短編集

決して私は信心深いわけではない。教会に通うのも世間体を気にしているに過ぎなかった。なんと傲慢で愚かなのかと罵倒されても仕方がない、とはいえど自身のこうした思考を赤裸々にするつもりはなかった。

慎ましく生き、家族と共に在ること。それ以上の喜びはない。その均衡だけは守りたかった。それが守れるのであれば、命を捧げても構わないと心の底から思えのだ。
夜道を女が一人で歩くなど、父母が知れば心配のあまり家から飛び出して来るに違いない。私は寝静まった頃に一人暗い山道をランプ片手に歩いている。
信ずるに値するとはまるで思っちゃいない。ただ、あの神父は私の父を病から救う手立てがあるとそう言った。疑ってはいる、当然だ。あの神父はどこか普通ではなかった。
皆、彼を信心深く清く公平なお方だと崇めるようにそう告げていたが彼の腹の内が見えないさまは奇妙で恐ろしかった。ある意味人間らしくないのだ、私の動物のような嗅覚はそう判断した。そしてそれを今も覆すほどの信頼を彼に対して抱いてはない。

「(けれど父の病は悪化の一途を辿っている。このままでは、どうしようもない)」

医者に行くにも街まではずいぶん遠い。移動するだけでも父には負担になる上に、裕福ではない家庭の事情から捻出できる費用などたかがしれている。恥を忍んで近隣の家々に金を借りても、限界があった。むしろ居場所を狭めるばかりでこのままでは母までもが心労で倒れかねないと不安が募るばかりだった。

「(それであの神父に縋る私も、大概なのだろうが…)」

足取りは重かった、あの神父を信用しきれていないが故なのだろう。
妙に静けさを孕んだ道を進むが月の光は教会への道をまっすぐと照らしている、誘うかのような不気味さに表情は曇るが腹は括ったのだ。今更辞めるなどとできるものか。

「お待ちしておりました」

教会の扉の前には美しい男がいた。
金の長く美しい髪、眼鏡越しでもその瞳の穏やかさは人々を安心させるに相応しい代物だ。だがそれが私にとって歪で不可解そのものなのだ。自分の感覚がおかしいのかと思う時もある、現に父母は彼に対して「あんなにお優しい方はいない」と言っていたのだ。けれどそれすら違和感だ、まるで刷り込まれたかのようにそう思っているのではなかろうかと私は思ってしまうのだ。

「女性を一人、このような夜更けに歩かせるなど本来させるべき行為ではないのですが」
「いいえ、私の望みの代価ですので。この程度造作もありません。それにそこらの女性よりは腕に自信もありますから、神父様がご心配する必要はありませんよ」
「…お強いのですね、心も、体も」

何かを懐かしむかのような穏やかな顔をして彼はそう言った。まるで私を通して何か別のモノを見据えているような気すらする。

「わかっています、貴女は一刻も早く願いを叶えたい。ならば中へと進みなさい」

私の不安な顔を見て彼は扉を開き中へと誘導した。私はランプの火を吹き消して警戒しながら教会へと足を踏み入れた。
靴の音が響き静寂に満ちたそこは日中とはまるで別の場所のようだ。ステンドグラスは月明りに照らされとても美しい、燭台の炎も静かに揺らめいて自分には場違いではないかと改めて痛感させられる。

「…神父様、父の件ですが、本当に病を治すことはできるのですか」

振り返り彼に対して疑問を投げかけた。祈りで治るならそれは素晴らしいと思う、だが祈っても現実は変わらなかった。ならば一体彼はどのような祝福で病を払うというのだろうか。私には見当がつかなかった。

「治す、というとまた話が変わってきますね」
「…どういうことですか」
「私はこう言ったはず、病から救う手立てがある…と」
「………まさか、だましたのですか」

深夜に一人、娘を呼び出すような真似をする男だ。虚言を吐き捨てても納得がいく、そしてある程度それも織り込み済みだ。だから懐にナイフを忍ばせていた。
仮にこの男が神に仕える身で不純な行為に手を染めようものなら、彼を殺す覚悟ぐらいある。そもそもそのような男を生かしておくほうが危険なのだ。

