短編集
エリシオンに争いなどない。
少なくとも女神アテナとの聖戦の終わりし今生においてもはや戦場たる場所は地上にも冥界にもありはしなかった。
だが来たる者は草花の生い茂る美しい景色に似合わない鋭利な刃を地に立て、眼下を見下ろし静かに佇んでいる。
黒く鈍い光を放つ鎧を纏い、父譲りの漆黒の髪を靡かせ微動だにしないその姿は異様であった。辺りを舞う蝶たちは彼女を守るようにとその肩や腕にしがみつくが幾ら舞おうが彼女が動くことは決してなかった。
ニンフたちすらこのあたりにはやって来ない、神殿に側から態々こんな辺鄙な場所へやってくるのはこいつぐらいだと夫たちは理解している。
「全く、手間をかけさせる」
白いシルクの布がふわりと風に靡いて銀の髪もさらさらと空を泳ぐ。がしゃんと重い音とは裏腹に軽やかに歩みゆく男の気配に夢主はやっと首を動かしそちらを見やった。
「タナトス、なぜこんな場所に」
「お前が勝手に飛び出して行ったのだろう、探したぞ」
「態々探してくれたのか」
「…妻が転婆なものでな、振り回されるこちらの身にもなってみろ」
よろしくない口先とは裏腹に、足取りは軽い。存外この男は過保護なのだ、夢主はよく知っている。彼女の行動範囲をある程度把握しておきたい男の性なのだろうが、それが可愛らしいと夢主は思うのだ、惚れた弱みというのも納得がいくものである。
「ニンフたちも心配していたぞ」
「ヒュプノスまで、二人して私を探していたのか」
「ここ最近多いだろう、一人このような場所に訪れて思い耽るなど、らしくもない」
金の髪を持つ眠りの神は妻に歩み寄りその傍らに寄り添う。穏やかな瞳と口調は彼の性格そのものを体現するかの如く美しい。
二人の間で変わらず夢主は剣先を地に立てたまま夫達を一瞥し、また眼科を見下ろした。
「空虚を眺めるお前には一体何が見えている」
「ううむ、それは言葉にし難いな」
「勿体ぶらず言えば良いものを、焦ったい奴だ」
夢主の凛とした顔が何かをなぞる。それが気になるのは夫であるから当然のことであった、娯楽でありそれは愛の証明なのだ。彼女が王たる器を持ち合わせるようになればその隣に立つに相応しくありたいと思うのもまた必然であった、神でありながらこの若く愚かでしかし獣のような女に何故だか心を引き渡してしまったことをタナトスは未だに不思議でならなかった。我が事でありながらもこの女に惹かれる理由は漠然としている、しかし嫌いにはなれぬのも真理。ヒュプノスは「我々の定めなのだろう」と笑って語ったが定めならばなんとタチの悪い話であろうか。
「性に合わないな」
「何がだ」
「悩むのがだ」
あまり多くを語らうことはない、夢主の言葉も酷く端的だ。それに惑わされることも多いがそこに不快感はない、それが彼女の特質なのだと夫婦となり悟ってしまったのである。
「ヒュプノス、タナトス。身を屈めてはくれまいか」
長身の二人にそう告げると二人は一度互いを見合い何事かと思ったものの素直に夢主の言葉に従いその身を彼女に寄せた。
「なんだこれは」
「イヤリングだ、アレキサンドライトを嵌め込んだ特注のそれだよ」
「ほう、美しいな」
「だろう、光源によって色味が変わるんだ。うん、とてもよく似合っている」
夢主はヒュプノスとタナトスの右耳に特製のイヤリングをつけて満足げに微笑んだ。
どうやらこれを渡すことが悩みのそれだったらしい、しかし何故そうもまぁ悩んでいるのか。彼らには謎だった、夫婦なのだから気にせずに渡せば良いものを躊躇う真似をするなどらしくもないではないか。
「貰ってばかりだからな。これが礼になるなど、到底思えなかった」
嘲笑するように夢主はぼやいた。
珍しく辛気臭い彼女にヒュプノスは手を伸ばし頬に触れる。
「だがこの光景に触れて確信したよ。渡すべきだったと、渡して良かったと」
その手を撫で夢主が目を伏せる様に二人は込み上げる想いに胸を熱くさせた。手に余るほど愛おしい存在なのだと彼らも思うばかりだ、互いに光を放つそれは夢主にとってのエゴであり夫婦を繋ぐ楔であるのだと明確に理解し得たのだ。
「お前のものだ。私たちは、永劫に」
「生と死の先も、共に在ろう」
誓いの言の葉はしがらみではない。
確約された未来ほど喜ばしいのだ、今はただ純粋な想いを口付けに乗せて与えよう。
「ありがとう、私の最愛の人」
彼女が我々を守り抜くとその耳に誓うように、我々もお前のものであり続けよう。
ちりんと鳴ったそれは愛を帯び、可愛らしく鳴いてみせた。まさに彼女が望んだ楽園のように優しい光が黒い髪に映える様は何よりも美しいと二人は彼女を想うばかりである。
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