4【新たな狩人】
溶けてしまいそうなほど、男の体温は熱かった。
ベッドの上、鷹峯に両手を抑えつけられ幾度も唇を奪われた。呼吸もままならぬ、それを訴える術(すべ)もなく。
「っ、あ……は」
「蒼世……」
時折名を呼ぶ以外に、男が口にする言葉はなかった。深い橙色の瞳が、焼けそうなほどの熱を孕んで蒼世を映している。それを目にするだけで、まるで呪いにかかったように動けなくなる。
初めて出逢った時にされた、触れるだけの口付けとはわけが違う。舌を絡め、吸われ、口内をくまなく探られ、乱される。
徐々に下腹部に溜まっていく熱をどうすることもできず、蒼世はひたすら身をよじるしかなかった。
「ん……っ」
このまま、食われてしまうのではないか。
そんな想像が頭をかすめる。だがそれは、恐怖ではなく、恐ろしいほどの甘い痺れを全身に生んだ。
無理矢理唇を奪われているのに。
ねじ伏せられ、拘束されているのに。
それなのになぜか。蒼世は鷹峯に対して嫌悪感を一つも抱けずにいた。そんな己が憎く思うほどに。
(ああ、そうだ、全部溶かされたんだ)
男の体温が熱すぎるから、全て解けて消えてしまったんだ。そうでなければ、説明がつかない。
「鷹峯……」
たまらず、蒼世は男の名を口にしていた。刹那、鷹峯の動きが止まる。だがそのことに、蒼世は気付かなかった。
「蒼世、お前はただ、俺を利用すればいい」
「っ、何、を……」
「情なんぞいらねぇよ。俺の力は役に立つだろ? なら、利用しろ。今は……それだけでいい」
「た、かみねっ」
耳に、首筋に、鎖骨に。鷹峯の唇が触れる。そこから新しい熱が生まれ、蒼世の体をじわじわと焼いた。
理解できなかった。
出会って間もない相手に、なぜそこまで己を差し出すことができるのか。蒼世には鷹峯の言葉の理由が全くわからなかった。
夢の中。
クスクスと少女が笑う。
真っ白な少女は真っ白な微笑みのまま、こちらを見ていた。
(お前は、誰なんだ)
蒼世の問い掛けに、少女は答えない。
ただ、一言、囁いた。
『あと少し―』
「っ―!」
突き刺すような痛みを脇腹に感じて、蒼世は目を覚ました。まるで体内に熱せられた鉄でもあるかのように、右腹部が痛んだ。
またか―
蒼世は歯を食いしばりながら思った。
時折、蒼世の右脇腹は激しく痛むことがあった。それは、蒼世の記憶にある限りでは、物心ついた頃からずっと。
医師に見せても原因は不明。古傷が痛むわけでもなく、毒に侵されているわけでもない。もしかしたら、体内に異物が埋め込まれているのかもしれないと、以前云われたことがある。しかし、仮にそうだとしても、取りだすことは不可能だった。
「はぁ……はぁ……」
痛みが徐々に引いていく。額に脂汗を滲ませながら、蒼世は深く息をついた。そのまま目を閉じ、布団に体を沈める。
「大丈夫か?」
その時、すぐ目の前から声がした。慌てて目を開けると、正面に鷹峯の顔があった。
朝日に照らされた精悍な顔は、心配そうに蒼世を見詰めていた。いつもはきっちり撫で付けられている前髪が顔の前に落ちているせいで、普段より若く見える。
「っ! お前、なぜっ!」
ここは蒼世の自宅であり、そして蒼世のベッドであるはず。それなのになぜ鷹峯が同じ場所で眠っているのかわからず、蒼世は声を荒げた。
「おい、昨夜のこと、まさか忘れたのか?」
「昨夜って……」
組み敷かれ、気が遠くなるまで口付けられた記憶が蘇る。蒼世は言葉をなくし、火照る顔を手で覆った。
「思い出したか」
愉快そうに笑いながら、鷹峯が云う。その顔を力の限り睨みつけ、そこでふと、蒼世は自分の置かれた状況に気づいた。
「……おい、腕をどかせ」
「今更だろ。断る」
「鷹峯っ!」
蒼世は横向きのまま、鷹峯と向き合うようにして抱き締められていた。どうりで相手との距離が近いわけだ。
「私はもう起きる。離せ」
「まだいいだろ。昨日まで狩りに出てたんだ。今日くらいはゆっくり休もうぜ」
