企画部屋
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
名前は呆然としていた。
自分の行いの結果とは言えどこのようなことになろうとは思ってもいなかったため未だに呆けたように頬に手を当てて一人歩いているとその姿を目にした満寵は驚きつつも思わず声をかけた。
「名前殿、どうしてこんなところにいるんだい。君は確か負傷して医務室に隔離されていただろう。抜け出してきたにしては随分と元気がないようだけれど」
「頬をぶたれたんだ」
「え、一体誰に」
「文若」
その単語を聞いた瞬間満寵の血の気が引いた。名前が放心状態なのも頷けたがまさか荀彧がこの世で最も愛する名前に手をあげるだなんて、名前が相当のことをしたに違いないとすぐに察しはついたがこちらが動揺してしまうのは無理もないだろう。恐らく自覚なしに言い放った言葉が荀彧の気に触れたのだろう、しかし荀彧の温厚さを知るに名前が犯した行いの愚かさが如何に恐ろしいものか、想像するのも気が引けてくるほど頬が引きつってしまう満寵であったが仕方なしに彼女に問いかけてみることにした。
「君は何をしたんだい。荀彧殿の逆鱗に触れるようなことをするだなんて相当だよ」
「お前もそう思うか。私も同じことを思っていたところだ」
「開き直っている場合じゃないだろう。あぁ、私の方が頭が痛くなってきた…」
他人事のように弁を述べる名前に頭を掻きながらどうしたものかと考えあぐねていると名前は何かを思いついたように顔色を変えた。
「…まあ、今回は私が悪いな。謝ってくるべきか」
「えぇ…結局なにがあったんだい…」
「腕の一本失おうが目が見えなくなろうとも構わないと、殿の悲願のためなら安いものだと言ってな」
「それは……荀彧殿ならさぞ怒るだろうね。その怪我で言われたら当然だ」
全身傷だらけではあったがいつもとは違い馬に矢を射られてそれは盛大に落馬し片腕の骨折と身体には打撲跡、おまけに頭部も打ち付け血を垂れ流したと聞いただけでも荀彧ならば気を失ってしまいそうなのにそのような発言を平然と言われてしまえばたまったものではないだろう。彼の名前への溺愛っぷりを見ていればよくわかるのに、当人だけはそのことを理解していないのだから伴侶の彼は心底苦労するだろうとたまらず同情した。
「文若を探してくる、足を止めさせて悪かったな」
「穏便に済むように祈ってるよ」
満寵は祈るような気持になりつつ彼女の背を眺めていたがその気持ちが伝わっているかと言われたらそうでもないのだろうとやはりため息をついて見送った。
一方、荀彧はこの世の終わりと言わんばかりに顔を暗くし頭を抱えていた。
見かねた荀攸が声をかけたもののとてもじゃないが今の自分の言葉では慰めようもないほど憔悴した荀彧の姿にかける言葉にも迷い辺り触りのないことしか言えそうにもないが今荀彧を一人にしてしまえば首に縄をかけても可笑しくはないとすら思えてしまうほどの落胆っぷりに流石の荀攸も手をこまねいていた。
「あぁ、私はなんということを…名前殿に手をあげるなど、最低だとわかっているのに」
「しかし文若殿が叱責しなければ彼女はまた同じ過ちを繰り返すでしょう。伴侶として彼女と向き合っている証拠ですから、そこまで落ち込まずとも…」
「ですが、言葉で咎めることもできたはず、私にはそうするだけの自制心がなかった。なんという愚かで未熟な夫でしょうか」
もはやどのような言葉をもってしても彼の心を揺り動かすことなどできそうにもなかった。彼の言うことが最もであるということも理解はできる、手をあげるなどあってはならぬことだが名前の破天荒というか、死に急ぐような様を見て誰よりも彼女を愛する荀彧が黙ってなどいられるはずもない。まるで自分を道具のように使われて荀彧は嬉しいはずもなく感情的にさせてしまうほど名前という女の存在は荀彧の中に深く根付いていた。
荀攸から見てもそれが手に取るようにわかるほどなのだから荀彧にとっては相当の存在なのだろう。寵愛し傷をつけぬようにしてやりたいと思っていても名前の強固な意志と力の前ではそれを息をひそめ戦場に送り出してやるがそれすら本来心苦しいものであり自身の非力さを嘆くほど彼女に寄り添い過ぎる節があるがこれほど愛する者のために想うことができるのは彼ぐらいだろうと思えてならないのだ。
