本編
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呂布討伐は無事成功した。鬼神の首は捥げ落ち一つの障害を取り除いたものの乱世の平定には未だ道のりは険しいことも曹操は肌身を以て感じ自らの選んだ覇道に恥じぬ生き様をとより強い眼差しで世を見据えている。
その後ろ姿を見るたび名前は誇らしげな感情を抱き曹孟徳の世にきっと間違いはないと信じられた。だからこそ生きていける、自らの道は曹操なくしてはあるわけもないと確信を得ていた。
しかし全てが上手くいくわけなどなかった。そう痛感するのもまた必然であったかのように運命は次の段階へと転がり落ちていく。
現在曹操にとっての強敵に至るは袁紹の存在であった。旧友であった袁紹ですら敵となるのはこの時代なら十二分にありうることであったものの名前にはそうした残酷な運命にすら疑問を抱いてしまう感覚的な違いはあったが成すべきことはやはり曹操の宿願を果たすことだと思えばおのずと自らがすべきことも定まっていくのだから自分の立場に感謝せざるを得ないとすら思えてしまった。
編成される部隊には見知った顔も多くいる、不安などないと思っていたのに。
「郭嘉殿…?」
雨に打たれながら噎せ返る郭嘉の姿をたまたま見てしまった。それは単なる風邪だとか、そんなものではないと察しがついてしまったのが運の尽きなのだろう。
名前は慌てて彼に近寄り顔を覗き込んだ。ただでさえ色白な肌が今は薄気味悪いほど青白い。ただ事ではないと即座に理解できた。あぁ、早く医師に見せねばと思っていた矢先郭嘉は名前を手で制した。
「ふふ、大丈夫、少し疲れているだけだよ」
「ご冗談を。私は馬鹿ですが貴方の状態ぐらいわかりますよ。さぁ、早く医師に」
「名前殿」
名前の心配とは裏腹に郭嘉の声はとても穏やかだった。その目にも淀みもなく正常であることが名前には理解しかねた。何故苦しみの中に居てそれほど冷静でいられるのか。とても正気の沙汰ではないと思ってしまうのは自分だけなのだろうかと不安にすらなるほど郭嘉は美しい笑みを浮かべている。
「私の話を聞いてくれるかな」
「話…?」
「見ての通り私の状態はあまり良いとは言えない。けれどここで止まるわけにはいかない。これは願いなんだ、私はこのために生まれてきたと思えるほど捧げたい想いがある」
だから見過ごしてはくれないかとでも言いたいのか。黙っていれば大軍である袁紹に対して勝利できるとでも。
名前には測りかねるほど深い意図があるのだろう。自分が踏み込めぬ領域に彼がいることなどよく知っていた。だがその領域に招き入れて部分的に彼を垣間見たのも事実だ。
しかし理解しろと言うには名前の価値観にはそぐわなかった。
「無理だ。私には郭嘉殿がまだ必要だ」
名前の口から零れたその言葉は無意識によるものだった。故に郭嘉も酷く驚いた顔をしている。名前の純粋な言葉をそこらに転がっている世辞とは違う恐ろしいほどの一途さがあることを知っているから、心が揺さぶられてしまうのは仕方のないことだった。
「生きていれば必ずこれ以上の幸福がやってくる。確かに郭嘉殿がしようとしていることに理がないわけじゃない。けれど貴方はこの先も必要とされる人だ、殿にとっても、私たちにとっても」
聞けば聞くほど名前という人間はやはり異端だと痛感する。郭嘉は喜びと落胆を覚えつつもとても冷静に言葉を選んだ。
「名前殿はやはり変わっている、貴女はこの時代にはあまりに輝かしい人間だ」
「何を仰いますか。私なんぞそこらに転がっている石と変わらないでしょう」
「ただの石ならお互い出会うこともなかった。そうは思わないかな」
郭嘉の問いに名前は答えあぐねた。確かにただの石なら曹操にすら拾われず戦場で物盗りとして死んでいたか、貧しく目も当てられないような生活を送っていただろう。郭嘉にも荀彧にも出会うことはなかったはずだ。しかし巡り合ったのだから自分はただの石ではないのだ。
「貴女は私に生きろと言いたいのだろう」
「もちろんです。死は肯定されるものかもしれませんが、私は貴方の死は否定したい」
「嬉しい言葉だね」
その言葉をもう少し早く自分に言ってくれていたらと郭嘉は密やかに思った。遅すぎた、そう、自分に残された時間ではもはや彼女にしてやれることなどあるわけがない。今から足掻いたところで残される名前の悲惨さを思えばこそ、自分の破滅的な願いは正しいと思えてならなかった。
「ならば…」
「名前殿、よく聞いてほしい。私は逝くことよりも恐れていることがある。それは私の死で回避できるものだとしたら、貴女は私を止めるかな」
「…仰る意味が私にはわかりかねます」
「そう、わからなくて良いんだ。貴女はそうしていずれ答えを見つけ生き抜くんだ。その先で私たちはまた出会うことができるだろう」
郭嘉を掴んでいた名前の手が徐々に力を弱めていった。雨に打たれながら名前を見やる郭嘉の眼差しはいつにもまして温かく自分の決断に間違いはないと決意を強めていることに名前は呆然した。
自分の命の使い方を理解した人間はなんと美しく残酷なのだろうか。自分もそうなる覚悟はあった、ただ郭嘉にはもっと早い段階でそれができていたし他の人間もほとんどそういった輩ばかりなのだろう。
名前は他者の命を尊んで生きてきた半面時代がそれを許さないことを身を以て体感した。
何を紡げばいいのかわからず唇を震わせる名前の悲しい姿は郭嘉にはどれほど愛おしく見えていたことか。
頬に手を当てほほ笑む彼の姿に涙は流せずとも雨は彼女の心を表すが如く頬を伝い辺りを酷く濡らしていった。