短編集
「夢主はどうだ」
「今は眠っている、お前があのようなことをしたせいで随分とくたびれたようだ」
ヒュプノスは神父服を脱ぎ捨て吐き捨てるようにタナトスに告げた。
湯浴みを終えたものの血の匂いは鼻腔を掠めている、タナトスはくつくつと喉を鳴らして笑うがそれに呆れてヒュプノスはため息をついた。
「良いではないか、妻の激情ほど愛らしいものはないぞ」
「だからといってあのようなことを差し向けるお前の矜持には理解は示せん。あまり夢主に苦労をさせるな」
「何を、お前とて夢主のそれを見て心が躍っただろうに」
妻が手にかけ殺めた者の残骸は見るも無惨に塵となり、その面影を何一つ残すこともなく魂ごと掻き消された。
夢主がその者を殺めた理由は夫に対して傷をつけた、という些細な動機だ。
神に対して無礼を働く輩に、ましてや最愛である夫を傷つけられた夢主は黙っていられず激昂の末に間者を殺害したのだ。
「お前の悪い癖だぞ、タナトスよ。自身の感情に忠実過ぎる」
「それであの光景を眺められたのなら一興だろう、俺は満足している」
「…はぁ」
ヒュプノスは額に手を当て困り果てているがタナトスは一方で満足げに腕の傷を眺めている。そのうち癒えるであろう微々たるそれが妙に唆るのだ、この傷は夢主へのある種の愛情に他ならない。
拐かしたのはタナトスだ、よく知りもしない者に自分に敵意を抱かせるように仕向けた。
趣味がいいとは言えない行いだが妻である夢主は夫に似てか強く深く底の見えぬ愛を秘めている。その愛が清いものかと問われれば定かではないが少なくとも双方愛ゆえに狂うのだ、ならば良いとタナトスは語るがヒュプノスはタナトスの過激な手口に疑問を口にせざるを得なかった。
「我らが妻の美しさを引き立てるには死が丁度良い、無価値な命に価値を与えてやっていることも含めて今の俺は最も慈悲深いと思うがな」
「その傲慢さ、裏目に出て夢主に愛想を尽かされても私は知らんぞ」
「ふ、奴が俺を手放すわけがないだろう。番の楔はそう簡単に千切ることなどできん」
過剰な自信に根拠があるのかと問いたくもなったが事実、夢主と自分たちの縁は強固故否定はできなかった。
ヒュプノスは兄の横暴に似た愛を一瞥した後、一輪花を摘み室内を後にした。
王たる妻は今やその面影を過去に捨て、強く気高く生き抜いている。人故の温もり、その温もりはヒュプノスを救いもしたが同時に人としての終わりを垣間見ることに深い失望を覚えざるをえないのも事実。
「愛おしいことに変わりはないが、私とタナトスではお前に対する干渉の仕方がまるで別ものだ。全くもって、似ないものだな」
眠りについた夢主を撫でながらヒュプノスは花を一輪髪の隙間に挿して微笑んだ。
妻の感情を全て引っくるめて愛しているタナトスのやり口を肯定する気はない、激情に支配された妻もヒュプノスは嫌いではなかった。結局のところ兄と性根は変わらないのだろう、しかし夢主が血に塗れている姿は好ましいとは思わない。
「私はお前に永遠の穏やかな眠りを与えてやりたい。夢の中、私とタナトスを想い終生在ってほしいものだが…」
今や夢主はハーデスの後継となった身、幾ら双子の神といえど主たる存在の意志を無視するわけにはいかない。
それでも夢主の愛を感じ得る限り、自らの在るべき姿を違えることはないはずだ。夢主に捨て置かれるなど、もう考えられるはずもないのだ。それほど彼女の存在はヒュプノスに侵食している。
「愚かな兄を許してやってくれ、お前を愛してやまないことに違いはないのだ」
鎖のような愛で在る、しかしその心地の良さに身を投じてしまえばもはや抗えはしない。
愛する妻の美しい顔を指先で摩った後、ヒュプノスは小さく舌を出しその輪郭を舐め上げた。
感触を永遠に忘れないように。
肌のざらつきも、髪の艶も、唇の線も。
ただ一つの愛おしさに彼もまた、目を細めて悦ぶばかりであった。
