このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

短編

 残業を終え、疲れた体を引きずって風呂場に来た頃には、時刻はすっかり真夜中に差し掛かっていた。
 犲寮内にある風呂は、隊員が望めばその都度管理を任されている者達が用意をしてくれる。こんな遅い時間に悪い気もしたが、湯船に浸からずして寝る気にはなれない。
 そもそも、本来なら鷹峯自身は定時までに仕事を終え帰れるはずだったのだ。それが、最近新しく犲に入ったばかりの後輩の不手際の後始末に駆り出され、気付けばこんな時間になっていた。お詫びに酒を五升奢らせることにしたが、気持ちは晴れない。肉体的というよりも精神的な疲労で、頭が痛くなってきた。
「明日も仕事だってのによ」
 脱衣場の籠に隊服を脱ぎ捨てる。一日中身に付けていた鎧がなくなり、少しだけ体が軽くなった気がした。
 腕を回すと、ボキボキと音が鳴る。反対側も同じように動かせば、ずっと同じ姿勢でいたせいで固まっていた筋肉に血が通い出す。体そのものが感じる疲労は差ほど大したものではなさそうだ。風呂に入ってすぐ寝てしまえば、明日の職務に支障はないだろう。
 服を全て脱ぎ、乱雑に籠に放り込んだまま、手拭いだけを持って浴室へと向かう。戸を開けると、湯気と熱気が顔にかかった。
「ん?」
 不意に、白い蒸気の向こうに人影が見えた。五人は楽に入ることができる檜風呂。そこに、先客がいた。
 一瞬、鷹峯の残業の原因になった男かと思ったが、彼は鷹峯より遅く執務室を出たはず。そうなると、それ以外の犲の誰かということになる。
 もう少し近付いたら、声をかけよう。そう思い、相手を確かめる目的もあって浴槽に近付く。
 湯気に遮られることなく、その姿を視認できる位置まで来ると、鷹峯の足が止まった。
 細い肩と細い背中。長い髪を丸めて一つで束ねているせいで、その後ろ姿は一見すると女性のものにも思える。しかし、ここに女性がいるはずがない。そして、鷹峯の知る面々の中に、唯一この条件に当てはまる人物がいた。
「…隊長?」
 声かければ、相手はゆっくりと振り向いた。切れ長の目と、視線が交わる。そこにいたのは、予想通り、犲の隊長である蒼世だった。
 彼に驚いた様子がないのは、鷹峯が入ってきたことを知っていたからだろう。
「こんな時間まで何してたんだ。今日は早めに上がってただろ」
 止めていた歩みを再開し、考える前に蒼世の近くへと向かう。湯に入り、少し離れた場所に腰を下ろし、鷹峯は深く息を吐き出した。
「道場にいた。そちらは…武田はどうした」
「こんな時間までいたのかよ…。武田ならもう上がってんだろ。俺が抜ける時はほとんど終わってたからな」
 ミスを犯し、蒼世から叱責されていた数時間前の武田を思い出す。泣きそうな顔で謝り続けていた時は同情したが、その後蒼世に武田と一緒に事後処理にあたれと云われたことで、そんな感情は吹っ飛んだ。
「だいたい何で俺まで…」
 思わずぼやく。
「あの件はお前も関わっていただろう。お前の監督不行届も原因だと思うが」
「………」
 蒼世の云う通り、武田に任せっきりで、しっかり状況を見てやれなかった自覚はある。そのことは悪いと思わなくないが、それでも釈然とすることはできない。
「あーくそっ」
 文句を云う権利もないので、悔しさを発散するために前髪を掻き乱す。油で整えられていた髪が、はらりと顔に落ちた。
「そんなに気に食わないか」
「そういうわけじゃねぇよ」
 ちらりと蒼世に目をやると、彼は既に自分のことは見ていなかった。目を伏せ、ゆらゆらと揺れる湯の表面を眺めているようだった。
 そういえば、こうして蒼世と二人きりで風呂に入る機会など、滅多にない。単に入浴の時間が被らないという理由もあるが、おそらく蒼世は同性といえ他者に肌を見せることを好まない。それは、彼がまだ幼かった頃からの付き合いの中で感じいたことだ。
 それでもこうして鷹峯と同じ空間の中で、蒼世は嫌な顔一つせず肌を晒している。少しは心を許してくれているのだろう。そのことが、純粋に嬉しい。
 そんなことを考えていたら、無意識のうちに蒼世の横顔を見詰めていた。慌てて目をそらそうとするが、何となく勿体ない気がして、結局元に戻っていた。
 普段は白い頬が、今は赤く染まっている。鷹峯が来るよりずっと前から、蒼世は湯に浸かっていたのだろう。それでも彼はまだ出る気配を見せず、自身の手で湯をすくっては、それが溢れていく様をじっと見下ろしている。
 仕事中の蒼世に比べたら、ずいぶん穏やかな顔つきだった。
 生まれつきなのだろう。鋭い双眸は相変わらずだが、その奥の眼差しは柔らかい。長い睫毛に大きな水滴がついているのを見付け、鷹峯は自分でも分からぬうちに口元を緩めた。
 こうして改めて蒼世を見ていると、その容姿がずば抜けて整っていることを思い知らされる。冷たさを感じさせる美貌は、正直鷹峯が好印象を抱く部類だ。ありていに云えば、好みだった。
「…いつまでじろじろ見てるつもりだ」
 男相手に何を考えているんだと自嘲していると、鷹峯の視線に耐え切れなくなったのか、蒼世が睨め付けてきた。
「…悪い。ついな」
「何がついだ。不愉快だからやめろ」
「お前が俺好みの顔をしてるのが悪い」
「………」
 おそらく、その瞬間に温かい風呂場の温度が二・三度下がっただろう。まるで汚物でも見るような目付きで見られ、鷹峯はさすがに怒らせたかと口元を引き攣らせた。
「…馬鹿が」
 勢いよく蒼世が立ち上がる。その際跳ねた飛沫が鷹峯の顔にかかった。
「おやすみ、隊長」
 立ち去る背中に向けて云う。少しの間をおいて、小さな声で返事が聞こえてきた。




2015.12.10
4/8ページ