このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

大人軸の黒尾さんとの話

出張で行った東京。
私のチームが設計した新開発の自動車が、日本バレーボール協会と業務提携することになった。
バレーボール普及のため、弊社の自動車が公用車として使われることに。
そのレセプションパーティに出席したのが半年前。
普段、作業服とスニーカーで仕事をしている私は、慣れないスーツとヒールに疲労困憊だった。
取り繕った笑顔でリーダーの挨拶を聞いていた。

「我々のチームは…特に…内装にはこだわってて…またエンジンにおきましても…」

今回のプロジェクトは、コンパクトカーでありながらスポーツカーのような見た目、長時間の運転でも疲れを感じさせないシート、ハイブリッドで低燃費であるところなどなど…こだわりが詰まっている。

特に運転席周りはこだわった。
女の人でも気軽に運転してもらいたくて、何度も試乗に行った。
私の周りは、維持費がかかるとか、駐車場の確保が…そういう理由で車を持たない人が多いけど、なるべく低価格で提供できるようにコストパフォーマンスの面でも何度も話し合った。

そんなことを思い出しながら、プロジェクトリーダーの話は終わった。

これで終わった…立食パーティーだけど、こんなかしこまったところで食事なんて落ち着かない。
メンバーに「外の空気を吸ってくる」と言って、会場を離れた。

ホテルの会場から外に出た。
ここは結婚式場もあるらしく、外にチャペルがあって、神秘的な美しさに目を奪われる。
近くにあったベンチに腰掛ける。
こんなところで結婚式を挙げられたら…幸せなんだろうなと思ったけど、仕事に夢中で婚期なんてとっくのとうに逃した33歳。
恋人は大学を卒業してから自然消滅、それからずっといない。
ため息をつく。
仕事はやりがいもあるし、辛いことも多いけど、こうやって自分が設計した機械が流通しているのを見ると、頑張ってよかったって思える。
でも、友達は結婚して、子どももいて、私とは180°違う人生を歩んでいて、気づけば疎遠になっていた。

「はぁ…」2度目のため息。

「もしかして…体調悪いんですか?」
声がした方を振り返ると、黒髪の背の高い男の人がこちらを見ていた。
確かこの人…日本バレーボール協会の黒尾鉄朗さん。
確か、この人が弊社の車を公用車として使いたいって言い出したって聞いた…

「いや、スンマセン、立食の時にお話したくて目で追っていたんですけど、会場から出ていくところ見つけちゃいまして。お邪魔でした?」

慌てて首を横に振る。

「いえいえ…こういう場所慣れないだけで…すみません、ご心配おかけしました」

黒尾さんは私の横に座り、目線を合わせて話してくれた。
遠目でもかっこいいなって思ってたけど…近くで見ると、年下らしいけど大人の貫禄というか、色気が滲み出て、思わず胸が高鳴る。

「さっきのリーダーさんの話、○○さんが女性にも乗りやすい車をってことで、何度も試乗したって話聞きまして…行動力ある方なんだなって尊敬しました」

笑顔でさらっと褒めてくれる。少しくすぐったい。

「開発した側が試乗しないってありえないですし…パソコンの前や机上で設計したものが、実物を見てイメージどおりか、確認するのも大事ですし」

「かっこいいですね、それも何度も試乗したり、改善案を出したり、コストパフォーマンスのことも強く主張したのが○○さんって聞いてちょっと驚きました」

「そうですか…?」

「物怖じしないところが○○さんの強みなんだなって思いました」

終始ニコニコの黒尾さん。
何を考えてるのか見えなくて、ちょっと怖くなってきた。

「あ、そうだ、パーティのあと、どうするんですか?」
「大阪に帰ります…」
「え、泊まらないんですか?」
「そうなんです…最終の新幹線で帰ります」
「そっか…」

なんであからさまに残念そうな顔するの?

