嵐の夜の果て

 吹き荒れる風雨のなか、五人の竜騎士がマケドニア王城に向かって飛翔していた。彼らは、北の奥地ドルーアより帰還した国王一行だった。
 同盟締結より一年あまり。今宵、三か国の君主が一堂に会する軍議が開かれた。グルニアの要人は海を渡り、十日もかけて登城するが、天空を駆ける騎士たちはものの数刻で竜人の城へたどり着くことができる。そしていま早々に王城へと舞い戻っている。皮肉にもこのあまりに近接した距離が、国の命運を決める大きな要因となった。そして本日の会合により、マケドニアの運命は大きく動いた。
 雷光が、暗闇に沈む王都を照らしだした。王城まであとわずかと知り、竜騎士たちから安堵の笑みがこぼれた。この半刻、彼らは冬の雨に打たれつづけていた。北方の天気はつねに荒れ模様だが、南でも雨がじょじょに強まり、しだいにみぞれまでまじるようになった。
 主宮上空に差しかかると、全身をしとどに濡らした五騎は、飛竜の手綱を引き締めた。護衛の三騎は旋回して離脱し、二騎のみが主宮の前庭に降下した。
 石畳に二頭の飛竜が同時に降り立つと、あたりに一陣の風が起こり地鳴りが響いた。詰め所にひかえていた世話係がすぐさま豪雨に身を投じ、飛竜をなれた手つきで御しはじめる。飛竜の主たち――王と王妹は石段をのぼり、いましがた開け放たれた扉から宮殿へ入っていった。
 広間では女官たちが整然と居並んでおり、彼らを丁重に出迎えた。
「ミシェイル陛下、ミネルバ殿下。ご無事の帰還、なによりにございます」
 女官長タマーラが一歩進み出ると、女官たちはいっせいに礼をとった。ミシェイルはうすく笑み、そのねぎらいにこたえた。
 タマーラの指示で、女官たちは二人を取りかこんだ。雨の染みこんだ外套を手早く脱がせ、代わりに毛皮を裏打ちしたガウンを着せかけた。こめかみや鼻梁を流れる滴は、清潔な亜麻布で拭きとっていく。
 介添えをする女官たちの顔は歓喜にみちていた。みな、二人の無事をよろこんでいた。いまでこそ同盟国とはいえ、ドルーアは仇敵。その中枢に王と王妹が呼びつけられたのだ。彼らが王城を発ってからいまにいたるまで、その帰りを待ちわびていたことだろう。
「ひどい嵐でございますね」
 王女の側近、白騎士パオラも広間に姿を見せ、主のもとに駆けよった。寒さで青ざめたミネルバの顔を、気遣わしげにのぞきこむ。
「こちらでも急に天候が変わりましたので、ドルーアではいかばかりかと心配しておりました。御身になにかあればと気が気ではありませんでした」
「おおげさな」
 ミネルバは微笑する。
「このぐらいの雨風で飛竜が墜落することはありませんよ」
「いえ、そうではなくて……」
 パオラは言いよどみ、となりの女官と顔を見合せた。ミネルバがいぶかしげに眉根をよせると、パオラはためらいがちに口をひらいた。
「その、これほど激しい雷となれば怖い思いをされているのではないかと。お小さいときから雷はお嫌いでしたでしょう?」
「いったいいつの話をしているのです!」
 狼狽するミネルバの声に、鼻で笑う声がまじった。
「おまえの雷嫌い、城では知らぬ者なぞいなかったな。こんな嵐の夜にはよく俺の寝床にもぐりこんできた。まるで昨日のことのように思い出す」
「……昨日などと。十年は前の話でしょう」
 からかう兄と、不本意げな妹。昨年の夏、王がアカネイアに暗殺され、国中が戦争への道を進むなか、王家の兄妹もつねに冷たい空気をまとわせるようになっていた。そんな二人が久方ぶりに見せた戯れに安堵したようで、女官たちはしのび笑いをもらした。
 兄妹をよく知るパオラにも、それがほほえましいやりとりに見えたのだろう。なつかしげに顔をほころばせる。
「母がよく申しておりました。嵐の夜には早く駆けつけてさしあげないと大変なことになったと」
 ミネルバは口元をゆるめた。やさしい乳母をなつかしむかのようだったが、その目元にはかげりがあった。
 過ぎ去りし日々に想いをはせても、虚しさがつのるばかりだった。わずかなあいだに多くのものが失われ、はかなく崩れ去っている。
