萌芽
今年は春に雨がつづいて夏も秋かと思うほど涼しい日がつづいた。去年もそうだった。たしかその前の年も夏が暑くなかった。
麦は不作で、秋に作物は実らなかった。今年の冬はとんでもないことになる。夏の終わりにそんな話が出ていたが、城の空気は安穏としていた。
それが秋になって一転した。
「なぜこんなことになったんだ?」
これまでにも不作の年なんていくらでもあったはずなのに。
じいに聞いたら、理由は一つではない、飢饉だけでなくこの国の歴史にまつわるいろんな不運が重なった結果だと言った。
「わが国の土はとても豊かでございますから、よい穀物がとれるのです。特に小麦に適しておるのです。ただ、南部の穀倉地帯はアカネイアの援助により開拓した土地でございますので、ここでとれた小麦は秋に規定量を納める取り決めがございます」
「納める? 対価はないのか」
「……見合うものではございません」
「ではやつらは盗人とおなじだ。父上はなぜなにもなさらん?」
「陛下はご尽力されております。昨年から納める小麦の量を例年より少なくすむよう懸命にかけ合われたのです。ですが、今年はあまりに不作であったため、その量ですら準備することが叶わず……結果、方々からかき集め、なんとか納めることとなったのです」
なにがご尽力だ。結局は食糧を奪われただけじゃないか。
「パンがないのに、民はどうやって生きていくのだ?」
「昨年は木の実が豊作だったようで、さほど影響はございませんでした。しかし今年は実がならぬようです。とにかく日が照らず、塩も不足していたため、備蓄食糧がまるで足りません。いえ、そもそも保存をするための作物も肉も少なく――」
「だったらあの者たちはなにを食べるんだ?」
答えはない。答えがないことが答えなんだろう。
妹に付き合わされて厨房に降りたとき、同じ年のころの下働きに尋ねてみた。おまえたちはパンの代わりになにを食べているのかと。すると木の皮や草を食べるとこたえた。そんなもの食べられるのかと言ったら、案外食べられると笑っていたが、みんな棒きれのような手足をしていた。
十二の月に入って、食事はいっそう貧しくなった。パンは舌ざわりが悪くて、よくわからないものが混ざっている。チーズはうすくなり、スープには塩っからい肉が入っていた。それなのに給仕が卓に皿をおくとき、王太子さまは特別でございますと言った。しばらく茫然となった。こんなものが特別だというのか。他の者たちの食事はどうなってるんだ? ミネルバは? あいつはまだ自分のパンを離宮に送ってるのに。
剣の訓練のあと、部屋に戻る途中、父上がシモンと一緒にいるのを見てしまった。あの男は父上が即位したときにアカネイアから来た役人で、下級貴族の出だというが、この国では王より偉い。なぜだかそういうことになっている。二人がならんで歩くとき、シモンがまんなかを歩き、父上はわきへと追いやられている。まるで下僕だ。二人を遠巻きにみつめる廷臣たちも、マケドニア王はシモンのあやつり人形だと思ってる。
シモンをにらみつけていると、通路の奥から妹がとことこ歩いてくるのが見えた。シモンに完璧なお辞儀をしてみせて、父上をシモン引き離すように二人のあいだに割って入った。
妹は父上がいじめられていると思っていて、ああやってシモンから守っているつもりでいる。そんなけなげな妹もまたシモンにとってはおもしろい玩具であるらしく、下卑た言葉を投げかけては父上の反応を楽しんでいる。きっといまもなにか言ってるに違いない。子供だからなにもわかっていないと思っているのか。それとも、子供のうちに思い知らせようとしてるのか。
おまえもまた父とおなじくわれらの奴隷なのだと。
⁂
「どうかしら? 気に入ってくれた?」
妹は赤ん坊を膝にのせ、くたびれた人形を見せた。赤ん坊は人形の腕をにぎり、ふりまわしたり、口に近づけたりしてる。どうやら気に入ったらしい。
