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♭02 ただ可愛くて、ただ、可愛そうだったの。



   【》》tedious talk,for 『K』.】






 頭痛がした。夢を、見た気がした。このところ眠っていないからだろうか。変な感覚。ふわふわしている。軽い貧血かもしれない。こめかみに指を添えて考えていると、水音がした。不意に硝子の向こうを見上げる。自然、眉が寄った。
 液体に満たされたそこには無数のカプセルが、縦横無尽に這う配線と繋がれて微かに揺れていた。その更に中には瞼を閉じた人、裸体の────。
「……」
 ここはクローン培養管理施設。名を『C4 facilities』。“Clonal cell culture control facilities”の略称だ。クローン法改正と共に建てられた厚生施設で現代の医療施設とも言える、私の職場。今日も、私はしっかり機械の状態を診ていた。白衣を着ていても、私は研究者ではないし、技術者でも専攻は遺伝子工学ではない。『生体医科学』、生化学のより医療に特化したこの分野は齧っているけれど。
 私は公共施設の、特に医療に従事する機械の、プログラムに乱れが無いよう調整、管理する『プログラムコンディショナー』だった。プログラムの一つ一つ見分け、不審な動きが無いか監視、おかしなバグは見付け次第直ちに正常化を図る。なかなかに難しい、際どい仕事だ。何せ、現在のこう言った機械は、民間のインターネットワークと隔絶するために生体信号を使用しているから。普通の機械とは違って素材も一部有機素材だし。通常のプログラムが簡単とは言わないけど。私は両方馴染みが在るし。
 もともとプログラムに強いたちだった。国家資格で試験も難易度がやたら高く、難関だったけれど割とすんなり、この職業には就けた。親の代からこの手の職に関わって来れたのも、強みだっただろう。問題さえ起こさなければ、転職も退職後の天下り先も事欠かない、もしかしたらイマドキの官僚様より調った環境が約束された職種かもしれない。……この時代は、医療機械の従事者や科学者、技術者がとかく重宝されるから。
「────」
 つまりは、私の相手は機械であって、クローンじゃない。
 それでも、嫌でも目に付くのだ。
 数階建ての広大な、水槽の奥まで気味が悪い程埋め尽くすカプセルと、同等数いるだろうクローンたち。満たされた水に揺らぐ様。膝を抱えた姿、そう、それはまるで。
「……みたい……」
 腹の中の、胎児を彷彿させた。私は下腹部を押さえた。今日はトイレの水が、化学変化を起こしたように赤く、染まっていた。
 女性特有の、性徴ゆえの、事象。
 今は、それ程でも無い。でも、未だ。
「ばかみたいに、ね……」
 私は、その水を見るたびに[死]を思った。
 クローンはヒトの『代替品』だ。生まれると同時に造られ、オリジナルの人間が未婚者で死ねば、目覚めさせられる。死んだ当人の記憶を植え付けられて強制的に。……果たして、機械を経由した記憶は、『記憶』と呼べるのか。『脳内記録』と呼ぶのが、妥当ではないのか。浮かぶクローンたちは、他人の記憶を埋められたとして、本人と認識するのだろうか。
 常々の疑問は、身内に代替された人がいないため、訊いたことは無い。昔付き合っていたヤツは、恐怖さえ抱いていたようだけど。アイツは事務的でも、直に人の死とクローンの生に携わっているからかもしれない。
“人を生む”と言うこと。
 これだけのせいだとは言わない。そこまで私は卑怯じゃない。
 だとしても、影響は濃いはずだ。下腹部を押さえていた手が、衣服を、しがみ付くみたいに掴む。力の込め過ぎで軋んだ音がした。
 水槽を仰ぎ見る。
 機械が繋ぐクローンとその命。人口の分だけ造られ生かされる。
 生まれ持った[性]の御蔭で、同じことが出来るこの体の特徴を、私はそれはそれは、憎んだことが在る。



 目の前が眩む。不眠が原因なのだと実感していた。液晶の文字化された電子配列を、もう何時間も見ては検索に掛けている。ああ、これもか。
 交代時間でようやく解放されたときには、しょぼしょぼした目元を揉んでいた。部屋を出てすぐ、私は後ろに一つで纏めている髪を解いた。ふわっと、腰まで伸びた、毛先にだけ癖の在る髪が舞う。結い上げていた長めの前髪も、ついでに直す。
 事務仕事のため、与えられているデスクに戻った私は、業務を行う前に珈琲を飲もうとして、ここで気付く。お湯が……無いだと? 英字で『エンプティ』と書かれたその下のランプが、赤く点滅していた。
 給湯室へ行かなければ珈琲が飲めない。正直行きたくない。行きたくは無いが。
「……」
 空のカップへ目線を落とす。珈琲で一息付きたい私は数瞬葛藤した末、仕方なく水用のタンク片手に、給湯室に向かったのだった。古い施設はこれだから。
 経費削減じゃねぇーよ水道引けよ。

