Dear my sister
何度も名を呼ばれていることに気づき、あわてて顔をふりあげた。
頭上から、ハーディンのまなざしがそそがれていた。その厳しい目は、どこか父上を思い起こさせる。
直視しかねて、列柱に視線を投げた。
「マルスどの。なにやら上の空のようだったが、疲れておられるのか」
「いや、そんなことはない。ただ……」
「ただ?」
「その……少し考えごとをしていて……」
その先を継ぐことはできなかった。とてもハーディンに言えることではなかった。
ハーディンはさも呆れたというようにため息をついた。
「いまのわれらにとってパレス解放こそが急務。ディールのような戦略的価値のない要塞を攻め落としたのも、パレス周辺のグルニア軍をおびき出す好機と考えればこそのもの。おわかりか」
「もちろんわかっている」
とっさに言い返してしまった。声が少し上ずっているのが自分でもわかった。
ハーディンはしばらくなにも言わなかった。沈黙が肌を刺す。〈草原の狼〉の異名にふさわしい、その鋭い目に見すえられると、なんだか自分なちっぽけな存在に思えてしまう。
「……マルスどの。ニーナさまに託された炎の紋章の重み、貴殿がそれをわかっておられるというのなら、わたしが申しあげることなどなにもない」
どきりとした。きっと彼にはすべてお見通しなのだ。
ハーディンはぼくを残して歩きはじめた。
ディール要塞を制圧して一日がすぎた。ドルーアはぼくたちの動きを察知しているはずで、援軍をパレスに差し向けていることだろう。やつらに猶予を与えてはやっかいなことになる。準備が整いしだい、ただちにここを発たねばならない。
これよりニーナさまのもとへ向かい、今後の予定をお伝えする流れとなっている。それが同盟軍盟主たるぼくの役目だ。気を引き締めねばならないときに上の空になるなんて、ハーディンが怒るのも無理はない。
パレスの解放。
タリスに落ちのびたときは夢物語のように感じられた目的がもうすぐ実を結ぼうとしている。虐げられたアカネイアの民を一刻も早く救わなくては。そう思う気持ちに嘘はないのに、どうにもやりきれない想いがつのる。
レフカンディを抜けたのち、ワーレンではなくメニディヘ向かっていれば、海の向こうになつかしい祖国が見えたはずだ。ここディールからでも船を使えば、十日ほどで王都アンリへたどりつけるだろう。
そんなことを、一日に何度も考えてしまう。
最初からわかっていたことだ。アリティアに向かうのはパレスを解放した後なのだと。けれどそれでは母上と姉上は――
悪い予感ばかりが胸を占める。
いいや、だめだ。こんなことを考えていては。しっかりしなくては。
顔を上げて走り出した。先を行くハーディンを追いかけ、その堂々とした後ろ姿に声をかけようとしたそのとき。
「姉さま!」
高い子供の声が庭園から響いた。
ぼくは立ち止まり、光あふれる中庭を見やった。
幼い姫が両手を姉姫の背に回してしがみついている。声ははっきりと聞きとれないけれど、行かないで、と駄々をこねているようだった。
長いあいだ離れ離れになっていて、ようやく再会できた姉妹たち。姉姫は妹をやさしく抱擁し、そのまるい頬にそっと口づけをする。
なんてほほえましい光景だろう。戦争が起こらなければ、これはずっと途切れることなく存在した日常だったはずだ。
柱廊の先を見やると、ハーディンも足を止めて赤い髪の姉妹たちをみつめていた。さっきのような厳しい目ではなくて、見たこともないおだやかな目つきをしていた。
〈赤い竜騎士〉と呼ばれるマケドニア王女。その名声はタリスにまで届いてはいたけれど、オレルアンにおいてその名は憎悪をこめて語られていた。それも当然のことだ。彼女はオレルアンを攻め落とし、占領した人物だったのだから。
けれどレフカンディの戦いでぼくをみつめていたあの悲しそうな目……。落城のとき、ぼくにそそがれた姉上のまなざしとせつなく重なった。彼女が噂に聞かれるような恐ろしい敵とはとても思えず、天馬騎士の少女の訴えも主君を想う真摯な願いだと信じられた。ディールへのいざないは仕組まれた罠と疑う声もあったが、おのが身を危うくしてまで兵を退いてくれたあの人が、そんな卑劣な手を用いるはずがないと確信があった。
だからぼくはここへ来た。妹姫を救うことで彼女の悲しみが癒されるのであればと思った。再会が叶い、よろこびとともにたがいを抱きしめ合う王女たちを見て、これでよかったのだと安堵していた。
けれど、それは思い上がりだったのかもしれない。人質をとられ、望まぬ戦いを強いられることは深い悲しみではあっただろう。だけど、彼女の苦しみの根源は別のところにあったのだ。
「わたしは兄をこの手で討つつもりです」
ディールを制圧してのち、ミネルバがぼくに言った。やさしげな微笑の奥に悲壮なる決意が見えた。彼女は、さらに深い悲しみを抱えることになったのだと知った。
レナに手を引かれて去ってゆく幼い妹を見送ってから、ミネルバ王女は身をかえした。赤いマントをひるがえし、毅然としたたたずまいでこちらに向かっていたが、ぼくとハーディンに気づくと気恥ずかしげに苦笑をうかべた。
「いまからニーナ王女のもとへ参るところでした。ご一緒しても?」
「もちろんです、一緒に参りましょう」
ニーナさまの待つ南の城館をめざして、三人そろって歩きはじめた。
柱廊の角を曲がったところで、射しこむ陽光のまぶしさに目を細めた。
ディールはなんだか少しタリスと似ている。きらめく日差しとほのかな潮の香り。季節は冬になろうというのに空も庭木も夏のように色あざやかだ。
もうひとつの故郷タリス。ほんの数か月前に後にしたのにずいぶんと遠い過去のように思えてしまう。旅立つぼくらに手をふって声援を送ってくれた町の人々。そのさざめきが波の音とまじりあって、いつまでも耳に残っていた。
なつかしく思うのは幸せだったからなのに、どうしてこんなに胸が苦しくなるのだろう。
感傷をふりはらうように、かたわらのミネルバに明るく話しかけた。
「マリア姫、元気なようでなによりです」
「お気遣いありがとうございます」
「ずっと牢に囚われていたと聞いていたので心配していたのですが」
「……六年です」
少し間をおいて、ミネルバがぽつりと言った。
「わたしにとってはまたたく間に過ぎてしまった時間ですが、幼子にとっては途方もなく長い時間だったはず。だから、もしかしたらもう顔さえ忘れられているのではないかと思っていたのです。仮に覚えていたとしても、いつまでたっても助けにこないわたしを恨んでいるかもしれないと、そんなふうに思ってもいたのですが……」
ミネルバはうつむいた。横髪がさらりと顔にかかった。
「あまりに長い時が過ぎ去ったというのに、あの子は時が止まったかのように変わらぬ笑顔を見せてくれて、ほんとうに驚きました」
「これまで一度も会うことはできなかったのですか」
「ええ、あの子がドルーアに遣られてから一度も……。今年に入ってディールにいることだけは知れたのですが、会うことは禁じられておりましたので、実のところ、生死すら定かではなかったのです。六年ものあいだ、ずっと……」
六年前といえば、ぼくはまだ暗黒竜の復活さえ知らずにおだやかな日々をすごしていたころだ。
当時のマケドニアをよく知るマチスがいろいろと教えてくれた。
王が王太子によって暗殺されたこと。その事件はアカネイアの刺客によるものと民に伝えられていること、国中が打倒アカネイアに沸くなか、末の姫がひっそりいなくなっていたこと。ドルーアに隷属したと思われぬよう、人質の件は伏せられていたこと……。
