短編集
ハーデス城の一室には広大な庭があった。
暗い空間ではあるがそこには花が咲き、僅かではあるものの木漏れ日が隙間から差し花を照らしている。
冥界の王たるハーデスの城とは思えぬその部屋にはハーデス以外立ち入ることはなかった。というよりかは、他のものに入られぬように結界すら張っている状況なのだ、どれほど厳重にしてもハーデスにとっては不安の種であり唯一の希望たるものがそこにはある。
きぃと扉を開く音が部屋に響く。草花はざわめき主人の来訪を静かに迎え入れた。
その足は部屋の中心にある白い棺桶に向けられた。ステンドグラスの光はその棺桶の中に居る存在を照らすように差し込み、美しく煌めいた光景は見る者を狂わせるような歪さを孕んでいる。
「ごめんね、今日は少し来るのが遅れてしまったよ」
穏やかな声で少年は彼女に話しかける。
ハーデスの依代たる少年、アローンがそこにはいた。本来ならハーデスの目覚めと共に人間の自我は失われるはずなのだが彼は特殊だった。故に今もその精神を保ち続けているがこの人間味を帯びた表情は彼女の前でしか振る舞うことができなかった。
「一人で心細い思いをさせてしまっているんじゃないかと心配していたんだ。本当は僕がずっと側にいられたらよかったんだけど…」
アローンは細い指で彼女の頬を撫でた。小さく息を吐き胸を上下させる夢主に安心したように微笑み、その顔を覗き込んだ。
棺桶の中には色とりどりの花が散りばめられている。ありとあらゆる色が存在しここが世界の中心であるかのような、楽園と呼ばれるエリシオンを彷彿とさせる景色ではあるものの棺桶の中にいる女の姿はやはり異質だった。
「皆、君を求めている。でも今の君は僕を救おうとして、その命を散らす気でいるんだよね………そんなこと、許されるわけがないのに」
頬を撫でていた指は彼女の側に横たわる花を掴みグシャリとその形を歪めさせた。
隙間から花弁がこぼれ落ち彼女の髪を彩ったがアローンの、ハーデスの中にある怒りに似た複雑な感情は抑えられるわけがなかった。
「父であるハーデスを退き、依代である僕を救う。まるで救世主のようだ…それを叶えられたら君は王になれただろうね」
どこまでも愚鈍な正義を貫いた。
彼女の性質なのだろう、強い正義の刃がハーデスに向けられるなど信じられなかった。
だが夢主はこの世界において異質だった、後世から流れ着いた存在というだけで奇特だというのにハーデスの子でありながらハーデスを止めようというのだ。
それが愛だとハーデスとて理解している、夢主の望みは父と母と、エリシオンにて穏やかなる日々を過ごすことだ。
だから聖戦などやめてほしいと願うのだ、昔はそんなことを言うような子ではなかったのに。
「君の中にある信念が僕に向けられているとしても、僕は君を憎みはしないよ。たった一人の最愛の人だから」
ハーデスにとって最愛の子はアローンにとって憧れの人であった。
それが運命かはわからなかった。だが彼女は自分の下へ辿り着き、そして人間の少年たるアローンを守ろうとした。自分が冥王の依代だと知らなかったようだが、きっとそれも含めて因果なのだろう。
自分よりも背が高く、逞しく、凛とした人だった。美しい髪をほんの少し撫でたいと、その目が自分に向いて欲しいと心底思った。
キャンバスの中に彼女を描いてみた、自分に覚醒の兆しが来る前から筆で彼女を描いてはその焦がれた感情に胸を締め付けられた。
自身の目覚めのカケラを孕んだ後でもキャンバスの中に彼女はいた、けれど夢主には死は訪れなかった。
そうなればアローンは運命だと思う他なかった。彼女だけは自分の世界に色を孕んだまま在ってくれる、美しい瞳は光を帯びたまま暗い闇を照らしてくれる。
そう信じていた、だが彼女は自分の傍に居ることを選ばなかった。
アテナの加護を得て、自分の前に現れたのだ。纏っているのは冥衣だったがその瞳は父に対する敬意や愛情ではなく覚悟に満ちていた。
『私が王になる、貴方を斃し冥府の王に。どうかお譲りください、父上。その座を、私に』
再会がこのような悲劇的な幕開けなどと思いもしなかった。
子を求め続けたハーデスの痛みはアローンの中にも確かに根付き、彼女に対する複雑な愛情が目の前を歪ませていく様はとても残酷に思えた。
「(君が大切なのに、君は自分を大切にできない。だからハーデスもペルセポネも心を痛めた。冥闘士達も、皆)」
あぁそうか。
必要なのかもしれない、罰のような行いが。罪のような深い愛情が。
砕けたガラスの破片が体に降り注ぐような鈍い痛みが全身を覆う。空気が張り詰める、自身に刃を向けた夢主は随分と動揺していた。
