変わりゆくもの、変わらぬもの
手のなかの小袋がひどく重く感じられた。布袋には修道院で育てられた香草の茶葉が入っている。ぜひミネルバさまに、とレナからことづかっていたもの。
王宮ではミネルバさまに関わるさまざまな噂が流れている。そのうちのひとつ、町中でもささやかれていた噂。あれはほんとうなのかしら。ミネルバさまはどうなさるおつもりなのだろう。
ずっと気がかりだったのに、尋ねることもできぬまま時間だけがすぎていた。主のもとへ出向く機会さえない、そう言ったらレナがこれをくれた。主に会う口実とともに。
いまはお部屋におられるという。勝手知ったる厨房で茶葉に湯をそそいで、すぐに居室にむかった。見慣れた廊下を進み、部屋に入ろうとしたところ。見慣れぬ女官と鉢合わせになった。
女官は、金の縫いとりがされた礼装を胸に抱えたままじっとこちらをうかがっていた。年のころはわたしと同じぐらい。きれいに結いあげた栗色の髪に憂いをおびたハシバミ色の瞳。最近王宮に上がった方かしら。
「ミネルバさまは奥におられますか」
明るく尋ねてみたけれど、女官はますます不審に思ったようだった。
「どういった御用でしょう。殿下とのお約束はおありでしょうか」
棘のある物言いにどきりとしたが、それは当然のことだった。ここは王位継承者のお部屋。かつてのように気軽に出入りできる場所ではないのだ。
「申し遅れました。わたしは白騎士団第一部隊長パオラ・フォルティニと申します。殿下とお約束はしておりませんが、お茶をお持ちしたのです。お取次ぎいただけますか」
「白騎士団の……! 少々お待ちを」
女官はあわてた様子で主室の扉をひらいた。礼を失したのはこちらなのに、なんだか申しわけなくなる。考えてみればおかしな話なのだ。騎士がお茶を運んでくるなんて。
ややあって、濃緑の幕布の奥から女官が戻ってきた。
「先ほどは失礼をいたしました。どうぞ、殿下がお待ちです」
こうべをたれたままの女官に目礼し、まっすぐに幕布の奥へと進んだ。
ミネルバさまは窓際の文机にむかって書き物をされている。
前に進み出ると、手を止めてこちらをごらんになった。
「お茶をお持ちしました。少しお休みになりませんか」
「ありがとう、パオラ」
ほがらかだけど、力ない声だった。しばらくお会いしないうちにおやつれになったように見える。ほおが少しそげて、お顔の色もすぐれない。
小卓の上で茶器を整えながら、主の様子を横目でうかがった。机上には二通の書簡。手元の書簡は抽斗にしまって、書きかけの羊皮紙は二つに折ってふせられた。あれはきっとアカネイアからの書簡で、その返書をしたためておられたのだろう。憂鬱そうな顔をしておられるのは、なにかよくない知らせが届いたからだろうか。
……ああ、いけない。蒸らしすぎてしまったかもしれない。あわてて茶をそそぐと、杯をみたすのは透きとおった黄金色。これなら大丈夫。ちょうどよい頃合い。
「どうぞ。カミツレの香草茶です」
文机に杯をおいた。
ミネルバさまは杯の取っ手にふれられたが、その手が不自然に止まった。ためらいがちに右手から左手に持ち替えられた。わたしはそれを見ないふりをする。
「おいしいお茶ですね」
「お気に召しましたか」
「ええ、とても」
茶葉の入った小袋をお見せする。
「まだたくさんありますので、厨房の者に渡しておきますね」
「これはカミツレのほかにはなにが?」
「たしかラベンダーにリコリス……それとバレリアンでしたでしょうか。修道院の庭で育てた四種の香草を配合したものだそうで、町でも評判がよいようです」
「修道院? ではこれはレナのところの?」
「はい。少し前に修道院に立ち寄りまして、そのときにレナから受けとりました。ぜひミネルバさまにさしあげてほしいと」
「レナとは四の月に会ったきりですが、息災でしたか」
「多くの子供たちがおりますので休む暇もないと思いますが、とても活き活きとしていました。子供たちはみんな笑顔が絶えなくて、レナをまるで母のように慕っていて」
「目にうかびます」
「わたしも少し子供たちと遊んだんです。あの子たちったら、仲良くしているかと思えばささいなことで喧嘩して大騒ぎ。なんだか昔の妹たちを思い出してしまいました。あの子たちも将来は――」
深い赤褐色の双眸が、じっとこちらに向いているのに気づいた。やさしくほそめられた慈愛深いまなざし。主のこんな目を見るのはいつぶりのことだろう。
「あの……どうかなさいましたか」
「いえ」
苦笑がもれる。
「あなたとこうしてゆっくり話せるのは、ひさしぶりだと思って」
一瞬、言葉につまった。