つくづく嘘で塗り固められた国でしょう、とマチスは飄々と語っていたが、その目はうつろだった。
「もっと早くに手を打てればよかったのですが、わたしの力およばず……。部下たちのなかには、わたしに決断を迫る者たちもいたのです。われらの悲願のためには必要な犠牲であるのだと。……それほどまでに彼らを追いつめてしまったのも、現状を打破する力を持てず、ただ時を浪費してしまったわたしの責任です」
言葉とともに靴音も途絶えた。
ぼくとハーディンは同時に後ろをふりかえった。そこには、胸に手を当て深くこうべをたれる頼りなげな姿があった。
「あなた方には感謝しております。わたしのような者を、よくぞ信じてくださった……」
金の肩章におおわれた肩がふるえていた。
ぼくたちは顔を見合わせた。
「どうか顔を上げてください」
つとめて明るく声をかける。
「たしかに、ドルーアとともに諸国へ侵攻したマケドニアの行いをぼくは認めることはできません。ですがあなたについての噂はこれまでにいくども耳にしていました。そしてレフカンディにおいては、その高潔な行いを目の当たりにしました。だからあなたからの書簡を受けとったとき、そこにつづられた真摯な想いを疑う理由などなかったのです」
「わたしもおなじだ」
ハーディンがぼくの言葉を引きとった。
「ご存じであろうが、アカネイアもオレルアンもけっして一枚岩ではない。ひそかにドルーアと通じ、民に害をなすものもいる。こうして国を挙げて解放同盟軍を立ち上げたいまでも、騎士の誇りを忘れ、低きに流れる者もめずらしくはない。われらが真に必要とするのは、志をおなじくし、困難に立ち向かう気概をもった者だ。貴殿のような者こそ、同志と呼ぶにふさわしいとわたしは思っている」
ようやく顔を上げたミネルバに、ハーディンは笑みを見せた。
うれしくなってぼくも笑った。
ディール行きを後押ししてくれたのはハーディンだった。ずっとマケドニア軍と戦ってきた英雄の言葉だからこそ、異を唱える者たちの声を退ける力があった。
……少なくとも、あの場においては。
「人の心は道理で動きはしない、感情で動くのだ」
モスティン王が折に触れて口にしていた言葉を、タリスを発ってから痛感している。
昨日、ミネルバ王女麾下のマケドニア軍を同盟軍に加えるとぼくは決定を下した。ニーナさまの許しを得ていたにもかかわらず、強い反発心をあらわにする者もいた。
あれほどのことをしておいて、いまさらアカネイアに鞍替えするのか。人質がなんだというのか。真に国のためを想うなら、早々にドルーアを離脱すべきであっただろう。
マケドニアの事情を知ってなお、彼らの感情が大きくゆらぐことはなかった。オレルアン騎士たちの激情にふれたとき、ドルーア打倒のため一丸となっていた同盟軍に亀裂が生じるのをまざまざと感じた。その亀裂は今後も深く広がっていくのかもしれない。
それでもぼくは、この決断を間違ったものとは思っていない。これからぼくたちが戦っていく敵にも、その立場と良心のはざまで苦しんでいる者が大勢いることだろう。
抵抗すれば愛する者が殺される。祖国もマムクートに蹂躙される。打開する手立てがないから、ただ命じられるがままに戦うしかない、そんな者たちをぼくたちは手にかけてゆくことになる。
マチスが言っていた。
「俺はあの国がどうなろうと知ったことじゃないし、守りたいものもない。戦争が始まってからずっといい加減に生きてきた。だけどね王子、俺より先に死んでいったやつらは違う。あいつらはみんななにかを大切に思って戦っていたよ」
その悲痛な嘆きを耳にしたとき、旅立つ前にモスティン王からかけられた言葉がようやく自分のなかでたしかな形となるのを感じた。
「ドルーアに与する者はみな敵。戦いに犠牲はつきもの。そう割り切ることはたやすい。だが、それではなにも変わりはせぬだろう。たとえ戦いに勝利しようともな」
ただドルーアを滅ぼすだけでは、あらたな悲しみを生み出すばかり。それならば、ぼくになせることはなんなのだろう。
この戦いに終焉が訪れるとき、ぼくはその答えを導き出せているのだろうか……。
* * *
貴賓室に足を踏み入れたとき、海を望むうつくしい眺めがぼくの目に飛びこんできた。一瞬、部屋と外とをへだてるものがなにもないかに見えて驚いた。窓にはガラスがはめこまれていたのだけれど、こんなに大きくて透きとおったガラスを見るのは初めてで、思わず息がもれた。さすがはアカネイア五大侯の本城だ。
ディール城は、オーエン伯爵が祖国に殉じられ、パレスが落ちた後も荒らされることがなかった。ジューコフ将軍はずいぶんな好事家であったらしく、王家の紋章が刻まれた調度品をパレスから運ばせ、みずからの居城をまるで王宮と見まごうような設えに整えていたという。そのせいでこの部屋がニーナさまをお迎えするにふさわしいものとなっている。それがなんとも皮肉に思えた。
ニーナさまは、あたたかな陽光の降りそそぐ窓際で、肘掛椅子にゆったりと身をあずけておられた。
ぼくたちは進み出て、ニーナさまに礼をとった。
形式ばったあいさつもそこそこに、ミネルバが口を切った。
「パレス攻略にあたり、わたしの知るかぎりの情報をお伝えいたしましょう。わたしが離反したことで多少なりとも変化はあるやもしれませんが、パレスは山に囲まれた地形ゆえ、いまさら防衛策に大きな変更を加えようもないでしょう。それよりも気がかりなのは……城内に囚われている貴族たちです」
ニーナさまのお顔がさっとくもった。
ミネルバは沈鬱そうに言いよどんだ。
「この半年のあいだにいくどか捕虜の処刑が行われてます。……先月も、パレスを脱走した者がおり、その見せしめとして五人の騎士が」
ああっ、と悲痛にニーナさまは顏をおおわれた。
「わたくしがパレスを脱したのち、彼らが責めを負わされるのではないかと危惧しておりましたが……」
「あなたに忠義を誓う騎士たちを、一人でも多く救う方策をとりたいと思っております」
「なにか策がおありか」
問いかけるハーディンに、ミネルバはうなづいた。
「先刻、配下の者より伝令が届きました。しばし引き離されていた騎士団が、一部ではあるもののパレスにて合流することが叶います」
「よもや軍を脱走したと?」
「長きにわたり艱難辛苦に耐えてきた者たちです。彼らは、たとえわたしの意思に反しようとも打倒ドルーアのため立ちあがろうとしておりました。枷を解き放たれた精鋭の部隊、かならずやお役に立てましょう」
「空を制するマケドニア騎士団の力、パレス防衛網を突破するにこれほど頼りになるものはない。だが……」
ハーディンが神妙な顔になる。
「それをもって、貴国は完全に同盟軍と帝国軍とに分かたれることとなる」
「もとより承知のこと。それに……あの国はとうの昔に崩壊しているのですから」
ミネルバはわずかに目を伏せた。
「かつてマケドニアを形作っていた器は、兄によって破壊されました。しかしその器は、大国の思惑と民の幻想によって作られしもの。父の代においても、すでに砕けんばかりにひび割れていたように思います。兄はアカネイアへの復讐を望んだ。そんな兄に賛同する者も少なからずいた。けっして、ドルーアの言いなりになっていたわけではない。それもまたわが国の側面なのです」
ミネルバが滔々と語るにつれ、ニーナさまは苦悩するかのように眉をよせられた。
「マケドニアのわが国への遺恨、重々理解しているつもりです」
ニーナさまはかぼそい息を吐き、遠い目をされた。
「グルニアも幼い王子と王女が囚われて、王の意思などあってないようなものだそうですが、かといってわが国を蹂躙したグルニア兵の所業、ドルーアの命に従っていただけではないと思っています」
