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「はは、何回も言ってるけど趣味悪」
硝子先輩はケラケラと笑った。何でですか、と拗ねてみれば、彼女は紫煙を吐き出しながら言う。
「絶対アイツ、環が思ってるような奴じゃないって」
「そんなこと」
言い返そうとして、押し黙る。そんなことない、とは言いきれなかった。
私から見ている彼と、硝子先輩から見る彼の印象は絶対に違う。私達の性格や価値観エトセトラに寄るものがあるだろうし、彼も人によって態度を変えているだろうから、一概に先輩の言うことは否定できなかった。むしろ、彼女の方が彼の近くにいる分「正しい」のかもしれない。恋は盲目、なんていうが私はまだその領域に至っていないようだった。
「んー、でもまあ、うん。いいんじゃない? 顔は悪くないし、性格も五条よりはマシだし」
硝子先輩は取ってつけたように言って吸殻を潰す。先輩なりのフォローなのだろうが、正直フォローになってない。微妙な顔をしていると、更に先輩は言葉を重ねた。
「何より、可愛い後輩がやっと好きな人と結ばれたことは喜ばしいしね。おめでとう」
ぽんぽんと肩を叩く手の優しさに頬が緩んでしまう。手放しで祝福してくれているのは初めてかもしれない。なんやかんや言いつつも相談に乗ってくれるあたり、硝子先輩は良い人なのだ。もちろん、先輩としても呪術師としても尊敬している。
「じゃ、とっておきを開けようか」
え? 先輩、なんて言った?
聞き返す暇もなく、硝子先輩は颯爽とベランダから部屋に戻っていく。後に続けば、既に先輩は一升瓶とグラスを持っていた。並々と注いで、一気に飲み干し、気持ち良さそうな声を上げる。
「環も呑む?」
うん、前言撤回。私を酒の肴にしないでください!
先輩のお誘いを丁重にお断りして、お礼を言った後、私は早々に先輩の部屋から抜け出した。
***
「環」
愛しい人に呼ばれるだけで、こんなに心が浮き立つなんて知らなかった。振り向けば彼――夏油先輩がいて、私の足は軽やかに彼のもとへ向かう。
「任務終わりですか? お疲れ様で」
「たまき」
えっ、と。
柔らかく遮られて、下手なことをしてしまっただろうかと一気に不安になる。会話を思い返してみても分からない。狼狽える私を見て、夏油先輩は小さく笑った。
「もう先輩じゃないだろう」
「あっ」
そうだった。そう、なのだ。もう私達は先輩後輩ではない。名前を呼ぶことを躊躇ってはいけない、そんな関係。
改めて自覚すると、喜びよりも羞恥が勝ってしまう。特に校内では。誰かに見られる可能性が高い場所で、二人だけの空気を作り出すのに慣れない。先輩の誘いに乗ることを良しとせず、規範に縛られることを是としていた。
「·····校内では、先輩後輩ですよ」
苦し紛れの言い訳だった。視線を逸らしながら言うと、少し間が空いた後、夏油先輩は「なるほど」と頷いた。
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、先輩は再び口を開く。
「校内じゃなければいいんだね」
「ひえっ」
ぶわっと顔が熱くなった。これには核爆弾にも負けない威力があって、私の思考は一気に機能不全に陥ってしまった。校内じゃなければいい。そうなのかな、果たして本当にそうなのかな!?