 それを知る者はこの国にどれほどいるのだろうか。パオラも女官たちも気づいてはいない。まだ壊れてはいないと信じている。だからこうして笑っていられる。
「ミネルバ」
 打って変わった冷たい声に、ミネルバは瞬時におもてを取りつくろった。
「明日、諸侯を招集し軍議をひらく。まあ、このぶんでは相当荒れるだろうが、おまえもそのつもりでいろ」
「……承知しました」
 あたりが静まりかえるなか、ミネルバは去りゆく兄の背をみつめていた。しだいに肩がふるえはじめた。冷えきった手でガウンをかき合わせたが、ふるえはおさまらなかった。
 その肩に、パオラの手がやさしくふれた。
「このままではお風邪を召されます。湯を用意させましたので、お早くどうぞ」
「ええ、そうします」
 ミネルバは背筋をのばし、女官たちをぐるりと見わたす。
「ごくろうさまでした。あなたたちももうお休みなさい」
 ミネルバは足早に東翼の自室へ向かった。主室に入ろうとしたとき、二人の女中を連れた女官が奥から出てきた。女官は湯の支度が整ったと告げ、一礼して下がっていった。
 応接室は暖炉が煌々と焚かれ、いまのミネルバには暑く感じられるほどだった。ガウンを脱いでカウチにおき、そのまままっすぐ寝室の奥の浴室に入った。サッシュをほどき、雨でずっしりと重くなった礼服を脱ぎ落していく。ブラウスの前をひらくと、脇腹に引きつれた傷があらわになる。これは同盟が成るまでのあいだ、ひと月にわたるドルーアとの戦いで負ったものだ。マムクートに負わされたこの傷を、たとえ女官であってもさらすことを好まなかった。そしてもうひとつ、左胸から肋骨にかけて細くのびた刀傷を、忌まわしいものであるかのように手でおおい隠した。
 ローズマリーをうかべた湯につかり、ミネルバはようやく肩の力を抜いた。ひどく疲れていた。皇帝メディウスとまみえたのは今日で二度目。言葉を交わしたのは初めてとなる。平和を無惨に破壊した元凶と対峙しても、不思議と怒りは感じなかった。ただ、静かなる急流になすすべなく吞まれていく心地を味わっていた。もはやこの流れを変えるすべはない。おのれの無力さにさいなまれながら帰途についた。悔しさに耐えきれず流れた涙は激しい雨にまぎれて消えた。
 あたたかい湯の心地よさにまどろんでいると、窓帷のすきまから閃光が差しこんだ。ミネルバが顔をあげるや、雷がとどろいた。間をおかずに光がひらめき、うなるような轟音があたりにみちた。
 暗闇に走る稲光を、ミネルバはまたたきもせずみつめていた。その顔に恐れの色はみじんもない。
 幼いころは雷が怖くてしかたなかった。広い部屋で一人眠っていたとき、わずかでも雷鳴が聞こえればかならず目を覚ました。そんなとき、乳母のネリーナが駆けつけてくれるよりも早く、続き部屋の兄のもとへ駆けこんだものだった。
 そしてあの日も、こんな嵐の夜だった……。

 ――まだ三歳ぐらいのころだっただろうか。
 夜更けに雷鳴が響きはじめ、ふるえながら寝台を抜け出した。いつものように続き部屋の扉を開け、寝台によじのぼろうとしたが、そこに兄の姿はなかった。
 乳母が作ってくれた人形を抱きしめ、兄を探して寝室を出た。そのとき真っ暗な廊下を稲光が照らし、間髪入れずに落雷の音がとどろいた。悲鳴を上げ、雷から逃げるように暗い廊下を走った。その先は東翼につながる渡り廊下だった。主宮の東翼は王の私室と書斎があり、子供たちの出入りは禁じられていたのだが、脇目もふらず突き進んでしまった。
 まったく見覚えのない薄暗い廊下を、兄の名を呼びながらさまよい歩いた。歩き疲れていたが、自分がどこにいるのかわからず、引き返すこともできなかった。しだいに目の端には涙がにじんでいた。壁龕におかれた燭台の炎がきらきらと輝いて見えた。
 灯りを頼りに進みつづけると、扉がわずかに開いた部屋をみつけた。なかをのぞくと、少年の後ろ姿が見えた。兄だった。他には誰もいなかった。兄は書棚の脇に立ち、石壁に掛けられたタペストリーの端をわずかに持ちあげていた。