「……グルニアの事情、よくご存じでいらっしゃるのですね」
ミネルバが、なにやら含んだ物言いをした。
ニーナさまはそれに微笑でもってこたえられた。
「パレスはグルニア軍に占拠されておりましたから、将校から恨み言を耳にすることもありました。パレスが陥落してすぐのこと、殺された父と母の首級が城門にさらされていたのですが、あの者たちはわたくしを城門まで引きずってゆき、父と母に対面させたのです。あのときのわたくしへ向けられたグルニア兵たちの視線には、憎悪と愉悦がまじっておりました。いったいなにが彼らをそうさせるのか……囚われていた二年間は、それを考えるよい機会となりました」
柔和でありながら威厳あるお声だった。ニーナさまが惨劇の様子を語られるなか、ぼくは当時のことを思い出していた。
アリティアが滅び、ぼくが東方へ落ちのびているあいだ、パレスでは国王陛下や王妃さまだけでなく、王家に連なる方々がみな処刑され、ニーナさまおひとりだけが残された。血の粛清の噂は、はるか遠く海をへだてたタリスにも届いた。伝え聞く陛下とお妃さまの最期はあまりに惨く、とても聞いてはいられないものだった。
それ以上につらかったのは、祖国と父上に対する誹りだった。アリティアが不甲斐なかったせいでアカネイアが滅びた。城砦を出入りしていた商人が好き勝手に言い合っている場に居合わせてしまうことが何度かあった。申しわけなさよりも腹立ちをおぼえてしまうぼくは、聖王国への敬意に欠けているのかもしれないと思った。
アカネイアの悲劇を聞くたびに祖国への想いがあふれた。滅んだ国の行く末はきっとどこも似たようなものだ。いまごろ祖国は苦難に見舞われているのだろう。あれから母上と姉上はどうなったのだろう。せめて様子が知りたい。そう願いつづけてきたけれど、この二年、アリティアの様子をぼくが知ることはできなかった。
オレルアンを発つ前、ジェイガンが城に行商を呼び寄せてくれて、ようやく彼らから祖国の様子を聞くことができた。
王都アンリはいま、ドルーア傘下のグルニア軍の占領下にあるという。城下への出入りが許されたところで商売はもっぱらグルニア兵相手のもの。王都の民はみな暗い顔をしていて、うつむいたまま足早に立ち去る姿しか覚えていないと言った。周辺の村々にも容赦なくドルーアの手は伸び、掠奪されつくした村にはもはや盗賊さえも寄りつかなくなったらしい。
一番気がかりだった母上と姉上の安否は、昨日ようやく知れた。
「リーザ王妃とエリス王女は生きておられます」
ミネルバのその言葉に、涙がこぼれそうになった。母上と姉上はドルーアに連れ去られてはおらず、落城のときからずっとアリティア城に囚われているそうだ。ただそれ以上のことはドルーアの中枢にいたミネルバさえ知ることは叶わなかったらしい。
「ドルーアは卑劣ではありますが、現状においておふたりを手にかけるような愚は犯さぬでしょう。ただ……このまま同盟軍が進軍をつづけてゆけば、あなたへの切り札とされる可能性は否定できぬかと」
ミネルバはぼくを気遣いながらも、最悪の事態を覚悟しておくよう諭してくれた。
タリスを発ったとき、ぼくの胸は歓喜にみちていた。祖国解放への道のりが果てしなく遠くとも、この二年、待ち望んでいた日がようやくやってきたのだと思った。
オレルアンを解放し、生き残ったわずかばかりの宮廷騎士団が同盟軍と呼ばれるようになった。そして当たり前のようにアカネイアに向けて進軍することが決まったとき、胸に暗い影がおおいかぶさってくるのを感じた。ぼくはそれがなんなのか考えないようにしていた。
けれど昨日ミネルバと話したことで、目をそらしてはいられなくなった。オレルアンは解放されたけれど、アリティアは依然としてドルーアの支配下に置かれたままだ。アリティアに背を向けてアカネイアへ向かうことを、ぼくは心の奥底では納得できていなかったのだ。
母上と姉上だけじゃない。アリティアの民すべてが、ぼくにとって人質のようなもの。もしパレスの解放が叶ったとき、ドルーアはどんな卑劣な手段に出てくるのだろうか。そのときぼくは、どんな決断を下すのだろう。
国を追われたあの日、アリティアを取り戻すまではどんな苦難にも耐えようと誓った。あの日の誓いを胸にずっと戦いつづけてきた。でもまだなにも変わっていない。もう十四の子供じゃないのに、まだ祖国のためになにもなすことができていない。
焦りがつのり、いらだちに変わる。モスティン王ならこんなぼくをやさしく叱責してくれるだろう。それでもあの落城の日とおなじぐらいに胸に怒りが燃えたぎるときがある。憎しみに囚われてはいけない、そう自分に言い聞かせても、あの日に逆戻りしてしまいそうになる。
ドルーアがアンリの国を滅ぼしたいのはわかる。だけどグルニアに恨まれるようなことはしていない。
グルニアは、裏切ったグラとともに父上を死に追いやった。
マケドニアは父上と直接戦うことはなかったけれど、オレルアン騎士団の南下を妨害した。そのせいでパレス救援に向かうアリティア軍が孤立無援となり、父上がメニディの戦いで敗れる遠因になったのだとカインとアベルが悔しげに言っていた。
アリティアが陥落してから、ドルーアはパレスに総攻撃をかけ、グルニア黒騎士団の猛攻とマケドニア竜騎士団の機動力によって防衛の中枢が崩れ去り、ドルーアは労せず聖都を手に入れるにいたったという。彼らは体よく利用されたのだとじいが断じていた。
「どうしてあなた方は……」
話はすでに救出作戦へ移ろうとしていたのに、ぼくはミネルバに問いかけていた。
「どうしてグルニアとマケドニアは、ドルーアに与したのですか」
ハーディンの目がこちらに向くのを感じた。ぼくの問いは、あまりに場違いなものだった。それでも聞かずにはいられなかった。
「両国のアカネイアへの遺恨は、ぼくも知っています。ですがあなた方はドルーアこそ憎んでいるのではないのですか。ドルーアに与したところでやつらに利用されただけではありませんか。同盟などやつらを利するだけだというのに、どうして――」
「ドルーアを憎みつづけるには、百年という年月はあまりに長すぎたのです」
ミネルバの赤琥珀のような瞳がぼくをとらえた。
「対して、五九〇年の大飢饉の記憶は、わが国の民にとってあまりに鮮明に残っておりました。六年前、マケドニアはドルーアの侵攻を受けており、あわや王都が火の海になろうかという状況にありました。アカネイアに援軍を乞うたものの色よい返事は得られず、追いつめられたわれらにとって、ドルーアからもたらされた同盟の提案は一筋の光でもあったのです」
同盟が、光……。
ぼくは息をのんだ。
「ただ、アリティアが……コーネリアスさまがわれらのために派兵してくださる動きもあったのです。そのこと、王子はご存じでしょうか」
その話は少し前にジェイガンから聞いていた。
ぼくがうなづくと、ミネルバはつづけた。
「われらは危機に瀕してはいたものの、けっして希望が断たれていたわけではありませんでした。わたしは援軍を待ちたいと思い、時間を稼ぐべく国境防衛に赴きました。そのさなかのことでした。父がアカネイアの刺客に暗殺されたとの報を受けたのは……。いったいなにが起こっているのかわからず、急ぎ城へ戻ったとき、すでに同盟は結ばれ、妹はドルーアに遣られた後でした」
すでに知る話ではあった。けれどこうして直接ミネルバの口から語られる当時の状況を耳にすれば、胸に迫るものがあった。