それにしても、何で夏油先輩は、いとも簡単に私を弄ぶ言葉を思いつくんだろう。私が分かりやすいのか、もといからかいやすいのか。多分後者だ。「環さんってすぐに顔に出ますよね。気をつけた方がいいですよ」切れ者の同期が事あるごとに言ってきたのは本当だった。後で解決策を指南してもらいに行こう。彼はポーカーフェイスの達人でもあるから。
「あーあー、後輩いじめてやんの」
面白がるような声が聞こえて、ひっと息を飲む。厄介な人が現れてしまった。夏油先輩いて、この人がいないわけがないのだが。
「心外だな、悟」
夏油先輩が目を向けた先には、五条先輩がいた。唯一無二の術式の使い手で、誰もが目を奪われる端麗な容姿。東京校屈指の実力を持った天才。夏油先輩と組めば、向かう所敵無しのまさに最強。
この人を見た時は神様は二物も三物も与えるものかと思った。けれど、その。·····そうだな。天才故の破天荒さと傍若無人さが「五条悟という人間」たらしめているのだなと思った。神様もバランスを取る、ということは知っていたらしい。
「だって水瀬、俯いてるし。余計なこと言ったんだろどーせ」
なあ、と同意を求めるように五条先輩は私の顔を覗き込んできた。曖昧に笑って、私は首を傾げる。
正直に言うと、私は五条先輩が苦手だった。遠慮なく距離を詰めてくるところとか、威圧感のある話し方とか。何で夏油先輩は五条先輩と仲がいいんだろう、と疑問に思っている。正反対な二人なのに。よく校内に鳴り響くアラートは五条先輩と喧嘩して出す夏油先輩の呪霊のせいって硝子先輩から聞いたけれど、それも不思議でならない。
「君よりはデリカシーがあるつもりだったんだけど」
「よく言うぜ、歌姫が可哀想」
「その言葉、そのまま返すよ」
肩を竦めて夏油先輩が言うと、五条先輩が少し身を乗り出す。しかし、私の方を見ると体の力を抜いた。舌打ちつきで。
「成長したな、悟」
クックッと夏油先輩が喉を鳴らして笑えば、あからさまに五条先輩は眉間に皺を寄せる。
「うるせ〜〜。さっさと報告しに行くぞ」
「そうだね」
じゃあなと五条先輩は背を向けた。その隙をぬって、夏油先輩は私の方に顔を近づける。彼の前髪が揺れて、その奥の瞳が細められた。
「放課後、いつもの場所で」
その瞳に釘づけのまま、私はこくりと頷く。すると、よく出来ましたと言わんばかりに頭を撫でられ、夏油先輩は私の前から遠ざかっていった。
.......校内じゃダメって言ったばっかりじゃないですか。
未だ慣れない恋というものは、私の今まで積み上げてきた小さなルールが揺らぐくらい、鮮やかで、痛いくらいに心臓を締めつけるのだった。
***
私が夏油先輩への気持ちを自覚したのは入学して数ヶ月のこと。
たまたま夏油先輩との任務が割り振られて、実戦の中で様々なことを教えてもらった。ガチガチに緊張したものの、先輩は物腰柔らかで、終始分かりやすく私の足りない部分や良い所を教えてくれた。任務を終えた帰り道は、すっかり打ち解けて、たくさんお話をしたのを覚えている。
それから私が夏油先輩に惹かれていくのは早かった。いつの間にか先輩の姿を追うようになって、話しかけられれば自然と笑顔になって。
溢れる気持ちを抱えきれなくなった頃、同期が男の人ばかりだったから、硝子先輩に相談し始めたのだ。好きな人を伝えて、一番最初に彼女からされたのはオーソドックスな質問。
「どこが好きなの?」
と呆れたように問われて。
「人に敬意を払って接する所、話してて心地いい所とか。こう.......形容するのが難しいんですけど、善い人なんだなって」
でも。
「一番は誰に対しても、何に対しても、自分の信念を貫いているところです」
と答えた。
「ふーん」と硝子先輩は興味無さそうに相槌を打ち、こう続けた。
「脈はあるんじゃない? 環にとって、夏油が善い人なら
好きな人の前では誰だって見栄を張りたいものでしょう、と。
「お邪魔します」
きぃ、とドアが軋む音がして、私は夏油せんぱ·····じゃない。·····傑さんの部屋に足を踏み入れた(傑さんって呼び方、いつまでたっても慣れる気がしない)。
「いらっしゃい」
学校が終わってからの傑さんは少し雰囲気が違う。私服だからだろうか。スウェットの緩い襟元から鎖骨が見えていて、ばっと視線を逸らす。
傑さんの部屋は質素なものだった。時には命も掛けることになる呪術師は生徒といえど、そこそこに広い部屋が与えられる。家具も自由に選べるのだが、彼の部屋は黒を基調とした最低限のものが揃っているだけで、何だか寂しい。
