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12年越しの再会

 恋は、男と女がするもの。
 誰からでもなく、気が付いたら教え込まれていたその概念が、自分に当てはまらないと気付いてしまったのは、中学に上がってからだった。
 きっかけは、数少ない友人に恋人ができたことだった。蒼世には、たった一日会ったことがあるだけにも関わらず、何年経っても忘れられない相手がいた。ふとした瞬間に彼のことを思い出し、無性に会いたくなる。声が聴きたい、顔を見たい、名前を呼びたい。そう強烈に思っては、いても立ってもいられなくなる日があった。それが恋であると知ったのは、友人が自身の恋人に対する想いを全く同じように語ったからだ。後頭部をいきなり強打されたような心地だった。
 それまでの蒼世は、自分は恋愛ごとに関してひどく無関心だと考えていた。初恋と呼べる経験はあったが、あれは恋というよりも、母親の愛情を求める子供の渇望に近い。なんせ、相手は幼馴染の母親だったのだから。では、同級生の女子はどうだったかというと、可愛いと思うことや好感が持てると感じることはあっても、恋愛ほどの特筆すべき感情を覚えることはなかった。ゆえに、今に至るまで本当に恋と云えるものをしたことがない。そう、自分自身を客観的に捉えていた。
 しかし、それがまさか誤りだったとは。延々と惚気話を口にする友人の声をどこか遠い世界のもののように聞きながら、蒼世は顔に出さずとも困惑していた。これが、相手が女性だったら、ここまで心乱すことはなかったかもしれない。しかし、蒼世が会いたいと切に願う相手は、女ではなかった。十以上歳上の、同性だったのだ。
 彼と出会ったのは、まだ幼稚園に通っていた頃のことだ。当時の自分は、これ以上ないほどの孤独に苛まされていた。仕方がないことだった。
 物心ついた直後に、両親を事故で亡くした。今でも、真っ黒な葬儀の時の光景が、簡単に脳裏によみがえる。一人椅子に座る自分を遠くから眺め、ひそひそと言葉を交わす家の者達。あの子は誰が引き取るのか、誰も引取りたくなどないだろう、親も親なら子もまた厄介者か。施設に入れてはどうだろう、それでは名家の名が汚れる。耳に入る言葉の意味は、幼い蒼世には理解できなかった。ただ、それでもその一句一句は、冷たい針となって小さな体を刺し続けた。
 そんな時、自分に近寄る気配がした。「蒼世」と名前を呼ばれた。聞き覚えのある声だった。顔を上げた先にいたのは、周囲の人々とはまるで違う、柔らかい笑みを浮かべる、母の弟の姿だった。
 葬儀の後、蒼世は叔父の家に引き取られた。叔父はまだ若く、大学を卒業して二年しか経っていなかった。自分のことで手一杯の時期だったろうに、それでも彼は蒼世を育て続けてくれた。仕事のある昼間は蒼世を保育園に預け、夕方には必ず迎えに来てくれる。土日祝日は決まって休みだったため、一日中傍にいてくれた。叔父は優しかった。それでも、今までほとんど会ったことのない叔父との生活は、両親がいないことを上手く受け止められていなかった蒼世によって、辛いものだった。父にも母にも会えないことが耐えられず、夜中に何度も目が覚めては泣いた。両親が自分を置いて、どこかに行ってしまう悪夢を何度も見た。その度に、叔父は嫌な顔一つせず、ただ「大丈夫」と囁きながら抱き締めてくれた。それだけで、少なからず安心できたのは確かだ。しかし、叔父と離れている間は行き場のない孤独に押し潰されそうになり、上手く笑えなくなっていた。その結果、保育園では他の子供達と馴染めず、いつも一人だった。