「兄が父を手にかけてまでドルーアに与したのは、アカネイアへの遺恨を晴らさんとする気持ちが大きかったゆえと思います。同盟締結に異を唱えていたわたしとて、アカネイアに含むものがないと申せば嘘になります。むしろわが国では、そうでない者のほうがめずらしいでしょう。だからこそ、アイオテの興した国でありながらドルーアに与したのです。兄は急進派の貴族たちの支持のもと、自身に楯突く者たちを謀殺し、はたまた多くの貴族子弟らを戦場に追いやり、反対勢力を国家の中枢から遠ざけました。王位簒奪者ゆえに自身の地位を盤石にする必要に駆られてのことでしょうが、それはまったく悪手であったと言わざるをえないでしょう。ドルーアの思うつぼだったとも言えるやもしれません。有力貴族が力を失った結果、ドルーアを討つための力もなくしてしまったのですから」
「ドルーアを、討つ…?」
思いもかけぬ言葉に、ぼくはニーナさまとハーディンを順に見た。
どうやら驚いたのはぼくだけのようだった。頭が混乱してくる。
「……ではマケドニアは……ミシェイル王子は、ドルーアを裏切るつもりなのですか」
しばしの沈黙をはさんで、ミネルバはゆっくりと口をひらいた。
「あくまで当初の構想は、ということです。いまとなってはそれも叶わぬ夢。ドルーアから寝返ったわたしの行いも、しょせんは負けを悟ったがゆえの悪あがきとでも思っていただいてけっこうです。遅きに失しているのやもしれませんが、わたしが討つべきはドルーアであることに変わりはありません。六年前からずっと」
ミネルバはニーナさまとハーディンに向きなおった。
「わたしは正道のみを歩んできた身ではありません。おふたりはわたしの罪をよくご存じのことと思います。それでもわたしには責務があります。王家の者が犯したあやまちを、その罪を、なにも知らぬ力なき民にまで負わせることはできません。わが祖国はドルーアに蹂躙され、すでに崩壊しました。ですが、民を守るために、祖国にあらたな器を作りたいと思います。そのために、わたしの持てる力のすべてをあなた方に捧げる所存です」
「民を想うあなたの気持ちはよくわかった」
ハーディンの声には、偽りない賛辞がにじんでいた。
「なればこそ、勝利の暁にはあなたがその器を手中に収められればよい」
ミネルバはさびしげに笑い、かぶりをふった。
ああ、またあの微笑だ。
「そのつもりはありません。わたしは祖国があらたな道を歩みだすための礎にすぎぬのですから」
「どうして、あなたはそんなふうに……」
思わずもれたつぶやきに、ミネルバはやさしくまなじりを下げてぼくを見た。
「失礼を承知で申しあげますが……二年前、窮地に立たされたコーネリアスさまが、たとえ一時であってもアカネイアを裏切りドルーアに与したならば、あなたを見る民の目はいまとおなじと思われますか」
「それは……」
言葉につまった。答えは出ていたけれど、口にはできなかった。黙したまま、ぼくにそそがれるまっすぐな目をみつめかえした。その目をそらすことは、とても卑怯なことのように思えた。
「わが国は越えてはならぬ一線を侵したのです。その責めは、この身をもって負ってしかるべきでしょう」
ミネルバは窓の外に視線をやった。
透きとおったガラスの向こう側。細い枝にとまっていたつがいの鳥が仲良く空へと飛んでいった。
その様子をみつめるミネルバの横顔は、強い光のせいで、かえって陰りをおびていた。
まばゆくかがやく光と、ただよう暗い陰影。そのはざまに、いまぼくは立っている。
* * *
――親愛なる姉上。
ぼくはいま、この戦いの意味について考えています。
タリスを旅立ったときは、アカネイアを守り、ドルーアを滅ぼすことがアリティア王子たるぼくの唯一の使命と疑いなく思っておりました。あの日、パレスを守るべくグルニア軍との戦いに赴いた父上もそうだったと思っていました。……そう思いこもうとしていただけかもしれません。
ミネルバを見ていて思うのです。
二年前のパレス総攻撃には、彼女も竜騎士団を率いて加わっていました。妹姫にあれほど深い慈愛を見せる彼女も、諸国に攻撃を加え、人々を恐怖に陥れた軍司令官なのです。オレルアンを占領し、ハーディンたちを窮地に追いやり、さらにはニーナさまのもとに集った義勇兵を壊滅させたのもまた事実。彼女にまつわる恐ろしい噂はけっして偽りではありません。
けれども、ドルーアの横暴を制していた清廉なふるまいは広く知られていて、民から彼女の助命を乞う声さえ聞こえてきたほどでした。
なぜあのような人が侵略と殺戮に手を染めるにいたったのでしょうか。
望まざる戦いに身を投じねばならぬ者たちの悲哀と苦しみは、きっとほんとうの意味ではぼくには理解できていません。
あの敗北の日から毎日のように自分の無力さを嘆き、憎しみに囚われ、復讐のために戦おうとしていました。そんなぼくの目の前に広がる世界は、小さな壁の穴からのぞいたものにすぎなくて、この大戦を引き起こした過去の歴史と勝利ゆえの代償、そして諸国の行く末を、広く見わたすことなどできはしないのです。
ぼくはアリティアで多くの者たちに守られて育ちました。タリスでも、とんだ厄介者であったのにモスティン王から過分なまでの庇護を受けておりました。シーダもぼくをやさしく励ましつづけてくれました。あまりに恵まれすぎていて、光ある場所にばかりいられたから、それゆえに生まれる暗い影から目をそらしてしまうのかもしれません。
……ぼくは弱い。あまりにも無力だったから、あなたを、母上を、そして多くの騎士たちを犠牲にして逃げることしかできませんでした。
彼らに報いるためにも世界中の人を救いたい、その気持ちに嘘はありません。けれど、ぼくにとって大事なのはアリティアの民、そしてなにより母上と姉上のおふたりなのです。
ぼくが自分の心に素直に従うことができるなら、いますぐにでもアリティアへ飛んでいき、城に巣食うならず者たちを蹴散らして、あなたと母上をお助けに参上したい。そんな想いで胸はいっぱいです。
だからニーナさまに託された炎の紋章の重みをまだ受け止めきれずにいます。
あのときアリティアを落ちのびた宮廷騎士団は、オレルアン騎士団と合流してアカネイア解放同盟軍となり、そこにはミネルバ王女率いるマケドニア騎士団までも加わりました。志を同じくする者たちが、炎の紋章のもとに集い、ドルーアに対抗するに足る勢力に拡大しつつあります。
その同盟軍を、聖アカネイアの代理としてぼくが率いているという事実に、ふとした瞬間、恐ろしくなります。民衆が希望にみちた笑顔を向けてくれるのは、ぼくに勇者アンリの幻影を重ねているからにほかなりません。先祖の功績ゆえに盟主に祭り上げられただけだとわかっているから、彼らの期待をまっすぐに受けとめることができないのです。
それでも、ぼくは前を向いて歩いてゆきます。どんなに未熟でも、ぼくはアカネイアの代理、炎の紋章を託された同盟軍の盟主です。かならずや苦境にあえぐ民の希望となってみせましょう。
そして、ぼくのために命を懸けてくれた者たちのため、この悲しい戦いの意味を見いだしていこうと思います。迷いながらでも一歩ずつ前に進んでゆけば、なんらかの答えがつかめると信じています。それが、いまのぼくにできるすべてです。
姉上、もう少し待っていてください。パレスを解放したら、あなたを助けにまいります。お別れしたときは、あなたに守られることしかできない無力な子供でしたが、今度はぼくがあなたをお守りいたします。強くなるつもりです。胸を張ってあなたの前に立てるように。立派になったとあなたに思ってもらえるように。
ですからそれまで、どうか……――
