も、髪や肌や制服についている血を拭った気配も無く、只横たわったまま動かない。こいつが敵から傷を負わされていないというのは分かっているから良いものの、何も知らない近藤さんや土方さんが見たら大層驚くだろう。自分の部下が血みどろで部屋に倒れているのだから、死んだ、と真っ先に思うに違いない。それ程糸は動く気配を一向に見せない。足元には懐紙が何枚も散らばってある。恐らくは血だらけの刀を拭こうとしていたのだろか、しかしこの状況はどうにも分からない。
「糸、寝るなら先に風呂に入って血を落とせ」
「………あともう少しだけ…」
「あ?」
「あともう少しだけこうさせて下さい……」
「ざけんな」
横向けになっていた体を無理矢理仰向けにさせれば、真っ黒な瞳が俺をぼんやりと見上げている。顔には大量の返り血があった。
「………」
「…オイ、何か一言ぐらい喋んなせェ」
斬られてもいないクセに、今回に限ってどうしてこんなにだれていると言うのだ。捕り物の後なんていつも血みどろじゃないか、今に始まった事じゃない。それなのに糸は光のない瞳を俺に向けてくるばかり、口は細く長く息をしているだけだ。月もようやく出てきてるというのに、お前ばかりが雲ってちゃ折角の任務成功でも変に気落ちしてしまう。そんな気持ちを察したのかゆっくりと上半身を起こした。
「今回も真撰組に死者なしだ。明日ぐらい土方さんから褒美があるかもしれやせんぜィ」
「死者なし……ですか…」
「…………糸」
「はい…?」
「こっち見ろ」
ゆっくりと俺を見上げる糸の瞳の理由が俺には何故だか分かった。ああそうか、コイツ、人を斬り殺してしまったんだ。
「情けねぇ」
俺は一言吐き捨てて糸に背を向けた。初めて人を斬った時、俺はこいつのように訳の分からない疲労感のように襲われていただろうか?思い出すだけ無駄だろうが、いつも元気に笑っているこいつを間近で見ている分、やはり考えずにはいられない。
…それでも俺達は真撰組という組織の中で生きていかなければいけないのだから、こいつが今日通った道は、いつかやってきてしまうものだったのだ。汚れないまま刀を握ろうなんて甘い考えはココには必要ない。
「沖田隊長……」
暗闇にすぐに馴染んで溶けていきそうな声が耳に入った。髪を少しかく音も聞こえる。
「私は、真撰組に入って後悔などしていません……」
「………」
ゆっくりと振り返ってみれば、糸は血だらけの刀を左手で持ち、切っ先を見上げるかのように視線は上に向いている。まだ乾いていない血が鍔元まで垂れて、少し刀を傾けてみればポツリと血の滴が畳に落ちた。元々こいつが寝転んでいたから今更汚れようと関係ないが、言葉とは裏腹に諦めているような力無い動作に無性に腹がたった。後悔などしていないならもう少し胸を張れ。こいつの上司として言い切れる事はそれだけだ。
「……」
「……」
糸の視線は切っ先から離れようとしない。黒い瞳が忌々しい。この空気がいけないのだ。闇に染まってしまうこの時間に飲み込まれそうになるから、こんなに情けなくもがこうとしているのだ。きっとそうだ。柄にもなく、早く朝が来れば良いのに、と思う。
取りあえず呼び止められたのは良いものの、全く発展しない今にイライラする。刀を早くしまえ、と言いたいのだが、口にするのが何となく癪だった。足元に転がっている鞘を見つけた時、俺は迷わずにそれを足でひっかけ、背中を曲げて取った。所々傷が入っているのは、相手の攻撃をこれで受け止めたからに違いない。沢山の傷が、今日だけではない今までの戦いの後を物語っている。
「……糸、いい加減にしなせェ」
「何がです…?」
やっと俺の方を見たと思えば、刀を畳に刺し、それを頼りに立ち上がる。
「あーあーあー畳に刀刺しやがっ…」
そんな俺の言葉は続く事も無く、糸が下から振り上げてきた刀の鋭い先を後ろに退いて避ける。
「っ!」
畳に刺さっていた分攻撃が出遅れたお陰で掠りもしなかったが、突然の攻撃と思いも寄らぬ速さに、隊長格らしくないが、避けた時息を呑み用心にと廊下にまで飛び出した。暗い部屋の中でユラリと立ち上がっている糸が、真っ直ぐに俺を見据えている。その表情はさっきまでと違って、いつものように凛とした顔つきだ。
「何しやがんでィ。とうとう御乱心か」
「……お手合わせ願います」
ざっと畳を蹴る音がしたと思えば糸は真っ直ぐに刀をついてきて、それを避ければ切っ先は廊下の柱に迷う事なく突き刺さった。その揺らぎない攻撃の軌跡を見れば、この女が本気で俺に向かってきているという事はよく分かる。意味も分からぬ突然の挑戦だが、受けないとなっちゃあ失礼なような気がして、それでも半分は自分のイライラを発散させる気持ちで腰元に手をかけるが、いつもある筈のそれが無い。
「え゛」
思わず間抜な声を出してしまったが、取り敢えず体を動かさないと糸の刀の餌食になってしまう。それを証明するかのように、こいつは右手で刀を簡単に柱から引き抜き、すぐに左に持ち替えたかと思えば、軽くとも素早い左払いを俺に繰り出してきた。
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