 そんなある日のこと。蒼世の保育園に近くの中学校から生徒が数人、職場体験に来ることになった。事前に園児達にも知らされていたが、蒼世は正直その話をちゃんと聞いていなかった。直前の昼寝の時間に、また怖い夢を見て震えていたせいだ。だから、当日になって、見知らぬ人達がいることに少しばかり驚いた。その日も、蒼世は昼寝の最中に、棺の中で眠っていた両親の夢を見て、飛び起きた後だった。ボロボロと涙が溢れ、園長の女性に抱えられて部屋を出た。落ち着いたのは、二時間ほどしてから。手を引かれて、いつも遊んでいる部屋に戻り、蒼世はお気に入りのぬいぐるみを抱いて本でも読もうかと思った。そのぬいぐるみだけが、蒼世のここでの唯一の友人だった。キョロキョロと、辺りを見回して黄色い友人を探す。彼は、部屋の壁際にちょこんと座っていた。その傍らには、知らない男の人が一人。この保育園にいる大人は皆女性だ。だから、この部屋で男の人を見るのは初めてだった。彼は蒼世の視線に気付くと、立ち上がり、ぬいぐるみをわざわざ持ってきてくれた。
 それが、蒼世が長年ずっと消せずにいる思い出、鷹峯誠一郎との出会いだった。

「不毛だ…」
 眼下に見える人の波を見詰めながら、思わず溜め息が漏れる。視界に仲良さ気に腕を組むカップルをとらえ、蒼世は舌打ちしかけた。
 ここは、駅前のビルの二階にある喫茶店。店内は仕事帰りや買い物帰りの客で、ほぼ満席の状態だ。しかし、蒼世のように学生服を着た高校生の姿はほとんどない。そのため、店内にはゆったりとした空気が流れ、微かに聴こえるクラシック音楽を楽しむこともできた。
 そんな店で、窓際のソファー席に座りながら、蒼世は何もすることなくただ窓の外を眺めていた。テーブルの上には、注文してだいぶ時間が経った紅茶が一つ、置かれている。まだ二回しか口をつけていない。
 今日、蒼世は学校が終わると、真っ直ぐにこの喫茶店を訪れた。普段は滅多に寄り道などしないが、部活もなく、同居してる叔父の帰りも遅いとあって、躊躇いなく足が向いていた。考え事をする時、気持ちを整理したい時。いつも蒼世はここを利用していた。
 何気ない日常の合間に、なぜか急に心が激しく乱れる時がある。彼に会いたいと、胸の奥がひどく揺れ動くのだ。今日も、雲一つない晴天を見上げただけで、どうしようもなく胸が痛んだ。
 鷹峯に会い、そして別れ、すでに十二年が過ぎた。幼稚園児だった蒼世も、今年高校生になった。その間、一度たりとも再会することのなかった相手だというのに、未だに想いを絶ち切れないのはどうしてなのか。
 鷹峯と過ごしたほんの数時間、蒼世は初めて叔父のいない空間で孤独を忘れられた。喧嘩にしか聞こえない言葉のやり取りすら、楽しかった。大きな手に頭を撫でられた時、心に光がさすような気持ちになった。あの感触が、忘れられないのかもしれない。
 何度か、鷹峯に会えないかと模索した時期もあった。しかし、蒼世が知っているのは彼の名前と通っていた中学のみ。鷹峯の母校に行っても、部外者に卒業生の情報を教えてくれるとは思えない。結局、今彼がどこで何をしているのか、蒼世は露ほども知らなかった。
 男同士な上に、二度と会えないかもしれない相手に恋をするなど、不毛以外の何物でもない。そう分かってはいるのに、自分ではどうすることもできない。蒼世は頬杖をついたまま、再び深い溜め息をついた。

「あれ?先輩?」
 不意に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。咄嗟に顔を上げると、テーブルを挟んだ向こう側に、蒼世と同じブレザーの学生服を着た男が立っていた。後輩の、武田楽鳥だ。コーヒーカップの載ったトレーを持ち、瞬きを繰り返しながらこちらを見下ろしている。蒼世は居住まいを正した。
「ビックリした。部活ないから、もう家に帰ってるものだと思ってました」
