短編集

春の木漏れ日、花の安らぎ、穏やかな風。
満ち足りたこの場所で一つの灯火がゆらゆらと小さく霞んでいく様をヒュプノスは見下ろした。
膝の上に夢主の頭を乗せてその輪郭を優しく撫で上げる。白い肌と少し皺のある彼女の顔が酷く愛おしい。黒い髪はところどころ白くなっているが、触れるたび記憶の蓋から思い出がこぼれ落ちる。夢主の髪を切ってやったことがある、短くなった髪の彼女もやはり愛おしかった。金の髪留めをつけてやると嬉しそうにそれを撫で微笑んでいたことを今も忘れはしない。ある時は化粧もしてやった。美しい妻をこの手で彩ることができたあの日は忘れ難い1日だった。

「何もかも、素晴らしい日々だった」

ヒュプノスは目を細め彼女を撫でる。大人びた夢主の小さな吐息に胸が苦しめられるがそれもまた、一つの思い出になるのだろう。
「私は幸せだった。お前を迎え入れ、過ごした日々はあまりにも鮮明なものだった」
人間の生涯の短さは瞬きのようだ。だがそうでありながらもヒュプノスの胸には一つ一つ積み上げられた記憶の山が彼を穏やかな気持ちにさせていた。

「そんな顔しないでくれ」

夢主のか細い指先がヒュプノスの目元を拭う。ポタポタと雫が溢れ彼女の頬を濡らしてしまう、だが止めようがなかった。止める術を彼は知らなかったのだ。

「陽だまりみたいだ、こうして見上げていると、ヒュプノスがずっと見守っていたことがよくわかるよ」

夢主の瞳が揺らいでいる、別れが近づく気配が彼の胸をざわめかせるがそれでも愛する者に穏やかな時を過ごさせてやりたいと彼は微笑んだ。

「ありがとう、ヒュプノス」
「それは私の台詞だろう」
「いいや、人間の私を愛してくれてありがとう」

血の通った、脆くて優しくて残酷な生き物。故に全てが上手くいったのだ。ハーデスと和解できたのも、ヒュプノスとこうして無垢な時を過ごせたのも、彼女のおかげだった。面影を追い求めていた、けれど違うのだ。彼女だから救われた。彼女の温もりが罪も罰も溶かしてしまったのだ。

「疲れただろう」
「そう、だな」
「休むといい。私が側に居よう」

涙は止まらなかった、けれど心の底から微笑んで彼女の力なき手を握りしめた。
ゆっくりと瞼が閉じていく様を彼は見つめながらこう言った。

「何があろうと、私が守ろう。お前のことを」

誓いの言葉に満足げに微笑んだ彼女はゆっくりと息を吐き目を閉じた。美しい景色と愛する者がいるこの楽園で、永遠の眠りを得た彼女の魂を二度と危険に晒しはしない。

ヒュプノスは随分と長い旅路の果てにあまりにも過ぎた幸福を見た。
側にいる、守ることができる。それだけでよかったのだ。自分にはこれ以上の幸福などありはしない。

「夢主」

愛する者の揺籠となろう、永遠の安らぎを与えるがために。
彼女が生き続けるこの場所で、自身の役目を見つけた彼にはもう、憂いはなかった。
青く透き通る空は二人を祝福し、その終わりに相応しい鮮やかで幕を閉じるのであった。

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