「あ……そういえば、長らくお会いしていませんでしたね」
「どのくらいになりますか」
「二か月ほどでしょうか」
「もうそんなになりますか」
ふっと息をつき、目を伏せられた。
「ここしばらく東翼から出ることがないのですよ。この部屋と執務室を行ったり来たり。あとは大使との接見と会食。それで一日が終わってしまいます」
ミネルバさまはいまアカネイアとの関係改善に苦慮されている。
占領軍は春先に退いたものの、二か月前にアカネイアから大使が派遣された。大使のトルイユ伯は前任者のように横柄な人ではないけれど、王宮には恐々とした空気がただよっている。昔のようにアカネイアから虐げられるかもしれない、そんな不安がじわじわと広がっている。
ミネルバさまをお支えするのはオズモンド陛下の代から王家に仕える重臣たち。側近の方とともにアカネイア大使折衝を重ね、この国を導いておられる。
そんな日々をお過ごしだから、主とはずいぶん疎遠になってしまったと思う。ともに戦場を駆け抜けていたころは、ずっと主のそばにいることができた。その意図をくみ、求められた成果をあげようとふるまった。
春に天馬騎士団の長という大役をおおせつかってからは、指示を受け、責務をこなし、ただ結果を報告する。そんな毎日をくりかえしている。ミネルバさまは主宮からお出でにならないから、直接言葉を交わす機会はない。
でもそれはなにもおかしなことではなくて。これまでが特別だっただけ。女官のよそよそしい態度でそれを思い知らされることになった。もうあのころとは違うのだと。
「――ところで、パオラ」
はっと顔をあげる。
「天馬騎士団の様子はどうです? このあいだ編隊の訓練をバルコニーから見ていましたが、あの半分ほどが新兵たちでしょう? よく統率がとれていますね」
「優秀な者たちが集まってくれましたから」
「あなたの指導の賜物ですよ」
「そんな……わたしのような未熟者にもったいないお言葉です」「謙遜ばかり」
笑いぶくみのあきれ声。
「まったくあなたといいカチュアといい……よくない癖ですよ。エストのように素直に受けとっておきなさい。わたしにもなにかと言葉が足らぬことがあるのでしょうが、あなたたちに嘘は言いませんから」
「……すみません」
「わたしは未熟な者を団長に選びません」
ほがらかにおっしゃって、窓の外に視線を投げられた。わたしもつられてそちらを見る。
午後の陽光が、やわらかく横顔を照らしている。その面持ちは平穏そのもの。戦場ではけして見ることの叶わなかった横顔だ。けれどもその瞳はかげりをおびている。
少し前、執務室のバルコニーでたたずむ主の姿を上空から眺め見た。あざやかな紅い髪とマントのたなびくさまは遠目にもうつくしく、威厳をたたえるその姿は見る者を勇気づける風格があった。なのに、そのまなざしには不穏なものを感じた。燦然と照りつける陽光のもとにおられながら、荒涼とした平原に立ちつくし、吹きすさぶ風に巻かれているように見えた。
それはあの日――マケドニア王城が落ちた日の主を思わせた。
激しい雨に打たれながら入城されたミネルバさまは、玉座の間に居並ぶ貴族たちの前に立たれた。血にまみれてもなお凄絶なまでの威厳を放つお姿に、多くの者が驚嘆した。それは畏敬であり恐怖でもあった。
なんと情の強い苛烈な王女か。血を分けた兄を手にかけておきながら涙ひとつ見せぬ。しょせん血は争えぬものよ。口さがのない者は陰でそうささめいていた。
勝手なことばかり。そんなはずがない。わたしは幼いころからあの方をそば近くで見てきた。悲しんでおられぬはずがない。傷ついておられぬはずがない。どうしてあなたたちには表しか見ていないの。
そう憤りながらも、わたしもまた恐れをいだいた。あのときの主はわたしの知らない人に見えた。お小さいときから凛然とされた方だった。長じては他者を従わせる気迫が加わった。けれども、触れなば切れそうなほどの空気をまとわせてはおられなかった。
その瞳は暗く沈んでいた。この世のすべてを憎悪しているかのようだった。ドルーアの走狗となり、無辜の民を蹂躙した将軍たちに斬罪を命じるさまには、復讐のために舞い戻ってきた王女と揶揄する者もいた。
ああ、せめて。
その目に一筋の涙が流れていたのなら。
その胸のうちに秘めた悲しみがわずかでも見えたなら。
あの者たちは憐れむことができたのかもしれない。このお方もまた悲しみに耐えておられるのだと。
けれど、その双眸は凍てついていた。溶けることのない氷の瞳。底の知れぬ憎しみを秘めているかに見えた。
だからわからなくなった。この方がなにをお考えなのか。