頭上から、ハーディンのまなざしがそそがれていた。その厳しい目は、どこか父上を思い起こさせる。
直視しかねて、列柱に視線を投げた。
「マルスどの。なにやら上の空のようだったが、疲れておられるのか」
「いや、そんなことはない。ただ……」
「ただ?」
「その……少し考えごとをしていて……」
その先を継ぐことはできなかった。とてもハーディンに言えることではなかった。
ハーディンはさも呆れたというようにため息をついた。
「いまのわれらにとってパレス解放こそが急務。ディールのような戦略的価値のない要塞を攻め落としたのも、パレス周辺のグルニア軍をおびき出す好機と考えればこそのもの。おわかりか」
「もちろんわかっている」
とっさに言い返してしまった。声が少し上ずっているのが自分でもわかった。
ハーディンはしばらくなにも言わなかった。沈黙が肌を刺す。〈草原の狼〉の異名にふさわしい、その鋭い目に見すえられると、なんだか自分なちっぽけな存在に思えてしまう。
「……マルスどの。ニーナさまに託された炎の紋章の重み、貴殿がそれをわかっておられるというのなら、わたしが申しあげることなどなにもない」
どきりとした。きっと彼にはすべてお見通しなのだ。
ハーディンはぼくを残して歩きはじめた。
ディール要塞を制圧して一日がすぎた。ドルーアはぼくたちの動きを察知しているはずで、援軍をパレスに差し向けていることだろう。やつらに猶予を与えてはやっかいなことになる。準備が整いしだい、ただちにここを発たねばならない。
これよりニーナさまのもとへ向かい、今後の予定をお伝えする流れとなっている。それが同盟軍盟主たるぼくの役目だ。気を引き締めねばならないときに上の空になるなんて、ハーディンが怒るのも無理はない。
パレスの解放。
タリスに落ちのびたときは夢物語のように感じられた目的がもうすぐ実を結ぼうとしている。虐げられたアカネイアの民を一刻も早く救わなくては。そう思う気持ちに嘘はないのに、どうにもやりきれない想いがつのる。
レフカンディを抜けたのち、ワーレンではなくメニディヘ向かっていれば、海の向こうになつかしい祖国が見えたはずだ。ここディールからでも船を使えば、十日ほどで王都アンリへたどりつけるだろう。
そんなことを、一日に何度も考えてしまう。
最初からわかっていたことだ。アリティアに向かうのはパレスを解放した後なのだと。けれどそれでは母上と姉上は――
悪い予感ばかりが胸を占める。
いいや、だめだ。こんなことを考えていては。しっかりしなくては。
顔を上げて走り出した。先を行くハーディンを追いかけ、その堂々とした後ろ姿に声をかけようとしたそのとき。
「姉さま!」
高い子供の声が庭園から響いた。
ぼくは立ち止まり、光あふれる中庭を見やった。
幼い姫が両手を姉姫の背に回してしがみついている。声ははっきりと聞きとれないけれど、行かないで、と駄々をこねているようだった。
長いあいだ離れ離れになっていて、ようやく再会できた姉妹たち。姉姫は妹をやさしく抱擁し、そのまるい頬にそっと口づけをする。
なんてほほえましい光景だろう。戦争が起こらなければ、これはずっと途切れることなく存在した日常だったはずだ。
柱廊の先を見やると、ハーディンも足を止めて赤い髪の姉妹たちをみつめていた。さっきのような厳しい目ではなくて、見たこともないおだやかな目つきをしていた。
〈赤い竜騎士〉と呼ばれるマケドニア王女。その名声はタリスにまで届いてはいたけれど、オレルアンにおいてその名は憎悪をこめて語られていた。それも当然のことだ。彼女はオレルアンを攻め落とし、占領した人物だったのだから。
けれどレフカンディの戦いでぼくをみつめていたあの悲しそうな目……。落城のとき、ぼくにそそがれた姉上のまなざしとせつなく重なった。彼女が噂に聞かれるような恐ろしい敵とはとても思えず、天馬騎士の少女の訴えも主君を想う真摯な願いだと信じられた。ディールへのいざないは仕組まれた罠と疑う声もあったが、おのが身を危うくしてまで兵を退いてくれたあの人が、そんな卑劣な手を用いるはずがないと確信があった。
だからぼくはここへ来た。妹姫を救うことで彼女の悲しみが癒されるのであればと思った。再会が叶い、よろこびとともにたがいを抱きしめ合う王女たちを見て、これでよかったのだと安堵していた。
けれど、それは思い上がりだったのかもしれない。人質をとられ、望まぬ戦いを強いられることは深い悲しみではあっただろう。だけど、彼女の苦しみの根源は別のところにあったのだ。
「わたしは兄をこの手で討つつもりです」
ディールを制圧してのち、ミネルバがぼくに言った。やさしげな微笑の奥に悲壮なる決意が見えた。彼女は、さらに深い悲しみを抱えることになったのだと知った。
レナに手を引かれて去ってゆく幼い妹を見送ってから、ミネルバ王女は身をかえした。赤いマントをひるがえし、毅然としたたたずまいでこちらに向かっていたが、ぼくとハーディンに気づくと気恥ずかしげに苦笑をうかべた。
「いまからニーナ王女のもとへ参るところでした。ご一緒しても?」
「もちろんです、一緒に参りましょう」
ニーナさまの待つ南の城館をめざして、三人そろって歩きはじめた。
柱廊の角を曲がったところで、射しこむ陽光のまぶしさに目を細めた。
ディールはなんだか少しタリスと似ている。きらめく日差しとほのかな潮の香り。季節は冬になろうというのに空も庭木も夏のように色あざやかだ。
もうひとつの故郷タリス。ほんの数か月前に後にしたのにずいぶんと遠い過去のように思えてしまう。旅立つぼくらに手をふって声援を送ってくれた町の人々。そのさざめきが波の音とまじりあって、いつまでも耳に残っていた。
なつかしく思うのは幸せだったからなのに、どうしてこんなに胸が苦しくなるのだろう。
感傷をふりはらうように、かたわらのミネルバに明るく話しかけた。
「マリア姫、元気なようでなによりです」
「お気遣いありがとうございます」
「ずっと牢に囚われていたと聞いていたので心配していたのですが」
「……六年です」
少し間をおいて、ミネルバがぽつりと言った。
「わたしにとってはまたたく間に過ぎてしまった時間ですが、幼子にとっては途方もなく長い時間だったはず。だから、もしかしたらもう顔さえ忘れられているのではないかと思っていたのです。仮に覚えていたとしても、いつまでたっても助けにこないわたしを恨んでいるかもしれないと、そんなふうに思ってもいたのですが……」
ミネルバはうつむいた。横髪がさらりと顔にかかった。
「あまりに長い時が過ぎ去ったというのに、あの子は時が止まったかのように変わらぬ笑顔を見せてくれて、ほんとうに驚きました」
「これまで一度も会うことはできなかったのですか」
「ええ、あの子がドルーアに遣られてから一度も……。今年に入ってディールにいることだけは知れたのですが、会うことは禁じられておりましたので、実のところ、生死すら定かではなかったのです。六年ものあいだ、ずっと……」
六年前といえば、ぼくはまだ暗黒竜の復活さえ知らずにおだやかな日々をすごしていたころだ。
当時のマケドニアをよく知るマチスがいろいろと教えてくれた。
王が王太子によって暗殺されたこと。その事件はアカネイアの刺客によるものと民に伝えられていること、国中が打倒アカネイアに沸くなか、末の姫がひっそりいなくなっていたこと。ドルーアに隷属したと思われぬよう、人質の件は伏せられていたこと……。
つくづく嘘で塗り固められた国でしょう、とマチスは飄々と語っていたが、その目はうつろだった。