「東京来ることはありますか…?」
「しばらくはないですね…すみません」

「じゃあ!」
黒尾さんは立ち上がると直ぐに、私の前に膝まづいて見上げてきた。

「俺…○○さんに一目惚れしました、まずは友達になって貰えませんか?」

突然の告白。
頭の中…真っ白…

「突然こんなこと言われて困りますよね…すみません…でも俺本気で…」

伏し目がちに話す黒尾さんに、断れずに恐る恐るスマホの画面にLINEのコードを表示させて見せる。

「友達なら…いいですけど…」

「やった!ありがとうございます」

少年のようにくしゃっと笑う黒尾さんに、さっきまで大人の色気とのギャップを感じて笑ってしまった。

「あ、すみません…笑っちゃって…」

「いや、笑った顔…かわいいですね」

へぇ??と変な声を出してしまった。

「やっぱりかわいい、よかった、やっと会えた」

どういう意味だろ?
それは後々分かることになるけど。

********

東京から地元に帰った次の日から、黒尾さんから寝る前にLINEが来るようになった。
内容は、その日の仕事の話で、高校時代の知り合いが日本代表になったから挨拶しに行ったとか(羨ましい笑)、オリンピックの強化合宿の見学に行ったとか。
それに比べて毎日やることが変わらない私…私の話聞いてて面白いのかなって不安になったので、ある日毎朝作ってるお弁当の写真を送ってみた。
私の会社は工業団地にあるため、周りにコンビニやレストランはなく、食堂があるだけなのだけど、人が多いところで食事をすることが慣れなくて、毎日お弁当を持参して自席で食べている。

『お弁当、毎日作ってるの??』
『夕飯の残り物とか、作り置きのおかずばかりでごちそうではないけど』
『美味しそう、すげぇ食べたい』
『そんな美味しくないよ…適当だし』

既読がついたまま来なくなったメッセージ。
不思議に思っていると…

『キャリアウーマンなのに家庭的で惚れ直して悶えてた。今日から毎朝お弁当の写真送って』

ってメッセージが来て吹いてしまった。
キャリアウーマンって笑
ただのアラサーのサラリーマンだけど…?笑
それに毎日お弁当の写真見てどうするんだろ…?

『お弁当の写真見てどうするの?』
『それ見ながら昼飯食べる』

はぁ?ホント意味わかんない笑

『黒尾くんのそういうところ、なんかわかんないけど面白い笑』
『すんませねぇ、好きな人のことになると理性が飛んじゃうんで』

好きな人…ねぇ。
私のどこがいいのかわかんないのだけど。
でも、まぁ、こんなのが楽しみになってるんならいいかな笑

******

ときどき黒尾くんから届く飼い猫のミアちゃんの写真がかわいくて待ち受けにしたり、
こちらは1人で出かけた先の写真を撮って送ったり、
そんな些細なやり取りが続いたある日。


最近体調が良くない。
寝ても寝ても眠い。
階段とかでふらつくことも増えた。
そして…終わらない生理。
今まで生理が遅れたことはあったけど、終わらないという経験は初めてだ。

半休をとって婦人科に行くと、検査してみて結果が出るのが1週間後だから、また来てくれと言われ。
不安で押しつぶされそうになった。
黒尾くんに相談しようか…でも婦人科系の話。男の人にするのも気が引ける。

不安な気持ちを抱えながら過ごした1週間。

ある日、ヘソ天で寝てるミアちゃんの写真が送られてきて思わず笑った。
LINEより話がしたくて通話ボタンを押した。
びっくりされたけど笑いながら許してくれた。

『黒尾くんのこと、相当気を許してるんだね』
『ホント、大胆すぎて吹いたよ』
『ミアちゃんは幸せだね、黒尾くんにめちゃくちゃ愛されてる』
『○○ちゃんのことも愛してるけど』
『へ?』
『俺、本気だからさ』
信じられないけど…嬉しい
『うん…嬉しい…ありがと』
『…マジで??』
『うん…会いに行きたい』