「ミシェイル!」
 いきおいよく扉を押し開け、夢中で駆けよった。兄はひどく慌ててふりかえった。そのとき、兄の周囲をただよっていた淡い光がさっとかき消えた。
 光はタペストリーの奥からもれていたようだった。気になってタペストリーを持ち上げようとしたが、その手は兄に阻まれた。
「ねえ、なにしてるの。どうしてこんなところにいるの」
 ミシェイルはシッと人差し指を立て、もう片方の手でミネルバの口をふさいだ。声を落として問う。
「なんでこんなとこまで来たんだ」
「だって雷が怖かったの。それなのにミシェイルお部屋にいないんだもの」
「ネリーがすぐ来てくれるだろ。いいから自分の部屋に戻れ」
「いや。一緒に戻るの!」
「わがまま言うな!」
 すがりつこうとした手を思いきりふりはらわれた。胸に抱いていた人形もはじき飛ばされ、床を転がった。
 茫然と立ちつくし、床に落ちた人形と兄の顔を交互にみつめた。
 ミシェイルはこれまで見たこともないほど怖い顔をしていた。どれほど機嫌が悪いときでも、これほど邪険に扱われることはなかった。
 なぜそんなに怒っているのか。いつもならやさしく抱きしめてくれるというのに。一生懸命ここまで来たのにどうしてそんなに冷たいのか。
 こらえきれずに泣き出すと、ミシェイルはため息をついた。人形を拾いあげ、押しつけるように持たせた。そのときミネルバは気づいた。兄の手は小刻みにふるえていた。唇もきつく噛みしめられている。
 ようやく異様な雰囲気を察して、ふりはらわれた手をもう一度のばそうとした。
 そのとき、ひび割れた怒鳴り声が、タペストリーの奥からもれ聞こえた。それは父の声だった。
 ミシェイルの肩がはね上がった。その大きなふるえが、手をとおしてミネルバにも伝わった。
「父さま、むこうにいらっしゃるの」
 ミシェイルはなにもこたえずに手を乱暴に引っぱった。
「部屋に戻るぞ」
 ミネルバはその手をふりほどき、石壁に駆けよった。さっき兄がしていたように、タペストリーをめくり上げた。暗さに慣れた目を、まばゆい光が射た。石壁には、ちょうど子供の手のひらほどの通気孔が隠されていた。
 さっきまでミシェイルはこの穴から隣室の様子をうかがっていた。兄の苛立ちは壁の向こうにあるのだ。
 つま先立ちになり、穴をのぞきこもうとしたが、背後から抱きすくめられる。
「なにをしている、やめろ!」
 壁から引きはがされそうになったが、かまわずにじっと目をこらした。隣室には、父とアカネイアの弁務官シモンが向かい合っていた。シモンの姿を見るや、ミネルバは顔をしかめた。
 シモンは王城のいたるところで居丈高にふるまっており、ミネルバも幼子ながら嫌悪をおぼえていた。シモンを良く言う者などおらず、不興を買わぬようにと腫れ物に触るように扱っていた。
 厚い壁の向こうで、二人は言い争いをはじめた。やがて父が黙りこむと、シモンは羊皮紙をひらひらと見せつけ、それを床に落とした。
 しばし間があった。父は書を拾い上げようと腰をかがめたが、押し殺したうめき声をもらした。王の手を、シモンの靴が踏みにじっていた。
 抗議するように父は毅然と顔を上げたが、シモンは足をどけようとはせず、ゆがんだ笑みをうかべるだけだった。なにかをうながすようであった。
 沈黙が長くつづいた。外では雷鳴がうなりつづけていた。やがて、ひざまづいたままの父が頭を深く垂れた。額が床につきそうなほど近づいたそのとき、王の唇がシモンの靴にふれた――。
 ミネルバはよろけるように後ずさった。どん、と背後で立ちつくしていた兄にぶつかる。
「……ねえ」
 ふりかえって兄を見あげる。
「どうして父さまはあんなことしているの」
 兄の顔がゆがむ。
「どうして、あんなにもお辛そうなの」
 兄はなにもこたえない。
 また耳障りな嗤笑が聞こえた。もう一度穴をのぞきこもうとしたが、視界がさっとふさがれた。兄の手のひらが両の目をおおっていた。