「もっと早くに手を打てればよかったのですが、わたしの力およばず……。部下たちのなかには、わたしに決断を迫る者たちもいたのです。われらの悲願のためには必要な犠牲であるのだと。……それほどまでに彼らを追いつめてしまったのも、現状を打破する力を持てず、ただ時を浪費してしまったわたしの責任です」
言葉とともに靴音も途絶えた。
ぼくとハーディンは同時に後ろをふりかえった。そこには、胸に手を当て深くこうべをたれる頼りなげな姿があった。
「あなた方には感謝しております。わたしのような者を、よくぞ信じてくださった……」
金の肩章におおわれた肩がふるえていた。
ぼくたちは顔を見合わせた。
「どうか顔を上げてください」
つとめて明るく声をかける。
「たしかに、ドルーアとともに諸国へ侵攻したマケドニアの行いをぼくは認めることはできません。ですがあなたについての噂はこれまでにいくども耳にしていました。そしてレフカンディにおいては、その高潔な行いを目の当たりにしました。だからあなたからの書簡を受けとったとき、そこにつづられた真摯な想いを疑う理由などなかったのです」
「わたしもおなじだ」
ハーディンがぼくの言葉を引きとった。
「ご存じであろうが、アカネイアもオレルアンもけっして一枚岩ではない。ひそかにドルーアと通じ、民に害をなすものもいる。こうして国を挙げて解放同盟軍を立ち上げたいまでも、騎士の誇りを忘れ、低きに流れる者もめずらしくはない。われらが真に必要とするのは、志をおなじくし、困難に立ち向かう気概をもった者だ。貴殿のような者こそ、同志と呼ぶにふさわしいとわたしは思っている」
ようやく顔を上げたミネルバに、ハーディンは笑みを見せた。
うれしくなってぼくも笑った。
ディール行きを後押ししてくれたのはハーディンだった。ずっとマケドニア軍と戦ってきた英雄の言葉だからこそ、異を唱える者たちの声を退ける力があった。
……少なくとも、あの場においては。
「人の心は道理で動きはしない、感情で動くのだ」
モスティン王が折に触れて口にしていた言葉を、タリスを発ってから痛感している。
昨日、ミネルバ王女麾下のマケドニア軍を同盟軍に加えるとぼくは決定を下した。ニーナさまの許しを得ていたにもかかわらず、強い反発心をあらわにする者もいた。
あれほどのことをしておいて、いまさらアカネイアに鞍替えするのか。人質がなんだというのか。真に国のためを想うなら、早々にドルーアを離脱すべきであっただろう。
マケドニアの事情を知ってなお、彼らの感情が大きくゆらぐことはなかった。オレルアン騎士たちの激情にふれたとき、ドルーア打倒のため一丸となっていた同盟軍に亀裂が生じるのをまざまざと感じた。その亀裂は今後も深く広がっていくのかもしれない。
それでもぼくは、この決断を間違ったものとは思っていない。これからぼくたちが戦っていく敵にも、その立場と良心のはざまで苦しんでいる者が大勢いることだろう。
抵抗すれば愛する者が殺される。祖国もマムクートに蹂躙される。打開する手立てがないから、ただ命じられるがままに戦うしかない、そんな者たちをぼくたちは手にかけてゆくことになる。
マチスが言っていた。
「俺はあの国がどうなろうと知ったことじゃないし、守りたいものもない。戦争が始まってからずっといい加減に生きてきた。だけどね王子、俺より先に死んでいったやつらは違う。あいつらはみんななにかを大切に思って戦っていたよ」
その悲痛な嘆きを耳にしたとき、旅立つ前にモスティン王からかけられた言葉がようやく自分のなかでたしかな形となるのを感じた。
「ドルーアに与する者はみな敵。戦いに犠牲はつきもの。そう割り切ることはたやすい。だが、それではなにも変わりはせぬだろう。たとえ戦いに勝利しようともな」
ただドルーアを滅ぼすだけでは、あらたな悲しみを生み出すばかり。それならば、ぼくになせることはなんなのだろう。
この戦いに終焉が訪れるとき、ぼくはその答えを導き出せているのだろうか……。
* * *
貴賓室に足を踏み入れたとき、海を望むうつくしい眺めがぼくの目に飛びこんできた。一瞬、部屋と外とをへだてるものがなにもないかに見えて驚いた。窓にはガラスがはめこまれていたのだけれど、こんなに大きくて透きとおったガラスを見るのは初めてで、思わず息がもれた。さすがはアカネイア五大侯の本城だ。
ディール城は、オーエン伯爵が祖国に殉じられ、パレスが落ちた後も荒らされることがなかった。ジューコフ将軍はずいぶんな好事家であったらしく、王家の紋章が刻まれた調度品をパレスから運ばせ、みずからの居城をまるで王宮と見まごうような設えに整えていたという。そのせいでこの部屋がニーナさまをお迎えするにふさわしいものとなっている。それがなんとも皮肉に思えた。
ニーナさまは、あたたかな陽光の降りそそぐ窓際で、肘掛椅子にゆったりと身をあずけておられた。
ぼくたちは進み出て、ニーナさまに礼をとった。
形式ばったあいさつもそこそこに、ミネルバが口を切った。
「パレス攻略にあたり、わたしの知るかぎりの情報をお伝えいたしましょう。わたしが離反したことで多少なりとも変化はあるやもしれませんが、パレスは山に囲まれた地形ゆえ、いまさら防衛策に大きな変更を加えようもないでしょう。それよりも気がかりなのは……城内に囚われている貴族たちです」
ニーナさまのお顔がさっとくもった。
ミネルバは沈鬱そうに言いよどんだ。
「この半年のあいだにいくどか捕虜の処刑が行われてます。……先月も、パレスを脱走した者がおり、その見せしめとして五人の騎士が」
ああっ、と悲痛にニーナさまは顏をおおわれた。
「わたくしがパレスを脱したのち、彼らが責めを負わされるのではないかと危惧しておりましたが……」
「あなたに忠義を誓う騎士たちを、一人でも多く救う方策をとりたいと思っております」
「なにか策がおありか」
問いかけるハーディンに、ミネルバはうなづいた。
「先刻、配下の者より伝令が届きました。しばし引き離されていた騎士団が、一部ではあるもののパレスにて合流することが叶います」
「よもや軍を脱走したと?」
「長きにわたり艱難辛苦に耐えてきた者たちです。彼らは、たとえわたしの意思に反しようとも打倒ドルーアのため立ちあがろうとしておりました。枷を解き放たれた精鋭の部隊、かならずやお役に立てましょう」
「空を制するマケドニア騎士団の力、パレス防衛網を突破するにこれほど頼りになるものはない。だが……」
ハーディンが神妙な顔になる。
「それをもって、貴国は完全に同盟軍と帝国軍とに分かたれることとなる」
「もとより承知のこと。それに……あの国はとうの昔に崩壊しているのですから」
ミネルバはわずかに目を伏せた。
「かつてマケドニアを形作っていた器は、兄によって破壊されました。しかしその器は、大国の思惑と民の幻想によって作られしもの。父の代においても、すでに砕けんばかりにひび割れていたように思います。兄はアカネイアへの復讐を望んだ。そんな兄に賛同する者も少なからずいた。けっして、ドルーアの言いなりになっていたわけではない。それもまたわが国の側面なのです」
ミネルバが滔々と語るにつれ、ニーナさまは苦悩するかのように眉をよせられた。
「マケドニアのわが国への遺恨、重々理解しているつもりです」
ニーナさまはかぼそい息を吐き、遠い目をされた。
「グルニアも幼い王子と王女が囚われて、王の意思などあってないようなものだそうですが、かといってわが国を蹂躙したグルニア兵の所業、ドルーアの命に従っていただけではないと思っています」
