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4【新たな狩人】


 室内に戻り、三人と一匹は休憩スペースにあるテーブルを囲んだ。芦屋が茶を入れ、それを蒼世と妃子の前に置く。メイにはアイルー用のドリンクを用意してくれた。
「では、蒼世さんは村を離れるのですか。寂しくなりますね」
 本当にそう思っているのか。判断のつかない淡々とした声で芦屋は云う。
「龍歴院専属のハンターであることは変わりない。また戻ってくる」
「そうしてください。村人も、寂しがるでしょうから」
「あら、蒼世は村の人たちから慕われてるのね」
「ええ。そりゃもう」
 芦屋が頷くと、妃子はやけに嬉しそうに蒼世を見た。まるで母親が我が子の活躍を知って微笑ましく思うような様だった。
 蒼世はその視線に気付かぬふりをして、茶に口をつけた。
「しかし、蒼世さん。鷹峯さんはどうするんです? 彼は村に残るんですか?」
 ピクリと、蒼世の長い睫毛が揺れる。カップを置き、蒼世は溜め息をついた。
「あいつは、私と同行する。ギルドマネージャーからの指示だ」
「おや、それはそれは」
 意外そうに、しかし楽しげに芦屋は感嘆の声を漏らす。それ以上は余計なことを云うなと、目線で彼を制した。
「ねえ、鷹峯って?」
 聞き覚えのない名前に、妃子が疑問の声を上げる。少しの間、蒼世はにが虫を噛み潰したような顔をし、逡巡した。
「……ハンターだ。少し前から、ベルナ村に住み着いている」
「ハンター……もしかして貴方、その人とチームを組んだの?」
「正式には組んでいない。一度、共に狩りに出た程度だ。今回の同行は、鷹峯がかつて二つ名モンスターを単独で討ち取ったことがあることを考慮しての決定だろう。それ以上のことはない」
 嘘はついていない。しかし、あえて差し障りなく説明した自覚はある。
 蒼世の答えに、妃子は特別違和感を覚えなかったらしい。「そう……」とだけ、小さく呟いた。
「でも、蒼世がオトモをつれているなんて、意外だったわ。昔は興味も示さなかったのに」
「ニャ、そうニャン?」
 ちびちびとドリンクを飲んでいたメイが、跳ねるようにして顔を上げた。
「一人の狩りに限界を感じ、オトモをつれていくことにしただけだ。実際に雇ってみて、この子たちがいかに優秀かわかった。今では、頼りにしている」
 ディノバルドとイビルジョーに襲われた時、改めて痛感した。自分は、二匹のオトモにどれだけ救われてきたのかを。
 メイの頭をゆっくりと撫でる。嬉しそうに、彼は目を瞑って喉を鳴らした。
「……可愛いわね。私もオトモ雇おうかしら」
「それなら、ネコ嬢に相談するのがいいでしょう。彼女、ベルナ村の近くに住むアイルーたちの面倒を見ている女の子なんですが、ハンターにオトモを紹介する仲介業も営んでるんですよ」
「ボクらもネコ嬢の紹介で旦那さんと会ったニャ」
「なら、ぜひ会ってみたいわ。蒼世、今度そのネコ嬢って子を紹介してもらえる?」
「ああ」
 残りの茶を飲み干す。まるでそのタイミングを狙ったように、芦屋が立ち上がった。
「では、俺はそろそろ仕事に戻ります。お二人とも、また今度」
「ええ、これからよろしくお願いしますね。芦屋さん」
「こちらこそ」
 芦屋が立ち去る。それからすぐに、蒼世も腰を上げた。
「佐々木、私はこれからハンター交代の件を村長に伝える。お前も来い」
「ええ。もとよりそのつもりよ」
 妃子も立つのを見て、メイが慌ててドリンクを飲んだ。そのせいで噎せてしまった小さな背中を、擦ってやる。
