短編集
その体はまさに芸術の域に達していた。
大きな水槽の中に入れられた彼を見て夢主はその美しさに残酷なほど魅入られた。
同時にこの存在に酷く哀れみを抱いていた、美し過ぎるが故に人に攫われ売られた身。その髪の艶も目の透き通る様も確かに美しく夢主もそれに魅了された一人だった。
だがこの哀れな人魚を飼い殺すつもりはなかった、夢主は哀れんだ結果この人魚を逃がそうと考えていたのだ。
「何を企んでいる」
彼はそう言って夢主を睨んだが夢主はただ己が心を言葉にするだけだった。
「お前が生きるべきはこんな小さな檻では無く、広大な海なんだろう」
夢主の言葉に驚きつつも彼は警戒することをやめなかった、当然だ。それほどまでに人間を毛嫌いしているのだ。されたことを考えれば納得はする、だから自分の善意など理解してもらおうなどと考えてはいなかった。彼に穏やかに過ごしてもらうためにもできることをする、ただそれだけだった。
「アルバフィカだ」
「アルバフィカ、それがお前の名なのか」
「…あぁ」
人魚は人の心をよく見る。密かに眠る邪悪すら見抜く心眼はどうやら夢主に悪意がないと知り少しずつではあるが彼女を信頼し始めたらしい。
実際夢主はアルバフィカを海に帰すためにあれこれしているらしい、上級階級の夢主にとって人魚を買うという行為自体はそこまで難しいことではない。ただ逃すというのは単純な話ではなかった。
逃すためには態々人魚を買うような偽善者だと後ろ指を指されるわけにはいかなかった、それこそ名門の家柄である夢主にとっては地位に傷をつけることがいかに愚かであるか身をもって知っている。
たかが人魚一匹、だがそれを逃すためにだけになどというのはあまりにも馬鹿馬鹿しい行為だと言われるのは明確である。
そのためにこの人魚を逃すだけの理由と手筈が必要だった。そのことを彼に告げても信じてもらえるとは思っていなかったが、夢主の直向きな感情に触れ罵倒はしなくなった、それだけでも夢主にとっては前進したと言えたし何より嬉しかった。彼は玩具では無く一つの命で、できることなら友のように接したからだ。それが叶っている現状ほど喜ばしいことはない。
「ニンゲンはやはり穢れている、だがお前は、ほんの少しだけ心に清さがある」
「だから名を教えてくれたのか」
「…名を呼べないままでは不便だろう」
顔を背ける優雅に泳ぐ彼を見て一層夢主は思うのだ。この美しい存在は人に飼われるために居るのではない、海の中を泳ぎ水と共に生きることこそ本懐なのだと。
「できるだけ早く海に帰せるように頑張るよ。あと少しかかるが、辛抱してくれ」
「…構わない、私なりにお前を信じると決めたからな」
「アルバフィカ……」
その言葉だけでも救われたような気持ちになった。そして彼の気持ちに応えるためにも少しでも早く、ここから逃してやれる手筈を整えねばと夢主は誓うのだった。
こんこん、ドアをノックする音が聞こえ二人はそちらに目を向ける。
アルバフィカはその人物を感じ取り眉間に皺を寄せたが夢主は素直にそちらへ駆け寄り扉を開いた。
「ミーノス、なぜここに」
「夢主様があまりお顔を見せにいらっしゃらないものですから、こちらからお伺いさせて頂きました。申し訳ありません、言伝も無しに訪れるなど」
「いいや、気にするな。むしろ私の方こそお前に声をかける機会がなくて…寂しい思いをさせただろう」
美しい美丈夫は前髪から覗かせた黄金に似た瞳を夢主に向け微笑んだ。名をミーノスというこの男も夢主ほどではないが上級階級の人間だ。そして夢主の婚約者にあたる男でもある。
「こちらで人魚を鑑賞していたのですね」
「あ、あぁ。ほら、美しいだろう。見てて飽きないからな」
「えぇ、本当に。人にはない輪郭ですから一層そう思うのでしょう」
アルバフィカが毛嫌いするのはこの男が腹の底を隠し夢主には良い顔をするところだった。アルバフィカの端麗な容姿については認めているのだろう、だが夢主が人魚であるアルバフィカに執心気味なことが好ましくないようで微笑みながらもその瞳はつまらなさそうにアルバフィカを見下しているようにも見えた。
「しかし夢主様。人魚ばかりではなく私にも目を向けて頂きたい。貴女の婚約者であるにも関わらず、他の者に貴女を奪われているようで度し難い感情に苛まれるのですよ」
ミーノスは膝をつき彼女の手を取ると手の甲に口付けた。
その光景にアルバフィカは腹が立つのだ、自分には足がなく水の中でしか生きられない。故にあのように夢主に触れることすら叶わない。愛情や恩義を示す行動をニンゲンのようにはできないのだ。そしてそんなアルバフィカの内を理解したように見せつけてくるのがミーノスという男であった。
「すまない、ミーノス。そんなつもりはなかったのだが」
「いいえ、彼は貴女のお気に入りなのでしょう。ですが私は貴女の唯一、嫉妬などする私の浅ましさこそ本来なら罰されるべきなのでしょう」
「そんなことはない!お前はとても純粋に私を想ってくれているじゃないか」
夢主はミーノスの手を取り彼に目線を合わせ心配そうにその顔を見やる。自分のしていることが彼にとって不安を抱かせているという罪悪感が夢主の顔を曇らせるのだ、アルバフィカはこのしたたかな男がやはり好きにはなれなかった。
「弱音を吐くなど、男らしくないでしょうか」
「不安にさせたのは私だろう?ミーノスが自分を責める必要などないじゃないか」
夢主は彼の前髪を指先で軽く払い、額に口付けた。不安を少しでも和らげたいという純粋な想いをミーノスは側で感じ愉悦に浸る。
ちらりとアルバフィカを見るその瞳の濁りこそ人間の欲深さの象徴たるものだ。途端に怒りが込み上げアルバフィカは大きな自身の尾でガラスをびたん!と叩いて不快感を露わにした。
激しい音に驚いた夢主は目を丸くしてアルバフィカに駆け寄った。
「どうしたんだアルバフィカ、そんなに機嫌を損ねて…」
ガラス越しに夢主は手を当てて彼を案じた。
あぁ、今はこの薄い板がもどかしい。
アルバフィカは心底そう思うのであった、彼女に伝えたい全てを遮っている気がしてならないのだ。
だが何よりも彼の心を乱すのはあの男の存在だ。彼女越しに見れば見るほど憎くてたまらない、玩具如きがと言わんばかりのその顔が自身の中に存在することのなかった黒く醜い感情を露わにするのだ。
いつかここから出た時には、彼女もこんな男の下から逃してやらねば。
アルバフィカはあの粘つくような男に鋭い視線を向けながら、拳を握りしめるのであった。