「今は眠っている、お前があのようなことをしたせいで随分とくたびれたようだ」
ヒュプノスは神父服を脱ぎ捨て吐き捨てるようにタナトスに告げた。
湯浴みを終えたものの血の匂いは鼻腔を掠めている、タナトスはくつくつと喉を鳴らして笑うがそれに呆れてヒュプノスはため息をついた。
「良いではないか、妻の激情ほど愛らしいものはないぞ」
「だからといってあのようなことを差し向けるお前の矜持には理解は示せん。あまり夢主に苦労をさせるな」
「何を、お前とて夢主のそれを見て心が躍っただろうに」
妻が手にかけ殺めた者の残骸は見るも無惨に塵となり、その面影を何一つ残すこともなく魂ごと掻き消された。
夢主がその者を殺めた理由は夫に対して傷をつけた、という些細な動機だ。
神に対して無礼を働く輩に、ましてや最愛である夫を傷つけられた夢主は黙っていられず激昂の末に間者を殺害したのだ。
「お前の悪い癖だぞ、タナトスよ。自身の感情に忠実過ぎる」
「それであの光景を眺められたのなら一興だろう、俺は満足している」
「…はぁ」
ヒュプノスは額に手を当て困り果てているがタナトスは一方で満足げに腕の傷を眺めている。そのうち癒えるであろう微々たるそれが妙に唆るのだ、この傷は夢主へのある種の愛情に他ならない。
拐かしたのはタナトスだ、よく知りもしない者に自分に敵意を抱かせるように仕向けた。
趣味がいいとは言えない行いだが妻である夢主は夫に似てか強く深く底の見えぬ愛を秘めている。その愛が清いものかと問われれば定かではないが少なくとも双方愛ゆえに狂うのだ、ならば良いとタナトスは語るがヒュプノスはタナトスの過激な手口に疑問を口にせざるを得なかった。
「我らが妻の美しさを引き立てるには死が丁度良い、無価値な命に価値を与えてやっていることも含めて今の俺は最も慈悲深いと思うがな」
「その傲慢さ、裏目に出て夢主に愛想を尽かされても私は知らんぞ」
「ふ、奴が俺を手放すわけがないだろう。番の楔はそう簡単に千切ることなどできん」
過剰な自信に根拠があるのかと問いたくもなったが事実、夢主と自分たちの縁は強固故否定はできなかった。
ヒュプノスは兄の横暴に似た愛を一瞥した後、一輪花を摘み室内を後にした。
王たる妻は今やその面影を過去に捨て、強く気高く生き抜いている。人故の温もり、その温もりはヒュプノスを救いもしたが同時に人としての終わりを垣間見ることに深い失望を覚えざるをえないのも事実。
「愛おしいことに変わりはないが、私とタナトスではお前に対する干渉の仕方がまるで別ものだ。全くもって、似ないものだな」
眠りについた夢主を撫でながらヒュプノスは花を一輪髪の隙間に挿して微笑んだ。
妻の感情を全て引っくるめて愛しているタナトスのやり口を肯定する気はない、激情に支配された妻もヒュプノスは嫌いではなかった。結局のところ兄と性根は変わらないのだろう、しかし夢主が血に塗れている姿は好ましいとは思わない。
「私はお前に永遠の穏やかな眠りを与えてやりたい。夢の中、私とタナトスを想い終生在ってほしいものだが…」
今や夢主はハーデスの後継となった身、幾ら双子の神といえど主たる存在の意志を無視するわけにはいかない。
それでも夢主の愛を感じ得る限り、自らの在るべき姿を違えることはないはずだ。夢主に捨て置かれるなど、もう考えられるはずもないのだ。それほど彼女の存在はヒュプノスに侵食している。
「愚かな兄を許してやってくれ、お前を愛してやまないことに違いはないのだ」
鎖のような愛で在る、しかしその心地の良さに身を投じてしまえばもはや抗えはしない。
愛する妻の美しい顔を指先で摩った後、ヒュプノスは小さく舌を出しその輪郭を舐め上げた。
感触を永遠に忘れないように。
肌のざらつきも、髪の艶も、唇の線も。
ただ一つの愛おしさに彼もまた、目を細めて悦ぶばかりであった。