1.指をかける
自分の中に渦巻き続けてやまない、名前のない感情。その正体を私は知っている。ひとたび感情のスイッチが入れば、私の歯軋りは絶えないし、どこに向けられる訳でもない握りこぶしの爪が、私の手のひらに三日月型の跡を付ける。
すっかり醜く傷付いた手を緑色のフェンスの菱形の穴に引っかけて、私は今日も、誰にも知られずに彼を見続ける。
私が彼と出会ったのは、私が通う立海大附属中学校のゴルフ部でのことだった。
ゴルフというものが中学校に入学したての私には物珍しかったのと、父親の接待ゴルフ用のクラブを借りればいいかという安直な発想で、私はゴルフ部の部室の門戸を叩いた。
私と同じ新入部員は数名いた。マイナーなスポーツにしては人気だったのか、私は一人ぼっちではないことに安心した。しかし、名門中学の中で、友達の一人もいなかった私は緊張し続けていた。そんな時に彼が―柳生比呂士が、私に声をかけたのだ。
「お名前を聞いてもよろしいですか?」
綺麗な声。そんな言葉しか出てこないけれど、それが一番しっくりくるような、そんな声。透き通るような、といえばさっぱりしすぎだし、力強い、といえば荒々しすぎる。ただ、張り詰めた私の心を鎮め、慰めるような、春風のような声色。それに加え、去年まで小学生だったとは思えないような、端正な言葉遣い。私は、この人と会話してもいいのだろうか。体験入部の後で部室から出たところで声をかけてきた彼に、私は吃音になりながら必死で答えた。
「し、椎名、わか、ば…です…」
「椎名若葉さん、ですね?」
「は、はい!」
「私は柳生比呂士と申します。あなたと同じゴルフ部の新入部員ですよ」
ヤギュウヒロシ、という名前の発音が、私の頭を揺らした。この人の名前だ。私が口にすることができる、名前だ。
「や、柳生君、ですね…!」
「はい。よろしくお願いします」
彼は律儀に礼をした。私もすかさず、ぎこちなく腰のあたりを八〇度くらいに曲げる。パキ、と音のしそうなくらい、まるで油の足りないブリキのロボみたいな動きだった。
私は今、きっととんでもなく不細工な顔をしている。表情筋がピーンと張ってしまっていて、動かない。どうしよう。柳生君はこちらを見ている。おそらく、認識できないくらいほんの少しの瞬間だけれど、ずっと見られているような、そんな気がして、私はどうにか頭をフル回転させて顔を無理やり動かした。
「そ、そろそろ帰らないといけない時間、ですよね」
「そういえば、もう六時ですね。空が暗くなってきました。よろしければ校門までエスコートしますが?」
「エスっ…!?」
エスコート、とは。おとぎ話か、それとも月曜夜九時からの恋愛ドラマか、その二つでしか聞いたことがない言葉だった。意味は分かるのに、脳の処理が遅くて追いつかないけれど、私はとりあえず
「は、はい」
と口に出してしまった。
「では、一緒に行きましょうか」
柳生君はゴルフ部の部室の入り口の傍から足を踏み出した。私はそれに転びそうになりながらついて行った。
何組ですか?どこの小学校出身ですか?ゴルフの経験は?部室から校門までの少しの間に、彼は私に多くの質問を投げかけた。私は緊張と、柳生君の奇特な人柄への驚嘆で、上手く話せなかったから、彼が間を持たせてくれたのはとてもありがたかった。質問に答えるくらいの余裕なら、あがり症の癖もある私でももっていた。
校門を出てすぐ、私たちは別れた。柳生君の帰る方向と私の家は逆方向らしかった。
カラスが飛んで、早く帰れと鳴いているような夕闇の中で、私はこの日の出会いに対するよく分からない感情をひたすら反芻した。
すっかり醜く傷付いた手を緑色のフェンスの菱形の穴に引っかけて、私は今日も、誰にも知られずに彼を見続ける。
私が彼と出会ったのは、私が通う立海大附属中学校のゴルフ部でのことだった。
ゴルフというものが中学校に入学したての私には物珍しかったのと、父親の接待ゴルフ用のクラブを借りればいいかという安直な発想で、私はゴルフ部の部室の門戸を叩いた。
私と同じ新入部員は数名いた。マイナーなスポーツにしては人気だったのか、私は一人ぼっちではないことに安心した。しかし、名門中学の中で、友達の一人もいなかった私は緊張し続けていた。そんな時に彼が―柳生比呂士が、私に声をかけたのだ。
「お名前を聞いてもよろしいですか?」
綺麗な声。そんな言葉しか出てこないけれど、それが一番しっくりくるような、そんな声。透き通るような、といえばさっぱりしすぎだし、力強い、といえば荒々しすぎる。ただ、張り詰めた私の心を鎮め、慰めるような、春風のような声色。それに加え、去年まで小学生だったとは思えないような、端正な言葉遣い。私は、この人と会話してもいいのだろうか。体験入部の後で部室から出たところで声をかけてきた彼に、私は吃音になりながら必死で答えた。
「し、椎名、わか、ば…です…」
「椎名若葉さん、ですね?」
「は、はい!」
「私は柳生比呂士と申します。あなたと同じゴルフ部の新入部員ですよ」
ヤギュウヒロシ、という名前の発音が、私の頭を揺らした。この人の名前だ。私が口にすることができる、名前だ。
「や、柳生君、ですね…!」
「はい。よろしくお願いします」
彼は律儀に礼をした。私もすかさず、ぎこちなく腰のあたりを八〇度くらいに曲げる。パキ、と音のしそうなくらい、まるで油の足りないブリキのロボみたいな動きだった。
私は今、きっととんでもなく不細工な顔をしている。表情筋がピーンと張ってしまっていて、動かない。どうしよう。柳生君はこちらを見ている。おそらく、認識できないくらいほんの少しの瞬間だけれど、ずっと見られているような、そんな気がして、私はどうにか頭をフル回転させて顔を無理やり動かした。
「そ、そろそろ帰らないといけない時間、ですよね」
「そういえば、もう六時ですね。空が暗くなってきました。よろしければ校門までエスコートしますが?」
「エスっ…!?」
エスコート、とは。おとぎ話か、それとも月曜夜九時からの恋愛ドラマか、その二つでしか聞いたことがない言葉だった。意味は分かるのに、脳の処理が遅くて追いつかないけれど、私はとりあえず
「は、はい」
と口に出してしまった。
「では、一緒に行きましょうか」
柳生君はゴルフ部の部室の入り口の傍から足を踏み出した。私はそれに転びそうになりながらついて行った。
何組ですか?どこの小学校出身ですか?ゴルフの経験は?部室から校門までの少しの間に、彼は私に多くの質問を投げかけた。私は緊張と、柳生君の奇特な人柄への驚嘆で、上手く話せなかったから、彼が間を持たせてくれたのはとてもありがたかった。質問に答えるくらいの余裕なら、あがり症の癖もある私でももっていた。
校門を出てすぐ、私たちは別れた。柳生君の帰る方向と私の家は逆方向らしかった。
カラスが飛んで、早く帰れと鳴いているような夕闇の中で、私はこの日の出会いに対するよく分からない感情をひたすら反芻した。
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