萌芽
父上は怒りもせず、言い訳もしなかった。ただ一言、しばらく部屋から出るなとだけ言った。こっちだって顔も見たくもない。寝台の中でうずくまっていると、ほおの痛みが強くなってきて、さっきのことばかり思い出した。なにもしなくても腹はすくし、食事はきちんと運ばれてくる。固い黒パンも具の少ないシチューもシモンへ歯向かった罰じゃない。いつものように王太子のための特別なごちそうだ。
眠れなくて、つづき部屋の扉を開ける。寝台で眠る妹は、なんだかいつもより小さく見える。ずっと熱があると聞いた。しばらくのぞきこんでたら少しだけ目をひらいた。のばしてきた手を両手でつつみこんでやる。息を引きとる前の母上もこんなふうに手をのばしてきた。その手はやせほそっていた。妹の手はそれよりもずっと頼りなかった。胸がざわざわして、息が苦しくなる。小さな身体を抱きしめたまま、その日は眠ることにした。
風が夜中吹いていて、窓ががたがた鳴っていた。朝になると外は雪がつもっていた。父上は今日シモンとキツネ狩りに行くのだろうか? バルコニーに出て真っ白な景色をみつめていると、じいが部屋に入ってきた。そしてつらそうな顔をして言った。お父上のお立場をどうかご理解くださいと。
十日前、飢えた男が王の森に入り、鹿を狩ったのだという。これにシモンが激しく怒り、父上がなだめていた。その途中の出来事だったのだと、言いにくそうに明かした。その者はどうなるのかと聞いたが、じいは答えなかった。密猟者が縛り首なのは俺だって知っている。だけどきっと、シモンはあの猟犬をけしかけるつもりでいると思った。罪人をキツネに見立てて、逃げまどうのを見て楽しむ。あの男の考えそうなことだ。
五日たって、ようやく部屋を出ることが許された。空はすっきり晴れていた。風がおだやかなこんな日は、離宮へ連れて行けと妹がせがんでくるはずだった。妹はあれから寝こんだままで、起きあがるのもつらそうだ。熱は下がったけれど、弱ってしまってうまく歩けなくなった。毎日スープを飲ませてやったけど、ほんの少しだけ飲んで、すぐに目を閉じてしまう。
うるさいぐらいにしゃべりかけてこない妹はつまらない。へたくそなハープが聞こえてこない部屋はしんとしていて居心地が悪い。
代わりに聖堂の鐘が響いてる。今日は降臨節の祝祭。母上が生きていたころは、朝早くから祈りを捧げていた。母上が死んでも、去年までは妹と一緒に祈ってた。でも今年はなにもしない。何千年もの昔、守護神ナーガはこの大陸の人々を救ったというが、いまの俺たちになにを感謝しろというのだろう。
メティスにのって北へ向かった。城壁を越えてしばらくすると、鍬や鋤を持った男たちが集まっているのが見えた。その中央には雪と土が混ざりあった大きな穴があって、荷車からたくさんの亡骸が投げこまれていた。民はもう墓穴を掘る気力もないから、城の兵士が借りだされることになったらしい。このあたりに住む者はまだいい。北部はいくつもの村が飢餓と疫病で死に絶え、弔う者さえいないのだ。
雪の残る北の森の奥、わずかにひらけた場所があって、そこには賢者が庵をかまえている。行き慣れた場所だから、手綱を引かずともメティスはまっすぐ降りていった。降り立つと、メティスに驚いたキツネが森の奥へ逃げていった。
石造りの庵にもうっすら雪がつもっていた。木の扉を叩き、ゆっくり押しひらくと、緋色の法衣をまとった老司祭の後ろ姿が見えた。司祭は炉の前に座り、薬草を煎じていた。
「ミシェイルか。ひさしぶりじゃな」
ちらりと俺のうしろに目をやる。
「ミネルバは一緒ではないのか」
ここに来るときはいつもあいつと一緒だった。妹はこの気難しげな司祭になついていて、膝にのっては異国のいろんな話をねだっていた。
広い机の上にはたくさんの薬草がならべられている。木の実や種のようなものもある。人嫌いだというくせに、こうして薬を作って病人やけが人の世話を焼いてやっている。司祭を頼って遠くからくる者もいるそうだ。この中にいまのあいつに効く薬なんてあるんだろうか。
黙ったままでいると司祭は立ちあがった。近づいてきて俺を見下ろす。
「なにかあったのか」
なにかだって? 笑いそうになる。ああ、あったさ。いろんなことが。
また鐘が鳴りはじめた。耳障りな音だ。
「……夏に妹が生まれたんだ」
喉の奥が熱くなる。
「妹はまだとても小さいが、よく笑うし元気だ。だが、この国の赤ん坊はほとんど死んでしまったらしい。国中、どこもかしこも死体であふれているそうだ」
なんだか頭ががんがんする。
「城で降臨節の祭儀をやっているが、そんなもの、なんの意味がある? 神に祈れば無残に死んでいった者たちが救われるとでも? あの者たちは土の下で眠ることさえできていないというのに」
ああ、鐘の音がうるさい。