 横のテーブルにトレーを置き、武田が左隣に座ってくる。端から端まで一繋ぎになっているソファーゆえに、二人の距離は自然と近くなる。それを不快に思うほど、彼とは浅い仲ではない。
 武田は、蒼世の通う中高一貫校の中等部に通う三年生だ。同じ部活に所属しており、彼が入ってきた当初より何かと蒼世が面倒を見てやることが多かった。そのため、今では一番親しい後輩になっている。
「お一人ですか?」
「ああ。お前は、誰かと待ち合わせか?」
 武田が、一人でこの喫茶店を訪れるとは思えない。蒼世の知る限り、彼は仲間達とファストフードに寄り道するようなタイプだ。だから、誰かと会う約束でもあるのだろうと予想し問うと、武田は驚いた様子で頷いた。
「はい。そうなんです。お世話になってる人がこの近くに来てるって聞いて、無理云って会ってもらえることになったんです」
「そうか」
「なかなか会えないから、ラッキーでした」
 いつになく高揚した様子で語りながら、武田は色の濃いコーヒーにミルクを入れていく。黒と白が混ざり合う様をぼんやりと眺めながら、蒼世は早々に自分には関係ないなと結論を出していた。武田の顔を見るに、お世話になってる人というのは、相当敬愛する相手なのだろう。なら、その相手との時間を邪魔しないうちに立ち去った方がいいかもしれない。そう考え、蒼世はすっかり冷めた紅茶を口に運んだ。
 視界の端に、鮮やかなオレンジを見た気がしたのはその時だ。ツンと、鼻孔を強烈な香りがつく。紅茶の物とは違う、喫茶店にはそぐわない油の匂い。嗅ぎ覚えのあるそれは、すぐに霧散し消えた。
(クレヨン…?)
 香りの正体に気付いたと同時に、隣の武田が声を上げた。
「あ!来た」
 嬉しそうに弾む声に引っ張られ、蒼世は顔を上げた。レジ付近で、トレーを片手に辺りを見回すスーツ姿の長身の男性へと、武田は手を振る。彼が、待ち合わせの相手なのだろう。男性は武田に気付くと、こちらへと近寄ってきた。
「…え」
 その顔を見た瞬間、蒼世の周りから全ての音が消えた。呼吸すら忘れ、歩み寄ってくる男性から目が離せなくなる。
 黒と橙の混じった前髪を無造作に後ろに流し、見る者を威圧するような鋭い眼光で、男性は真っ直ぐ蒼世達へ向かっていた。彫りが深い顔の、その左右の目元には痛々しい傷跡がある。しかしそれは物騒な印象を与えるどころか、逆に彼の容姿に男らしい深みを与えていた。
「鷹、峯…」
 声が漏れたのは、無意識のうちだった。
 すぐ近くまで来ていた男の足が止まる。武田が、目を見開きこちらを振り返った。
 どうしてすぐに確信したのかは、分からない。ただ、眼前にいる男は自分のずっと探し求めていた相手だと、直感的に悟った。記憶にあるよりも、遥かに大人びた顔付き。あの頃険しさばかりが際立っていた眼差しには、今では理知的な光が宿っていた。その瞳が自分を見詰めている事実に、蒼世は夢を見ているのではと錯覚しそうになった。
 ずっと、会いたかったのだ。それがまさか、こんな突然、何の前触れもなく叶うことになるなんて。
 鼓動がドクドクとうるさい。血液が全身を巡り、思うように思考が働かない。
「えっと、鷹峯さんと先輩って知り合いだったんですか?」
「いや、知らないが」
 武田が、鷹峯と呼ぶ。そのことに喜びを覚えそうになった途端、訝しげに眉をしかめる鷹峯の顔に、蒼世は頭から冷水をかけられたようだった。それは、夢から醒めた瞬間だった。
 覚えていると思っていたわけではない。自分と鷹峯が共にいた時間など、彼にとっては微々たるものに違いなかった。しかし、どこかで覚えてくれているのではと、希望を抱いていたことも事実だ。
 それを打ち砕かれた。酷く、惨めな気持ちになる。長年待ち焦がれた再会だというのに、まさに自分の一人相撲でしかなかった。
「…俺はこれで帰る。邪魔したな」
「え?ちょ、蒼世先輩!?」