あの日から、主とはまともに言葉を交わしてはいない。主のもとへ出向く機会なんて、作ろうと思えば今日みたいにいくらでも作れた。それなのにここに来なかった。
結局、わたしは避けていたのだ。ミネルバさまとお会いすることを――
雲が流れ、強い陽が部屋に差しこんできた。目元に落ちていたかげりが、きらめく光にさっとかき消える。
「お茶のおかわりはいかがですか」
「ええ、いただきます」
もう一度、茶をそそいだ杯を差しだした。やはり今度も左手で杯を持たれた。
ミネルバさまが利き腕にひどい傷を負われたのはミシェイルさまとの戦いでのこと。一騎討ちのさなか、無数の矢がお二人を襲い、ミネルバさまの右腕を貫いたのだ。あれ以来、あまり右手を使われていないことに気づいていた。
「……あの」
思いきって切り出す。
「お手は大丈夫なのですか」
「ええ」
「それならばどうして左手で?」
「力が入らないときがあるので、杯はなるべく持たないようにしているだけです」
「そんな状態ではなにかとお困りではないのですか」
「いましがた、手紙を書いていたでしょう?」
くすくすとお笑いになる。
「もちろん以前とおなじというわけにはいきませんが。介添えの者もおりますし。さほど難儀はしていません」
介添えの者。さっきの女官のことだろうか。
「そういえば、あたらしい女官の方が入られたのですね」
「ロザリアと言います。この財政逼迫のおり、身の回りの者を増やすつもりはなかったのですが、大使との会食も増え、なにかと頼ることも増えてしまって。十日ほど前から仕えてくれています」
「そうでしたか」
「さっきロザリアがあなたに失礼な態度をとってしまったと気にしていたのですが、なにかあったのですか」
「いえ、そんな……わたしがお約束もなく来てしまったから、驚かせてしまったようで……」
しどろもどろになると、ミネルバさまは複雑そうに眉をよせられた。
「ロザリアに悪気はないので気にせずともよいのですよ。厳格な態度はアカネイア宮廷の名残でしょうから」
そういえば言葉にアカネイア風の抑揚があった。
「アカネイアの貴族の方がどうして?」
「ロザリアはリュッケの姪なのですが、幼いころに国を離れ、以来ずっとパレスで暮らしていたのです。母君がアカネイアの出ですから。ただ、戦後もパレスで暮らすわけにはいかなかったのでしょう。アカネイア貴族の血を引くといえど出自はマケドニア。風当たりも強かったことと思います」
「それで帰国されたのですね」
「かといって、いまのマケドニアがあの者にとって暮らしやすいとは思いませんが」
マケドニア人にとってアカネイアに対する感情は複雑なものだ。かつては宗主国の理不尽な行いをただ憎むだけでよかった。けれどもいまは負い目がある。長年の恨みをいだきながらも、侵略を犯した国として報復を恐れなくてはいけなくなった。
だから大使の派遣が決まったとき、王城は異様な雰囲気につつまれていた。わたしたちの知るアカネイアの役人というのは王族相手でも横柄にふるまう者たちだった。また無理難題を要求されるのではないかと恐れていた。そんな不安を吹き飛ばすほどに大使トルイユ伯は典雅で人当たりのよい青年だった。騎士団の視察に来られたときも、一介の騎士にまでへりくだるような態度をみせてみんなを困惑させた。
だからこそ、伯の友好的なふるまいはかえって不自然なのだ。
「トルイユ伯とはいかがですか」
「今宵も会食の予定です。あの者とはうまく折りあっていかねばと思っていますが、なかなか難しいものです」
「やはり、やっかいなお方なのですか」
「典型的なアカネイア貴族ですからね。言葉のすべてに裏がある、とでも言いましょうか。あの者との話はくだらぬ腹の探り合いばかりで疲れます。……あの戦争をへて多くのことが変わりましたが、これだけは唯一の変わらぬものかもしれません」
視線が、机上の一点へ向けられている。それはさきほど隠すように丸められた書簡。
いったいアカネイアはなんと? トルイユ伯はなにを要求してきたのですか。そのぐらい尋ねてみてもいいはずなのに、なにも聞けなかった。
不躾な視線になにを思われたのか、ミネルバさまはほほえまれた。
「ところで、あなたにはなにか変わったことはないのですか」
はぐらかされたかに思えた。けれど同時に安堵もした。そんな自分が嫌になる。
カチュアのこと、あたらしく騎士団に入った見習い騎士たちのこと、カダインに留学中のマリアさまのこと……。必死に話題を探して近況を語った。いつもより多弁になれたのに、切り出せるのは他愛もない会話だけ。ほんとうはこんな話をしたいわけではないのに肝心なことが聞けない。そのお心に踏みこめない。