「守護神とやらは、肝心なときに守ってはくれんようだ。それどころか、われらに死ねとでも言ってるようだ。……恵は与えず、それどころか罰を与えようと――」
声がふるえてうまく話せなくなった。
司祭はしばらく目をとじていた。鐘の音が途絶えたとき、静かな声で言った。
「神が人に罰を与えるのではない。すべては人の行いのすえであろう」
じっと見すえてくる目には、怒りも悲しみもなくて、ただ世の理を突きつけていた。
涙がほおをつたって落ちた。
わかっている。神のせいなんかじゃない。こんなことになっているのはなぜなのか。守ってくれないのは誰なのか――
「つらかろう」
ふるえる肩に大きな手がのせられた。
「まだ幼いそなたには酷であろうが、いまは耐え忍ぶことじゃ」
息がつまる。
「……あなたまで、俺に耐えろと言うのか」
「機を待て。さすれば、そなたの頭上には天啓がで降りそそごう」
来るときは晴れていたのに、外は雪が散っていた。吹雪になるかもしれない。早く戻ろうとメティスを急がせて、どんどん城に近づいてるのに、視界は白くぼやけて見える。目をこする。ほおがひりひりする。奥歯を噛みしめすぎてあごが痛い。
城の礼拝堂には廷臣と騎士がつめかけていた。中に入れぬ者たちも、降りしきる雪の中、石だたみにひざまづいていた。この者たちは、ただひたすら祈り、救いを乞うことしかできない。
俺は祈ることもできない。祈る勇気がない。
誰もいない回廊をとぼとぼ進むと、雪の舞い散る中庭に父上が立っていた。腕の中にはミネルバがいた。雪ウサギみたいな白い毛皮のローブにくるまれてる。
妹が外へ出たいと言ったのだろうか。父上は妹を大事そうに抱えて、木に咲いた赤い花を見せてやっている。笑った口元だけがここから見えた。
「あ、ミシェイル」
目ざとく俺に気づいて、明るい声で呼んだ。弱々しく手をふっている。
父上もこっちを見た。顔を見るのはあの日以来だ。
「なにをしているのだ?」
おだやかな声だった。妹に向けるのと同じ、やさしい目をしていた。でも顔は疲れきっていた。こっちに近づいてくるのがわかって、思わず後じさった。そのまま回廊を走り抜けた。逃げ出したのだ。
父上がやさしいのなんて知ってる。ちゃんと民を想っているのもわかってる。だから苦しまれていることだって。
だけどそんなに大事に思うなら、どうしてどんな手を使ってでも守ってやろうとしないんだ。祈ることしかできない者たちを助けられるのは父上しかいないのに。
ミネルバは自分にできることをやろうとした。自分の大切なものだけは守ろうとした。せめて、なにかひとつでもと。
なにもできていないのは俺のほうだ。
眠れなくて、つづき部屋の扉を開ける。寝台で眠る妹は、なんだかいつもより小さく見える。ずっと熱があると聞いた。しばらくのぞきこんでたら少しだけ目をひらいた。のばしてきた手を両手でつつみこんでやる。息を引きとる前の母上もこんなふうに手をのばしてきた。その手はやせほそっていた。妹の手はそれよりもずっと頼りなかった。胸がざわざわして、息が苦しくなる。小さな身体を抱きしめたまま、その日は眠ることにした。
風が夜中吹いていて、窓ががたがた鳴っていた。朝になると外は雪がつもっていた。父上は今日シモンとキツネ狩りに行くのだろうか? バルコニーに出て真っ白な景色をみつめていると、じいが部屋に入ってきた。そしてつらそうな顔をして言った。お父上のお立場をどうかご理解くださいと。
十日前、飢えた男が王の森に入り、鹿を狩ったのだという。これにシモンが激しく怒り、父上がなだめていた。その途中の出来事だったのだと、言いにくそうに明かした。その者はどうなるのかと聞いたが、じいは答えなかった。密猟者が縛り首なのは俺だって知っている。だけどきっと、シモンはあの猟犬をけしかけるつもりでいると思った。罪人をキツネに見立てて、逃げまどうのを見て楽しむ。あの男の考えそうなことだ。
五日たって、ようやく部屋を出ることが許された。空はすっきり晴れていた。風がおだやかなこんな日は、離宮へ連れて行けと妹がせがんでくるはずだった。妹はあれから寝こんだままで、起きあがるのもつらそうだ。熱は下がったけれど、弱ってしまってうまく歩けなくなった。毎日スープを飲ませてやったけど、ほんの少しだけ飲んで、すぐに目を閉じてしまう。
うるさいぐらいにしゃべりかけてこない妹はつまらない。へたくそなハープが聞こえてこない部屋はしんとしていて居心地が悪い。
代わりに聖堂の鐘が響いてる。今日は降臨節の祝祭。母上が生きていたころは、朝早くから祈りを捧げていた。母上が死んでも、去年までは妹と一緒に祈ってた。でも今年はなにもしない。何千年もの昔、守護神ナーガはこの大陸の人々を救ったというが、いまの俺たちになにを感謝しろというのだろう。