しばらくの沈黙の後…
『おいで、いつでも』
『いいの?』
『○○ちゃんなら大歓迎』

勤続10年だから、法律で決まってる有給休暇とは別に7日間の有給が与えられる。
その7日間使って東京に行くのもありかな。

でもそんな願いは、早くも叶わぬ願いとなった。

『今すぐ大きな病院で検査を受けてください』
1週間ぶりに訪れた婦人科で、開口一番そう言われた。

その後、紹介された総合病院で再検査をして、「子宮頸がん高度異形成」と言われた。
子宮頸がん高度異形成は、わかりやすくいえば子宮頸がんになる1歩手前。ほっとくと浸潤ガンとなる。
手術してガンになりそうな所を削るんだって。
普通は局部麻酔なんだけど、持病の関係で全身麻酔になってしまった。
急ぎはしないけど手術は避けられないと言われた。
目の前が真っ黒になった。
スマホの待ち受けのミアちゃんを見て涙が溢れる。
黒尾くんに話したい。
でも…話したら心配かけちゃう。
今は7月初旬。もうすぐオリンピックが始まる。彼は現地でバレーボールを見守ると言っていたから…きっと余裕はないはず。

結局、病気のことは話せなかった。
仕事を調整しながら、お盆休みを少し早めにとり、2日かけて入院準備をした。

入院当日。
手術は明日。この日は院内を自由に歩いていいと言われ、渡された病院着を着てカーディガンを羽織り、1階にあるコンビニに行った。
今日の夕飯が最後で、このあとは絶食になる。水分はしっかり取ってくださいと言われ、ペットボトルのお茶と水を1本ずつ買って、1個ぐらい食べてもいいよねとチョコレートを買った。

病室に戻ると、隣のベッドの方のお子さんと旦那さんが面会に来ていた。
どうして入院しているのかわからなかったけど、どうも手術を受けて数日経っているものの熱が下がらないようでときどきうなされているのが聞こえてた。

「お母さん、いつお家帰れるの?」
「お熱下がって歩けるようになったらね」
「ボク、お母さんいなくて寂しいんだよ」
「でも、お母さんいなくてもちゃんと保育園行ってて偉いね」
「うん、だってお母さん頑張ってるから、ボクも頑張らないとって、お父さんが言うんだもん」
「お父さんの話、ちゃんと聞いてて偉いね」
そんなお母さんとお子さんの会話の後、

「そろそろ帰るよ、また来るからね」
旦那さんの優しい声が私の声を締め付けた。

そんな会話を聞いてると。
私には偉いねって褒めてくれる人も、また来るねって行ってくれる人もいない。
カーテン越しに聞こえる、何気ない親子の会話に涙が溢れた。
私には家族がいない。正確には距離を置いた。お金のことしか頭にない父親と、世間体ばかりを気にする母親から離れたかった。
携帯番号も知らせてはいない。故郷を離れ大阪にいることも伝えてはいない。
それ自体は後悔してはいないのだけど、やっぱり心のどこかで人のぬくもりを恋しがってるのかもしれない。
そんなとき頭に浮かんだのが黒尾くんの顔と、優しい声で。
どうしても声が聞きたい。
忙しいのかもしれなくて、毎日届いていたLINEは、数日前の彼の「また連絡するから、じゃあ行ってきます」の言葉を最後に途絶えていた。

今…外国だよね…
オリンピックの閉会式が明日。
もしかしたら帰国してるかもしれないけど、帰国する前に少し観光して帰るって話してたし、せっかくの海外出張、邪魔しちゃダメだよな…

でも甘えたいよ、声聞きたいよ。
初めての入院、初めての全身麻酔、震える手、ひんやりする背中。
そして麻酔から目が覚めなかったら…という恐怖。職場の人にも、主治医にも、看護師さんにも、「大丈夫です」って強がっていたんだと今更気づいた。

文字を打っては取り消したり、今までのLINEのやり取りを見返したりしながら、ため息が漏れる。

「○○さん、体温と血圧を測らせてください」
看護師さんにカーテンをめくられてびっくりして、スマホを布団の上に落としてしまった。
その時、誤って通話ボタンを押してたことに気づかずに。

