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短編

「どうして、お前は跡をつけない」
 それは突然のことだった。
 夜もすっかり深まった正子。虫の音も聞こえない静かな闇の中に、蒼世の恨めしそうな囁きはやけに大きく響いた。
「……は?」
 換気のために開けていた窓を閉めようとしていた手が止まる。鷹峯は驚き、後ろを振り返った。見れば、布団に挟まりこちらを見上げてくる双眸がある。
「何の話だ」
「なぜ跡をつけないと訊いた」
「跡?」
 何の跡だと、一瞬首を傾げる。だが、鷹峯はすぐに蒼世の云わんとすることを理解した。
 灯りのない今では目視できないが、着流しの間から覗く鷹峯の肌には恐らく幾つか鬱血の跡があることだろう。それから、肩口には歯形もついているはずだ。それら全て、つい先刻までこの部屋で行われていた情事の際に、蒼世がつけたものだった。
「突然何を訊くかと思えば」
 カタンと、小さな音を立てて窓が閉まる。施錠をし、鷹峯は蒼世の傍まで寄った。自分は布団に入らず、枕元に腰を下ろす。
「なぜって、嫌がるだろ。お前」
「私がいつそう云った」
「云っちゃいないが……」
 口元を歪めて、露骨に不快そうな顔をする蒼世に、鷹峯は苦笑気味に笑った。
「所有印とはよく云ったものだな。こいつは所有権と独占欲の証だ」
 間違いなく跡が刻まれている首筋を、とんとんと指で叩く。
「お前は、俺の物じゃない。だから、俺がつけていいものでもないだろ?」
 形式上は恋人として付き合っている関係にはあるが、二人の根底にあるのはあくまで上司と部下。いや、あるいは主従の関係にあると云った方が適切か。
 蒼世は犲の頭であり、この世でただ一人、鷹峯が仕えると誓った男だ。蒼世が命じれば何でもする。命も体も、魂さえ捧げているのだ。
 だから、自分は他ならぬ蒼世の物だと鷹峯は考えていた。そして、主であり頭である蒼世が、自分の物であるはずはなかった。
 それに、蒼世は束縛されるのも所有されることも極度に嫌う。ならば、その権化たるあの赤い印を、彼が好むとは思えなかった。
「………」
 鷹峯の言葉に、蒼世は何も云わない。納得したのか、あるいは考え込んでいるのか。表情は変わらず不機嫌なままだが、先程の睨みつける視線はなくなった。
「分かったら寝るぞ」
 蒼世のいる布団に、自らも体を入れようと掛け布団を掴む。しかし、それよりも早く蒼世が体を起こしたせいで、布団は鷹峯の手からこぼれ落ちた。
「鷹峯」
 どうしたのかと問おうとするが、先に名前を呼ばれる。黙ったまま、蒼世が続きを口にするのを待っていると、何を思ったのか、蒼世は胡座のままの鷹峯の脚の上に乗り上げてきた。
「っ、おい」
 止める間もなく、曲げた膝で鷹峯の腰を挟むようにして、蒼世がその場に座る。互いの腰から腹部にかけてが密着し、思わず息を呑む。腕を首に緩く回し、蒼世は鷹峯を見下ろしながら目を細めた。
「つけろ」
「は?」
「つけろと、云ったんだ」
 半ば呆然とする鷹峯の目の前で、蒼世は右手で自分の着物の襟を引っ張り下ろす。首筋から鎖骨、そして肩のほとんどがあらわになり、そこに長い髪がさらりと落ちた。
 夜目でも分かる、真っ白な肌。小さな刀傷だけがついたそこは、鷹峯にはあまりに綺麗に見えた。
「私がいいと云っているのに、何を躊躇う必要がある」
 “つけろ”と、改めて命令するように蒼世は告げる。その声も眼差しも、こちらの欲を煽るには充分過ぎるほど艶めいていた。昂り出した己を抑えるため、一度深呼吸をする。
「人が我慢してたってのに……」
 意図せず本音がこぼれた。
 理性では留まっていたものの、心の底では彼の中に自分を刻み込みたいと衝動に駆られた瞬間は幾度もある。
 そんな鷹峯の胸中を知ってか知らずか、蒼世は小さく鼻で笑った。
「無駄な我慢だな」
 その一言に、顔を上げて蒼世と目を合わせる。その瞳が、早くしろと急かしているように感じられた。
 引き寄せられるように、肌に唇で触れる。その刹那、満足そうに蒼世の瞼が甘くなるのが視界の端に映った。
「っ、ん」
 鎖骨の上に軽く歯を立て、吸い付く。まるで離れるなと云わんばかりに、蒼世の手が頭を抱えてきた。
 反対側の襟もずらし、今度は首の付け根に口付ける。跡を残していく度に、蒼世の唇からは色のついた吐息が漏れていた。
「……もう一回、抱いてもいいか?」
 上目遣いに、許しを乞う。答えるように、唇が重なった。




2015.12.23
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