人形は妹が赤ん坊のころ大好きな乳母に作ってもらったもので、いまだに抱いて眠る宝物だった。教育係から捨てるように言われても、こっそり枕の後ろに隠してた。いい隠し場所ができたじゃないか。
赤ん坊は人形で遊びはじめた。亜麻糸の髪をつかんでは引っぱり、顔をしかめたと思えば、うれしそうに笑いだす。くるくると表情が変わるからずっと見ててもあきない。
「ねえ、ミシェイルも抱っこしてあげて」
赤ん坊を押しつけられそうになり、顔をそむけた。
「俺はいい」
「どうして?」
「どうしてって……」
小さすぎて、ふれるだけで壊してしまいそうだ。前より大きくなったみたいだけど、こんなの、どうあつかえばいいのかわからない。
それなのに、赤ん坊はじっとこっちを見ている。
ちょっとだけほおをつついてみた。やわらかい。もうちょっとだけふれようとすると、いきなり指をつかまれた。その力が強くてびっくりした。ゆさぶってみても全然はなそうとしない。どうにかしろと妹をにらんだが、けらけら笑うだけだった。
「マリアはおにいさまのことが大好きなのよね」
赤ん坊が小さく声を出す。
「ほら、いまお返事してくれたでしょう?」
「まだ言葉なんてわかるわけないだろ」
「そんなことないわ」
赤ん坊にほおずりする。
「ちゃんとわかってるもの。ね、マリア」
妹はいまみたいな笑顔を王宮では見せなくなった。ただでさえシモンのせいで落ちこむことが多かったのに、いまでは廷臣たちが父上を責め立てることにも胸を痛めてる。気をまぎらわせたくて、ハープを弾いたり俺にまとわりついてくるんだと思う。
「よかったな、妹ができて」
からかうように言うと妹はほほえんだ。
「わたしね、マリアのためにはなんでもしてあげたいと思うの。だって大切な妹だもの。でもね……」
ぽつりと言った。
「わたしはお父さまのお力にはなれないの。いまとても大変でいらっしゃるのに、なにもできないの」
「なにもってことはないだろ」
思わず言いかえすと、妹は驚いたように目をみはった。微笑をうかべたけれど、すぐにうつむいてしまう。
「シモンが言ってたわ。もう少し大きくなったら、わたしにもお父さまのお役に立てることがあるんですって」
くそったれ。
シモンのやつはよけいなことばかり妹に吹きこむ。
「馬鹿だな。父上は腑抜けだから、おまえが身売りしたってなにも変わらないんだよ」
わざと嫌な言い方をしてやる。
案の定、妹は悲しげな顔になった。
「廷臣たちが言ってるぞ。父上は民を見捨てたって」
「違うわ」
「違わないさ。城を出れないおまえが知らないだけで、民は飢えてばたばた死んでいってる。でも父上はなにもしないんだ。なにもできないおまえと違って、できるのにやらないんだ」
「……そんないい方しないで」
妹は人形の代わりみたいに赤ん坊を抱きしめた。
「お父さまはおやさしいし、ちゃんと民を想っておられるわ。だから苦しんでおられるのよ」
かっと血が上った。なにを知ったふうに。
「苦しんでるからなんだって言うんだ!」
びくりと妹がふるえた。
赤ん坊が泣きはじめた。悲鳴みたいな泣き声だった、妹は懸命にあやそうとしてるけど全然泣きやまない。
ソフィアどのと侍女があわててやってきた。
「どうしたらいいの? いきなりこんなに泣き出してしまったの」
赤ん坊を抱きかかえたまま、おろおろしている。
「ごめんなさい。わたしの抱き方がよくなかったのかしら」
「いいえ、赤ん坊というのはそういうものでございますからね」
泣きそうになっている妹を侍女がやさしくなだめた。
赤ん坊は母親にあやされてもなかなか泣きやまなかった。小さな顔がまっ赤になっていた。
妹は城へ戻るあいだずっと思いつめた顔をしていて、その日は俺の部屋に入ってくることもなかった。たどたどしいハープの音だけがいつものように聞こえてきた。