 結論から言えば、やめて置くべきだったのだ。給湯室は休憩室と同様どの部署とも共同だ。休憩室を突っ切る形で在って、極力人と関わりたくない私にとって近寄りたくないことこの上無い、甚だ迷惑な構造だったのだし。

「……でっさー」
 心中で、私は舌打ちした。休憩室には人影が無く、安心していたところなのに、こんなところに伏兵はいた。何かの負い目が在る訳も無いのに、タンクを抱え、私は給湯室入り口脇の壁に張り付いていた。中の様子をそっと窺う。
「え、マジで?」
「マジだよーっ。有り得なーい!」
 中にいるのは間違い無くどこかの部署の職員だろう。白衣を着ていないから庶務か事務か……ちっくしょ、有り得ないのはお前だ、滅べ。
 女子職員は群れるの好きだよな。どうしてこうも群れたがるんだか。私は、自身も女子職員に含まれるのを棚にばっちり上げて内心二度目の舌打ちをした。
「有り得ないよね、あの部長さー」
「自分のミスは認めないのにね」
 何だって、こう言うところで女子職員って言うのは、悪口に華を咲かせるのだか。マジ滅べ。
 どっか別の場所でやってくんないかな。それこそロッカー室とか化粧室とか、在るだろうよ。
 て言うか「……」何で私が身を隠さなきゃならんのだ。私はそう思い直して一歩踏み出そうとした、が。
「てか、圭さんさー。あの人結婚しないんだってぇ?」
 突如耳に飛び込んで来た一言に、動きが、一挙手一投足がぴたりと止まった。
「“圭さん”? あー、翅白しじろさんか。らしいねー。アレかな。職業婦人とかキャリアウーマンとか、地で行く人なのかもね」
「“職業婦人”て、言い方古っ」
 ウケたのか、突っ込んだほうの女子職員が、キャハハけらけら、甲高い軽い音で笑う。私は上げた足を再び降ろし、地を踏み締めた。ああ、噂話も咲かせるんですね。何で私の話題なんか!
 盗み見た職員たちの顔は、どちらも記憶には無い。知らない顔触れの二人は私を井戸端の標的に選んだらしい。勘弁してよ……。
「あれ。でも翅白さん、確か恋人いたよ。ほら、あの、おんなたらしで有名な、」
崎河さきかわさん?」
「そーそー!」
『崎河』? 出た名前に、誰、と頭を擡げ次いで、おお、と、声に出さず一人手のひらを拳で打った。……雅彦まさひこだ。すっかり忘却の彼方だったけど、アイツ、そう言やそんな名字だったわ。
「あー、あの人? あの人、振られたんだってー、圭さんに」
 事実は違うが、世間ではそうなっているらしい。ふぅん。周りがどう思おうが知ったことじゃないけれど、こっちはそこに関与も関知もごめんだった。私は顔を顰める。
 何でこんなことになっているんだろうか。私は額を押さえた。
「だけど、わかる気がする」
 いきなり、甲高い笑い声の女子職員が言った。笑わないと、案外低い声音だった。私は目を少し見開く。
「何が?」
「あの人さ、面白み無いんだよ。結局、飽きられてたんじゃなーい?」
「え、振られたのが崎河さんで振ったのが翅白さんでしょ? 逆じゃん」
「だって、あの人面白く無さそうじゃん! 部長とか持ち上げてるけどさー。けどプライド高そうだし? きっと振られるのが嫌で、逃げたのよ!」
 確かに「────」振ったのは私じゃない。
 随分と自信満々に、言い切ってくれた。珈琲を飲む気も失せた私は、その場から足音を立てないようにして空のタンクを持ったまま離れた。

 確かに、振ったのは私じゃない。
 反論の余地は無い。だけれど、実態は少し違う。私は何もしなかった。私をあの部屋に置き去ろうとする雅彦を、引き留めることも、追い掛けることもしなかった。
“プライド高そう”? そうね、否定はしない。
 私は、何もしなかった。