様子の違った父の姿に何かを感じ取ったのだろう、僅かに後退りした夢主の瞳が丸くなる様にアローンは穏やかに微笑んだ。
「お前は、誰にも触れさせるべきではないのだろうな。神にも、人にも、否、ありとあらゆる事象にも」
その微笑みと共に夢主の体から血が吹き出た。慈悲の一つもないような行いだがハーデスの心中はそれこそ父性に溢れていた。娘を守り抜くためにどのようなことでもできた、それほどまでに愛している娘なのだ。例え娘がどのような行いをしようともハーデスの愛情に翳りなど微塵もなかった。
アローンはそんなハーデスの父性と自身の中にある強い敬慕が入り混じり溶け合う感覚に身を寄せた。
仮に自分たちの行いがまともではないと言われても、夢主を守るために他の手段など選べるわけながなかった。
「お前はその心に迷いなく行動を起こせる無謀たる勇気がある。しかしその勇気こそ、余を最も苦しめているに他ならない」
棺桶の中に居る夢主は眠りの神の祝福を得て永遠に夢を見ている。
殻を破ることは決してできやしない、それは他者の意思が介入できる余地があれば成せるだろうがこの部屋には何人もたりとも立ち入ることはできない。
ハーデスにとっての安寧は今ここにある、もはや聖戦などというものは彼にとって娘の存在を守るためにあるといっても過言ではない。彼女を掠め取ろうとする全ての生き物を対する罰を与え、この庭を守り抜くことこそハーデスの願いだ。
「あぁ、ペルセポネ。やっとこの子が僕たちの下で穏やかに在ってくれるんだ。だからどうか見守っていて、この世界を鳥籠を」
花は唄う、最愛の子のために。
我が子を彩る祝福の雨、夢の中で駆け回る娘の笑顔に想いを馳せ夫婦はその手を血に染めることを誓う。
「アテナ、貴女がいる限り戦は終わるはずもない。祝福は余が与えるもの、他の者など永遠に触れさせない。この子の温もりは我らだけのもの」
父は目を細め娘の額に自らの額を当ててみる。あの頃の懐かしい感触を、古びた思い出の箱を、ハーデスはなぞり続ける。
アローンはその悲しい様を眺めながら夢主という存在を守るために祈るのだ。
「君を失わない世界を僕が作るよ」
それが歴史を狂わせてあるべき場所に辿り着けずとも、ここにある存在の尊さが何よりも最愛であると呪われたように縋るのだ。
どれほど想ってもその手は父に伸びやしないとわかっているのに。
暗い空間ではあるがそこには花が咲き、僅かではあるものの木漏れ日が隙間から差し花を照らしている。
冥界の王たるハーデスの城とは思えぬその部屋にはハーデス以外立ち入ることはなかった。というよりかは、他のものに入られぬように結界すら張っている状況なのだ、どれほど厳重にしてもハーデスにとっては不安の種であり唯一の希望たるものがそこにはある。
きぃと扉を開く音が部屋に響く。草花はざわめき主人の来訪を静かに迎え入れた。
その足は部屋の中心にある白い棺桶に向けられた。ステンドグラスの光はその棺桶の中に居る存在を照らすように差し込み、美しく煌めいた光景は見る者を狂わせるような歪さを孕んでいる。
「ごめんね、今日は少し来るのが遅れてしまったよ」
穏やかな声で少年は彼女に話しかける。
ハーデスの依代たる少年、アローンがそこにはいた。本来ならハーデスの目覚めと共に人間の自我は失われるはずなのだが彼は特殊だった。故に今もその精神を保ち続けているがこの人間味を帯びた表情は彼女の前でしか振る舞うことができなかった。
「一人で心細い思いをさせてしまっているんじゃないかと心配していたんだ。本当は僕がずっと側にいられたらよかったんだけど…」
アローンは細い指で彼女の頬を撫でた。小さく息を吐き胸を上下させる夢主に安心したように微笑み、その顔を覗き込んだ。
棺桶の中には色とりどりの花が散りばめられている。ありとあらゆる色が存在しここが世界の中心であるかのような、楽園と呼ばれるエリシオンを彷彿とさせる景色ではあるものの棺桶の中にいる女の姿はやはり異質だった。
「皆、君を求めている。でも今の君は僕を救おうとして、その命を散らす気でいるんだよね………そんなこと、許されるわけがないのに」
頬を撫でていた指は彼女の側に横たわる花を掴みグシャリとその形を歪めさせた。
隙間から花弁がこぼれ落ち彼女の髪を彩ったがアローンの、ハーデスの中にある怒りに似た複雑な感情は抑えられるわけがなかった。
「父であるハーデスを退き、依代である僕を救う。まるで救世主のようだ…それを叶えられたら君は王になれただろうね」
どこまでも愚鈍な正義を貫いた。
彼女の性質なのだろう、強い正義の刃がハーデスに向けられるなど信じられなかった。