「おいで」
その空間の真ん中で、傑さんが両手を広げる。筋肉質な腕に大きな手。近づけば、私の腰に手が回され、痛いくらいに抱きしめられる。
触れることは好きだ。初めて手を握った時も、唇が触れ合った時も、今まで感じたことがないくらいじんわりとした愛おしさが込み上げてきて、どうしようもなく私は傑さんが好きなんだな、と感じられるから。
同時に相反した恐怖を感じることもある。なんだか、私に触れる時の恋人の視線にはどろりとした熱が籠っているから。それが何故なのかは分かっているけど、私は対処の仕方は分からなくて知らないフリをしている。
綯い交ぜになった感情を抱きつつも、傑さんの体温は心地よくて私も先輩の背中に腕を回す。
ずっと、このまま温い幸せに浸かっていたかったのに。
「ひ、ぁ!」
首筋に濡れた感覚。思わずこぼしてしまった声は思いの外高くて、咄嗟に口をつぐもうとしたのだが。
それよりも早く、柔らかな唇にかぶりつかれて。
くぐもった声が鼻から抜ける。離すつもりはないようで、何度も角度を変えて口づけられた。息が苦しくなってきて、傑さんの胸を強く叩く。
すると、彼は少しだけ顔を離した。酸素が足りないのと恥ずかしさで、きっと顔は赤くなっているだろう。文句のひとつでも言ってあげようと口を開けば。
視界に、天井。
「――え?」
そこに傑さんが割って入ってきて、押し倒されたことに気づく。いつの間にか腕は頭上で抑えられ、抵抗が出来ないようにされていた。衣擦れの音が嫌に響く。覆い被さる彼の表情はよく見えない。ただ、私を射抜くような視線が欲に濡れていた。
「なあ」
「は、はい」
「私のどんな所が好き?」
いつか聞かれた質問が繰り返される。それどころではない雰囲気だけど、するすると口は動いた。
「優しくて、真面目で、誰に対しても敬意を払」
「環」
視線が、交わる。低くて、ざらざらで、甘ったるい声が耳をくすぐった。
「残念ながら、私は君が思うほど優等生ではないよ」
こうやって、手を掛けてしまうくらいには。
知らない、と思った。こんな傑さん、知らない。
急に背筋に寒気が走って身をよじる。知らない、知らない。腕を振りほどこうとするも、解けない。
「っ、すぐるさっ」
傑さんの片手が、狙いを定めるように私の顎を掴む。
違う、違う。私はまだ。ダメだ、こんなの、ダメ。違う、ダメじゃないけど!
「夏油先輩!!」
声の限り叫べば、ぴたりと傑さんの動きが止まった。その隙にばっと彼を押しのけ、自らの体を起こす。
傑さんは目を見開いて、ゆっくりと身を起こした後大きな深呼吸をした。そして、私に向かって頭を下げる。
「えっ!?」
「·····すまない」
「あの、傑さん。怒っては、ないんですよ?」
正直、怖いなとは思ったんです、けど。
と呟けば、くしゃりと傑さんの顔が歪む。違う、私は彼にこんな顔をさせたいんじゃなくって。それでも上手く言葉が紡げない私は、頓珍漢なことを口走ってしまった。
「傑さんって男の人だったんですね、当たり前ですけど」
「·····は?」
少し傷ついた顔をした傑さんに、私は思わずくすくすと小さな笑い声をあげる。彼は何かを言おうとして、口を噤んだ。きっと、今の自分は何も言えないと思ったんだろうな。そんなことないのに。
「私、傑さんに触れられることは好きです。抱きしめてもらえるのも、口づけだって。いつも怖いなんて思ったことは一つもありません。·····だから、今のは私が悪いんです。そういう風に思ってもなかった私が」
「それは絶対に違う。私が勝手な行動をしたから」
「でも! その先を考えてなかった私も、恋人としての傑さんに失礼なことをしていたんだと思います」
触れたい、と思うのは自然だ。それだけじゃない事は十分に分かっている。隅々まで知りたい。その気持ちも分かる。だから、だからこそ。
「もっと色々な話をしましょう。貴方のことを今までよりも知りたいから。どんなところを見せられても、嫌いになんてなりません。なれません」
包むように傑さんの手を握る。
「傑さんの全てを、私に教えてくれませんか」
硝子先輩の言う「私が思ってるような奴」じゃない部分をもっと見せてほしい。生ぬるい幸せは要らないのだ。そう思うくらいには、私は傑さんの事を愛している。
傑さんは呆れたような、それでいてどこか憑き物が取れたようなため息をついた。
「君も、私が思っていたような子ではないようだ」