 龍歴院を出て、蒼世はまず鷹峯の家に向かうことにした。今回のユクモ村への移動の件を、彼とアオに伝えるためだ。しかし、その足取りは重かった。
 鷹峯に会うことを考えるだけで、思わず首筋に手を置いていた。そこにつけられた赤い印を思うだけで、腸が煮えくり返りそうになる。さらに追い打ちをかけるのが、妃子の存在だった。
 彼女に鷹峯を会わせたくなかった。しかし、同じ村にこれから一週間いるとなれば、会わずにはいられない。その時、鷹峯が余計なことを喋らなければいいのだが、それも怪しかった。
 惚れられていることも、そんな男の情に流され始めていることも、この幼馴染みには知られたくなかったのだ。
 蒼世は重たい息を吐き出した。

 
「佐々木、お前はここで待っていろ」
 鷹峯の家の前につき、蒼世は妃子を外で待機させることにした。扉を数回叩き、声をかける。すぐに、中からアオの声がした。そして、内側から扉が開く。
「おかえりニャさい」
 出迎えてくれたのは、アオだった。
「ただいま。鷹峯はいるか?」
 尋ねながら、室内を覗く。しかし、そこには誰もいなかった。
「鷹峯さんニャら、今村長さんの家に行ってますニャ。薪割りのお手伝いをしてますニャ」
「……そうか。ならば、丁度いい。アオ、私達も村長の家に行く。ついてこい」
「はいニャ」
 アオは窓の戸締まりを確認すると、急いで家を飛び出した。生真面目な彼は、蒼世を待たせたくなかったのだ。
「お待たせしましたニャ」
 アオがこちらに駆け寄ってくる。妃子の存在に気付いたのか、アオの足が一瞬止まりかけた。
「旦那さん、その方は?」
「新しい龍歴院のハンターだ」
「初めまして」
 妃子が名乗る。それを受けて、アオは姿勢を正すと深くお辞儀をした。
「ボクは筆頭オトモのアオですニャ。よろしくお願いしますニャ」
「よろしくね、アオ。二人とも、本当に礼儀正しいわね。さすが蒼世のオトモだわ」
「妃子さんは、旦那さんのことご存知ニャンですかニャ?」
「ええ」
「そのことも含め、お前には伝えなければならないことがある。村長の家に向かう道すがら、話そう。行くぞ」
「わかりましたニャ」
 蒼世は踵を返す。その数歩後ろを二匹のオトモがついてくる。
 蒼世は、ベルナ村を離れユクモ村に派遣されること、鷹峯が同行すること、後任として妃子が来たことを話して聞かせた。そして最後に、簡潔に自分と妃子が所謂幼馴染みであることを告げる。
「そのことを、村長さんにお話に行くんですかニャ?」
「ああ」
 聡いオトモはすぐに察しがついたようだ。
 村長の自宅は村の奥にある。一際広い庭と建物がそれだ。低い塀に囲まれた中庭から、男の声が二つ、聞こえてきた。見れば、そこにはシャツとズボンといった簡易的な服装の鷹峯がいた。斧を地面に突き立て、その上に手を乗せながら、村長と談笑している。
 鷹峯の横顔は朗らかに笑っていた。なぜかそれを目にした途端、蒼世の胸は圧迫感を覚えた。
「失礼します」
 断りを入れ、蒼世は敷地内に踏み込んだ。すぐに、二人は蒼世を振り返った。
 鷹峯と目が合う。彼は彫りの深い顔をくしゃりと崩し、微笑んだ。その目がアオとメイに移り、そして妃子を映す。鷹峯の双眸が鋭く細められた。
「おお、蒼世殿。どうした?」
 杖をつきながら、村長が歩み寄ってくる。彼は数日前から腰を痛めていた。
「大切なお話があります。お時間よろしいでしょうか?」
「勿論、かまわぬよ。ここでは何だ、家の中にどうぞ」
 大切な話という言葉に、村長の顔が引き締まる。鷹峯も眉を寄せ、蒼世を見た。しかし、蒼世は彼には何も声をかけず、顎を振ることでついてこいと促した。

 全員が席につく。それから、蒼世は口火を切った。