わたしはこんなに臆病だったのかしら。
――姉さまたちが怖がりなのよ。
ふと、エストに言われた言葉を思い出す。怖いもの知らずなのも考えものだとカチュアに叱られたとき、エストは唇を尖らせて言い返した。<
――怖がってばかりいたらなにもできないわ。
エストなら、もっと忌憚なくお心に踏みこめるのかもしれない。あの子の屈託のない明るさなら、胸のうちをお話しいただけるのかもしれない。でもあの子はアリティアにいる。幸せに暮らしているはずなのだ。そう、愛する人と幸せに。
……ああ、よそう。こんなふうに考えるのをやめなくては。
主の信頼を得ている自負はある。天馬騎士の最高位、第一部隊長にまで引き立てていただいて、それを否定すればかえって非礼に当たる。なにも胸のうちをすべて明かしてほしいだなんて思っていない。ただ、力になりたかった。どんなささいなことでも。乳母の娘だったから王城で暮らすことを許され、母さまが亡くなってからも妹たちと一緒に庇護していただいた。そのご恩に報いたい、そう口にすればよいだけなのに、その一言が言えない。なにもできないまま、今日も時間だけが過ぎていく。
「ほんとうにおいしいお茶でした」
会話が途切れたとき、ミネルバさまは杯を静かにおかれた。
「レナによろしく伝えておいてください」
すきのない、整った微笑がむけられた。
なんてことないやりとりなのに突き放されている気がした。それはきっと罪悪感。なにもできない自分への後ろめたさ。焦る気持ちが空回りばかりしている。
空になった杯を盆にのせ、下がろうとしたとき、ふとミネルバさまの顔を見た。机上をみつめる赤褐色の双眸は、暗く沈んでいた。さっきまでのほがらかなふるまいは、うわべだけのものだとわかっていた。ミネルバさまはそういう方だ。わたしたちの前では激しい感情はお見せにならない。いつも強くあろうとされる。弱さを恥じておられる。そんな方だから、手のことだってなんでもないふりをされるのだ。
このまま部屋を出てしまっては、なんのためにここへ来たのかわからない。怖がってばかりいたらなにもできない。そうよねエスト。
盆をおき、もう一度ミネルバさまの前に進み出た。ミネルバさまは少し驚いた顔をされた。
「どうしたのです?」
「大使との会食までにご予定はおありですか」
「特に予定というほどのものは」
「でしたら、少しお時間をいただいてもよろしいですか」
「かまいませんよ」
切れ長の目元がやさしくほころぶ。
「今日、あなたはずっと物言いたげでしたね。なにか心にかかることがあるのなら話してごらんなさい」
「わたしの心配事は、ミネルバさまのことなのです」
目がかすかに見ひらかれた。
「いま、気鬱の種を多くかかえておられるのは知っています。わたしなどが口をはさめることでないのもわかっています。それでも、もしなにかわたしにできることがあるのなら頼っていただきたいのです。どんなささいなことでも、お力になりたいのです。……それとも、わたしが力になれることなどなにもないのでしょうか」
ややあって、ミネルバさまの目がおよいだ。
「……どうやら」
短いため息。
「あなたにはずいぶん気を遣わせていたようですね。そんなふうに思わせてしまったならごめんなさい。あなたを信用していないとかそういうわけではないのです。ただあなたには天馬騎士団を任せていましたし、政務のことは表に出せぬものも多くて……」
口元に手をあてがわれた。めずらしく動揺されているのがわかった。
「アカネイアがらみのことは宰相に任せてはいるものの、わたしが直接大使と関わる機会も多いのですが……まあやっかいな御仁ですから、正直、気が滅入っているのですよ。このところずっと部屋にこもりきりだったせいかもしれませんが」
「でしたら、これから遠乗りに出かけませんか」
まったく考えもしていなかった提案が口をついて出た。ミネルバさまも驚かれたけれど、わたしも自分に驚いていた。
でもいい考えだと思った。
「以前はよく気散じに行かれていたではありませんか。景色のきれいな場所へお連れします、ひさしぶりにテアの背におのせして」
「……わたしもテアにのるのですか?」
「はい。あの子もよろこぶと思います」
ミネルバさまはこちらを見てほほえまれた。それが作り笑いだったのか、心からのものだったのか。それはわからない。誘いにのってくださったのもわたしを気遣われただけかもしれない。それでもうれしくて胸がはずんだ。こんなことであの方の気鬱の種が消えることはないとわかっていたのに。