「見るな」
 乞うような声。目をおおう手に力がこめられる。
「あんなもの、見ちゃだめだ……」
 肩に熱いものを感じて、びくりと身をふるわせた。肩にしたたるのは熱いしずくだった。兄は泣いていたのだ。

 ……激しい雷鳴に、ミネルバは目を開いた。ひとつため息をつき、湯から上がる。
 悪夢のようなそれは、彼女にとってもっとも古い記憶だった。
 タペストリーが掛けられていた部屋は父王の書斎だった。あの嵐の夜のずっと前から、ミシェイルは出入りの禁じられていた書斎にたびたび忍びこみ、父の様子をうかがってきたのだろう。
 父もシモンもそれに気づいていたのではないかと、後になってミネルバは思った。これが宗主国と属国の関係なのだと、王太子に見せつけ、それすら抗えぬ王の姿を嘲笑っていたのだと。
 ミネルバが憐れな父の姿を見たのはあの夜が初めてだったが、シモンは日常的に王を軽んじ、侮辱を加えていた。目にする機会はいくらでもあったはずだった。見ずにすんだのは近侍の者の気遣いゆえだ。まだ道理もわからぬ幼い姫に見せまいと、彼らがいつも盾となっていた。
 しかし、あの嵐の夜を境に変わった。
 あの夜、ミシェイルは見るなと言ってミネルバの目をおおったが、その後、父の屈辱的な姿を目にすることがあってもミネルバの目をふさごうとはしなかった。ふたりは寄り添いながら父の姿をその目にしかと焼きつけた。かたく握りあった手に爪を食いこませ、その痛みとともに父の無念さを、苦しみを、たがいの胸に刻みつづけてきた。どんな光景を目にしてもふたりが泣くことはなかった。あの日から幼い兄妹はおなじ夢を見る同志になったのだ。激しい怒りや悲しみ、そして憎しみのいっさいが、彼らを高みに導く糧だった。聖王国による間接統治からの脱却。輝かしい未来を夢見ることだけが彼らの希望だった。希望がなければ強くあることはできなかった。

 浴室を出て寝間着を身につけていると、応接室の扉がひらく音が聞こえた。女官が入ってきたのだろうか。いぶかしみながら寝室を出ると、応接室の扉口にカチュアが立っていた。思いつめた顔をしていた。近づくミネルバに気づくと、はっとして顏をあげる。
「まあカチュア、お茶を持ってきてくれたの」
「はい、大変な目に遭われたとお聞きしましたので、せめてお体を温めるものをと思いまして」
「ありがとう」
 ミネルバはガウンをはおり、カウチに腰かけた。くつろぐそぶりで、茶の用意をするカチュアを横目で見守っていた。
「おまたせいたしました」
 湯気の立つ杯が差しだされた。杯を受けとったミネルバは、ただよう柑橘の香りを楽しむふりをした。その間、カチュアは物言いたげにミネルバの様子をうかがっていた。指を組み合わせてはほどき、視線をさまよわせている。
「どうしました、カチュア」
 ひゅっと息をのむ音。
 ミネルバはやさしくうながす。
「なにかわたしに話があって来たのでしょう?」
 カチュアはうなずき、何度かまたたきをくりかえしてから口を切った。
「あの、もうすぐ戦争が始まるのですか」
「時期は断定できませんが……そうですね、もうじきでしょう」
「ミネルバさまも戦われるのでしょうか」
「むろんそうなります」
「でしたら前線に、ということですよね……」
 ミネルバは茶を一口飲み、杯を受け皿におく。
「パオラが心配ですか」
 カチュアは悲しげに眉根をよせ、そのままうつむいてしまった。
「主力となるのは竜騎士団ですから、天馬騎士の部隊をどう配備するかは未定です。多少の献策はしていますが、最終的な決定を下す権限はわたしにはありません。天馬騎士団にもなんらかの作戦を任せることにはなるでしょうが、少なくとも最前線に投入することはありませんよ」
「だとしても姉さまは……姉は、ミネルバさまとともにある道を選ぶと思います」
 ミネルバは答えあぐね、小さく息をもらした。
 それを呆れと受けとったのだろう、カチュアは身をすくめた。