 ……ああ、痛い。重い。

 痛いのは、お腹か頭か、それとも? 重いのは、足か頭か、それより? 知らず私は唇を噛み、知らず胸元を掴んで押さえた。しがみ付くみたいに。

 飲んだのは、胸を痛ませたのは、喉奥を重く通過したのは、感傷だったろうか。



 夜勤に引き継ぎを終えて、私は夜の街へ繰り出した。と言っても、派手に遊ぶつもりはさらさら無い。友人から飲む約束を、無理矢理に取り付けさせられたから、出て来ただけ。まぁ、良いんだけれど。
「圭ぃ。こっちよーぉ!」
 変に間延びした声が、お洒落な雰囲気のバーに響く。立ち往生する私を導こうとするが、正直このバーに不似合いなきゃらきゃらした音程は、逃げ出したい気持ちを湧かせる。当の約束の相手なので、実行は叶わないけども。
 音源を辿れば、カウンターの端で手を振っている。白いノースリーブのハイネックセーターと、タイトなミニスカート、ブーツ。金茶の、ウルフっぽいショートカットの妖艶な美女が、無邪気に悪戯めいた笑みを浮かべていた。
「遅ーいっ」
「時間は言って置いたでしょうが。私は定時退勤したわよ、雪菜せつな
 前まで行くと、雪菜はぷぅっと可愛らしく頬を膨らませた。男はともかく、私には効果無いっつうの。

「乾杯ーっ」
 雪菜の音頭で合わされたグラスが、カチンと鳴った。変哲の無い平日に、何の『乾杯』なんだか。
 雪菜は私の友人で、雅彦の友人でも有った。地味な私とは正反対に、派手めな美女の雪菜。性格破綻っぷりには、名前の響きの秀麗さも、漢字の中の清楚さも、ことごとく破壊されている。……もっとも、破綻しているのは性格より結婚歴だろうか。
 雪菜は、実はとうに五十を越えている。正確な年は、私も当人も周辺のヤツらも忘れてしまっているけど、四十を越えている雅彦より、十は年上だ。私とは二十近く離れていることになる。
 私も雪菜も、見た目こそ二十代前半でも、実年齢は立派な中年だった。この昨今、七十八十で外見二十歳なんて、ザラだ。私たち程度なら、不平を洩らすことも驚かれることも無くなった。私に至っては未だ二十歳以下に見られる。こっちが不満だ。
 未婚者なら義務の『不老延命措置』を、雪菜は既婚者なのに続けていた。一人でも子を儲ければ、義務は任意になる。通常ここでやめる人が多いのに、雪菜はわざわざ申請してまで受け続けているのだ。
 子も、いったい何人いるのかわからない程、産んでいるくせに。結婚も今回五回目だ。前は内二回死別の二回離婚。何を如何にして、こうなるのか不明だ。雪菜が特別なケース、と言うことも無いのだろうけれど、それにしたって多過ぎやしないか。
 だのに。
「あーあ。今の旦那も危ないのよねぇ。さっすが、高齢で『不老延命措置』をやめただけ有るわよぉ。もう死にそうなんて、何てコトー? 私も早く新しい恋を探さなくちゃあ」
 ……コレだよ。溜め息って、不幸になるんだっけ。いや、不健康になって不幸になるから、溜め息でストレス状態を解いて、楽にしようとするんだっけ? あー、どうでも良いや。
「ったく、あんたね……。探さなくて良いからね? ちったぁ落ち着いたらどうなのよ。何回結婚する気なの」
「えー? そりゃあ私の気が、そこそこに済むまでですよー?」
 からっと、満面の笑みで言い切りやがった。うわぁ。雪菜の現旦那様、合掌。ご愁傷様です、いろんな意味で。私は心の中で軽く、手を合わせお悔やみを申し上げた。他人の旦那のご冥福を、死ぬ前に祈りながら、注文していたソルティドッグに口を付ける。
 清酒派の私にはめずらしいチョイスのカクテルも、雪菜は何の感想も無いらしい。雪菜は定番しか飲んでいない。ウィスキーのロック。丸く削られた氷がお酒の中で浮遊しては、グラスと涼しい音を奏でている。
 お酒は、そんなに好きではない。飲みたいときはとことん飲みたいけど、頻繁に摂取したいとは思わない。どっちかと言うなら、珈琲を好む私だ。寝る前も珈琲を飲む。こうすると寝起きがすっきりするのだが……私だけだろうか。
 この年で、この手の付き合いを蹴るのもどうかと思うし、気兼ねを必要としない雪菜だから、応じているのも多分に、在る。調子に乗る様が容易に浮かぶので、絶対言わないが。
 唐突に「元気そうで何よりねー」と雪菜が口にした。私は隠さず「何、急に」怪訝な表情をして見せた。雪菜は別段どこか変わった風では無かった。
「圭ちゃんはー、とてもとても意地っ張りで頑固なのでぇ、この雪菜さんはー、とてもとてもとーっても、心配なのでーす」
 呂律も怪しい、酔っ払いが歌うみたいに雪菜が言う。平気そうに見えて、酔っているのだろうか。違うか。私は感付かない振りで適当に「そりゃどうも」お酒の場に相応しい返し方で、虚勢を張った。次に来るのは明白だった。
「でね、────雅彦も、とてもお莫迦さんなのよ」
「……」
 ……やっぱりね。予想はしていた。雪菜の良いところは、悪いところと同程度に、把握している。雪菜は、本意で私と雅彦に心を砕いているのだろう。姉御肌で、口で言う程他人を放って置けない雪菜。口は、ぞっとするくらい悪辣だけども。
「戻っちゃいなさいよ。世間はあんたたちが別れたことに、大した疑いも持たない。単に、“雅彦がいつもの如く飽きた”だの、“圭が愛想を尽かした”だの、好き勝手。幅を利かせているのから極少数のものまで、共通点はぜーんぶ“圭が雅彦を振った”、だけどね」
「知ってる」
 不本意ながら、本日聞いてしまったから鮮度抜群だ。うれしかないけども。
「表しか知らない連中はね、実しやかに面白おかしく受け流してる。あんたも雅彦も、平然としているから余計にね。でもね、圭。裏から見てる私は、まことを知る私は、
 とても痛くて、見ていられないのよ?」
「……」
「お節介はわかってるわ。だけど好きなのに、二人して逃げているんだもん。どっちかが折れれば、良いのよ。雅彦が帰れば良いけれど……圭が、追い掛けても良いと思うの」
 雪菜の提案に、自嘲が洩れ出る。私はグラスの酒を呷った。酒とは名ばかりの、甘ったるい酒。ジュースみたいな。舌と喉に粘着く。縁の残る塩がざりっと鳴った。雪菜の瞳が、突き刺さりそうなくらいやさしいのは、目にせずとも感じている。自身の我が儘も沁みる程。
「今更?」
 そうであっても、嫌だった。
「間に合うと思うけど?」
「無理よ」
「圭、」
「無理」
 あれから、随分経つのに。雅彦は平静を装って過ごしているのに。
 今になって、縋って泣き付くなんて、死んでも嫌だ。
 雪菜の顔は、見れなかった。