「それは誤解だ、だますつもりは毛頭ない。だが救う方法は治すという行為ではない」
「治さずして救う…?そんな方法、あるわけが」
「…一番側にあったものを忘れた末路か、記憶はやはりないのだな」

訳の分からない事を言い出した神父に思わず後ずさりして私はナイフを手に取った。やはりこの男はおかしい、理解しがたい思考を持ち得ている。

「貴方は神父でありながら私を騙し教会という神聖な場所で一体何をするつもりなんだ、やはり貴方はおかしい。この村に何をしに来た!」

刃を彼に向けて私は叫ぶ。冷静さは失われていたが仕方がないだろう、普通の女性よりも腕っぷしには自信があったがこの人間らしからぬ男を殺すだけの力を持ち得ているとは言い難い。
しかも相手方は異常なほど落ち着いている、その瞳は少し儚げに揺らいでいるがだからといって安心などできるわけもない。

「私はただ一人、お前だけを求めていた。ハーデス様もお前の帰還を待ちわびていた。しかし何故人間に成った、私はそれが知りたいのだ」
「意味が分からない、何の話をしている」
「お前の父君はハーデス様ただ一人、そして母君もペルセポネ様であっただろう。何も思い出せぬのか?」

彼は流暢に話しながら自分のほうへと歩いてきた。その様にぞっとして後退するが女神像を背にしてそれ以上、逃げ出すことはできずただナイフの切っ先を彼に向けることしかできないがそれがせめてもの抵抗だ。

「私はお前を愛していた、否、常に愛しているのだ。仮初の姿になりそれでもお前を見つけ出した。魂の色で区別ができるがそれ以上に、容姿もよく似ている。やはりお前は私の」
「っ!来るな!」

伸ばされた手を払うものの何故か体は石のように動かず彼に抱きしめられ私は死を覚悟した。呼吸が荒くなり手からナイフが滑り落ちもはや何もできやしない。だが男は自分の首筋に顔を埋め深く息を吸った。その行為に小さく悲鳴が零れたが彼の手は自分の体を這うことをやめない。

「あぁ、夢主。お前の温もりはやはり安心する。しかし記憶は呼び戻せないか、ならば少し手荒な真似をするしかあるまい」
「は…何を、ひっ」

足元から何かが這い出る音がする。ぐちゃりと耳障りな音に目を向けるとどす黒い触手のようなものが自分の脚に絡まっていた。粘液に塗れたそれが足を滑る感触の気味の悪さに鳥肌が立ち逃げ出したいと思うものの神父は決して私を離しはしない。

「私の名を呼んでくれ、ヒュプノスと」
「やめろ、なんだこれ…!離して、家に帰して!」
「そのように不安がることもない、人間のお前を育てた父たる者も直に救われる」
「救いって、いったい何を」
「死だ、ハーデス様の救済がもうじきその者にも与えられよう」

その言葉に呆然とした。死が救い?そんなバカな話があるか。
あぁ、自分が愚かだったのかと私は泣きだしたくなった。この男の口車に乗せられ僅かでも父の病が治るなどと思うべきではなかったのだ。幼稚で単純だったのは他でもない自分だ、過去の自分を殴ってやれるならそうしてやりたい。

あまりの事実に愕然として力が抜けた私の体をねばついたそれが絡みつく、現実に打ちのめされてなお希望がないなどあまりにも残酷ではないか。

「私の血を孕んだ者だ、これでお前の魂と記憶を結び付けよう。何、痛みはない。私はお前を悦ばせたいだけなのだ」

両手で私の顔を抑えて彼は目を細め、笑った。その瞳に映った怯えた私の顔がこれから起きるであろう凄惨な行為を象徴するのように歪んでいく様にただただ助けを乞うことだけが自分を守る術であったが、そのような陳腐な戯言は暗い闇に飲み込まれていった。
誰の目にも触れぬまま、誰も真実を知らぬまま。


私はあの美しい場所でまた醜い姿を晒すのかと気が狂いそうになりながら血の海で眠る夢を待ちわびる。
そこには無数の私がいて、粛々と受け入れる。腐りきった私の肉を啄むものなどいないのだから、私だけが私を守ってあげられた。
彼の目に触れる恐怖からも、私だけが。私だけが。

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