麦は不作で、秋に作物は実らなかった。今年の冬はとんでもないことになる。夏の終わりにそんな話が出ていたが、城の空気は安穏としていた。
それが秋になって一転した。
「なぜこんなことになったんだ?」
これまでにも不作の年なんていくらでもあったはずなのに。
じいに聞いたら、理由は一つではない、飢饉だけでなくこの国の歴史にまつわるいろんな不運が重なった結果だと言った。
「わが国の土はとても豊かでございますから、よい穀物がとれるのです。特に小麦に適しておるのです。ただ、南部の穀倉地帯はアカネイアの援助により開拓した土地でございますので、ここでとれた小麦は秋に規定量を納める取り決めがございます」
「納める? 対価はないのか」
「……見合うものではございません」
「ではやつらは盗人とおなじだ。父上はなぜなにもなさらん?」
「陛下はご尽力されております。昨年から納める小麦の量を例年より少なくすむよう懸命にかけ合われたのです。ですが、今年はあまりに不作であったため、その量ですら準備することが叶わず……結果、方々からかき集め、なんとか納めることとなったのです」
なにがご尽力だ。結局は食糧を奪われただけじゃないか。
「パンがないのに、民はどうやって生きていくのだ?」
「昨年は木の実が豊作だったようで、さほど影響はございませんでした。しかし今年は実がならぬようです。とにかく日が照らず、塩も不足していたため、備蓄食糧がまるで足りません。いえ、そもそも保存をするための作物も肉も少なく――」
「だったらあの者たちはなにを食べるんだ?」
答えはない。答えがないことが答えなんだろう。
妹に付き合わされて厨房に降りたとき、同じ年のころの下働きに尋ねてみた。おまえたちはパンの代わりになにを食べているのかと。すると木の皮や草を食べるとこたえた。そんなもの食べられるのかと言ったら、案外食べられると笑っていたが、みんな棒きれのような手足をしていた。
十二の月に入って、食事はいっそう貧しくなった。パンは舌ざわりが悪くて、よくわからないものが混ざっている。チーズはうすくなり、スープには塩っからい肉が入っていた。それなのに給仕が卓に皿をおくとき、王太子さまは特別でございますと言った。しばらく茫然となった。こんなものが特別だというのか。他の者たちの食事はどうなってるんだ? ミネルバは? あいつはまだ自分のパンを離宮に送ってるのに。
剣の訓練のあと、部屋に戻る途中、父上がシモンと一緒にいるのを見てしまった。あの男は父上が即位したときにアカネイアから来た役人で、下級貴族の出だというが、この国では王より偉い。なぜだかそういうことになっている。二人がならんで歩くとき、シモンがまんなかを歩き、父上はわきへと追いやられている。まるで下僕だ。二人を遠巻きにみつめる廷臣たちも、マケドニア王はシモンのあやつり人形だと思ってる。
シモンをにらみつけていると、通路の奥から妹がとことこ歩いてくるのが見えた。シモンに完璧なお辞儀をしてみせて、父上をシモン引き離すように二人のあいだに割って入った。
妹は父上がいじめられていると思っていて、ああやってシモンから守っているつもりでいる。そんなけなげな妹もまたシモンにとってはおもしろい玩具であるらしく、下卑た言葉を投げかけては父上の反応を楽しんでいる。きっといまもなにか言ってるに違いない。子供だからなにもわかっていないと思っているのか。それとも、子供のうちに思い知らせようとしてるのか。
おまえもまた父とおなじくわれらの奴隷なのだと。
⁂
「どうかしら? 気に入ってくれた?」
妹は赤ん坊を膝にのせ、くたびれた人形を見せた。赤ん坊は人形の腕をにぎり、ふりまわしたり、口に近づけたりしてる。どうやら気に入ったらしい。