「明日の手術なんですけど、これから絶食になるんですけど、朝までは水分はOKなので、しっかり取ってくださいね」
「入院した時にペットボトル2本ぐらい飲むよう言われました」
「そうなんですよ、術後に麻酔から目が覚めてもしばらくは水分取れませんからね」
「わかりました」
「それと明日は9時に検温して、術前に診察があって、12時に手術室に行く準備しましょうね」
「はい、わかりました」

看護師さんはおやすみなさいと言い残して、ベッドから離れたあと、落としたスマホを拾って、初めて通話ボタンが押されていた事に気づく。
慌てて通話を切った。

『ごめん、黒尾くん…間違えて通話ボタン押してたみたい』

そうメッセージを送ってスマホの画面を切った瞬間。

ブルブルと震え出すスマホ。
黒尾くんからの着信。
出ない訳には行かないと思い、慌てて談話室に移動して通話ボタンを押した。

『もしもし…黒尾くん…?』
『ちょっと待って、今どこにいるの?絶食とか、手術とか聞こえたんだけど、ねぇ、俺に黙ってることないよね?なんでも言ってって、支えになりたいからって言ったよね、隠し事やめてくれる?』
いつもより早口で、いつもより荒々しい口調に、看護師さんとのやり取りを聞かれていたんだと気づく。
言い逃れ出来ないと思い、正直に伝えた。

『あのね…明日手術するの。大きな手術じゃないの、手術自体は2時間ぐらいで終わるの…手術後は何もなければ2日で退院できるし…だから大丈夫、安心して』
『大丈夫って、そんなわけないだろ。なんで言わないの?俺に言えない病気なわけ?』
『だって黒尾くん、仕事…忙しそうだし、外国行くって言ってたし…そう思うと言いづらくて』
『仕事も大事だけど、彼女のことがもっと大事だろ、離れててもできることあるかもしれないのに…ってごめん、取り乱して。最初からゆっくりでいいから話してくれる?』
そう言うと、バツが悪そうに黙り込む黒尾くん。
ちゃんと言わなきゃ。

『少し前から体調悪くてね、貧血気味で寝ても寝ても眠いし、不正出血もあってね。検査を受けたら、子宮頸がんの高度異形成って言われて…えっと、子宮頸がんになる1歩手前かな。手術で、ガンになりそうな所を削るんだ。私、他にも持病あって局部麻酔が出来ないから、全身麻酔になったの…で、前日入院で、明日のお昼手術なの…黙っててごめん。どうしても黒尾くんに心配かけたくなくて…』

『…そっか、辛かったよね。そばにいてやれなくてごめん』
『黒尾くん悪くないよ、だからね…私のこと幻滅したよね、だからもう私のこと忘れて』

心の中では黒尾くんに会いたかった。でも、もうこんな私に会う資格なんかなくて。心にもない言葉が口から零れた。

『○○ちゃん、どこの病院に入院してるの?大阪?』
『え?』
『いいから教えて』
『…大阪の××総合病院の婦人科』
『わかった』

何がわかったんだろう…

『○○ちゃん、手術間に合わないかもしれないけど…麻酔から目が覚めるまでに間に合わせるから頑張って』

『うん…?』

『じゃあ、今日は早めに寝なよ…』

そう言われて通話は切れた。

*******

手術1時間前。
手術着に着替えて、弾性ストッキングを履いて、深呼吸をする。
ミアちゃんの写真を見ながら、黒尾くんに行ってきますって心の中で呟いた。
看護師さんが迎えに来た。オペ室までは徒歩で向かう。
ベッドには、以前黒尾くんからお土産と送って貰ったタオルを枕に敷いてある。
おこがましいけど、麻酔から目が覚めたとき、少しでも黒尾くんを近くに感じたかった。