「すみません、こんなわがままを言ってしまって」
「わがままなどと……姉の身を案ずるのは当然ではありませんか」
 カチュアはいきおいよく首をふる。
「いいえ、こんなの身勝手なわがままです。オズモンド陛下はアカネイアによって命を奪われたというのに」
 ミネルバの顔がこわばる。
「これは仇討ちだとわかってはいるのです。けっして避けられない戦いなんだって。でもわたし、怖いんです。アカネイアの軍勢はとても強大でしょう? いったいどれほど激しい戦いになるのかと、そんな戦いが何年つづくのかと思うと、わたし……」
 ミネルバは唇を噛んだ。
 彼女たちはなにも知らない。事の真相を知る者はほんの一握りにすぎない。国中が、戦争を仇討ちと解放のためとみなしている。大義を得てしまったから、破滅へ向けて走りはじめた。
 祖国解放を叫ぶ騎士を目にするとき、はたまた王の死を嘆く者と接するとき、ミネルバは彼らとのあいだにどうしようもない隔たりを感じた。自分ひとりがどこか別の世界に取り残されているかに思えた。知られることを恐れていながら、あきらめとともに孤独の殻にかたく閉じこもるようになっていた。
 ミネルバとて、父の死の瞬間を目にしたわけではない。兄の告白に嘘偽りはないと信じざるをえなかっただけだ。いっそ夢であればと願いつづけたが、悪夢は覚めることなく、いまなお非情な現実として眼前を暗くおおっている。
 変えようのない事実と向きあうにつれ、ミネルバにはなにが真実なのか、わからなくなっていた。たしかなのは、父が無残に葬り去られたこと。そしてその死がドルーアと兄に利用されていることだけだった。父の遺志など、もはやこの国にかけらさえ残ってはいない。
「……父上も、憐れなこと」
 重いため息とともに声がもれた。目をしばたたかせるカチュアに、ミネルバはつとめて冷静に取りつくろう。
「生前、父は口癖のように申されておりました。戦だけは回避せねばならぬ、犠牲を払うはわれら王族ではない、すべて民に背負わせることになるのだからと」
「ですがミネルバさま」
 カチュアがうるんだ目をあげた。
「陛下は決意されたのでしょう? ドルーアとの同盟を選ばれたからアカネイアの刺客に命を奪われてしまったのだと」
「ええ、父は苦渋の決断をなさいました。すべては国を……民を守るために……」
 ふるえそうになる声を必死にこらえる。
「アカネイアはわが国を見捨てておきながら、時間を稼ぐことすら許しませんでした。父の死により、われらはアカネイアとの戦争を選ばざるをえなくなりました。ですが父は自分の仇討ちなど望んではおられぬはず。ご自分のことはあまり顧みられぬ方でした」
「はい、陛下はとてもおやさしい方でした」
「父が望んでおられたのは、祖国の発展と平和。そんな父の遺志をわたしは受け継がねばなりません。ゆえにアカネイアとの戦いは、王の仇討ちなどではなく、祖国に栄光をもたらすものでなければならぬと思っています」
 微笑をつくり、カチュアの頬をなでる。
「だからどうか信じてください。どれほどの困難が待ち受けていようとも、その先には必ず光さす未来があるということを」
 カチュアからようやく笑みがこぼれた。それは安堵からではない。よほど諦念に近かった。目を赤くした幼い少女は、覚悟を決めた騎士の面持ちをしていた。

 ひとりになったミネルバは、窓を激しく叩く雨音をぼんやりと聞いていた。
 祖国に栄光をもたらす戦い。
 なんて耳に心地よい言葉だろう。これまでにいくども口にしてきたから、頭で考えるより早く口をついて出る。こうしてまたひとり誰かを騙し、戦場へ送り出してゆく。そんなおのれの狡さに、ミネルバは嫌悪を覚える。
 カチュアたちも普段は明るくふるまってはいるものの、それは不安の裏返しでしかない。いつも言い知れぬ恐れに押し潰されそうになっている。だからこうして戦の気配が迫り来ると、たやすく心を乱されてしまうのだろう。
