短編集

血が垂れ流された足を引き摺りながらも夢主は歩みを止めなかった。走るというには少しおぼつかないながらも意識ははっきりとしている、自身のタフさには我ながら感心するものだなどと思いつつも足場の悪い森の中を夢主は駆けた。

「っ!」

ぞわりと背筋を走る殺意にも似た感触の視線に足を止めた。どくどくと血が流れる感覚と共に心臓の音も加速する。

「全く、ヒュプノスのやつはお前に甘いな。まぁ、俺が来ずともそのうち夢神を遣わせただろうが」

大きな翼が影となり夢主の体を覆う。見上げた先には死があったのだ、紛れもない神はその雄々しさと気高さを鎧と風格から漂わせている。

「タナトス…っ」
「暇つぶしに来てやったのだ、もう少し可愛げのある顔をしてみたらどうだ?」

くつくつと喉を鳴らしながらタナトスは黒い髪を靡かせ地上へと降り立つ。冥衣のすれあう音が聞こえ夢主は傷だらけの体を庇いながらも彼を睨んだ。
ヒュプノスならともかくタナトスは相手が悪い。タナトスに関して言えば夢主に対してなかば憎悪のような感情すらある。
夢主のしてきたことを思えば当然ではあるがヒュプノスはそれでも夢主を愛し守ろうとする、だがタナトスは夢主には相応の罰が与えられるべきだと信じてやまないのだ。
それを否定する気はない、だが彼の性質上穏やかで厳粛なそれにはならないことなど知れている。故に今目の前にいる事実に緊張が走るわけだが、タナトスはそれすら楽しんでいるようだった。

「随分と酷い怪我だな」
「…お前が放った者達のおかげで、こんな目に遭ったよ」
「くく、何もそんな言い方をするな。少々遊びに興じただけだ。殺す気など毛頭ない」

そんなことよくも言えるなと内心思うが口に出す余裕はない。
後退しつつ隙をみつけようと夢主は模索するが相手は神だ、易々と切り抜けられるわけがない。ただでさえ負傷しているのだから部が悪いにも程があるのだ。嫌にもなるが夢主はなんとしてもここから逃れたかった。

「ハーデス様の子とは思えん所業だ。何故こんな真似をする」
「聖戦自体、私が好ましく思っていないからだ。冥闘士も聖闘士も等しく、犠牲が多すぎる」
「幾ら駒が消えようが我々には関係のないことだろう。いずれ死する者だ、目をかける必要などどこにある?」
「…私とお前では相容れないようだ、私は冥闘士すら駒だと言う思考には至れそうにないのでな。何があろうと尊い命だ」
「…どの口が抜け抜けと」

タナトスの気に触れたのか空気がびりびりとひりつく。ひっと喉から小さな悲鳴が出た頃には眼前にタナトスが迫っており夢主の首を掴み地面に叩きつけた。

「あ、ぐぁ」
「こうしてお前の首を絞めることができる悦び、想像以上のものだ。さぞ苦しいだろう、だがお前には丁度良い」
「は、なせぇ…!」

両腕でタナトスの腕を掴み引き剥がそうとすれば片手で夢主の顔を覆い掴み上げる。ミシミシと骨が軋み小宇宙によって激痛が走るが夢主は咄嗟に自由になっていた足をタナトスに向けて振り上げた。

「お前には足など要らんな、不要なものだ」

すると鮮血が空を舞う。夢主の足は見るも無惨に切り落とされたのだ、締め上げられた喉から痛みのあまり悲鳴が溢れかけるが夢主は耐えてみせた。
しかし目からは涙が滲んでおり歯を食いしばることでやっと耐え抜けるような有様なのだ、なんと悲劇的な姿だろうか。

「あ〝、ぅ…ひ、ぃ…っ」
「夢主よ、お前には血が似合うな。これほど赤が映える者は中々いないぞ。それに痛みに悶える姿は随分と良い、ヒュプノスが見れば卒倒するだろうが俺は気に入ったぞ」
「タナト、スッ…貴様ァ…っ!」

夢主の怒りはタナトスの冥衣にヒビを入れるほど力強かったらしい。ばきりと音を立てる鎧に驚きつつもタナトスは満足げに微笑み彼女を見下す。

「手足を失い小鳥のように籠の中に閉じ込めて仕舞えばよい。あいつにできないのなら俺がやってやろう、これも愛なら耐えうるだろう」

その笑みと言葉に体は震え逃げ出そうと踠くが神の前では無力だ。
神の子でありながら人として生まれた大罪と、彼女が苦しめた最愛の弟がため、タナトスはついにその体を手をかけた。
まるで紙切れのようだった、思いのほか脆い体を味わったタナトスは「お前ほど愚かなものはそうはいない」と零しながら彼女の悲鳴に耳を傾けた。

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