オペ室はリラックスさせるためなのか、ジブリのオルゴールアレンジが流れてた。
少し狭い手術台に寝ると、すぐに麻酔を打たれた。
5つ数え切る前に深い眠りについた。

*********

手術台からベッドに移動する時、一瞬目が覚めた。
「お疲れ様、よく頑張ったね」
看護師さんの声が聞こえた。
「うん…まだ眠い…かも」
そんなことを言っていた気がする。
「もう手術終わりだからゆっくり休んでね」
そう言われて、再び夢の中へ旅立った。


夢の中で、黒尾くんに会った。
背の低い私と目線を合わせて話してくれて、震える手をしっかり握ってくれて、もう片方の手で頭を撫でてくれた。
これが現実だったらいいのに。
もう会えないんだよね。忘れてって言っちゃったもん。
涙が零れた。
最初はすごく戸惑っていたけど、いつの間にか黒尾くんが私にとってかけがえのない存在になってたんだ。

冷えきった頬にあたたかいものを感じた。
頬から離れたぬくもりは、私の左手に動いていた。
その左手が誰かに持ち上げられていて、またあたたかい何かに触れていた。
それを確かめたくて、ゆっくり瞼を開いてみる。
窓から差し込む光に一瞬目が眩み、思わず目を瞑った。

「…起きた?○○ちゃん、おはよ」

聞き覚えのある声がする。

「…黒尾くん?」
「うん、そうだよ」
「まだ麻酔効いてるのかな…夢なのかな」
「夢じゃないよ」
「うん…!?」
びっくりして起き上がろうとすると、
「ダメダメ、起き上がっちゃダメって看護師さんに言われたから」って肩を押された。

徐々にクリアになる意識。
「ホントに黒尾くんなの?」
「そうだよ」
笑顔で肯定する彼の目にはうっすらクマができている。
「寝てないの…疲れてないの…?」
右手で彼の頬に触れてみた。
「眠れなかった…○○ちゃんが心配で…簡単な手術だって言われても、全身麻酔とか聞いたら…失いたくないって」
明らかに寝不足と分かる彼の目が、だんだん潤んでいるのが分かる。
「心配かけてごめん」
「ホント…なんでも我慢してさ、甘えていいんだよ、遠距離だからとか、心配かけるとか気にしないでよ。無理しなくていいんだから」

彼の優しい声に涙が溢れた…

「私のこと忘れてって言ってごめん…嘘、忘れてほしくないよ」
「うん、知ってる。我慢してたんでしょ」
「うん…ごめん」
「謝らなくていいから、ね?」

水分をとってもいいと許可が出たので、黒尾くんに水を買ってきて貰った。
ストローで少しずつ水を飲んだ。
自販機のキンキンに冷えた水は、カラカラの身体中に染み渡って気持ちよかった。

黒尾くんはオリンピックの開催国から成田空港ゆきの飛行機に乗って帰国する予定だったらしい。でも私の話を聞いて、いてもたってもいられず関西国際空港ゆきの飛行機に変更して、仕事も数日ほど有給申請を出したそう。
それと…
「謝らなきゃいけないことがあってさ」
と前置きした上で、
「ここに入るのに、ただの友達じゃいれてもらえないと思って、婚約者って嘘ついちゃった。○○ちゃん、恋人いないって病院に言ってたでしょ?そのせいで信じて貰えなくて大変だったんだよ。結局は君のプロジェクトのリーダーと上司に無理を承知で電話して、病院に説得して貰って助けて貰ったんだけどさ…」

「うん?そんなことあったんだ…こっちこそごめんね、そんな演技させちゃって」

「演技じゃないよ…こんなところで言うのもあれだけど」

そう言うと、彼は初めて会った時と同じように、横になっている私と目線を合わせるように膝まづいて

「結婚を前提に…俺と付き合ってください、誰よりも大事にします、よろしくお願いします」

嘘偽りない真っ直ぐな視線。
ぎこちなく握られてる左手をぎゅっと握り返した。

「…こんな私ですが、よろしくお願いします…」

「うれしい…な、だいすきだよ」

そう言うと、私のおでこに優しいキスをしてくれた。

********

彼は病院近くのビジネスホテルに滞在して、退院日も付き添ってくれた。
術後すぐなので歩き回れないし、かと言って行く場所もないので、コンビニで適当に食べ物を買ったあと、私の家に案内した。
まとわりつく蒸し暑さにしかめっ面をしながらエアコンのスイッチを入れた。