 同盟が締結されてすぐのころはまだよかった。前線の将兵に死傷者が相次ぎ、日に日に恐怖に駆られる者が増えていた。いまにも王都が戦場になりかねない状況だった。だから同盟の締結は、かりそめの平安を国中にもたらしたのだ。なにより王を殺めたアカネイアへの怒りが、恐怖を一時的にかき消した。
 あれから一年あまりがすぎ、民の興奮は落ちつきを見せている。戦の気配が確実に迫り、その身にこうむる被害が鮮明になるにつれ、堰きとめていた恐怖があふれださんとしている。
 一年は短く、そして長かった。変わらぬ日常にかすかな希望を見出してしまったから、ふとした瞬間に現実を突きつけられるのだ。
 そして一度は失いかけた神への畏敬を思い出すことにもなる。ドルーアに与したわれらは神の罰を受けるのではないか、と。
 恐れを抱いているのはカチュアたちだけではない。勇ましく打倒アカネイアを叫ぶ若い騎士さえ、弱さを見せまいとしているにすぎない。
 恐怖をひた隠して切り立った崖に立ち、ただ前だけを見る。
 それはあのとき、ドルーアに同盟を迫られるなか前線に赴いた討伐軍とよく似ている。ミネルバ自身、前線で傷つき倒れていく者を目の当たりにし、それでも強くあろうとみずからを鼓舞した。国と民を守るためなら命も惜しくないと微笑みさえうかべて言い放つこともあった。
 しょせん、虚勢なのだ。
 人など憐れなほどか弱い生き物にすぎぬというのに。無力な人間が竜の翼を得たところで、なにをなせるというのだろうか。いまでは竜の翼では飽き足らず、竜人族の力そのものを求めたが、その行く末に光はあるのだろうか。
 ドルーア。竜人族の築きし、いにしえの王国。
 マケドニアは帝国の一角をなしたが、その命運は皇帝メディウスの胸三寸で決する。使者が王城を訪れたあの夏の日から、その魔の手はじわじわとマケドニアを侵食し、いまでは恐怖すら感じられぬほどに深く呑みこまれている。
 昏く濁った水底に、救いの光など届くのだろうか……。

 冷めきった茶を飲み干して、ミネルバは窓際に立った。外はまだ嵐のさなかで、突風とともに雨が窓を叩きつけていた。
 音もなく雷光が明滅した。
 軽いめまいを感じ、右手でそっと目元をおおう。
(――よく見ておけ)
 ミシェイルはミネルバの腕をつかんだ。その抗いをものともせず、父の棺へと引きずっていき、その死に顔を見せつけた。
(――これがアカネイアを妄信しつづけた男の憐れな死にざまだ)
 父を手にかけておきながらなんという言いざまだろう。あの時の兄の姿を思い出すたび、怒りのあまり思考が白く染まる。しかしすぐに冴え冴えとした感覚にとらわれる。
 父を手にかけたのはミシェイルだ。それは疑いようもない。
 けれども、兄をそうさせたのはなんだったのか。父を死に追いやったのは、ほんとうに兄なのだろうか。
 幼いころからずっと兄のかたわらにいた。その胸に巣食う怒りと悲しみをともに分け合ってきた。にもかかわらず、アカネイアにのみ向いていた怒りが、父にも向かいはじめたとき、なにもできなかった。ひるがえった敬愛が憎悪へ形を変えるさまを、ただ見守ることしかできなかったのだ。
 メディウスが復活し、同盟が結ばれてしまったとき、ドルーアによって平穏が奪われてしまったと思った。
 けれどほんとうにドルーアが平穏を壊したのだろうか。平和の形をした幻想が崩れ去っただけではなかったか。この国に安寧などはじめからありはしなかったのではないか。
 ああ、真実はいったいどこにあるのだろう。
 真実を見ること。なにも知らずに夢に酔うこと。はたしてどちらが幸せなのだろうか。どちらが、より心安らかでいられるのだろうか。
(――見るな)
 懸命に乞う幼い声が、いまでも悲しく耳朶をうつ。
(――あんなもの、見ちゃだめだ)
 ミネルバは目をひらき、まっすぐに前をみつめた。
 雷光が、東の空をまばゆく切り裂いていた。それこそがいま、この国に届く唯一の光に思えた。(了)
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