だが夢主はこの世界において異質だった、後世から流れ着いた存在というだけで奇特だというのにハーデスの子でありながらハーデスを止めようというのだ。
それが愛だとハーデスとて理解している、夢主の望みは父と母と、エリシオンにて穏やかなる日々を過ごすことだ。
だから聖戦などやめてほしいと願うのだ、昔はそんなことを言うような子ではなかったのに。
「君の中にある信念が僕に向けられているとしても、僕は君を憎みはしないよ。たった一人の最愛の人だから」
ハーデスにとって最愛の子はアローンにとって憧れの人であった。
それが運命かはわからなかった。だが彼女は自分の下へ辿り着き、そして人間の少年たるアローンを守ろうとした。自分が冥王の依代だと知らなかったようだが、きっとそれも含めて因果なのだろう。
自分よりも背が高く、逞しく、凛とした人だった。美しい髪をほんの少し撫でたいと、その目が自分に向いて欲しいと心底思った。
キャンバスの中に彼女を描いてみた、自分に覚醒の兆しが来る前から筆で彼女を描いてはその焦がれた感情に胸を締め付けられた。
自身の目覚めのカケラを孕んだ後でもキャンバスの中に彼女はいた、けれど夢主には死は訪れなかった。
そうなればアローンは運命だと思う他なかった。彼女だけは自分の世界に色を孕んだまま在ってくれる、美しい瞳は光を帯びたまま暗い闇を照らしてくれる。
そう信じていた、だが彼女は自分の傍に居ることを選ばなかった。
アテナの加護を得て、自分の前に現れたのだ。纏っているのは冥衣だったがその瞳は父に対する敬意や愛情ではなく覚悟に満ちていた。
『私が王になる、貴方を斃し冥府の王に。どうかお譲りください、父上。その座を、私に』
再会がこのような悲劇的な幕開けなどと思いもしなかった。
子を求め続けたハーデスの痛みはアローンの中にも確かに根付き、彼女に対する複雑な愛情が目の前を歪ませていく様はとても残酷に思えた。
「(君が大切なのに、君は自分を大切にできない。だからハーデスもペルセポネも心を痛めた。冥闘士達も、皆)」
あぁそうか。
必要なのかもしれない、罰のような行いが。罪のような深い愛情が。
砕けたガラスの破片が体に降り注ぐような鈍い痛みが全身を覆う。空気が張り詰める、自身に刃を向けた夢主は随分と動揺していた。
様子の違った父の姿に何かを感じ取ったのだろう、僅かに後退りした夢主の瞳が丸くなる様にアローンは穏やかに微笑んだ。
「お前は、誰にも触れさせるべきではないのだろうな。神にも、人にも、否、ありとあらゆる事象にも」
その微笑みと共に夢主の体から血が吹き出た。慈悲の一つもないような行いだがハーデスの心中はそれこそ父性に溢れていた。娘を守り抜くためにどのようなことでもできた、それほどまでに愛している娘なのだ。例え娘がどのような行いをしようともハーデスの愛情に翳りなど微塵もなかった。
アローンはそんなハーデスの父性と自身の中にある強い敬慕が入り混じり溶け合う感覚に身を寄せた。
仮に自分たちの行いがまともではないと言われても、夢主を守るために他の手段など選べるわけながなかった。
「お前はその心に迷いなく行動を起こせる無謀たる勇気がある。しかしその勇気こそ、余を最も苦しめているに他ならない」
棺桶の中に居る夢主は眠りの神の祝福を得て永遠に夢を見ている。
殻を破ることは決してできやしない、それは他者の意思が介入できる余地があれば成せるだろうがこの部屋には何人もたりとも立ち入ることはできない。
ハーデスにとっての安寧は今ここにある、もはや聖戦などというものは彼にとって娘の存在を守るためにあるといっても過言ではない。彼女を掠め取ろうとする全ての生き物を対する罰を与え、この庭を守り抜くことこそハーデスの願いだ。
「あぁ、ペルセポネ。やっとこの子が僕たちの下で穏やかに在ってくれるんだ。だからどうか見守っていて、この世界を鳥籠を」
花は唄う、最愛の子のために。
我が子を彩る祝福の雨、夢の中で駆け回る娘の笑顔に想いを馳せ夫婦はその手を血に染めることを誓う。
「アテナ、貴女がいる限り戦は終わるはずもない。祝福は余が与えるもの、他の者など永遠に触れさせない。この子の温もりは我らだけのもの」
父は目を細め娘の額に自らの額を当ててみる。あの頃の懐かしい感触を、古びた思い出の箱を、ハーデスはなぞり続ける。
アローンはその悲しい様を眺めながら夢主という存在を守るために祈るのだ。
「君を失わない世界を僕が作るよ」
それが歴史を狂わせてあるべき場所に辿り着けずとも、ここにある存在の尊さが何よりも最愛であると呪われたように縋るのだ。
どれほど想ってもその手は父に伸びやしないとわかっているのに。