▶荀攸
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人間の感情など到底計り知れるようなものではない。奥深くに介在するおぞましいほどの欲望など目も当てられないほど歪でそんなものは見ないようにと皆努めているしそうして世界が回っているのなら何も問題はないはずだ。
荀攸もそういった欲望を奥底に抱えながらも妻である名前を健全に愛していた。それが二人の均衡を保つならば真っ当な生き方だと心得ていた彼は名前に対して酷く荒み切った欲望を押し付けようとは思わず名前の笑顔にこそ自分の価値はあるのだと光に宛がわれて無垢な愛情と共に日々を過ごしていた。
何一つ見劣りしないほど美しい日々だった、全てが心地よく思えてならない日常は永劫に続くと信じていた。
血濡れた首が自分の前に差し出されたあの瞬間、荀攸の日々に酷い歪みが生まれたことがそうした希望を悉く打ち砕くなど、誰が予想できようか。
満寵が彼女の首を抱えてやってきた際には思わず言葉を失った。靡いた髪の艶も、希望を照らし出した瞳も、光を紡いだ唇も色を失っていることに酷く動揺し目を見開いて彼女を見やることしかできそうになかった。
「荀攸殿、申し訳ありません…私には、これしか持って帰ることができなかった」
差し出された首を手に取るとその冷たさに思わず体が震えた。こんな冷たい彼女は今まで見たことも触れたこともなかった。
しかし思わず抱きしめるように首を包む不思議なことにとても愛おしく感じてしまったのは間違いではないと荀攸は確信していた。首が落ちたことは然したる問題ではないと彼女の顔を見るとそう思えてならなかったからだ。
「満寵殿、ありがとうございます。こうも綺麗な状態で首を持ってくるなど、難しいことだったでしょう」
荀攸は名前の首を抱えて少し微笑んだ。その気味の悪さに一瞬なんと言い返せばよいものかと満寵は言葉に詰まってしまった、愛するものを失ってなお笑顔でいられるものなのだろうか。そういった類の者を持たざる満寵にはわかりかねる問答であったが荀攸の穏やかな笑みは愛しい人を失ったとは思えないほど静寂に満ち全てを受け入れているかのようでそれはあまりに人間らしからぬ様であった。
その悲報は軍に影を落としたものの戦乱とはそういうものだと皆心得ているため取り乱すようなことはなかった。曹操は月夜に盃を掲げ彼女の戦功を称え、曹丕も同じように甄姫の笛の音に乗じて酒を飲み干し名前のことを憂いた。
荀彧は荀攸のことを酷く心配していたものの荀攸は一人彼女の首を抱え天幕の中で過ごしていると聞いて名前を救えなかった自身らの采配を酷く悔いたものの荀攸の様を見ていると自分ばかりが落ち込んでいても仕方ないと目を伏せただただ彼女の眠りが安らかになることを祈っていた。
夜風が肌に染みる真夜中、荀攸は一人、戦場となった場所へと赴いた。
馬から降りると辺りを幾度も見渡して目を凝らし目的のものを探して回る、屍の山を踏み越え無残に散っていったもの達を気にも留めず探している存在をなんとか探し出そうとしていた。
「あぁ、無事でしたか…」
荀攸は喜ばしそうにそれに近づき屈んで抱きしめた。
彼女が言葉を返すことはない、もちろん理解はしている。なんせ首は自分の手元にあるのだから。
首が斬り落とされた名前の肉体にはやはり温もりなどなかったが荀攸はさも生きているかのように振舞っていることの異常性など誰も指摘などしてくれるはずもなかった。仮にそれを言い当てられたとして荀攸の何が変わるであろう。むしろこうしていることで正気を保っているのなら間違いなどではないはずだ。
「少し時間はかかりますが陣まで必ず連れて帰りますので、心配はいりません。俺は貴女を一人になどさせませんから」
自分より少し大きな体を背負い馬の下へとのそのそと歩く。荀攸の言葉に名前はどう返答しているのか、誰にもわかることなどないのだろう。
荀彧と満寵は帰ってきた荀攸の姿を見てやはり言葉を失った。
首のない名前の体を抱き上げているのだからそれはそうだろう。もはや狂ってしまった人間でしかないと他者から思われても仕方のないこと。しかしそれほど愛していたのだ、名前を心の底から愛し必要としていた末路であるならばと二人は口を噤んだ。
天幕まで戻った荀攸は首と身体を寄せて愛おし気に見つめていた。
「無事戻って来れて本当に良かった」
そう呟いて彼女に額に口づけを落とすもののいつものように微笑んでくれることなどないはずなのに、荀攸には誰よりも美しい笑みを浮かべた名前がそこにいると思えてならず嬉しそうに涙を流した。