短編集


「機嫌を直してはくれないかタナトス」

夢主が幾ら声をかけようとタナトスはそっぽを向いて目を伏せている。
困った困ったと夢主は首の後ろを掻いてうーんとうなった。かれこれ数刻こんな有様なのだ。幾ら夢主が謝ろうとも彼は機嫌を損ねたままなのである。
愛する夫の苦心ほど辛いものはない、妻としてできれば彼には笑顔でいてもらいたいものだが中々難しい局面に立たされているなと夢主は苦い顔をしてみせた。

「タナトスよ、いい加減にしないか。ニンフ達どころか花も草もすっかり怯えているではないか」

見かねたヒュプノスが声をかけるも態度は変わらない。タナトスはつんとあちらを向いたままである。手のかかる兄であることは承知の上であったがここまで酷いと手に負えないなとヒュプノスは夢主を見やるとそれに気づいた夢主は事の次第を話し始める。

「私がニンフ達と戯れていたのがお気に召さなかったらしい。今日は甘い菓子と茶を用意してくれてね、可愛らしいだけでなく気立ても良くて褒めると頬を染めて目を伏せるものだから愛らしいなと言っただけなのに」

どう考えても事の発端は夢主ではあるが今更彼女にそれが悪いと言ったところで…とヒュプノスは思ってしまった。誑し癖があるのは今に始まったことではないのだ。昔からそうであったのに気にするタナトスの度量に問題があるのだ。

「夢主は昔からこうであっただろう、何をいまさら」
「お前には夫としての矜持がないのかヒュプノス」
「器を広げてみせないか、何もニンフを娶ると言ったわけでもあるまい。それにお前とてニンフ達と戯れているではないか」
「ぐっ」
「ぐうの音が出たな」

タナトスはお前は味方ではないのかとヒュプノスを睨みつけるが彼は全く持って素知らん顔をしてみせた。なんと薄情な弟だとタナトスはますます機嫌を損ね背を向けてしまったので夢主は頬を掻いてやっぱり困り果てるのだ。

「タナトス」

声をかけるも彼は振り向いてはくれない。ヒュプノスはしばらくは放っておくしかあるまいと思うのものの夢主はタナトスを愛していないわけではないのだ、彼の機嫌をなんとか回復させたいと声をかけるしかないのだろう。

「可愛いお前の顔が見れないのはとても辛いよ」
「…」
「愛していると言葉にし続ければお前は振り向いてくれるのか?」
「………」
「…お前の瞳を見ながら口づけたいのにそれが叶わないなんて、悲しくて萎れてしまいそうだ」
「…くっ……」

ぐらついているタナトスの姿を見てヒュプノスは嫉妬深い性分の癖に心底夢主には甘い彼の性が透けて見えてつい笑ってしまいそうになったがここで笑うと後が面倒だと唯々見守ることにした。

「お前が側にいないともう眠りにつけないのに、お前はそうではないのか?」
「馬鹿を言うな、お前の眠りは俺とヒュプノスの領分だ。何があろうとそれは変わらん」
「なら側に居てくれるのか」
「…お前が望むのであればな」

ついに夢主が彼の前に出てその頬に手を伸ばして口づけると先ほどとは態度が一変し、タナトスは夢主を抱き上げあちらこちらにキスを振りまいている。犬のように強請る癖があるのもまた意外な一面だが夢主の前ではこんなものだとヒュプノスもよくわかっているらしい。今更とやかく言う気はない。

「お前は魔性だな、夢主よ」
「どうだろう、お前達だから振り回したくなるのかもしれないな」
「ならば一層タチが悪いではないか」
「ふふ、冗談だ。私の側にいるのはお前達じゃないと駄目みたいだ」

銀の髪を掬い上げて微笑む妻にすっかり絆されてしまったが悪い気はしなかった。
これが世に言う愛妻家というものであればその名の通りなのだろうと目を細め神は人間が見惚れる美しい笑みをたんと浮かべるのであった。
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