 カップに残った紅茶を飲むことなく、席を立とうとする。武田が慌てて声を掛けてきたが、応える余裕はなかった。鞄を取り、足早に去ろうとする。そんな蒼世を止めたのは、鷹峯の一言だった。
「蒼世?」
 低い声だ。かつて呼ばれた時よりも、深く響くような重たい声だ。
 ソファーから腰を上げた状態のまま、蒼世は固まった。
「お前、蒼世か?」
 反射的に、鷹峯へと目を戻していた。まさかと、消えたはずの期待が再び芽吹く。感慨深げに目を丸くし、鷹峯は云った。
「驚いた…。久し振りだな」
 その時、自分は何て答えたのか、蒼世は上手く把握できなかった。ただ、鷹峯が自分のことを思い出してくれた、そのことがどうしようもなく嬉しかった。

 蒼世の隣に武田が、そしてその向かいに鷹峯が着席する。未だに高鳴りが収まらない心臓を持て余しながら、蒼世は交わされる会話に耳を傾けていた。
「え、じゃ、先輩と鷹峯さんって昔会ってるんですか!?」
「ああ。俺が中学生の頃にな。こいつがまだ幼稚園に通ってた頃だから、お前は生まれたばかりじゃないか?」
「うわぁ…それで今日再会とか、何かすごい偶然ですね」
 キラキラと目を輝かせながら、武田は自分と鷹峯を交互に見る。本当になと鷹峯は頷いていたが、蒼世からすれば偶然程度の話ではない。もはや、奇跡だ。
「先輩、幼稚園生だったんですよね?それなのに鷹峯さんのこと今も覚えてるってすごいですね。鷹峯さんも先輩の名前覚えてるし」
「あの日は俺の人生の中で忘れられない経験ばかりしたからな。それに、蒼世のことは珍しい名前だったから、すぐ覚えたよ。クレヨンでわざわざ名前書いてくれたしな。ぐにゃぐにゃの字だったが」
 懐かしそうに目を細める鷹峯の横顔に、息を呑む。忘れられない経験だったのは、自分だけではなかったのか。
「しかし、蒼世がお前の先輩だったとはな。もしかして、お前がずっとすごいすごい云ってた部活の先輩か?」
 鷹峯が横目で蒼世を見る。ドクンと、鼓動が一際大きく跳ねた。
「はい!入学した時からお世話になってるんです」
「へー。なら、名前聞いておけば良かったな。そうしたら、すぐにお前と蒼世が知り合いだって分かったのによ。二年無駄にしたな」
「…二年?」
 鷹峯の口にした二年という期間が気になり、繰り返す。答えたのは、武田だった。
「二年前なんですよ、俺と鷹峯さんが会ったの。中学入ったばかりの頃に、ちょっと…危ない目にあってるところを助けてもらって。で、それからちょくちょく会うようになったたんです」
「二年前…」
 そんな前から、武田は鷹峯と繋がっていたのか。自分が届く気配すらない想いに締め付けられそうになっていた頃から、この後輩は鷹峯と会い、親しい関係を築いていた。そう思うと、みっともなく嫉妬しそうになった。
 醜い自分を押し殺すように、紅茶を一気に飲み干す。感情を隠すのは得意だ。蒼世は表情を取り繕い、二人へと向き直った。
「そういや、お前らこの後どうするんだ」
 そう尋ねたのは、鷹峯だ。
「俺は夕飯の時間に間に合わなくなるので、もう少ししたら帰ります。先輩も、いつもこのくらいの時間に帰ってますよね?」
「…いや、今日は家族が遅いから、後暫くは帰らないつもりだ」
「なら、夕飯一緒に食べに行かないか?」
「え」
「奢ってやるよ。せっかく、十年振りに再会したんだからな」
 願ってもみない、鷹峯からの誘いだった。考える前に、蒼世はこくこくと頷いていた。元々、夕飯は一人で食べるつもりだったので、家族に影響が出ることはない。
 できることなら、少しでも長く、鷹峯と共にいたかった。話したいことが、聞きたいことが沢山ある。そしてそれ以上に、ただ彼の傍らでその存在を感じていたかった。どうすればいいのだろうと考えていた矢先でのことだったので、蒼世は暫し呆然とした。
「いいなー今度は俺もご一緒させて下さい!」