 事実が晒され、真実が時折覗く。疲れることだ。
 他人は無責任に槍玉に挙げて、傷口を突付いて抉ってくれるが、それだけだ。責任は生じやしないんだもの。
 言葉のまま。『無責任』。

 棄てたのは、どちらだったのだろう?
 人様は吹聴して評価してくれるけど、この中の誰もが、その疑義には答えられないだろう。
 当事者二人も、お互いに横たわる十数年は入り組んでいて、お手上げなんだから。



 雪菜と別れた私の鼻先に、白いものがちら付いた。この時代にしては稀な、都市部を覆う環境調節ドームの内まで降り始めた、雪だ。
 自然破壊や戦争の化学兵器による環境汚染、気候の悪化から守るため、国土は海域に沿って装置が設置され半筒状の緩和ドームが覆っている。雨雪を完璧に排除してしまうと土壌、水などに影響が及ぶので防災、空気清浄程度の設定にされており、台風は無いが大雨、大雪は在った。
 ゆえに都市部は、更に全体が大きく二重に台形のドームで包まれていた。なので都市部のドーム内にまで雪が到ったのは、稀少だ。
 私は、「ソルティドッグ、ノンスノーにしなかったからかしら」なんてフザけて、重い足取りで帰り道を行き、有人タクシーに乗り込むとただ、瞼と思考を閉じた。
 雪のためか夜なのに明るく、白んでいた。
「……」
 この白い闇が、いっそ、私も覆い尽くせば良いのに。



