短編集
「夢主様」
凛とした声に夢主は驚いて顔を上げる。居るはずのない彼女の声に驚くのは当然だ、自分が何処へ行くかなど彼女に伝えてはいなかったからだ。それどころか誰にも告げず静かに外へと出たというのに、どうしてここがわかったのか。
「バイオレート、どうしてここに」
「それはこちらの台詞でございます。何故誰にも告げず外へと出たのですか」
バイオレートの声が一段と低くなり、その表情も険しげだ。どうやら随分と心配をかけたようだ。とはいえどそれほど遠くへ行ったわけでもないというのに何という顔だ。とても悪いことをした気分になったものの夢主は少し困った顔をして笑いながら黒いドレスの裾を軽く払った。
「お前がこんな場所に居るのは少し似合わないな」
「…夢主様」
「わかっているよ、ごめん。何も言わずに外へ出て」
ハーデス城からほんの僅か離れた花の園に夢主は一人座り込んでいた。当然迎えに来たバイオレートは冥衣を脱ぐこともせず色とりどりの花の中には不相応な黒く鈍い輝きと長い髪を靡かせ夢主の側へと歩み寄る。
「怒っているのか?」
「………」
「らしくないな、アイアコスに命じられてここに来たのか?それとも父上か?なんにせよ、手間をかけさせたな。けれど大丈夫だよ、私はそれほど弱くもない。一人だとしても何ら問題はない」
「そうではありません」
「…?」
バイオレートの否定の言葉に不思議そうに首を傾げながら夢主は彼女の瞳を真っすぐに見つめた。澄んだ夢主の美しい瞳には勝らない、光の鈍いバイオレートの瞳も今は少し穏やかに見えるのはこの美しい景色のおかげであろうか。
夢主はバイオレートという女がいかに忠誠心が厚く、武人として誇り高いか知っていた。その純粋さは好ましいと思うほどだ、けれど本質が違う。彼女が求める場所が戦場にあることを知っている夢主はバイオレートを側に置こうとは考えなかった。彼女を縛るという行為を酷く嫌っていたからだ。
鳥は自由に羽ばたくからこそ美しい、彼女にもそうあってほしい。例え黒き鎧によって結ばれた不思議な縁であろうとも夢主は彼女を慈しみ、そして遠ざけている。
「私の望みを貴女は知らないでしょう」
「戦場に在ることだろう。アイアコスの片翼でありたい、そうじゃないのか」
「勿論、それも私の望みです。ですがそれだけではございません」
「それは、知らなかったな。いったいどんな望みだ」
夢主は興味深そうに屈んだ彼女の顔を覗き笑みを浮かべた。端正な彼女が血の望み闘争の中に生きることは本当に不可思議だ、けれどそこに悦びと渇望があるのならその願いも欲望も飲み込んでやるのだ。夢主もまた、冥闘士達に対し酷く情を抱き甘い節があった。
穏やかな主の顔から目を逸らすバイオレートは少し、言葉を選んでいるようだった。少々考え込み、紡ぐべき言葉を慎重に選んでいる。何とも彼女らしい姿だ。
「私は、貴女に…必要とされたい」
「…私にか?父上ではなく…?」
「…はい」
そう告げたバイオレートは背筋を伸ばしたいつもの姿とは違い、怯えているようにも見えた。屈強な肉体も傷も、今や霞んで見えるほど人間らしい様なのだ。
けれどバイオレートは自らが孕んだ不純に苦しむかのようにも見える、なんだか小さな子供のようで夢主は急かすような真似をせず彼女の言葉を優しく待ちわびた。
「貴女の美しさが穢れぬようこの手で守って差し上げたい。私を選ばれた神が貴女を私に引き合わせてくださった幸運は何にも勝る。この幸運に酔うばかりではなく、この腕が穢れを払う武器となるのなら、私はそれ以上の喜びはございません」
口数の多いとは言えない彼女がこれほど多くの事を語るのは珍しい事だった。その拳が強く握りしめられ今にも血が滲んでしまいそうな様に夢主はそっと手を添えてやると目を丸くして彼女はこちらを見上げた。
「強い想いを秘めていることを恥じることはない。素晴らしいことだと私は思うよ、それに私はとても嬉しい。お前たちに何もしてやれないのではないかと、そう思うことだってあるのにね」
「いいえ!夢主様は、夢主様は我々の…!」
遮るようにしてバイオレートは夢主の手を掴んで声を荒げた。しかし自分のしたことに気づいたバイオレートは慌ててその手を引っ込め頭を下げる、主に対しなんと無礼なことをしたのかと自らの行いを恥じ、悔いるかのような仕草に夢主はそっと頬に触れた。
「面を上げなさいバイオレート」
夢主の声に従い彼女がゆっくりとその顔をこちらに見せる。
「迎えに来てくれたこと、まずは感謝しなければならないな。そして私を慕ってくれて本当にありがとう。お前が私に希望を見出しているように私もお前に光を見出しているようだ」
風が吹き、花が舞う。夢主の顔が何よりも鮮明に映る。黒い髪が空を青の中を泳ぎ宝石のような眼が自分を捉えて離さない。
バイオレートの中は背筋を走る悦びをそこに見出した。このような感情は到底、許されざるものであると知り得ている。だが夢主はそれを責めるような真似はしない。冥王とは違う全てを覆う何かがある、その何かはどんなものよりも美しくそして欲深い。
「ここには二人しかいないのだから、気にすることなど何もないよ」
罪深き光を背負う御方。彼女はバイオレートの欲望に常に手を伸ばし摩り包み込む、まるで母のように。そして愛すべき天使のように。
「お前の望みは一体なんだ、バイオレート」
問いかける。糸で縫い付け解かせないようにと封じている欲望の隙間から血のように赤く、濁ったものが溢れ出てその骨ばった指先が美しい天使に触れる。
「貴女の翼を全てもぎ取り、謳う姿を永遠に見続けたい」
駆けた脚は常に彼女の下にあった。彼女が血に塗れる姿に光を見出した、天使はいるのだと初めて知った。暗い暗い夜の中、私を迎えこの手に刃を授けた。
バイオレートは願う、人間の浅ましさすら愛し闘争に飢える我が身を撫でるこの主の側に墓標があるようにと。
そして口づける、指先に願いと隔絶できぬ運命の糸を結び付けるように。