 武田が、鷹峯ではなく蒼世の方へ身を乗り出して云う。
「俺も、もっとお二人と色々話したいので!」
 結局、そんな武田の希望を叶えるように、それから一時間近く、三人は揃って喫茶店にいた。混雑しているなら早めに退席して方がいいとも考えたが、幸いなことに、鷹峯が来た以降は客数が落ち着いていった。そのため、武田が帰宅しなければならないギリギリの時間までいることができた。
 駅前で武田と別れの挨拶を交わし、改札に吸い込まれていく後ろ姿を、何となく見送る。蒼世、と名を呼ばれた。
「行くぞ。何食いたい?」
 隣に立つ鷹峯を、ゆっくりと見上げる。そうだ。武田がいなくなったため、これから自分は彼と二人きりで過ごさねばならない。その現実に、全身に緊張が走った。
「…鷹峯は、何がいいんだ」
 名前を口にしただけで、やけに口の中が乾く。
「あー俺は、蕎麦と肉食えればいいかな。そうだ、そこの駅ビルの中に定食屋あるから、そこでいいか?」
「…ああ」
 元より希望などないに等しかったため、蒼世は躊躇わず頷いた。
 歩き出す鷹峯に続き、その半歩後ろを進んでいく。自動ドアを抜け、駅ビルの中に入ると、鷹峯は迷わず上りのエスカレーターへと乗った。レストランフロアは、七階にある。そこへ向かう間、会話らしい会話はなく、蒼世はただじっと鷹峯の背中を見詰めていた。男子高校生の平均よりも華奢な体躯の蒼世に比べて、鷹峯は遥かに男らしい体つきをしていた。日本人の並の体型ではない。黒いスーツの上からでも、その下についた筋肉のたくましさが見て取れる。多くの同性が羨望するであろう肉体を、鷹峯は持っていた。
 初めて会った時と変わらない、広い背中。なぜかひどく、安心した。

 目的の店につくと、夕食時とあってか、店内は満席だった。待つことに抵抗はなかったので、鷹峯と並んで店前の椅子に座る。蒼世達の前にはすでに数組客が並んでいたので、案内されるまで少し時間がかかりそうだった。
「…しかし、大きくなったな。高一だったか?」
 鷹峯が顔を覗きこむようにして、尋ねてくる。その際、椅子の間隔が狭かったせいで、鷹峯の右腕が蒼世の左腕にぶつかった。一瞬で、肩が強張る。
「ああ。今年、高校に入ったばかりだ」
「ってことは、十六か?」
「いや、まだ十五だ」
「そうなると、だいたいお前と会ったのが十二年前か。そりゃ、顔見ても分からないわけだ。お前は、よく俺だって分かったな」
 何気ない問い掛けだった。それでも、その一言は蒼世の秘めた想いを見透かすかのように思えて、すぐに言葉が出なかった。
「…その髪色は簡単には忘れない」
「ああ、なるほどな」
 一房だけ顔にかかる自身の前髪を摘み、鷹峯は納得したようだった。鷹峯の指先から、オレンジがはらりと落ちる。もしかしたら、喫茶店で一瞬目にしたのは、この色だったのかもしれない。
「お前は髪、伸ばしてるのか」
「…あ、ああ」
 鷹峯の目が、蒼世の髪へ向けられる。腰上まである茶色の髪を、今は後頭部でひとまとめにしている。いわゆるポニーテールだ。男のくせにと、思うだろうか。内心恐る恐る尋ねた。
「おかしいか?」
「いや…他の奴がやってたら不潔に見えかねないが、お前だと似合ってるからいいんじゃねぇか。綺麗だしな」
「は?」
「最初、武田の隣にいるのはあいつの彼女かと思ったくらいだ…まぁあいつのツレにしては美人すぎるなと思っていたら、まさかお前だったとはな」
「…誰が武田の彼女だ」
「悪いな」
 素直に認め、鷹峯はすまなそうに苦笑いする。その顔を見ていると、不思議と怒りはわいてこなかった。