メティスにのって北へ向かった。城壁を越えてしばらくすると、鍬や鋤を持った男たちが集まっているのが見えた。その中央には雪と土が混ざりあった大きな穴があって、荷車からたくさんの亡骸が投げこまれていた。民はもう墓穴を掘る気力もないから、城の兵士が借りだされることになったらしい。このあたりに住む者はまだいい。北部はいくつもの村が飢餓と疫病で死に絶え、弔う者さえいないのだ。
雪の残る北の森の奥、わずかにひらけた場所があって、そこには賢者が庵をかまえている。行き慣れた場所だから、手綱を引かずともメティスはまっすぐ降りていった。降り立つと、メティスに驚いたキツネが森の奥へ逃げていった。
石造りの庵にもうっすら雪がつもっていた。木の扉を叩き、ゆっくり押しひらくと、緋色の法衣をまとった老司祭の後ろ姿が見えた。司祭は炉の前に座り、薬草を煎じていた。
「ミシェイルか。ひさしぶりじゃな」
ちらりと俺のうしろに目をやる。
「ミネルバは一緒ではないのか」
ここに来るときはいつもあいつと一緒だった。妹はこの気難しげな司祭になついていて、膝にのっては異国のいろんな話をねだっていた。
広い机の上にはたくさんの薬草がならべられている。木の実や種のようなものもある。人嫌いだというくせに、こうして薬を作って病人やけが人の世話を焼いてやっている。司祭を頼って遠くからくる者もいるそうだ。この中にいまのあいつに効く薬なんてあるんだろうか。
黙ったままでいると司祭は立ちあがった。近づいてきて俺を見下ろす。
「なにかあったのか」
なにかだって? 笑いそうになる。ああ、あったさ。いろんなことが。
また鐘が鳴りはじめた。耳障りな音だ。
「……夏に妹が生まれたんだ」
喉の奥が熱くなる。
「妹はまだとても小さいが、よく笑うし元気だ。だが、この国の赤ん坊はほとんど死んでしまったらしい。国中、どこもかしこも死体であふれているそうだ」
なんだか頭ががんがんする。
「城で降臨節の祭儀をやっているが、そんなもの、なんの意味がある? 神に祈れば無残に死んでいった者たちが救われるとでも? あの者たちは土の下で眠ることさえできていないというのに」
ああ、鐘の音がうるさい。
「守護神とやらは、肝心なときに守ってはくれんようだ。それどころか、われらに死ねとでも言ってるようだ。……恵は与えず、それどころか罰を与えようと――」
声がふるえてうまく話せなくなった。
司祭はしばらく目をとじていた。鐘の音が途絶えたとき、静かな声で言った。
「神が人に罰を与えるのではない。すべては人の行いのすえであろう」
じっと見すえてくる目には、怒りも悲しみもなくて、ただ世の理を突きつけていた。
涙がほおをつたって落ちた。
わかっている。神のせいなんかじゃない。こんなことになっているのはなぜなのか。守ってくれないのは誰なのか――
「つらかろう」
ふるえる肩に大きな手がのせられた。
「まだ幼いそなたには酷であろうが、いまは耐え忍ぶことじゃ」
息がつまる。
「……あなたまで、俺に耐えろと言うのか」
「機を待て。さすれば、そなたの頭上には天啓がで降りそそごう」
来るときは晴れていたのに、外は雪が散っていた。吹雪になるかもしれない。早く戻ろうとメティスを急がせて、どんどん城に近づいてるのに、視界は白くぼやけて見える。目をこする。ほおがひりひりする。奥歯を噛みしめすぎてあごが痛い。
城の礼拝堂には廷臣と騎士がつめかけていた。中に入れぬ者たちも、降りしきる雪の中、石だたみにひざまづいていた。この者たちは、ただひたすら祈り、救いを乞うことしかできない。
俺は祈ることもできない。祈る勇気がない。
誰もいない回廊をとぼとぼ進むと、雪の舞い散る中庭に父上が立っていた。腕の中にはミネルバがいた。雪ウサギみたいな白い毛皮のローブにくるまれてる。
妹が外へ出たいと言ったのだろうか。父上は妹を大事そうに抱えて、木に咲いた赤い花を見せてやっている。笑った口元だけがここから見えた。
「あ、ミシェイル」
目ざとく俺に気づいて、明るい声で呼んだ。弱々しく手をふっている。
父上もこっちを見た。顔を見るのはあの日以来だ。
「なにをしているのだ?」
おだやかな声だった。妹に向けるのと同じ、やさしい目をしていた。でも顔は疲れきっていた。こっちに近づいてくるのがわかって、思わず後じさった。そのまま回廊を走り抜けた。逃げ出したのだ。
父上がやさしいのなんて知ってる。ちゃんと民を想っているのもわかってる。だから苦しまれていることだって。
だけどそんなに大事に思うなら、どうしてどんな手を使ってでも守ってやろうとしないんだ。祈ることしかできない者たちを助けられるのは父上しかいないのに。
ミネルバは自分にできることをやろうとした。自分の大切なものだけは守ろうとした。せめて、なにかひとつでもと。
なにもできていないのは俺のほうだ。