「……グルニアの事情、よくご存じでいらっしゃるのですね」
ミネルバが、なにやら含んだ物言いをした。
ニーナさまはそれに微笑でもってこたえられた。
「パレスはグルニア軍に占拠されておりましたから、将校から恨み言を耳にすることもありました。パレスが陥落してすぐのこと、殺された父と母の首級が城門にさらされていたのですが、あの者たちはわたくしを城門まで引きずってゆき、父と母に対面させたのです。あのときのわたくしへ向けられたグルニア兵たちの視線には、憎悪と愉悦がまじっておりました。いったいなにが彼らをそうさせるのか……囚われていた二年間は、それを考えるよい機会となりました」
柔和でありながら威厳あるお声だった。ニーナさまが惨劇の様子を語られるなか、ぼくは当時のことを思い出していた。
アリティアが滅び、ぼくが東方へ落ちのびているあいだ、パレスでは国王陛下や王妃さまだけでなく、王家に連なる方々がみな処刑され、ニーナさまおひとりだけが残された。血の粛清の噂は、はるか遠く海をへだてたタリスにも届いた。伝え聞く陛下とお妃さまの最期はあまりに惨く、とても聞いてはいられないものだった。
それ以上につらかったのは、祖国と父上に対する誹りだった。アリティアが不甲斐なかったせいでアカネイアが滅びた。城砦を出入りしていた商人が好き勝手に言い合っている場に居合わせてしまうことが何度かあった。申しわけなさよりも腹立ちをおぼえてしまうぼくは、聖王国への敬意に欠けているのかもしれないと思った。
アカネイアの悲劇を聞くたびに祖国への想いがあふれた。滅んだ国の行く末はきっとどこも似たようなものだ。いまごろ祖国は苦難に見舞われているのだろう。あれから母上と姉上はどうなったのだろう。せめて様子が知りたい。そう願いつづけてきたけれど、この二年、アリティアの様子をぼくが知ることはできなかった。
オレルアンを発つ前、ジェイガンが城に行商を呼び寄せてくれて、ようやく彼らから祖国の様子を聞くことができた。
王都アンリはいま、ドルーア傘下のグルニア軍の占領下にあるという。城下への出入りが許されたところで商売はもっぱらグルニア兵相手のもの。王都の民はみな暗い顔をしていて、うつむいたまま足早に立ち去る姿しか覚えていないと言った。周辺の村々にも容赦なくドルーアの手は伸び、掠奪されつくした村にはもはや盗賊さえも寄りつかなくなったらしい。
一番気がかりだった母上と姉上の安否は、昨日ようやく知れた。
「リーザ王妃とエリス王女は生きておられます」
ミネルバのその言葉に、涙がこぼれそうになった。母上と姉上はドルーアに連れ去られてはおらず、落城のときからずっとアリティア城に囚われているそうだ。ただそれ以上のことはドルーアの中枢にいたミネルバさえ知ることは叶わなかったらしい。
「ドルーアは卑劣ではありますが、現状においておふたりを手にかけるような愚は犯さぬでしょう。ただ……このまま同盟軍が進軍をつづけてゆけば、あなたへの切り札とされる可能性は否定できぬかと」
ミネルバはぼくを気遣いながらも、最悪の事態を覚悟しておくよう諭してくれた。
タリスを発ったとき、ぼくの胸は歓喜にみちていた。祖国解放への道のりが果てしなく遠くとも、この二年、待ち望んでいた日がようやくやってきたのだと思った。
オレルアンを解放し、生き残ったわずかばかりの宮廷騎士団が同盟軍と呼ばれるようになった。そして当たり前のようにアカネイアに向けて進軍することが決まったとき、胸に暗い影がおおいかぶさってくるのを感じた。ぼくはそれがなんなのか考えないようにしていた。
けれど昨日ミネルバと話したことで、目をそらしてはいられなくなった。オレルアンは解放されたけれど、アリティアは依然としてドルーアの支配下に置かれたままだ。アリティアに背を向けてアカネイアへ向かうことを、ぼくは心の奥底では納得できていなかったのだ。
母上と姉上だけじゃない。アリティアの民すべてが、ぼくにとって人質のようなもの。もしパレスの解放が叶ったとき、ドルーアはどんな卑劣な手段に出てくるのだろうか。そのときぼくは、どんな決断を下すのだろう。
国を追われたあの日、アリティアを取り戻すまではどんな苦難にも耐えようと誓った。あの日の誓いを胸にずっと戦いつづけてきた。でもまだなにも変わっていない。もう十四の子供じゃないのに、まだ祖国のためになにもなすことができていない。
焦りがつのり、いらだちに変わる。モスティン王ならこんなぼくをやさしく叱責してくれるだろう。それでもあの落城の日とおなじぐらいに胸に怒りが燃えたぎるときがある。憎しみに囚われてはいけない、そう自分に言い聞かせても、あの日に逆戻りしてしまいそうになる。
ドルーアがアンリの国を滅ぼしたいのはわかる。だけどグルニアに恨まれるようなことはしていない。
グルニアは、裏切ったグラとともに父上を死に追いやった。
マケドニアは父上と直接戦うことはなかったけれど、オレルアン騎士団の南下を妨害した。そのせいでパレス救援に向かうアリティア軍が孤立無援となり、父上がメニディの戦いで敗れる遠因になったのだとカインとアベルが悔しげに言っていた。
アリティアが陥落してから、ドルーアはパレスに総攻撃をかけ、グルニア黒騎士団の猛攻とマケドニア竜騎士団の機動力によって防衛の中枢が崩れ去り、ドルーアは労せず聖都を手に入れるにいたったという。彼らは体よく利用されたのだとじいが断じていた。
「どうしてあなた方は……」
話はすでに救出作戦へ移ろうとしていたのに、ぼくはミネルバに問いかけていた。
「どうしてグルニアとマケドニアは、ドルーアに与したのですか」
ハーディンの目がこちらに向くのを感じた。ぼくの問いは、あまりに場違いなものだった。それでも聞かずにはいられなかった。
「両国のアカネイアへの遺恨は、ぼくも知っています。ですがあなた方はドルーアこそ憎んでいるのではないのですか。ドルーアに与したところでやつらに利用されただけではありませんか。同盟などやつらを利するだけだというのに、どうして――」
「ドルーアを憎みつづけるには、百年という年月はあまりに長すぎたのです」
ミネルバの赤琥珀のような瞳がぼくをとらえた。
「対して、五九〇年の大飢饉の記憶は、わが国の民にとってあまりに鮮明に残っておりました。六年前、マケドニアはドルーアの侵攻を受けており、あわや王都が火の海になろうかという状況にありました。アカネイアに援軍を乞うたものの色よい返事は得られず、追いつめられたわれらにとって、ドルーアからもたらされた同盟の提案は一筋の光でもあったのです」
同盟が、光……。
ぼくは息をのんだ。
「ただ、アリティアが……コーネリアスさまがわれらのために派兵してくださる動きもあったのです。そのこと、王子はご存じでしょうか」
その話は少し前にジェイガンから聞いていた。
ぼくがうなづくと、ミネルバはつづけた。
「われらは危機に瀕してはいたものの、けっして希望が断たれていたわけではありませんでした。わたしは援軍を待ちたいと思い、時間を稼ぐべく国境防衛に赴きました。そのさなかのことでした。父がアカネイアの刺客に暗殺されたとの報を受けたのは……。いったいなにが起こっているのかわからず、急ぎ城へ戻ったとき、すでに同盟は結ばれ、妹はドルーアに遣られた後でした」
すでに知る話ではあった。けれどこうして直接ミネルバの口から語られる当時の状況を耳にすれば、胸に迫るものがあった。