 中性的な顔立ちと長い髪のせいで、昔から女に間違えられることはよくあった。制服を着ていても私服の時でも、奇異の目や好色な眼差しを浴びせられることは日常茶飯事だ。声変わりを果たした後だと、喋るだけで驚かれることもある。未だに、女と勘違いされることは不快だ。しかし、鷹峯相手だとむしろ、武田と恋仲に思われたことの方が見過ごせなかった。美人と云われたことは、考え出すと顔が熱くなるので、聞かなかったことにする。
 それから待つこと十分。前の客が席へと案内されると、それからほとんど時間をあけず、蒼世と鷹峯もようやく店の席につくことができた。
 二人が通されたのは、大きなテーブル型のカウンター席だった。向かいの客の顔が見えないように植えられた造り物の草花を正面に、腰を下ろす。左隣の鷹峯から、メニュー表が差し出された。
「好きなもの頼め」 
 目の前にメニューが広げられる。和食をメインに定食から蕎麦、丼物まで幅広く用意された品を一つ一つ吟味していく。鷹峯は見ないのかと訊くと、すでに注文は決まっていると答えが返ってきた。どうやら、彼はよくこの店に来るらしい。
「決まったか?」
「決まった」
「何頼むんだ?」
「これを」
 指差したのは、せいろ蕎麦だった。正直腹は減っていたが、喫茶店に寄ったせいで使えるお金は多くない。鷹峯は奢ってやると云っていたが、そのつもりはなかったので、比較的安価なものにした。
「それだけでいいのか?足りねぇだろ」
「いや、俺は」
「遠慮するな。俺の奢りなんだから、もっと頼めよ」
「そういうわけにはいかん」
 きっぱり答えると、途端鷹峯は口を閉ざした。じっとこちらを見てくる視線に、思わず不安な気持ちになる。どうしたのかと気にしていると、鷹峯は何事もなかったように顔をそらし、席に備え付けられたボタンを押した。店内に軽やかな音が鳴り、それに応える店員の声が響く。すぐにやってきた店員に注文を聞かれ、鷹峯がそれに応じた。
「せいろ蕎麦とカツ丼のセット二つ」
「はい、お二つですね」
「以上で」
「っ、おい!」
 それは明らかに、蒼世の決めていたメニューとは違っていた。咄嗟に訂正しようとするが、鷹峯の手が肩を抑えてきたことで、それは叶わなかった。
「鷹峯っ」
 店員が去ったところで、鷹峯に詰め寄る。
「学生が気を遣うんじゃねぇよ。奢らせろ」
「しかしっ」
「食い切れなかったら、俺が食べてやるから」
「そういう問題では…」
「俺がそうしたいんだ。素直に甘えろ」
 そう云って、宥めるように笑いかけられてしまえば、蒼世はそれ以上何も返せなかった。
「今度埋め合わせさせろ…」
 貰いっぱなしは趣味ではない。せめてもの譲歩として口にすれば、鷹峯は律儀だなと歯を見せて笑った。

 
 自室に入り、灯りを点けるとすぐに、蒼世はベッドへと倒れ込んだ。制服が皺になるため、常ならばそんなだらしない真似はしない。しかし、今日ばかりは許してほしいと、自分自身に許しを乞うた。
 鷹峯と食事を終え、一時間。彼と別れ、帰路についてからというもの、ずっと蒼世は夢見心地のままだった。
 十年以上想い続け、会いたくてたまらなかった男と再会したことが。顔を見て、名前を呼んで言葉を交わせたことが、今更ながら自分の都合のいい妄想だったのではないかと思えてくる。それほど、蒼世にとっては大きな出来事だった。
 しかし、夢ではないとちゃんと理解している。制服のポケットから、スマートフォンを取り出す。電話帳を開き、た行をタップすれば、そこには登録されたばかりの名前が浮かび上がった。
「鷹峯、誠一郎…」
 声に出すだけで、喉の奥が切なく震える。ああ、好きなのかと、嫌でも自覚させられた。
「馬鹿が…」
 自嘲するように呟き、スマートフォンの電源ボタンを押す。自分を守るように身を丸め、蒼世は固く瞼を閉ざした。

 それは、まだこの恋が始まり出したばかりの頃の話。





2016.3.4 
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