「黒尾くん、ごめんね…適当に座ってて。買ってきたもので悪いけど、アイスコーヒー出すから」
「いやいや、○○ちゃんは安静にしなきゃダメでしょ、俺がやるから座ってて」

言われるがままソファに座ると、黒尾くんは私が出しかけていたグラスに氷を入れてテーブルまで持ってきてくれた。

「コンビニのアイスコーヒーって、たまに飲みたくなるんだよね」
数日ぶりのコーヒーの匂いと味にしみじみしていたら、
「分かる、特にこれスッキリしててアイスにはピッタリだし。ってか、関西のコンビニと関東のコンビニって品揃えが微妙に違うんだね、見てて楽しかったよ」
「そうなん?あんまり変わらないと思ったけど…」
「関西限定とか珍しすぎて買おうかと思ったし」
くしゃっと笑う黒尾くんにつられて笑ってしまった。

そういえば…と、気になっていたことを聞いてみることにした。

「あのさ…1つ聞きたいことあるんよ」
「なぁに?なんでも答えるよ!」
「初めて会った時、「やっと会えた」って言ってたの…どこかで前に会ったことあったっけ…?」

初めて会った日の帰りの新幹線で、手持ちの名刺入れを見ても、スマホのアドレス帳を見ても、彼の名前はなかったし、その言葉の意味が分からなくて、もしかしたら過去に会ったことがあるのに私が忘れてしまってるんじゃないかと不安になったのだ。

「あ…あれね…笑わないで聞いてくれる?」

恥ずかしそうに頭を掻きながら黒尾くんはぽつりぽつり話してくれた。


去年の夏、自分の新しい車が欲しくてディーラーに訪れたときのこと。
見積もりを出して貰っているあいだ、モニターをボーッと見ていた。それはうちの会社が更新している企業PR用のYouTubeだったんだけど、たまたま流れていたのが就活生向けの動画で、笑顔でインタビューに答える私が映っていたらしくて。
担当している設計の仕事、現場視察の様子、試乗しながら「もっとこうしたい」と話してる様子が流れてたらしい。

「仕事自体は辛いことも苦しいことも、上手くいかなくて自己嫌悪になることもあるけど、自分が出したアイデアが少しずつ形になって、お客様の元に送り出せたとき、この仕事をやっててよかったって思えるんです」って、最後に作業服姿で笑顔で答える私に一目惚れしたんだって。

そういや、就活生向けにインタビュー撮らせてくれって言われたの思い出した。
あれ、てっきり大学生向けかと思ったらディーラーでも流してたの知らなかった…

「仕事の話をする○○ちゃんがかっこいいんだけど、最後に嬉しそうに笑ってるところに心を持っていかれたんだよ。職権乱用って言われるかもしれないけど…あの時公用車の買い替えの話があってね、是非○○ちゃんの会社の車がいい、それでもし可能なら○○ちゃんが設計に携わってる車がいいって、YouTubeのインタビューの話も交えて交渉したんだよ」

知らなかった…確かに量産体制間近の私のプロジェクトに提携の話が舞い込んで来た時は、思わず椅子から立ち上がって、その勢いで腰抜かすぐらいだったけど笑

「あのとき、あの動画を見てなかったら○○ちゃんに会えなかったって思うし、運命だって思わなかったよね」
耳を真っ赤にしながら話す黒尾くんが、いつもより小さく見えて、でもかわいくて愛おしくて、思わず抱きしめてしまった。

