小話集

──おかしい。そんなはずは……。
 眼前に広がる港湾の風景を前に、佐乃は目眩を覚えた。あまりにも強い既視感。しかし、それは決してあり得ない感覚だった。

 石川県金沢市で生まれ育った彼──加々見佐乃は、海に接する機会の少なさゆえか、幼い頃から漠然とした憧れを抱いていた。知っている海といえば、荒々しく曇りがちな日本海で、世間に広くイメージされる「青く凪いだ大海原」には、あまり馴染みがなかったのだ。
 ある時の休日、家事をしながらテレビを流し見していると、観光情報として横須賀港周辺が画面に映し出された。無意識のうちにそれを見つめていた佐乃の口から、「……行ってみようかな」と独り言がこぼれる。
「え!?」
 ダイニングテーブルの方から大声が飛んできた。勢いよく佐乃の方へと振り返ったのは、彼の弟である圭だ。休みが重なったと知り、兄を敬愛してやまない彼は、まっすぐに佐乃の元へと飛んできていたのだった。
「なになに、どこに!? 僕も行く!!」
「もう、落ち着いて圭ちゃん。テレビに映ってるところだよ。横須賀」
 圭が画面に視線を戻すと、観光クルーズを紹介する映像が流れていた。狭い湾内に日米の艦艇がひしめき合っている。
「ふーん、神奈川かぁ。あれ、兄さんって軍艦とか興味あったっけ?」
「そういうわけじゃないんだけど……。太平洋側ってあまり行ったことないなーと思って」
「まあねぇ。大きい旅行のイベントとかないと、行く機会そんなにないよね」
「うん。ちょうど海が見たい気分だったし、今度連休もあるし」
「連休!? いつ!?」
「はいはい、ちょっと確認するね」
 目を輝かせる弟に微笑み、佐乃は壁掛けのカレンダーに視線を移した。
「今月末だ。最終週の水曜日から三連休」
 佐乃が再び圭を見やると、彼の目からみるみるうちに光が失われていくのが分かった。明らかに落胆している。
「……めちゃめちゃ仕事じゃん……」
「あちゃ。それは残念」
「やだ~~! 兄さんと旅行したい~~!」
「よしよし。おみやげ買ってきてあげるから」
「うう……。この世は理不尽だあ……」
 圭は椅子の上でジタバタと暴れてから、がっくりと肩を落とす。うなだれた彼を優しく撫でてやり、今晩は外食に行こうと誘った。途端に圭は両手を上げて喜ぶ。自分の前だとたびたび子供っぽくなる弟を、佐乃は半ば呆れつつも愛しく思っていた。

 それから、現在。

 いくつかの列車を乗り継ぎ、山を越え、徐々に先日テレビで見た地に近づいていく。佐乃の姿は、神奈川県横須賀市にあった。
 ここへ来るのは初めてのはずなのだが、彼は妙な感覚を覚えていた。トンネルの合間に見えた港の風景からなぜか目が離せず、電車が再び暗闇に入った時、窓に映った自分と目が合った。どこか困惑した表情をしている。遊びに出かけた時のような、浮ついた気持ちにはなれなかった。とはいえ、陰鬱とした気分でもない。何か大切なことに相対する前の緊張、といったところだろうか。
 さらにトンネルを抜けてから間もなく、電車は横須賀駅に到着した。
 佐乃が下車すると、沿線に漂っていた潮の香りが一層強く感じられた。平坦なホームを歩いていき、改札を抜ける。よりはっきりと港を目視した瞬間、足が止まった。どきり、と心臓が跳ねる。
──ここを知っている?
 直感的にそう感じられた。しかし、それはあり得ないことだ。くどいようだが、彼は初めて横須賀港を訪れたのである。
 少なくとも、今の彼は。
 一抹の不安を覚えながらも、駅のロッカーに荷物を預けて、佐乃は港の方へと歩を進めた。

 小さな駅前広場を抜け、横断歩道を渡り、海沿いの公園に出る。付近には技術者の記念館、そして──海上自衛隊横須賀総監部が位置していた。対岸は在日米軍基地となっており、港内を見渡すだけで日米両国の軍艦が何隻も確認できる。テレビで見かけた商業施設や観光船もあった。周囲の人々は海辺の公園でのひとときを楽しんでいたが、佐乃はそれどころではなかった。
──おかしい。そんなはずは……。
 眼前に広がる風景を前に、彼は目眩を覚えた。あまりにも強い既視感。似た光景をどこかで見たのだろうか? そう思い、懸命に記憶をたどるが、答えは否だ。しかし、時間の経過と共にますます既視感は強くなる。異様な感覚にふらつきそうになるのを堪えながら、欄干に歩み寄り、手をついて近くの船を見やった。
 海上自衛隊側の岸壁に停泊しているのは、見上げるほど大きな灰色の船だ。ヘリコプターを数機載せられるというそれは、近い将来戦闘機を搭載するのだと、テレビで紹介されていた。そういった船を、何と呼ぶのだったか……。
 名称を思い出そうと思考した時、視界に映っていた船に別の船影が重なって見えた。驚いた佐乃は目を見開くが、そこには変わらず灰色の巨大な船があるだけだった。支柱だらけの船など、どこにも見当たらない。
 後ずさりした佐乃の足が、ついにもつれた。そのまま、背後を歩いていた人物にぶつかってしまう。その人は怒るでもなく、転びかけた彼を受け止めた。
「わっ……。ご、ごめんなさい」
「おっと。大丈夫か? あ──」
 佐乃が慌てて振り返り、二人は互いの顔を認めた。なぜか言葉が出てこず、そのまま釘付けになってしまう。佐乃の瞳には、ゆるくウェーブのかかった髪に、ライダースジャケットをまとった青年が映っていた。彼の顔には、信じがたいといった驚愕がありありと浮かんでいる。戸惑ったままでいると、青年に突然肩を掴まれた。
「おい……。あんたっ……!」
「えっ? なに──うっ! ああっ……!」
 激しい頭痛が佐乃を襲った。耐えがたい痛みに呻き、崩折れた体が青年に支えられる。その最中、佐乃の内には濁流のように“記憶”が押し寄せていた。

 深く広い海。冷たい絶望。置き去りにしてしまった弟。熱すぎる船体。大群を成す航空機。硝煙の臭い。名の由来の土地で、頼もしい艦だと目を輝かせていた人々。住環境に文句を言いながら、それでも所属であることが誇らしいと胸を張っていた乗組員。共に戦果を挙げた航空母艦の先輩と、多くの後輩たち。
 順調に見えた戦いの中で、真っ先に貫かれた、私。
 吹き飛んで、燃えて、何もかも壊れて、あっという間に意識が霞んでいった。でも、最期に、私を呼ぶ君の声が、聞こえた気がした。

──気のせいではない。私はこの海を、この人を、知っている。

 徐々に痛みが引いていく。ようやく開けた視界を、そろそろと持ち上げた。周囲にいた人々が、心配そうに二人を見ている。青年は彼の両肩を掴んだまま、緊張した面持ちで佐乃を見つめていた。
 数度の瞬きのあと、佐乃は脳裏に浮かんだ名を口にした。
「……赤城……?」
 青年が息を呑んだ。一瞬、何かをこらえるように俯いてから、ぎこちなく微笑む。
「ああ。あんた……やっぱり、加賀なんだな」
 佐乃が頷くと、赤城と呼ばれた青年は、彼を強く抱きしめた。彼らを見守っていた群衆から、小さな感嘆と拍手が起こる。

 こうして──死してなお、側に在った赤と青は、再び手を取り合うに至ったのである。
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