破綻しそうな彼女の精神を保っているのは荀彧の献身的な支えのおかげだと名前もわかってはいるだろうがいかんせん殿のためにと奮闘し過ぎる癖があり荀彧の心配を結果的に無下にしてしまったのだから咎められるべきは当たり前だが名前であると周りも把握しているが荀彧はそれを素直に飲み込めそうにもなく懺悔するが如くぶつぶつと嘆き続けている。
あぁ、やはり俺ではなく名前殿の言葉ではないと届きそうにもない。
察してはいたものの今にも泣きだしてしまいそうな荀彧の顔を見ているといたたまれなくなり放っておけそうにもないが手の施しようもなく困ったように笑うしかできそうにない荀攸であったがカツカツと聴き慣れた足音に思わず顔を上げると先ほどまでの心配は吹き飛び安堵し彼女に目を合わせて小さく頭を下げた。
「俺では文若殿を慰めてやれそうにもありません。申し訳ない」
「いえ、私の失態が招いたことです。むしろご迷惑をおかけしてなんと詫びればよいのか…後は私にお任せください、お礼は後日必ず致しますので」
小声で荀攸とやり取りをする名前の顔を見て腹を括ったようだと安心し彼はその場を去ることにした。これ以上のお節介はむしろ二人の邪魔にしかならないと容易に理解できた。荀攸からすれば可愛い叔父とその妻だ、できればこの二人が永劫に睦まじくやってほしいものであるのだが、過度な心配をしてしまうのは荀家の血故であろうか。
しかし名前の姿を見てあの怪我が無ければ格好がついたものの、と思ってしまうのは正常な思考であるのだろうと複雑な心中を抱えているのも違いなかった。
「文若」
自分よりも背も高く凛々しい顔立ちの彼がその時ばかりはか弱く見えてしまった。名前が声をかけるとびくりと体を震わせてこちらを見やるとその顔はいつも以上に青白く唇は震えていた。
「名前殿…!」
慌てて名前に駆け寄ると優しく彼女を抱きしめた。怪我をしているため衝動に任せて抱きしめてやれないことが不満ではあったが彼女にこれ以上痛みを伴わるわけにはいかなかった。どこまでも優しい男だと名前は改めて感じるものの自分も今の状態ではまともに抱きしめることはできるわけもなく片手で彼の背中を擦ってやった。
「私は名前殿にあのような最低な行為を働いてしまった…なんと詫びればよいのか、考えても纏まらなかったのです。貴女を大切に思うばかりに貴女を傷つけるなどあってはならないはずなのに私は」
名前はうんうんと頷いて彼の話を聞いてやった、自分の制御ができないほど愛されているということはわかりえている。それを恐ろしく思っているのは荀彧自身であるということまた理解しているが彼にとってこれほど重い感情は扱いに困っているのだろう。初めて抱く甘美でありながらおどろおどろしい欲望は誰にだって恐怖であるはずだ。理性と身体は一致しないという現実に困惑しながらもそれを処理しようと足掻く荀彧を愛おしいと思う自身も存外可笑しなことになっているなと名前は小さく笑った。
「どうか、どうか赦してください。貴女無しではもはや私には何も…」
「文若が謝るのは少し違うと思うぞ、今回は私に非があった。軽々しい発言でお前を苦しめたことを恥じるべきだと痛感したよ、すまない」
「名前殿…ですが…」
「お前が罪悪感を持つ必要はないよ。命を尊んだお前の在り方を私は尊重したいしそういうお前に寄り添いたいと思って妻になったんだ。許してほしいのは私の方だな…」
行いを悔い項垂れる名前に胸を締め付けられつつも荀彧はこの脆くも強い存在を守り抜ける理由が一つずつ増えていくのを実感していった。彼女無しでは未来などあり得ないと本能が叫んでいるのだ、何故ここまで入れ込んでいるのか、上手く言葉にできそうになかった。けれど一人にしたくはないと、誰かのものになってはほしくないと心が喚いている。その喚きに忠実でいることに不快感など微塵もないということが答えであるのなら、それに酔いしれてよいではないか。
荀彧はうっとりと彼女の顔を見やると名前は少し目を逸らして望みを口にした。
「文若、私を抱きしめてほしい。痛みすら愛せるぐらい強く」
背筋を走る高揚感は何故なのか。彼女の望みがこれほど愛おしいのは何故。痛みを与えようとしているのに私はそれを悦びだと感じている。その異常たる欲に蓋をすることができるはずもなく荀彧は頷き彼女を強く抱きしめた。
案の定彼女は少し痛そうに呻いていたがその痛みは自身を刻み付けられる手段の一つだと思うと止められるわけもなく、耳元で彼女の名前を呼び続けることでその痛みを緩和してやろうと思うことだけが唯一の良心だったと今になって思うのであった。