云いながら、鷹峯は蒼世の頭を自分の胸元に抱き寄せた。すぐにでも抜け出そうともがくが、ビクともしない。
不意に頭上からひどく真剣な声が聞こえてきた。
「体、どこか痛むのか」
蒼世は動きを止めた。
「……気にかけるほどのことではない。時々右の脇腹が痛むことがあるだけだ」
「時々って、前からあるのか」
体を離し、鷹峯は顔が見れる位置に移動した。鷹峯の表情は、蒼世が想像したものよりもはるかに険しかった。
「……ああ」
「原因は?」
「すでに何度も医者に見せたが、原因は不明、打つ手はないと云われた。痛む以外に特に問題はないので、普段は気にしないことにしている」
もういいだろ。
そう溜め息をつくことで言外に告げて、蒼世は緩んだ拘束から抜け出した。
床を見ると、寝床からだいぶ離れた場所でメイが寝ていた。アオも起きていない。昨夜の酒が抜けていないせいだろう。
休みの日くらいは寝かせておいてやろう。そう決めて、蒼世は二人を踏まないように進んだ。
「顔を洗ってくる」
それだけ云って、家を出た。
早朝だからか、まだ村人のほとんどは起きていないようだった。
静かで澄んだ空気を肺一杯に吸い込む。体を伸ばし、固まっていた筋肉を伸ばす。そして、空を見上げた。
疲れはほとんど感じないが、英気を養うためにも、今日一日はゆっくりと過ごすに限る。さて何をして過ごそうかと考えながら、村の井戸の水を汲んだ。
冷たい水を両手ですくい、顔にかける。
その時、小さな生き物の声が聞こえて、蒼世は辺りを見回した。そして、こちらに駆け寄ってくるフェニーの姿を見つけた。
「おはよう」
傍まで来たフェニーに声をかける。膝をつくと、その上にフェニーは前脚をのせて甘えてきた。頭を優しく撫でてやる。
「お前とも、もうすぐお別れだな」
ポツリと呟く。
フェニーは何?と云わんばかりに首を傾げた。蒼世はただ、その柔らかな体毛を撫で続けた。
『ベルナ村を去る』
そう、昨夜鷹峯に話したことは嘘ではない。近いうちに、蒼世はこの村を離れるつもりだった。たとえ鷹峯が、蒼世の代わりに村に残ると云わなくても。
蒼世には、もうここにいられない理由があった。なぜなら、“三年”が経ってしまうから。三年、そのタイムリミットが来る前に、どうしてもここを離れなければならなかった。
(あの男は、ついてくるつもりなのか……)
フェニーを撫でていた手が止まる。それを不思議に思ったらしく、フェニーは蒼世を見上げた。しかし、蒼世は気付かない。
思考が、昨夜の出来事に引っ張られる。触れてきた鷹峯の手の感触、口付け、鼓膜を震わせた言葉の数々。それらが蘇り、蒼世の心を掻き乱した。
『お前はただ、俺を利用すればいい』
何の迷いもなく、鷹峯は自分という存在を蒼世に差し出した。惚れているという、ただそれだけの理由で。
本当は何か目的があるのではないか。そんな疑いはもはや抱けずにいた。鷹峯の眼差しに、嘘が見付けられなかったから。
蒼世にはわからなかった。恋情というものは、そこまで激しく人の生き様を揺さぶるものなのか。だとするなら、自分が恋だと認識していたものは全て、まやかしだったのかもしれない。
「俺は……」
俯き、顔を両手で覆う。
恐ろしかった。鷹峯の与えてくる情に甘えそうになる自分がいて、どんどん絆されていく気がした。
『お前はもっと、人に頼れ。甘えろ』
途端、風にのって懐かしい声がした。それは記憶の奥底に大切にしまっていた声だった。
『俺がいるだろ! 背中は任せとけ、相棒!』
大切だった人たちの声。蒼世を励まし、叱り、包んでくれた温かな声だ。
だが、もう二度と聞くことはできない。もし、再び大切なものを失うことになったら、自分は―
「先生……天火……」
悲痛な声が、風にさらわれる。
人々の動き始めるざわめきが、遠くから聞こえてきた。
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