「────」
 私の住むマンションは築年数も古く、セキュリティは最新式と言い難いけれど、きっちり標準的には働いてくれていたはずだ。
 だと、言うのに。
「……動かないで、ください」
 私のこの現状は、何だ。私は一時、ドアを開けるのをちょっとばかし、躊躇していただけなのに。街頭の防犯カメラとマンションエントランスの認証スキャンは、何やってんだ。
 防犯カメラもエントランスの認証スキャンもメンタル測定が付いていて、通行人の精神状態を常時モニタリング、異状を検知したら通報される……んじゃなかったのか。怪しい人物が闊歩して、今まさに凶行に及んでいるんですけども。何たる体たらく振りだ。
 こうなると道一本に一台くらい、生体データ全認証式のスキャン付けたほうが良いかもしれない。私的に嫌だけど。
 現代では、人間が生まれると作成されるのがクローンの外にもう一つ、在る。
“生体データ”だ。
 内容は、キメラ遺伝子の可能性を考慮した脳や性器以外の部位別の遺伝子情報、親や子、親戚との関係の紐付け、指紋、歯型、耳紋、口唇紋、網膜、歩容など、出生した国に新規登録される。役所と国が共同管理していて、健康診断の結果も全部在る。戸籍制度が在る国だと、国民ナンバリングと共に同期され保管されている。
 だので街では、簡易の生体データ限定認証式システムや付属した防犯カメラが、普及していた。
 事件事故が起きたらすぐ様、個人の特定が出来るって寸法だ。プライバシーのへったくれも在ったものじゃない。生体データ全認証式システムは、重要施設の出入り口や出入国管理以外で使われていることは少なく、非常時外は厳重に扱っているなんて国は豪語していたけど。その割に、使用目的が認められれば本人の照合許可が無くても、国を越えて見られるんだから、どうだろうか。国によって違って、認証システムが無いのは紛争地域や整備の遅れている国だけとの話だが。
「……騒がないでください。お願いします……」
 真面目に、付近も引っ括めて、ウチのセキュリティはどうしたよ。私は背後から、抱き抱えられるように拘束されていた。多分、結構若い部類の、男。“お願い”って。眼前に回された手のナイフを突き付けて脅して“お願いします”って。声調も微妙に震えている。
 好きでしているのではないと、言外に宣していた。で、だから? って話だが。こんなことして、要求何さっつー。問いたいけど、ご丁寧に口も塞がれている。騒ごうにも、ガードされて手も足も口も出ない。
「おとなしくしていただけたら……危害は加えませんから。お願いです、僕を、一日で良いんです……家に置いてくださいっ……。一日、一日で良いんです……っ……」
 表情は見えないが、全身で必死に言い募って来る。しかし変な話だ。“一日だけ置いてほしい”これだけの要求にナイフをちら付かせて脅迫しているのか。そんなことのために? や、非常事態に遭遇しながら慌てず醒めている私も大概おかしいだろうが。弱腰なんだもの暴漢が。……暴漢……よね?
 私はとにかく、塞がれていては返事も出来ないので、暴漢の手を叩いて訴えた。暴漢も思い至ったみたいで手を外す。ナイフは目の前に設置されたまま。が、「……無茶するわねぇ」私は構わず首を巡らせた。暴漢はやはり年若そうな男だった。顔は目深に被ったニット製の帽子と、通路の仄暗さで視認出来ない。私はやっと話せるので、取り敢えず質問した。
「私の家に入りたいのね。無理だけど」
「……っ……どうしてですか? 一晩で良いんです、それでも、駄目ですかっ?」
 悲愴な暴漢。やばい突っ込みたい。「ナイフは飾り物か」と。命惜しいから、しないけど。
「怪しい男を家に入れる独身女は、一般的にいないと思うわよ。特殊な事情でも無い限り」
「それは、そうでしょうけど……でも!」