「○○ちゃん??」
「ありがとう、私のこと見つけてくれて」

彼の手は少し迷いがあったようだけど、何かを決意したかのように、少しの間の後、私の背中を撫でてくれる。
「俺…幸せかもな…今誰にも見せられない顔してる」
「私も見ちゃダメなのかな?」
「○○ちゃんならいいよ」
「わたしね、黒尾くんのこともっと知りたい」
「俺も○○ちゃんのこともっと知りたい」

********

次の日、名残惜しそうに彼は東京に帰って行った。

駅まで見送りに行くと聞かない私に、黒尾くんは「だめ!安静にしてなさいよ」と強く説得され、しぶしぶ玄関でお別れをした。

それから、2週間後の術後の検査は問題なく、異形成だった部分を全てキレイに取り切れたと言われほっとした。
次の検査は3か月後。
そのことを黒尾くんに伝えると、
「まだ安心はできんけど、とりあえずよかったな!普通の生活に戻れるってことだよな」って、優しい声で喜んでくれた。

お盆休み、療養のためどこにも行けず、勤続10年の有給休暇も使い切ってしまい、なんだか損をした気分だった。
病気じゃなかったら、東京に行って、黒尾くんに東京案内してもらいたかった。

そんなモヤモヤを抱えながら、新しいプロジェクトの構想を元に計画モデルを作っていたら、上司に呼び出された。

「○○さん、今年度中に消化しないと行けない有給が3日残ってるんだって総務部から連絡来てさ、こないだの入院で使った勤続10年の有給、7日のうち3日はそっちで処理するからさ、残り4日を年内どこかで使ってくれないかな。じゃないと今年中に消滅しちゃうから」

寝耳に水。
消滅しかけてる有給は残ってないと思ってたんだけど…
そっか、それはラッキーかもしれない!
東京に行こう、黒尾くんのところに行きたい!

その日の夜、黒尾くんに有給のこと伝えると。

『マジで!?いやー俺もね、休日出勤しまくってたから、どこかで代休取るように言われててさ…休み合わせて、どっか行こっか?』
『え、いいの!私行きたいところがあるんだ』『どこどこ?』
『神楽坂』
『なんで…?』
『私の好きな歌詞の舞台なの、神楽坂ってレトロとモダンが共存してる街なんでしょ?』
『あぁ、江戸時代の面影も残ってるけど、フランス料理の名店や語学学校もあったりするからね』
『やっぱり、素敵。古いものと新しいものが共存してるって素敵よね』
『…○○ちゃんのセンスって、なかなか面白いよね』
『え?そうなの?』
『渋谷とか、レインボーブリッジとか、スカイツリーとか行きたいって言うのかなって思ったら、神楽坂って意外すぎて。いいよ、俺が素敵なデートプランを立ててみせるよ』

電話の向こうで笑ってる黒尾くん。
それがちょっと悔しくて、恥ずかしくて。
『笑わないでよ、もう』ってふくれっ面になってたら。

『怒らないで、そう言うところに惹かれたんだから。周りや流行りに惑わされず、自分の感性を信じて、自分の信念を曲げないところ』

『褒めすぎだって』

『そんなことないよ、だから俺、○○ちゃんが好きになったんだから…ね?』


『うん…ありがと、こんな私のこと受け止めてくれる黒尾くんが好きだよ』

『うぅ…不意打ちの好きだよは心臓に悪い、早く会いたい、抱きしめたい、俺の方が好きだからって言いたい』

きっと頭を抱えながら悶えてるんだろうな。そんな彼が本当に愛おしい。

初めての遠距離恋愛、物理的な距離は離れてるけど、ふたつの心は寄り添ってて、ふたつの思いは繋がってる。
そんなあったかい気持ちに包まれて、私って幸せ者だなぁと呟いた23時。
500km離れて暮らしている彼に見つけて貰って出会えたこと自体、奇跡だと思うけど、運命だったのかな…

彼との物語は始まったばかり。
空白だった手帳に少しずつ文字が増えて色が増えて膨らんでいくように、2人の思い出が重なって膨らんでいくといいな。
1/2ページ
スキ