王宮ではミネルバさまに関わるさまざまな噂が流れている。そのうちのひとつ、町中でもささやかれていた噂。あれはほんとうなのかしら。ミネルバさまはどうなさるおつもりなのだろう。
ずっと気がかりだったのに、尋ねることもできぬまま時間だけがすぎていた。主のもとへ出向く機会さえない、そう言ったらレナがこれをくれた。主に会う口実とともに。
いまはお部屋におられるという。勝手知ったる厨房で茶葉に湯をそそいで、すぐに居室にむかった。見慣れた廊下を進み、部屋に入ろうとしたところ。見慣れぬ女官と鉢合わせになった。
女官は、金の縫いとりがされた礼装を胸に抱えたままじっとこちらをうかがっていた。年のころはわたしと同じぐらい。きれいに結いあげた栗色の髪に憂いをおびたハシバミ色の瞳。最近王宮に上がった方かしら。
「ミネルバさまは奥におられますか」
明るく尋ねてみたけれど、女官はますます不審に思ったようだった。
「どういった御用でしょう。殿下とのお約束はおありでしょうか」
棘のある物言いにどきりとしたが、それは当然のことだった。ここは王位継承者のお部屋。かつてのように気軽に出入りできる場所ではないのだ。
「申し遅れました。わたしは白騎士団第一部隊長パオラ・フォルティニと申します。殿下とお約束はしておりませんが、お茶をお持ちしたのです。お取次ぎいただけますか」
「白騎士団の……! 少々お待ちを」
女官はあわてた様子で主室の扉をひらいた。礼を失したのはこちらなのに、なんだか申しわけなくなる。考えてみればおかしな話なのだ。騎士がお茶を運んでくるなんて。
ややあって、濃緑の幕布の奥から女官が戻ってきた。
「先ほどは失礼をいたしました。どうぞ、殿下がお待ちです」
こうべをたれたままの女官に目礼し、まっすぐに幕布の奥へと進んだ。
ミネルバさまは窓際の文机にむかって書き物をされている。
前に進み出ると、手を止めてこちらをごらんになった。
「お茶をお持ちしました。少しお休みになりませんか」
「ありがとう、パオラ」
ほがらかだけど、力ない声だった。しばらくお会いしないうちにおやつれになったように見える。ほおが少しそげて、お顔の色もすぐれない。
小卓の上で茶器を整えながら、主の様子を横目でうかがった。机上には二通の書簡。手元の書簡は抽斗にしまって、書きかけの羊皮紙は二つに折ってふせられた。あれはきっとアカネイアからの書簡で、その返書をしたためておられたのだろう。憂鬱そうな顔をしておられるのは、なにかよくない知らせが届いたからだろうか。
……ああ、いけない。蒸らしすぎてしまったかもしれない。あわてて茶をそそぐと、杯をみたすのは透きとおった黄金色。これなら大丈夫。ちょうどよい頃合い。
「どうぞ。カミツレの香草茶です」
文机に杯をおいた。
ミネルバさまは杯の取っ手にふれられたが、その手が不自然に止まった。ためらいがちに右手から左手に持ち替えられた。わたしはそれを見ないふりをする。
「おいしいお茶ですね」
「お気に召しましたか」
「ええ、とても」
茶葉の入った小袋をお見せする。
「まだたくさんありますので、厨房の者に渡しておきますね」
「これはカミツレのほかにはなにが?」
「たしかラベンダーにリコリス……それとバレリアンでしたでしょうか。修道院の庭で育てた四種の香草を配合したものだそうで、町でも評判がよいようです」
「修道院? ではこれはレナのところの?」
「はい。少し前に修道院に立ち寄りまして、そのときにレナから受けとりました。ぜひミネルバさまにさしあげてほしいと」
「レナとは四の月に会ったきりですが、息災でしたか」
「多くの子供たちがおりますので休む暇もないと思いますが、とても活き活きとしていました。子供たちはみんな笑顔が絶えなくて、レナをまるで母のように慕っていて」
「目にうかびます」
「わたしも少し子供たちと遊んだんです。あの子たちったら、仲良くしているかと思えばささいなことで喧嘩して大騒ぎ。なんだか昔の妹たちを思い出してしまいました。あの子たちも将来は――」
深い赤褐色の双眸が、じっとこちらに向いているのに気づいた。やさしくほそめられた慈愛深いまなざし。主のこんな目を見るのはいつぶりのことだろう。
「あの……どうかなさいましたか」
「いえ」
苦笑がもれる。
「あなたとこうしてゆっくり話せるのは、ひさしぶりだと思って」
一瞬、言葉につまった。
「あ……そういえば、長らくお会いしていませんでしたね」
「どのくらいになりますか」
「二か月ほどでしょうか」
「もうそんなになりますか」