 私の、淡々とした口調で告げる拒否的な返答に焦れたのか、少々暴漢が語尾を荒げる。私は動じなかった。と言うか、そろそろ気付いてほしいなぁ。
「いや、それ以前にね、
 ────ドア、開けられないのよね」
「……へ?」
 暴漢はニット帽の下で、目を丸くしただろう。隠れているから想像の域なんだけども。私は、科白の真意に達していない理解を引き上げてあげようと、説明することにした。大袈裟に嘆息して。暴漢がびくっと体を震わせる。だから弱腰過ぎるって。
「あのね。ここのロックは、限定認証式で指紋読み取りでね。センサーに指を翳した後、タッチパネルが作動する仕組みなの。あ、生体感知センサーが付いてるから、指切り取ったところで意味無いんだけど。それと、指紋って左右で違う訳。私の、このマンションで照合許可登録している指は左なの。あなたが主に押さえているのも、左。わかる?」
 右も照合許可登録済みだが、これは言わない。第一右はナイフが握られている。動かしたら危ない。
「何よりね。こんな体勢で開けられるなんて、考えられる?」
 不可能ですとも。予測していたけれど、暴漢はかなり背が高い。振り向いて確信した。雅彦も高いが、暴漢の身長も同じくらいだろうと目測で判断。支倉しくらさんより低い、かな。
 支倉さんとは、父の元同僚で旧友の人。……何で別れた男が基準かと言うと、背が高い男で真っ先に浮かんだからで。父も平均的だったと思うし。悔しいけど、年月の長さは染み付いてしまっているのだろう。ちくしょ。
 その長身に、お世辞にも背が高いとは言えない私が、押さえ付けられているのだ。必然として、上から被さっているような、やや前屈みの形になる。
「……」
「……。わかって、くれたかな?」
 出来の悪い子供に、物の道理を説く気分で仰ぎ見て確認した。当の暴漢は呆然と立ち尽くしていた。私を捕らえていた手も、離れている。あーあ。言っちゃ悪いが間抜けだろう。ロックの仕様を知らないとは言え、家に入れろと言いながら、その実邪魔していたのだから。見事固まって隙だらけの暴漢を、私は自由になった身で在るにも関わらず見守っていた。と。
「──────ごっ、」
「『ご』?」
「……ごめんなさいぃぃぃいいっっっ!」
 突然大音響の、悲鳴染みた叫びが上がった。今度は私が唖然とする番だった。
 暴漢は何が起きたのか、いや、わかっている、間抜けな件のことよね。いきなり大声で謝り出し、思いっ切り私へ頭を下げている。体を九十度くの字に曲げ、姿勢正しくびしっと。勢い良く下げたせいで、頭のニット帽が床に落ちてしまった。
 何だその、取引先で大失態犯した営業マンみたいな……いるのよ、この時代にも営業マンは。もしくは、とんでもないミスを犯して上司に怒られた、腰の低い部下みたいな。
 私は、目前に繰り広げられた謝罪劇にしばし硬直していたが、暴漢の声量は絶叫に等しく、徐々に辺りがざわ付くのを感じた。我に返り、素早くロックを外し部屋に滑り込む。今までで、最速記録を叩き出したんじゃなかろうか。
 室内側のドアの前で息を殺す。外では間一髪、騒ぎを聞き付けて飛び出して来た人たちの、喧騒が聞こえる。良かった、間に合って。普段付き合いの無い隣人だの同じマンションの住人だのの、好奇な噂のネタになって堪るか。職場だけで充分だっつの。
 やがて物音も気配も絶えたころ。私は扉にくっ付けていた耳を外した。体勢を整えたのも束の間。そのまま扉に背を預けて寄り掛かる。私が何したってんだ。
「何なのよ……」
 ぼやく。おとなしくひっそり暮らしているだけなのに、散々な日だ。人柄の想定も易しい、莫迦な女子職員から、己に関する批評をうっかり立ち聞きしてしまうわ。雪菜にはタイミング的に、生乾きの傷を剥がされる要領で雅彦との復縁を奨められるわ。