「つまり、一週間後、蒼世殿と鷹峯殿はベルナ村を離れる、ということでよいか?」
「はい。急な話で、申し訳ない」
「いや、ユクモ村に危険が迫っている可能性がある以上、仕方ないことだ。それに、すでに代わりのハンター殿がいらしているなら、安心だ」
 村長が妃子の方へ向き直る。
「妃子殿、今後、ベルナ村をよろしく頼む」
「はい。蒼世の代わりにはなれないかもしれませんが、村の人たちのお役に立てるよう、精一杯努力させて頂きます」
「村長、佐々木の実力は私が保証します。彼女なら、問題なくこの村を守ってくれるだろう」
「ほう……。蒼世殿がそこまで云うとは。これほど心強いことはあるまい。お二人は、長い付き合いだと聞いたが、共に狩りに出たこともあるのか?」
「……ええ。何度も。と云っても、十年も前のことです」
 妃子が物云いたげな目で、蒼世を見る。蒼世は顔を背けた。
「村長。この後、佐々木に村を案内したいので、我々はこのへんで。また何かあれば、その都度お知らせします」
「了解した。妃子殿、何かあれば、遠慮なく云ってくれ。力になろう」
「ありがとうございます」
 蒼世が無理矢理話を終わらせたことに、おそらく全員が気付いていただろう。しかし、誰もそのことに口出しすることはなかった。
「おい」
 家のドアの前で村長と話す妃子から離れ、蒼世は誰より早く塀の外に出ていた鷹峯に近付いた。塀に寄りかかりながら、鷹峯は横目で蒼世を見た。その顔には、先程の笑みはどこにもなかった。
「何だ」
 低い声で、鷹峯は云う。感情を抑えた声だ。蒼世は口の端を歪めた。
「一体、何が気に食わない」
「気に食わない? 何の話だ。むしろ俺は、ギルドマネージャーの命とはいえお前が同行を認めてくれて、嬉しく思ってたところだ」
「……ならば、その不機嫌な顔をどうにかしろ」
 先に腹を立てていたのは、蒼世だった。しかし、ここに来てから鷹峯の機嫌が目に見えて悪くなっていったせいで、気がそれてしまった。村長との会話にも、彼が参加することはなかった。怒りを隠すように表情を消し、口を閉ざしていた。何が鷹峯を憤らせたのか分からず、不快だった。昨夜のように本気で怒りをぶつけられた方が、はるかにマシだ。
「何か不満があるなら云えばいい。その顔のまま傍にいられるのは、不愉快だ」
「…………」
 見上げた先にある両の目を睨みつける。鷹峯は正面から蒼世と向き合った。少しの間、無言の時間が流れた。風の音だけが鼓膜を震わせる。髪がふわりと巻き上げられた。 
「髪……」
「何だ」
「髪、どうしておろしてるんだ。紐、切れたのか」
 風が止み、宙に浮いていた髪が落ちる。乱れた茶色い髪を、鷹峯の右手が撫でつけた。その指が、ゆっくりと毛先まで梳いていく。
「……貴様のせいだろう」
「俺の?」
「貴様が、昨夜、跡なんぞつけたせいだろう」
「気付いてたのか」
 そこでようやく、鷹峯は険しかった相貌を和らげた。髪から離れた右手が、今度は蒼世の首筋に触れる。そこには鷹峯がつけた印があった。
「隠すために、髪の毛おろしていたのか」
 まるで悪戯に気づかれたことを喜んでいるようだ。怒りが蘇り、蒼世は鷹峯の手をはたき落とした。
「夕飯はアイルー屋台でとる。お前が奢れ。佐々木の分もな」
「了解」
 鷹峯はいつの間にか機嫌を直していた。
 素直に頷いた鷹峯に背を向け、鼻を鳴らす。妃子が、こちらに近寄ってくるのが目に入った。







 満天の星空の下、アイルー屋台には大勢の客がいた。笑い声、話し声、食器のぶつかる音。様々な音が混ざり合い、とても賑やかな様相を呈している。