ふっと息をつき、目を伏せられた。
「ここしばらく東翼から出ることがないのですよ。この部屋と執務室を行ったり来たり。あとは大使との接見と会食。それで一日が終わってしまいます」
ミネルバさまはいまアカネイアとの関係改善に苦慮されている。
占領軍は春先に退いたものの、二か月前にアカネイアから大使が派遣された。大使のトルイユ伯は前任者のように横柄な人ではないけれど、王宮には恐々とした空気がただよっている。昔のようにアカネイアから虐げられるかもしれない、そんな不安がじわじわと広がっている。
ミネルバさまをお支えするのはオズモンド陛下の代から王家に仕える重臣たち。側近の方とともにアカネイア大使折衝を重ね、この国を導いておられる。
そんな日々をお過ごしだから、主とはずいぶん疎遠になってしまったと思う。ともに戦場を駆け抜けていたころは、ずっと主のそばにいることができた。その意図をくみ、求められた成果をあげようとふるまった。
春に天馬騎士団の長という大役をおおせつかってからは、指示を受け、責務をこなし、ただ結果を報告する。そんな毎日をくりかえしている。ミネルバさまは主宮からお出でにならないから、直接言葉を交わす機会はない。
でもそれはなにもおかしなことではなくて。これまでが特別だっただけ。女官のよそよそしい態度でそれを思い知らされることになった。もうあのころとは違うのだと。
「――ところで、パオラ」
はっと顔をあげる。
「天馬騎士団の様子はどうです? このあいだ編隊の訓練をバルコニーから見ていましたが、あの半分ほどが新兵たちでしょう? よく統率がとれていますね」
「優秀な者たちが集まってくれましたから」
「あなたの指導の賜物ですよ」
「そんな……わたしのような未熟者にもったいないお言葉です」「謙遜ばかり」
笑いぶくみのあきれ声。
「まったくあなたといいカチュアといい……よくない癖ですよ。エストのように素直に受けとっておきなさい。わたしにもなにかと言葉が足らぬことがあるのでしょうが、あなたたちに嘘は言いませんから」
「……すみません」
「わたしは未熟な者を団長に選びません」
ほがらかにおっしゃって、窓の外に視線を投げられた。わたしもつられてそちらを見る。
午後の陽光が、やわらかく横顔を照らしている。その面持ちは平穏そのもの。戦場ではけして見ることの叶わなかった横顔だ。けれどもその瞳はかげりをおびている。
少し前、執務室のバルコニーでたたずむ主の姿を上空から眺め見た。あざやかな紅い髪とマントのたなびくさまは遠目にもうつくしく、威厳をたたえるその姿は見る者を勇気づける風格があった。なのに、そのまなざしには不穏なものを感じた。燦然と照りつける陽光のもとにおられながら、荒涼とした平原に立ちつくし、吹きすさぶ風に巻かれているように見えた。
それはあの日――マケドニア王城が落ちた日の主を思わせた。
激しい雨に打たれながら入城されたミネルバさまは、玉座の間に居並ぶ貴族たちの前に立たれた。血にまみれてもなお凄絶なまでの威厳を放つお姿に、多くの者が驚嘆した。それは畏敬であり恐怖でもあった。
なんと情の強い苛烈な王女か。血を分けた兄を手にかけておきながら涙ひとつ見せぬ。しょせん血は争えぬものよ。口さがのない者は陰でそうささめいていた。
勝手なことばかり。そんなはずがない。わたしは幼いころからあの方をそば近くで見てきた。悲しんでおられぬはずがない。傷ついておられぬはずがない。どうしてあなたたちには表しか見ていないの。
そう憤りながらも、わたしもまた恐れをいだいた。あのときの主はわたしの知らない人に見えた。お小さいときから凛然とされた方だった。長じては他者を従わせる気迫が加わった。けれども、触れなば切れそうなほどの空気をまとわせてはおられなかった。
その瞳は暗く沈んでいた。この世のすべてを憎悪しているかのようだった。ドルーアの走狗となり、無辜の民を蹂躙した将軍たちに斬罪を命じるさまには、復讐のために舞い戻ってきた王女と揶揄する者もいた。
ああ、せめて。
その目に一筋の涙が流れていたのなら。
その胸のうちに秘めた悲しみがわずかでも見えたなら。
あの者たちは憐れむことができたのかもしれない。このお方もまた悲しみに耐えておられるのだと。
けれど、その双眸は凍てついていた。溶けることのない氷の瞳。底の知れぬ憎しみを秘めているかに見えた。
だからわからなくなった。この方がなにをお考えなのか。
あの日から、主とはまともに言葉を交わしてはいない。主のもとへ出向く機会なんて、作ろうと思えば今日みたいにいくらでも作れた。それなのにここに来なかった。