 マンションに帰りゃ、セキュリティ内だってのに暴漢に見舞われ、危うく、出来ることならこれからも一切接点は持たず生きて行きたい、ご近所の注目を浴び掛けたわ。改めて唸る。
 それから。
「……あの、」
 この手だよ。繋いでる、て言うかは掴んでいる、手。掴んでいるのは私。
 何やってんだ私は。
「すみませんでしたっ、お騒がせするつもりは無くてっ……」
 コイツだよ、コレだよ。
「その、……」
 なぜかいる、暴漢だよ。私は手を放した。思わず暴漢も連れ込んでしまったけど、一独身女性の独り暮らしとして如何かと思う。俯かせた顔、所在無げな挙動、手には、先に見せ付けていたナイフを持て余したみたいに弄んでいる。
「────置いて、ほしいんだっけ?」
 ……如何かとは、思っている! だがね、暗がりの廊下でぱっと見じゃわからなかったけれど、よく観察したら未成年臭いのよ、この暴漢。さっきのあとで、部屋に入れちゃった手前迂闊に放り出せないでしょ。
「……はい」
「はぁ。……何で?」
 そこだよ。私にこんな、大それたことを仕出かしてまで、部屋に入れてくれと求めるのか。体目当てとか金品目当ては無いと思う。無抵抗の私と、まんまと私の部屋に入ったのに、微動だにしないから。むしろ怯えている。凄い怯えて、丸っきり私のほうが加害者の犯罪者だ。誘拐犯みたい────。
「……」
 考え付いて、はた、と。誘拐。……嫌だな、面倒な。そうだ。この暴漢が未成年だとしたらそんな誤解も生まれ兼ねない。いやいやいや。街の防犯カメラでアリバイとか、無実は立証されると、信じてますけども。
「ねぇ、」
 俄然、理由を聞く気にもなった。聞かないと対処しにくいもの。黙り込んでしまった暴漢へ私は更に質した。
「どうして置いてほしいの? 訳を聞かなくちゃ、私だって了承出来ない。きみにだってわかるでしょう?」
 私は出来損ないの人間だ。少子化対策で躍起になる世界にいて、義務を拒んでいる。社会人としても国民としても胸を張ることは出来ない。けれど幾ら出来損ないの私とて、犯罪に加担も冤罪で刑罰もごめんだった。
 真っ直ぐ見据える私に、暴漢は黙してしまった。困っているようだ。頑なに、拒絶していた。ふと、誰かに似ている気がした。無為に湧く。少し、かわいそう、なんて。
 ここで、そんな慈悲が浮かぶのはおかしいことくらい、頭の螺子が吹っ飛んでいるかもしれない私だって自覚している。そうでも、尋問している気になってしまい良心が疼く。
「……」
 この異常事態、何なんだ。
 だんまりを決め込んで、怯えているのは私と向かい合っているせい? 他に、何か在る? 何かしちゃったんだろうか。もしかして、私の予想ビンゴに警察に関わるのがマズい程のことをした? まぁ暴漢行為自体がマズいけど。
 指先まで震えていた。掴んでいた手は冷たかった。今日は冷える。都市ドームに入り込む程度に雪も降っていた────それだけ? 極度の緊張に晒されているからではなく?
 尋常じゃない怯え方。一体全体何やったのよ、この子。
 にしては、防犯カメラでとっくに足取り割れてるだろうに、警官が来る兆しも無い。
「……言いたくないの?」
 大きく息を吐いたのは、決して暴漢の強情さに呆れたからではない。沈黙に疲れたからだ。仏心起こすなんて莫迦げている。だけども、つい、憐れんでしまったのだ。追及断念したと言って、擁護するかは別だし。私の問いに、暴漢は無言で頷いた。小心者っぽいし、悪いヤツじゃ無さそうなんだよねぇ。
 ついでに白状すると、打算も在った。知らないまま放逐すれば、私は厄介事に巻き込まれないかもしれない、とか。ここまでやって、薄っぺらな希望だが。
 暴漢は背が高いのに、ひょろっとして細くて頼りなさそうで。毒気を抜かれているのか、私も、場違いに警戒心が欠落してしまっていた。意を決したように暴漢が顔を上げ──────