 そんな中、鷹峯たちは丸いテーブル席にいた。テーブル上にはホロロースの皇帝風マリネ、完熟シナトマトのワイン煮など、屋台自慢の料理が大皿で並んでいた。それを各々好きなようなつまみながら、会話に花を咲かせていた。
「そう、じゃ、鷹峯さんも東の出なのね」
「ああ。お前らが生まれ育った地域より、はるかに田舎だけどな」
「同じ国の出身ってだけで嬉しいわ。あまり、見かけないもの」
「確かに、ここらの連中はこの大陸の出身者ばかりだな」
「そのようね。ドンドルマなら、もう少し同郷の人にも会えたのだけど」
 妃子の細長い指が、ブレスワインの入ったグラスをなぞる。その指で、彼女は的確に弓を扱い矢を放つのだと、先程蒼世から聞かされた。
「はい、お待たせニャ。追加のハップルアップルの生ハム巻きニャ!」
「わぁ、美味しそう」
 新しく女将が持ってきた料理を見て、妃子は美しい顔を綻ばせた。月明かりと炎に照らされたその美貌は、蒼世の硬質な秀麗さとはまた違う。整った顔立ちを、化粧がさらに華やかにしていた。
「にしても、本当に妃子さんは綺麗ニャ……」
 奇しくも、女将も鷹峯と同じことを考えていたらしい。うっとりと目を蕩けさせながら、妃子を見ていた。
「あら、ありがとうございます」
「蒼世さんの幼馴染みって云ってたけど、美人さんのお友達は美人さんニャのね」
「両手に華だな、鷹峯のダンナ!」
 近くで飲んでいた男衆が云う。鷹峯は口の端を釣り上げた。
「だといいが、俺の両手はすでに蒼世(こいつ)の相手するのに手一杯で空いてねぇんだよ」
「アハハ! そりゃいい!」
「浮気するなよー!」
 男たちはビールの注がれたジョッキを掲げ、腹を抱えて笑った。鷹峯と蒼世が村を数ヶ月留守にすると知った時は落胆していたが、若くて綺麗な妃子を見た途端に大盛り上がりし、これでもかと酒を飲み始めた。今では相当酔いが回っているようだ。
 普段なら、そんな輩にからかわれようものなら多少なりとも機嫌を損ねる蒼世だが、今に限ってはその心配はない。なぜなら、彼は妃子を歓迎しようと周りに勧められた酒を飲んで、酔い潰れてしまったのだから。
「っ、水……」
「旦那さん、ここですニャ」
 テーブルに突っ伏していた顔を僅かに上げ、蒼世はアオの差し出した水に口をつけた。そしてまた、机上に崩れた。
「たく、仕方ねぇなこいつは」
「蒼世さん、本当にお酒弱かったのニャ……」
「昔からなのよ、蒼世のお酒の弱さは」
 苦笑しながら、妃子は目を伏せた。慈しむような視線の先には、蒼世がいる。呆れているようで、優しい眼差しは、妃子が蒼世と過ごしてきた時間の長さと親密さを鷹峯に教えた。
「ねぇ、鷹峯さん」
 女将が他の客に呼ばれて立ち去った直後、妃子は改まった声で鷹峯を呼んだ。蒼世を見詰めていた眼を、彼女に向ける。
「鷹峯でいい」
「……じゃ、遠慮なく。鷹峯、貴方、蒼世のことどう思ってるの?」
「……どう、とは?」
 曖昧な質問に、鷹峯はとぼけた調子で答えた。実際には、妃子の知りたいことが何なのか、知りながら。
「……さっき、周りの人が教えてくれたわ。貴方が蒼世の命を助けたこと。その際、貴方たちが身につけていた防具になぞらえて、貴方たちを冗談で番扱いしてること。でも、貴方、本気よね?」
「………」
 鷹峯は黙って妃子を見た。真剣な眼差しが、鷹峯を射抜く。
 すでに男衆は自分たちの輪に戻り、こちらに注意を向けている者は誰もいなかった。喧騒の夜の中、ここだけが静かだった。
「どうしてそう思う?」
 村人の誰も、鷹峯が本気で蒼世に惚れているとは、思っていない。あるいはうっすら勘付いている者はいるかもしれないが、それをわざわざ口にすることはなかった。
