短編集

血は見慣れている。死を司る神である以上、それは逃れようがない。そしてタナトスの性質上、他者を虐げることに関しては特別抵抗感もないがため冥府にて人間を八つ裂きにすることも良くあることだ。だから動揺することなど何一つないはずだった。

「あぁ、最期に見送ってくれるのはお前だったか」

瓦礫にもたれ掛かり呻く。血に塗れ冥衣は砕けて散らばっているのだから、その悲惨さは誰がどう見てもわかりえるものだが。

「お前がこうもあっさり死ぬとはな」
「仕方がないさ、私は神ではないから」

そうだ、この女は神と成ることを自ら拒んだ。冥王の祝福を退け限りある己が命を使い果たすとそう誓い、自身とヒュプノスを運命に巻き込んだ。神すら憚る愚者でありながらその憐れな存在の側に居ることを望んだのは紛れもなく我々であったことを彼は今になって痛感するのだ。

「すまんな、私ごときのために」

声が小さく木霊する。垂れ流された血の量から察するに生存は難しいであろう、皮肉なものでその血はどこまでも澄んで見えた。この者の血は昔から変わらず甘く、醜悪であったのだ。神の心を惑わし絶望を与えるに相応しい鮮血、双子の弟もその血にどれほど苦しめられたことかと彼は小さな人の体を見下ろした。

「貴様の魂は今度こそヒュプノスの下へ行くだろう。これで全ての因果は収束する、長い戯れだったな」

タナトスの言葉に彼女は小さく笑う。光の宿らない瞳はもはやタナトスに向くこともない。か細い命の炎はゆらゆらと揺れて煙を巻き上げる、純度の高い狂気がようやっと静寂に帰るのだ。

「父上にも、申し訳ないな。最期まで、私は…」

懺悔のようなそれが紡がれ事はなかった。言葉の切れ端が血に交じって鼓動も静かに音を止める。何もなかったかのようにそこには肉塊だけが晒される。
誰も止められなかった。神々ですらこの者をどうにもできなかった、だが故に欲したのだろう。愚直に正義を信じる、眩い子を。冥界には似つかわぬ太陽のような無垢な子を。

「眠れ、お前の愛する者の内で」

死は等しい。
彼はこの者の行く先は果てのない幸福であると知りえてなお、同情をせざるを得ないのは愛する者もまた狂気の欠片を飲み込んだからなのだろうと胸の内で囁いた。

「ヒュプノス、こいつだけは何があっても手放すな。悍ましいこの女だけは」

その顔には物珍しい穏やかさが宿っていることは誰も知るわけもない。誰も、誰も。

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