結局、わたしは避けていたのだ。ミネルバさまとお会いすることを――
雲が流れ、強い陽が部屋に差しこんできた。目元に落ちていたかげりが、きらめく光にさっとかき消える。
「お茶のおかわりはいかがですか」
「ええ、いただきます」
もう一度、茶をそそいだ杯を差しだした。やはり今度も左手で杯を持たれた。
ミネルバさまが利き腕にひどい傷を負われたのはミシェイルさまとの戦いでのこと。一騎討ちのさなか、無数の矢がお二人を襲い、ミネルバさまの右腕を貫いたのだ。あれ以来、あまり右手を使われていないことに気づいていた。
「……あの」
思いきって切り出す。
「お手は大丈夫なのですか」
「ええ」
「それならばどうして左手で?」
「力が入らないときがあるので、杯はなるべく持たないようにしているだけです」
「そんな状態ではなにかとお困りではないのですか」
「いましがた、手紙を書いていたでしょう?」
くすくすとお笑いになる。
「もちろん以前とおなじというわけにはいきませんが。介添えの者もおりますし。さほど難儀はしていません」
介添えの者。さっきの女官のことだろうか。
「そういえば、あたらしい女官の方が入られたのですね」
「ロザリアと言います。この財政逼迫のおり、身の回りの者を増やすつもりはなかったのですが、大使との会食も増え、なにかと頼ることも増えてしまって。十日ほど前から仕えてくれています」
「そうでしたか」
「さっきロザリアがあなたに失礼な態度をとってしまったと気にしていたのですが、なにかあったのですか」
「いえ、そんな……わたしがお約束もなく来てしまったから、驚かせてしまったようで……」
しどろもどろになると、ミネルバさまは複雑そうに眉をよせられた。
「ロザリアに悪気はないので気にせずともよいのですよ。厳格な態度はアカネイア宮廷の名残でしょうから」
そういえば言葉にアカネイア風の抑揚があった。
「アカネイアの貴族の方がどうして?」
「ロザリアはリュッケの姪なのですが、幼いころに国を離れ、以来ずっとパレスで暮らしていたのです。母君がアカネイアの出ですから。ただ、戦後もパレスで暮らすわけにはいかなかったのでしょう。アカネイア貴族の血を引くといえど出自はマケドニア。風当たりも強かったことと思います」
「それで帰国されたのですね」
「かといって、いまのマケドニアがあの者にとって暮らしやすいとは思いませんが」
マケドニア人にとってアカネイアに対する感情は複雑なものだ。かつては宗主国の理不尽な行いをただ憎むだけでよかった。けれどもいまは負い目がある。長年の恨みをいだきながらも、侵略を犯した国として報復を恐れなくてはいけなくなった。
だから大使の派遣が決まったとき、王城は異様な雰囲気につつまれていた。わたしたちの知るアカネイアの役人というのは王族相手でも横柄にふるまう者たちだった。また無理難題を要求されるのではないかと恐れていた。そんな不安を吹き飛ばすほどに大使トルイユ伯は典雅で人当たりのよい青年だった。騎士団の視察に来られたときも、一介の騎士にまでへりくだるような態度をみせてみんなを困惑させた。
だからこそ、伯の友好的なふるまいはかえって不自然なのだ。
「トルイユ伯とはいかがですか」
「今宵も会食の予定です。あの者とはうまく折りあっていかねばと思っていますが、なかなか難しいものです」
「やはり、やっかいなお方なのですか」
「典型的なアカネイア貴族ですからね。言葉のすべてに裏がある、とでも言いましょうか。あの者との話はくだらぬ腹の探り合いばかりで疲れます。……あの戦争をへて多くのことが変わりましたが、これだけは唯一の変わらぬものかもしれません」
視線が、机上の一点へ向けられている。それはさきほど隠すように丸められた書簡。
いったいアカネイアはなんと? トルイユ伯はなにを要求してきたのですか。そのぐらい尋ねてみてもいいはずなのに、なにも聞けなかった。
不躾な視線になにを思われたのか、ミネルバさまはほほえまれた。
「ところで、あなたにはなにか変わったことはないのですか」
はぐらかされたかに思えた。けれど同時に安堵もした。そんな自分が嫌になる。
カチュアのこと、あたらしく騎士団に入った見習い騎士たちのこと、カダインに留学中のマリアさまのこと……。必死に話題を探して近況を語った。いつもより多弁になれたのに、切り出せるのは他愛もない会話だけ。ほんとうはこんな話をしたいわけではないのに肝心なことが聞けない。そのお心に踏みこめない。
わたしはこんなに臆病だったのかしら。