「兄が父を手にかけてまでドルーアに与したのは、アカネイアへの遺恨を晴らさんとする気持ちが大きかったゆえと思います。同盟締結に異を唱えていたわたしとて、アカネイアに含むものがないと申せば嘘になります。むしろわが国では、そうでない者のほうがめずらしいでしょう。だからこそ、アイオテの興した国でありながらドルーアに与したのです。兄は急進派の貴族たちの支持のもと、自身に楯突く者たちを謀殺し、はたまた多くの貴族子弟らを戦場に追いやり、反対勢力を国家の中枢から遠ざけました。王位簒奪者ゆえに自身の地位を盤石にする必要に駆られてのことでしょうが、それはまったく悪手であったと言わざるをえないでしょう。ドルーアの思うつぼだったとも言えるやもしれません。有力貴族が力を失った結果、ドルーアを討つための力もなくしてしまったのですから」
「ドルーアを、討つ…?」
思いもかけぬ言葉に、ぼくはニーナさまとハーディンを順に見た。
どうやら驚いたのはぼくだけのようだった。頭が混乱してくる。
「……ではマケドニアは……ミシェイル王子は、ドルーアを裏切るつもりなのですか」
しばしの沈黙をはさんで、ミネルバはゆっくりと口をひらいた。
「あくまで当初の構想は、ということです。いまとなってはそれも叶わぬ夢。ドルーアから寝返ったわたしの行いも、しょせんは負けを悟ったがゆえの悪あがきとでも思っていただいてけっこうです。遅きに失しているのやもしれませんが、わたしが討つべきはドルーアであることに変わりはありません。六年前からずっと」
ミネルバはニーナさまとハーディンに向きなおった。
「わたしは正道のみを歩んできた身ではありません。おふたりはわたしの罪をよくご存じのことと思います。それでもわたしには責務があります。王家の者が犯したあやまちを、その罪を、なにも知らぬ力なき民にまで負わせることはできません。わが祖国はドルーアに蹂躙され、すでに崩壊しました。ですが、民を守るために、祖国にあらたな器を作りたいと思います。そのために、わたしの持てる力のすべてをあなた方に捧げる所存です」
「民を想うあなたの気持ちはよくわかった」
ハーディンの声には、偽りない賛辞がにじんでいた。
「なればこそ、勝利の暁にはあなたがその器を手中に収められればよい」
ミネルバはさびしげに笑い、かぶりをふった。
ああ、またあの微笑だ。
「そのつもりはありません。わたしは祖国があらたな道を歩みだすための礎にすぎぬのですから」
「どうして、あなたはそんなふうに……」
思わずもれたつぶやきに、ミネルバはやさしくまなじりを下げてぼくを見た。
「失礼を承知で申しあげますが……二年前、窮地に立たされたコーネリアスさまが、たとえ一時であってもアカネイアを裏切りドルーアに与したならば、あなたを見る民の目はいまとおなじと思われますか」
「それは……」
言葉につまった。答えは出ていたけれど、口にはできなかった。黙したまま、ぼくにそそがれるまっすぐな目をみつめかえした。その目をそらすことは、とても卑怯なことのように思えた。
「わが国は越えてはならぬ一線を侵したのです。その責めは、この身をもって負ってしかるべきでしょう」
ミネルバは窓の外に視線をやった。
透きとおったガラスの向こう側。細い枝にとまっていたつがいの鳥が仲良く空へと飛んでいった。
その様子をみつめるミネルバの横顔は、強い光のせいで、かえって陰りをおびていた。
まばゆくかがやく光と、ただよう暗い陰影。そのはざまに、いまぼくは立っている。
* * *
――親愛なる姉上。
ぼくはいま、この戦いの意味について考えています。
タリスを旅立ったときは、アカネイアを守り、ドルーアを滅ぼすことがアリティア王子たるぼくの唯一の使命と疑いなく思っておりました。あの日、パレスを守るべくグルニア軍との戦いに赴いた父上もそうだったと思っていました。……そう思いこもうとしていただけかもしれません。
ミネルバを見ていて思うのです。
二年前のパレス総攻撃には、彼女も竜騎士団を率いて加わっていました。妹姫にあれほど深い慈愛を見せる彼女も、諸国に攻撃を加え、人々を恐怖に陥れた軍司令官なのです。オレルアンを占領し、ハーディンたちを窮地に追いやり、さらにはニーナさまのもとに集った義勇兵を壊滅させたのもまた事実。彼女にまつわる恐ろしい噂はけっして偽りではありません。
けれども、ドルーアの横暴を制していた清廉なふるまいは広く知られていて、民から彼女の助命を乞う声さえ聞こえてきたほどでした。
なぜあのような人が侵略と殺戮に手を染めるにいたったのでしょうか。
望まざる戦いに身を投じねばならぬ者たちの悲哀と苦しみは、きっとほんとうの意味ではぼくには理解できていません。
あの敗北の日から毎日のように自分の無力さを嘆き、憎しみに囚われ、復讐のために戦おうとしていました。そんなぼくの目の前に広がる世界は、小さな壁の穴からのぞいたものにすぎなくて、この大戦を引き起こした過去の歴史と勝利ゆえの代償、そして諸国の行く末を、広く見わたすことなどできはしないのです。
ぼくはアリティアで多くの者たちに守られて育ちました。タリスでも、とんだ厄介者であったのにモスティン王から過分なまでの庇護を受けておりました。シーダもぼくをやさしく励ましつづけてくれました。あまりに恵まれすぎていて、光ある場所にばかりいられたから、それゆえに生まれる暗い影から目をそらしてしまうのかもしれません。
……ぼくは弱い。あまりにも無力だったから、あなたを、母上を、そして多くの騎士たちを犠牲にして逃げることしかできませんでした。
彼らに報いるためにも世界中の人を救いたい、その気持ちに嘘はありません。けれど、ぼくにとって大事なのはアリティアの民、そしてなにより母上と姉上のおふたりなのです。
ぼくが自分の心に素直に従うことができるなら、いますぐにでもアリティアへ飛んでいき、城に巣食うならず者たちを蹴散らして、あなたと母上をお助けに参上したい。そんな想いで胸はいっぱいです。
だからニーナさまに託された炎の紋章の重みをまだ受け止めきれずにいます。
あのときアリティアを落ちのびた宮廷騎士団は、オレルアン騎士団と合流してアカネイア解放同盟軍となり、そこにはミネルバ王女率いるマケドニア騎士団までも加わりました。志を同じくする者たちが、炎の紋章のもとに集い、ドルーアに対抗するに足る勢力に拡大しつつあります。
その同盟軍を、聖アカネイアの代理としてぼくが率いているという事実に、ふとした瞬間、恐ろしくなります。民衆が希望にみちた笑顔を向けてくれるのは、ぼくに勇者アンリの幻影を重ねているからにほかなりません。先祖の功績ゆえに盟主に祭り上げられただけだとわかっているから、彼らの期待をまっすぐに受けとめることができないのです。
それでも、ぼくは前を向いて歩いてゆきます。どんなに未熟でも、ぼくはアカネイアの代理、炎の紋章を託された同盟軍の盟主です。かならずや苦境にあえぐ民の希望となってみせましょう。
そして、ぼくのために命を懸けてくれた者たちのため、この悲しい戦いの意味を見いだしていこうと思います。迷いながらでも一歩ずつ前に進んでゆけば、なんらかの答えがつかめると信じています。それが、いまのぼくにできるすべてです。
姉上、もう少し待っていてください。パレスを解放したら、あなたを助けにまいります。お別れしたときは、あなたに守られることしかできない無力な子供でしたが、今度はぼくがあなたをお守りいたします。強くなるつもりです。胸を張ってあなたの前に立てるように。立派になったとあなたに思ってもらえるように。
ですからそれまで、どうか……――
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