「……あんな風に、愛しげに蒼世の髪に触れてたら、嫌でもわかるわ」
「見てたのか」
 村長の家の前でのやり取りを、妃子は目撃していたのだ。しかし、鷹峯は慌てることなく、泰然と笑った。
「佐々木、お前はどうなんだ? 蒼世のこと、どう思ってる」
「……私と蒼世は同志よ。あるいは兄弟と云ってもいいかもしれない。危なっかしい弟を見ている気持ちになることがあるわ」
「兄弟、ね」
「貴方、やっぱり私達の関係疑っていたの?」
「疑っていたってほどじゃない。女っ気も色気のある話もまるでなかったこいつの前に、昔馴染みだという女が現れたんだ。情けないが、動揺はした」
 眠りについた蒼世の艷やかな髪をそっと撫でる。まるで吸い付くように、手が離れなくなった。
「それで、会った直後は機嫌悪かったのね」
 妃子が溜め息をつく。鷹峯としては隠そうとしていたが、どうやら蒼世のみならず、この女性にも気付かれていたらしい。不甲斐ないと、自嘲した。
「……悪かったな。お前が蒼世の過去を知ってると思うと、つい嫉妬した。こいつは、自分のことを語りたがらないから、ベルナ村に来る前のことはちっとも知らねぇんだ。惚れてる奴のことは、知りたいと思うもんだろ?」
 妃子の言葉の端々から感じる、蒼世の過去。自分が知りたくても知ることができずにいる彼のことを、妃子は知っていた。それを目の当たりにする度に、胸中は荒波に呑まれた。
「私も、全てを知ってるわけじゃないわ……。だって、蒼世と会うのは六年ぶりなのよ。ずっと、連絡もくれなくて、遠ざけられていたから」
 妃子の言葉に、鷹峯の動きが止まった。
 兄弟同然の仲である妃子さえ、蒼世は自分から遠ざけようとしたと云う。なぜそこまでする必要があったのか。
 鷹峯は険しくなる顔を隠すように口元を手で覆い、「そうか」とだけ返した。
「鷹峯、かつて蒼世は……」
「待った」
 話し始めようとした妃子を止める。不思議そうに彼女は瞬きを繰り返した。
「あいつの身の上話をしようっていうなら、止めろ。しなくていい」
「どうして? 貴方、蒼世の過去を知りたがっていたじゃない」
 その通りだった。しかし、厳密にはただ知りたいだけではない。
「俺は、蒼世の口から聞きてぇんだよ。知ることに重きをおいてるわけじゃない。蒼世が、語ってもいいと思ってくれる日を待ってるんだ。それに」
 一旦言葉を区切り、鷹峯は妃子に向けて笑みを作った。
「話したくないと思ってる自分のことを他人づてに聞いたと知ったら、蒼世(こいつ)、激怒しそうだからな」
「…………」
 息を呑む気配がする。暫し無言でいた二人だったが、妃子が肩の力を抜いた瞬間、緊張は消えていった。
「そうね、きっとそうだわ……」
 妃子の両手が、空になったグラスを握った。そのまま、彼女は目を閉じた。何か沈思している風情だった。鷹峯は邪魔にならないよう、目を逸らした。そして、蒼世を見る。彼はすっかり寝息を立てていた。
「鷹峯」
 名前を呼ばれて、鷹峯は振り返った。
「貴方、本当に本気なのね……蒼世のこと」
「そう云っただろ」
「ごめんなさい。遊び半分なんじゃないかと、疑ってたわ。でも、杞憂だったのね」
 キュッと、妃子は赤い唇を真一文字に結んだ。
「鷹峯、出会ったばかりの貴方にこんなことをお願いするのはおかしいかもしれないけど……約束して。蒼世の傍にいるというなら、絶対に蒼世の前で死なないで。蒼世を一人にしないで」
「佐々木……」
「お願い……」
 それは、懇願だった。涙で潤んだ瞳には、悲痛なまでの思いが込められていた。
「……そこまで、俺を信用していいのか」
