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彼にとって拠り所になるべき場所はそこしかなかった。むしろ必然的にそうなったと言えよう。
徐庶は母親を捕虜とされ曹操の下へ下った後、劉備に仕えているであろう諸葛亮や龐統のことを思い酷く嘆いた。自身の展望とは裏腹に世界は残酷でありようやっと見つけた自身の使命すら踏みつぶされていくのをただ黙って見ていることしかできそうになかった。誰かの命が自身の行動で費やされていくことも、自身の選択を信じてやれないことも全てが嫌になるが現状を変える力など到底あるはずもなく鬱憤とした日々の中やるせない気持ちだけが先走り徐庶の体を重くした。
けれど彼女に出会って自身の中で何かが変わっていった。俯いていた日々に変化が訪れたのを彼自身よく理解できた。
「徐庶殿!」
手を振りながら徐庶に笑顔で近づいてくる名前に彼も遠慮がちに手を振って応えた。急いで来たためか息を切らしているがそれを気にすることもなく自分へと向かってくる彼女に酷く心を揺り動かされた。
「名前殿、そんなに急がなくても…疲れたんじゃないのかい」
「いえいえ、徐庶殿を待たせるわけにはいきませんから」
笑みを浮かべる名前を見て胸がざわつくのを抑えるように頬を掻くと「さぁ、行きましょうか」と歩き出す彼女について行こうと慌てると「置いていったりしませんよ」とからかう様に笑うものだから恥ずかしくなって徐庶は少し俯いた。
彼女は自分の境遇に寄り添ってくれた稀な人だった。
曹操が徐庶の母を捕虜として自分の下へ下るようにと命じ仕方なしにとそれに従った後、居心地の悪い環境で言い難い孤独に苛まれている自身に対して声をかけ不思議なことに劉備殿の下に帰りたくはないか、と尋ねてきたのだ。それが嫌味ではないことは彼女の目を見てわかりえた。だがどうしてそのような問いをと聞き返すと名前は「自分の意思とは裏腹の忠義以上の苦痛はないでしょう」と言い切ってみせた。
曹操に仕えている以上彼に対しての忠誠心を以て行動を起こすべきだし言動だってそうだ、今の言い方では曹操への冒涜だと非難されても可笑しくはない。安易な発言は控えるべきだと思いつつ言葉に詰まる徐庶に対して「少なくとも私は策であったとしてもああいったやり方は肯定できない」と目を伏せている彼女の姿を見てほんの少し、自分は許された気になれた。
「君の自分の立場上、そういった発言はすべきではないのでは」
「そうでしょうね。ただ、貴方の顔を見ていたら聞かないわけにはいかなかった」
「俺はそんなに酷い顔をしている、のかい」
「えぇ、いつも貴方は卑屈そうな顔をしているけれど、輪をかけて酷いというか」
「…名前殿は意外と辛辣だね」
「申し訳ありません、ですが放っておけないでしょう。自分の心を押し殺している人を」
名前はありのままの言葉を徐庶へと吐き捨てた。しかしこの困窮した状況に置いて多少の言葉の棘など気にはならなかった。むしろ自分のためにそこまで言い切ってくれる彼女の真っすぐな様が救いにすら感じてしまう。
「ほら、少しだけ貴方の顔が穏やかになった」
微笑んでそう言う名前に胸の鼓動が速くなった。年甲斐もなく心を揺さぶられてときめいているなど言い出せるわけもなく、目を逸らすものの名前の母のような穏やかな笑みを思い出すとつい顔が赤くなってそれを見られまいと俯いてしまう自分が情けなくて恥ずかしくて穴があったら入ってしまいたくなった。
「徐庶殿はまるで生娘のような反応をなさりますね」
「か、からかうのはやめてくれ」
「でもとても可愛らしいですよ」
「名前殿…!」
「冗談ですって、そう怒らないでください」
悪びれもない顔をして何を言うか、と問い詰めたくもなったが度胸のない徐庶にはできず彼女に翻弄されるばかりであった。しかし不思議と居心地が良くて、魏に来てこんなに弾んだ気持ちになるのは初めてだとつくづく思うのだ、名前には人の心を開かせる不思議な力でもあるのだろうかと疑いたくなってしまうのは無理もないだろう。
「君がこうも酷い人だったなんて、知らなかったよ…」
「徐庶殿がそういう人だからでしょうね。もっと自信を持って背筋を伸ばしてくだされば私も言いませんよ」
「そんな無茶な」
「そういうところですよ」
「う…」
くすくすと笑っている名前の顔を見ると自分の境遇も心情も全てがどうでもよくなりそうだった。ただ彼女に笑ってもらえればそれだけで救われて、彼女に傍に居られたらどれほど幸せだろうかと考えてしまうのは焦燥故なのか、わかりもしない感情に苛まれながらもここに居たい理由を見つけた徐庶は晴れやかでその時の表情からは以前の陰りはほとんど感じられなかった。
二人は談笑しながら市場を抜けて桃の木の生える丘へと歩を進めた。
名前が良い景色があると徐庶を誘ってここに至るがその景色は彼女の言う通り絶景であった。ちらりと名前の顔を見るとそれはそれは美しく、そんな彼女が自分にこうまで気をかけてくれるなんて夢のようだと惚けてしまいそうだ。
少し丘を上がり辺りを見渡せる場所で二人は腰を掛け穏やかに過行く時を楽しんだ。何のしがらみもないその時間こそこの時代における至福であったと常々感じるほど世は混迷し終わりのない争いが続いている。だからこそ今が必要なのだと二人は思うのだ。
「ねぇ、徐庶殿。本当のいいのですか」
「…?何がだい」
「劉備殿の下に戻らなくて」
「…以前も話しただろう。君がその手引きをして万が一事態を知られてしまったら立場が危うくなってしまう。それは避けたいし母上のこともあるから、俺はいいんだ」
寝っ転がっている名前を見下ろしながら徐庶は迷いなくそう言い切った。何も後悔がないわけではない、ただ今名前を危険に晒してまで自分には劉備の下へ行く気はないのだ。彼女は自分の恩人のような存在だ、見返りもなく人に与えることができる稀な人、それこそ劉備に似た仁君になれるであろう器と言っても過言ではないと徐庶は踏んでいる。もし彼女が君主なら喜んで命を捧げただろう、しかし彼女はあくまで臣下であった、ならばせめて彼女が生き永らえれるよう尽力することが彼女への恩返しになるのではと徐庶は思い、留まることを決めたのだ。
「俺は君にできるだけ恩返しがしたいんだ。その、頼りになる人間ではないのはわかっているけど…それでも、君が居る限り俺はここでできることをしていたい。今の俺にできることがどれだけあるかはわからないが」
「……貴方は、それで後悔しないのですか」
「うん。自分で決めたことだからね」
「…そうですか」
名前は目を細めて彼を見やる。少なくとも彼自身の決断であるならそれでよいのだ。自身が下した決断であればきっと彼は前を向いて生きていられる、道を敷いてやれたならこれ以上の喜びはない。
「この景色をまた見られるように、俺は頑張るよ」
散りゆく花が彼を彩るのを眺めながらその瞳に映るあざやかな空に希望を見て名前は小さく頷いて彼と同じように空を見上げた。
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