――姉さまたちが怖がりなのよ。
ふと、エストに言われた言葉を思い出す。怖いもの知らずなのも考えものだとカチュアに叱られたとき、エストは唇を尖らせて言い返した。<
――怖がってばかりいたらなにもできないわ。
エストなら、もっと忌憚なくお心に踏みこめるのかもしれない。あの子の屈託のない明るさなら、胸のうちをお話しいただけるのかもしれない。でもあの子はアリティアにいる。幸せに暮らしているはずなのだ。そう、愛する人と幸せに。
……ああ、よそう。こんなふうに考えるのをやめなくては。
主の信頼を得ている自負はある。天馬騎士の最高位、第一部隊長にまで引き立てていただいて、それを否定すればかえって非礼に当たる。なにも胸のうちをすべて明かしてほしいだなんて思っていない。ただ、力になりたかった。どんなささいなことでも。乳母の娘だったから王城で暮らすことを許され、母さまが亡くなってからも妹たちと一緒に庇護していただいた。そのご恩に報いたい、そう口にすればよいだけなのに、その一言が言えない。なにもできないまま、今日も時間だけが過ぎていく。
「ほんとうにおいしいお茶でした」
会話が途切れたとき、ミネルバさまは杯を静かにおかれた。
「レナによろしく伝えておいてください」
すきのない、整った微笑がむけられた。
なんてことないやりとりなのに突き放されている気がした。それはきっと罪悪感。なにもできない自分への後ろめたさ。焦る気持ちが空回りばかりしている。
空になった杯を盆にのせ、下がろうとしたとき、ふとミネルバさまの顔を見た。机上をみつめる赤褐色の双眸は、暗く沈んでいた。さっきまでのほがらかなふるまいは、うわべだけのものだとわかっていた。ミネルバさまはそういう方だ。わたしたちの前では激しい感情はお見せにならない。いつも強くあろうとされる。弱さを恥じておられる。そんな方だから、手のことだってなんでもないふりをされるのだ。
このまま部屋を出てしまっては、なんのためにここへ来たのかわからない。怖がってばかりいたらなにもできない。そうよねエスト。
盆をおき、もう一度ミネルバさまの前に進み出た。ミネルバさまは少し驚いた顔をされた。
「どうしたのです?」
「大使との会食までにご予定はおありですか」
「特に予定というほどのものは」
「でしたら、少しお時間をいただいてもよろしいですか」
「かまいませんよ」
切れ長の目元がやさしくほころぶ。
「今日、あなたはずっと物言いたげでしたね。なにか心にかかることがあるのなら話してごらんなさい」
「わたしの心配事は、ミネルバさまのことなのです」
目がかすかに見ひらかれた。
「いま、気鬱の種を多くかかえておられるのは知っています。わたしなどが口をはさめることでないのもわかっています。それでも、もしなにかわたしにできることがあるのなら頼っていただきたいのです。どんなささいなことでも、お力になりたいのです。……それとも、わたしが力になれることなどなにもないのでしょうか」
ややあって、ミネルバさまの目がおよいだ。
「……どうやら」
短いため息。
「あなたにはずいぶん気を遣わせていたようですね。そんなふうに思わせてしまったならごめんなさい。あなたを信用していないとかそういうわけではないのです。ただあなたには天馬騎士団を任せていましたし、政務のことは表に出せぬものも多くて……」
口元に手をあてがわれた。めずらしく動揺されているのがわかった。
「アカネイアがらみのことは宰相に任せてはいるものの、わたしが直接大使と関わる機会も多いのですが……まあやっかいな御仁ですから、正直、気が滅入っているのですよ。このところずっと部屋にこもりきりだったせいかもしれませんが」
「でしたら、これから遠乗りに出かけませんか」
まったく考えもしていなかった提案が口をついて出た。ミネルバさまも驚かれたけれど、わたしも自分に驚いていた。
でもいい考えだと思った。
「以前はよく気散じに行かれていたではありませんか。景色のきれいな場所へお連れします、ひさしぶりにテアの背におのせして」
「……わたしもテアにのるのですか?」
「はい。あの子もよろこぶと思います」
ミネルバさまはこちらを見てほほえまれた。それが作り笑いだったのか、心からのものだったのか。それはわからない。誘いにのってくださったのもわたしを気遣われただけかもしれない。それでもうれしくて胸がはずんだ。こんなことであの方の気鬱の種が消えることはないとわかっていたのに。
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