 彼女の強い光に圧倒されながら、鷹峯は尋ねていた。
「さぁ」
「さぁって、お前」
「でも、蒼世は信用してるのでしょ?」
 妃子は微笑み、蒼世に目を向けた。鷹峯もそれに倣う。
「そう思うか?」
「ええ」
「だ、旦那さんは鷹峯さんのこと、信じてるニャ!」
 その時、それまで口を閉ざしていたメイが叫ぶように云った。椅子に立ち上がり、身を乗り出すようにしながら、蒼世のオトモは続けた。
「旦那さん、あんまり素直じゃないから分かりづらいけど……でも、信じてなきゃ、一緒にクエストに行かニャイ!」
「だ、そうよ」
「…………」
 興奮したせいで僅かに息を乱すメイの肩をアオが叩き、着席を促す。今度はアオが口を開いた。
「ボク達は、旦那さんがいらニャいといえば、すぐに解雇される身の上ですニャ。いたくても、ずっと一緒にいられニャいかもしれニャイですニャ。でも、鷹峯さんは拒まれても旦那さんの傍にいようとしてくれましたニャ。だから、ボクからもお願いしますニャ。旦那さんのお傍にいて下さいニャ」
 そのアオの言葉で、鷹峯は気付かされた。この二匹のオトモは、蒼世があえて人を自分から遠ざけていることを知っていた。そしていつか、自分たちからも離れていくことを覚悟していたのだ。そしてオトモアイルーという立場上、ハンターに解雇されればそれ以上ついていくことが難しいことも、理解していた。
「……わかった」
 鷹峯はただ一言、そう答えた。
 離れろと云われても、離れるつもりはない。こうなったら、最期の最期まで、彼の傍にいてやろう。
「ありがとう……」
 安心しきった顔で、妃子は呟いた。
「……そろそろ、お開きにするか。いい時間になってきたからな」
 料理も酒もほとんどが空になっている。どんちゃん騒ぎを繰り広げていた村人も、みな帰路につこうとしていた。女将も店じまいの準備を始めている。
「そうね。それじゃ、ご馳走様」
「ああ」
 蒼世の云いつけ通り、今夜の支払いは全て鷹峯が持つことになっていた。
「佐々木、送る」
「意外と紳士なのね。でも、大丈夫よ。貴方は、蒼世を送ってあげて」
「じゃ、ボクが送りますニャ!」
 メイが名乗りを上げる。アオもそれに頷いた。
「まぁ、ありがとう。お願いしてもいい?」
「はいニャ!」
「そういうことなら、俺はこいつを家に運んでおく。佐々木を送ったら、早目に帰ってこいよ」
 鷹峯に対し、二匹のオトモは揃って返事をした。
 ぐたりと机に倒れ込む蒼世の上半身を起こし、膝裏に腕を入れて抱き上げた。鷹峯の胸にもたれかかりながら、蒼世は依然穏やかに眠っている。
「……久し振りに見たわ、蒼世が安心しきって寝てる姿」
「ん?」
「何でもないわ。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
 アオとメイを両脇に従え、妃子は新しく自宅になる家に向かった。その背中を暫し見送ってから、鷹峯も移動を開始した。
 女将や村人と挨拶を交わし、蒼世の家へと進む。
 腕の中にある温もりを感じながら、鷹峯は妃子の言葉を反芻していた。

『絶対に蒼世の前で死なないで。蒼世を一人にしないで』

 かつて、いたのだろうか。
 蒼世の目の前で死んだ者が。
 蒼世を一人にした者が。
 そんなことを予想させるほど、妃子の声は切羽詰まっていた。


「これでいいのよね、先生……天火……」
 遠く、鷹峯の背中を見詰める瞳が溢した囁きは、星空に吸い込まれていった。





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