 次いで、私は絶句した。

 別に、暴漢がまた素っ頓狂な声出して変な行動に走った、なんてことは無く。そのレベルじゃなくて。
「────」
 あぁ、『絶句』って、本当に言葉を失くすことを言うんだな。漠然とひとりで思っていた。
「こんなことして、ごめんなさい」
 暴漢の、心が籠もっているであろう侘びも、私の脳内に届くこと無く、鼓膜で跳ね返っている。反則だ。

 何で、あんなに“きれい”なんだろう。

 暴漢の容貌は、一言で言うなら『きれい』だった。漢字なんて『奇麗』でも『綺麗』でも違いない。だけれど、選べと、迫られたら選べない。華やかで、たおやかで、儚さと色気も多量に含んでいる。しかも、しおらしいこの態度。そこらの女の子より可愛いんじゃないだろうか? 私? 欄外。
 けど背の高さや輪郭は、中性的だけれども男性寄りと言ったところ。女の子よりきれいで可愛くても、女性には間違われない。
 そのためか、殊更現実味が薄い、気がする。
 彩色で言えば全然普通なほうだ。雅彦のが、茶掛かった緑の瞳孔に髪は金に近いウェービーな茶髪で、色は淡くて幻想的な色合いだったと言えなくも無い。何せ父親の帰化前の名前はジャン・リヴィエール。ロシアとフランスと、私は面識の無い母親からはドイツの血が混ざっていて、日本の血なんぞ四分の一在るかどうかだ。色素が薄いのは当たり前か。
 雅彦も美形だったし華は在った。ただ、アイツは纏う空気が俗過ぎて、存在感が濃い。暴漢は次元が異なった。雅彦より雪菜が近いかも。派手な美人系って分類では。でも、やっぱり違う。雪菜にこのか弱さは皆無だ。はっきり言って一ミリも無い。
 近いところでウチの父……知人親戚共から似ていると評判をいただく私には、父は父なのだけど。バカップルの気が抜け切らない母とか、女性陣は騒いでいたような「……あの、」いや、いい。脇に置こう。私は頭を振った。
「ごめん。脳みそが飛んだわ」
 重要なのはそこじゃない。見事に思考回路がイかれていた。想定外の暴漢の顔立ちに、自己判定『一般人百パーセント』の私は混乱したんだ。美形なんて幼いころから支倉さん、雅彦と慣れ切っていたはずなのに。
 私なんかアジア人種一択ですから。父がイマイチわかんないんだけどね。日本国籍取得前、姓はパイ、名は光輪グァンルン。祖父が帰化した台湾人らしいんだけど、生まれたのがインドネシアだった揚げ句、祖母が誰か判然としていないんだって。
 物心付いたときには父子家庭で、祖父が自然学の人だったからフィールドワークでいっしょに飛び回ってて、落ち着いたのが日本だった……て、母に聞いた。父からは直接聞けなかったんだよね。生体データを遡れば判明しそうだけれど。国境跨ぐし、手続き面倒臭そう。母は知ってる。純度百の日本人だって。
 あ、僻んでませんよ。コーカソイドとか特に羨望無いからね? 元彼アレだし雪菜アレだし。
「……そうだよ……雅彦が雅彦なら、雪菜だって、支倉さんだって。何を今更……」
 近代、この国で純度の高い日本人を捜すほうが難儀だ。私が生まれる前に、異邦人の帰化まで条件緩和させて国民を得て来た国なんだから「えと、……大丈夫ですか」「うん、オッケー」きっと大丈夫。受け答えが成立していない時点で、まったく大丈夫ではないだろうが、動揺の果てふらふらする私は気が付かない。これには暴漢も参ってしまったみたいだ。
 気を引き締めるためにも、本題に戻る。私は無意識的に下へ向いてしまった視線を、一度上げ再度下げた。
「……言いたくない理由が在るのよね」
「……。はい。家には帰れません。ほんのちょっとで良いんです、こちらで、考える猶予をください。これ以上、迷惑は掛けませんから」
 すでに状況は迷惑を被っているのだが。『上』が在るのか。て、文句言えなくも無い「……」が。
 美形を差し置いてもこの暴漢。青年がようやっと、少年の成長過程を脱した雰囲気だ。ともすると、外面より内面の幼さが勝っている風にも見受けられる。表現し難いんだけど、純正培養のお坊ちゃんなんだよね。追い出すのは容易いんだけども……。
 こんな深窓のお坊ちゃん風情が、果たしてここを追いやられて、無事に生き残れるだろうか。買い物のノウハウも知ってるのか疑わし……やー、知ってるでしょ。どう見ても十代後半だもの。
 この辺、治安は悪くない。稼動を疑ったけど、街頭の防犯カメラだってそれなりに設置されているし、放っても問題は無い……のに。
 拾った犬を、物凄く懐いて足にじゃれる犬を、元の場所に戻す“罪悪感”とでも表そうか。目を離したそばから、明らかに付いてっちゃいけない人に、連れて行かれそうなんだよ。世間知らず甚だしいっての? 私の周囲にいるタイプは傍若無人もいるけれど、大抵放って置いても気にしないヤツらばかりだ。
 つまり、この子のようなのはいなくて。

「……置いてほしいんだっけ」
 同じ問い掛けをした。
「はい」
「一日で良いの」
「はい」
「一日、一晩だけで、きみ出て行けるの。言い訳もしない理由も言えない。……きみが」
 矢継ぎ早に、だけどもゆっくり、質疑を繰り出せば「それは……」暴漢は口籠もる。私はたっぷり、酸素を吸った。
「良いよ」
「え、」
 ……幾度のシミュレートは最悪の結果しか浮かばない。深呼吸した。重大な発表を押し付けられた、中間管理職みたいだ。
「好きなだけ、いれば? ウチは両親も死んで親類も疎遠だし。いたいだけ、いたら?」
「えぇっ?」
 暴漢が吃驚して私を見る。自分で脅迫したのにね。私も大概だと思うけど。
 どこの世界に、怪我は無くとも襲った暴漢を、家に置きたがる酔狂がいるのだか。常識まで棄てた覚えは、無いんだけどなぁ。
 だとしても私は、この、捨てられた子犬みたいに大きな目を不安で潤ませた暴漢を、とても手放せなかった。
 人でなしのようで……いいや。

 今凭れているドア。あの日から、行くときも帰るときも開けるのが、取っ手を握るのが億劫だった。私は玄関から暴漢越しに部屋を見渡す。覗ける奥の、扉の向こうに在るリビング。今も濃く在る、棄て置かれた私の[影]。見付けてしまって。虚を衝かれたみたいに。
 そうして、私はひとり、だから。
 開けたら、身を以て知ってしまう。私が置かれた現実に。

 そんなとき、暴漢は、現れた。

 私は誰かに似た────私に似た、暴漢を棄てられなかっただけじゃなくて。
 或いは、救いを、求めたのかもしれない。

 私は、このすべてを忘れそうな程にうつくしい造形の青年を、その柔和さに漬け込んで利用しようとしているのだろうか。


 
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