人形は妹が赤ん坊のころ大好きな乳母に作ってもらったもので、いまだに抱いて眠る宝物だった。教育係から捨てるように言われても、こっそり枕の後ろに隠してた。いい隠し場所ができたじゃないか。
赤ん坊は人形で遊びはじめた。亜麻糸の髪をつかんでは引っぱり、顔をしかめたと思えば、うれしそうに笑いだす。くるくると表情が変わるからずっと見ててもあきない。
「ねえ、ミシェイルも抱っこしてあげて」
赤ん坊を押しつけられそうになり、顔をそむけた。
「俺はいい」
「どうして?」
「どうしてって……」
小さすぎて、ふれるだけで壊してしまいそうだ。前より大きくなったみたいだけど、こんなの、どうあつかえばいいのかわからない。
それなのに、赤ん坊はじっとこっちを見ている。
ちょっとだけほおをつついてみた。やわらかい。もうちょっとだけふれようとすると、いきなり指をつかまれた。その力が強くてびっくりした。ゆさぶってみても全然はなそうとしない。どうにかしろと妹をにらんだが、けらけら笑うだけだった。
「マリアはおにいさまのことが大好きなのよね」
赤ん坊が小さく声を出す。
「ほら、いまお返事してくれたでしょう?」
「まだ言葉なんてわかるわけないだろ」
「そんなことないわ」
赤ん坊にほおずりする。
「ちゃんとわかってるもの。ね、マリア」
妹はいまみたいな笑顔を王宮では見せなくなった。ただでさえシモンのせいで落ちこむことが多かったのに、いまでは廷臣たちが父上を責め立てることにも胸を痛めてる。気をまぎらわせたくて、ハープを弾いたり俺にまとわりついてくるんだと思う。
「よかったな、妹ができて」
からかうように言うと妹はほほえんだ。
「わたしね、マリアのためにはなんでもしてあげたいと思うの。だって大切な妹だもの。でもね……」
ぽつりと言った。
「わたしはお父さまのお力にはなれないの。いまとても大変でいらっしゃるのに、なにもできないの」
「なにもってことはないだろ」
思わず言いかえすと、妹は驚いたように目をみはった。微笑をうかべたけれど、すぐにうつむいてしまう。
「シモンが言ってたわ。もう少し大きくなったら、わたしにもお父さまのお役に立てることがあるんですって」
くそったれ。
シモンのやつはよけいなことばかり妹に吹きこむ。
「馬鹿だな。父上は腑抜けだから、おまえが身売りしたってなにも変わらないんだよ」
わざと嫌な言い方をしてやる。
案の定、妹は悲しげな顔になった。
「廷臣たちが言ってるぞ。父上は民を見捨てたって」
「違うわ」
「違わないさ。城を出れないおまえが知らないだけで、民は飢えてばたばた死んでいってる。でも父上はなにもしないんだ。なにもできないおまえと違って、できるのにやらないんだ」
「……そんないい方しないで」
妹は人形の代わりみたいに赤ん坊を抱きしめた。
「お父さまはおやさしいし、ちゃんと民を想っておられるわ。だから苦しんでおられるのよ」
かっと血が上った。なにを知ったふうに。
「苦しんでるからなんだって言うんだ!」
びくりと妹がふるえた。
赤ん坊が泣きはじめた。悲鳴みたいな泣き声だった、妹は懸命にあやそうとしてるけど全然泣きやまない。
ソフィアどのと侍女があわててやってきた。
「どうしたらいいの? いきなりこんなに泣き出してしまったの」
赤ん坊を抱きかかえたまま、おろおろしている。
「ごめんなさい。わたしの抱き方がよくなかったのかしら」
「いいえ、赤ん坊というのはそういうものでございますからね」
泣きそうになっている妹を侍女がやさしくなだめた。
赤ん坊は母親にあやされてもなかなか泣きやまなかった。小さな顔がまっ赤になっていた。
妹は城へ戻るあいだずっと思いつめた顔をしていて、その日は俺の部屋に入ってくることもなかった。たどたどしいハープの音だけがいつものように聞こえてきた。