「え、どんな風に思っていたんですか」
「まっすぐで純粋な優等生」
「ふふ、お互い様ですね」
「そうだね」
手を引かれて、こつんと互いの額がぶつかる。まだまだ何も知らない私達は、これからを大事にしていけばいい。
「改めて、よろしくお願いします。傑さん」
「ああ、よろしく」
それでは、まず始めに。
愛しい貴方へ質問です。
硝子先輩はケラケラと笑った。何でですか、と拗ねてみれば、彼女は紫煙を吐き出しながら言う。
「絶対アイツ、環が思ってるような奴じゃないって」
「そんなこと」
言い返そうとして、押し黙る。そんなことない、とは言いきれなかった。
私から見ている彼と、硝子先輩から見る彼の印象は絶対に違う。私達の性格や価値観エトセトラに寄るものがあるだろうし、彼も人によって態度を変えているだろうから、一概に先輩の言うことは否定できなかった。むしろ、彼女の方が彼の近くにいる分「正しい」のかもしれない。恋は盲目、なんていうが私はまだその領域に至っていないようだった。
「んー、でもまあ、うん。いいんじゃない? 顔は悪くないし、性格も五条よりはマシだし」
硝子先輩は取ってつけたように言って吸殻を潰す。先輩なりのフォローなのだろうが、正直フォローになってない。微妙な顔をしていると、更に先輩は言葉を重ねた。
「何より、可愛い後輩がやっと好きな人と結ばれたことは喜ばしいしね。おめでとう」
ぽんぽんと肩を叩く手の優しさに頬が緩んでしまう。手放しで祝福してくれているのは初めてかもしれない。なんやかんや言いつつも相談に乗ってくれるあたり、硝子先輩は良い人なのだ。もちろん、先輩としても呪術師としても尊敬している。
「じゃ、とっておきを開けようか」
え? 先輩、なんて言った?
聞き返す暇もなく、硝子先輩は颯爽とベランダから部屋に戻っていく。後に続けば、既に先輩は一升瓶とグラスを持っていた。並々と注いで、一気に飲み干し、気持ち良さそうな声を上げる。
「環も呑む?」
うん、前言撤回。私を酒の肴にしないでください!
先輩のお誘いを丁重にお断りして、お礼を言った後、私は早々に先輩の部屋から抜け出した。
***
「環」
愛しい人に呼ばれるだけで、こんなに心が浮き立つなんて知らなかった。振り向けば彼――夏油先輩がいて、私の足は軽やかに彼のもとへ向かう。
「任務終わりですか? お疲れ様で」
「たまき」
えっ、と。
柔らかく遮られて、下手なことをしてしまっただろうかと一気に不安になる。会話を思い返してみても分からない。狼狽える私を見て、夏油先輩は小さく笑った。
「もう先輩じゃないだろう」
「あっ」
そうだった。そう、なのだ。もう私達は先輩後輩ではない。名前を呼ぶことを躊躇ってはいけない、そんな関係。
改めて自覚すると、喜びよりも羞恥が勝ってしまう。特に校内では。誰かに見られる可能性が高い場所で、二人だけの空気を作り出すのに慣れない。先輩の誘いに乗ることを良しとせず、規範に縛られることを是としていた。
「·····校内では、先輩後輩ですよ」
苦し紛れの言い訳だった。視線を逸らしながら言うと、少し間が空いた後、夏油先輩は「なるほど」と頷いた。
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、先輩は再び口を開く。
「校内じゃなければいいんだね」
「ひえっ」
ぶわっと顔が熱くなった。これには核爆弾にも負けない威力があって、私の思考は一気に機能不全に陥ってしまった。校内じゃなければいい。そうなのかな、果たして本当にそうなのかな!?
それにしても、何で夏油先輩は、いとも簡単に私を弄ぶ言葉を思いつくんだろう。私が分かりやすいのか、もといからかいやすいのか。多分後者だ。「環さんってすぐに顔に出ますよね。気をつけた方がいいですよ」切れ者の同期が事あるごとに言ってきたのは本当だった。後で解決策を指南してもらいに行こう。彼はポーカーフェイスの達人でもあるから。
「あーあー、後輩いじめてやんの」
面白がるような声が聞こえて、ひっと息を飲む。厄介な人が現れてしまった。夏油先輩いて、この人がいないわけがないのだが。
「心外だな、悟」
夏油先輩が目を向けた先には、五条先輩がいた。唯一無二の術式の使い手で、誰もが目を奪われる端麗な容姿。東京校屈指の実力を持った天才。夏油先輩と組めば、向かう所敵無しのまさに最強。
この人を見た時は神様は二物も三物も与えるものかと思った。けれど、その。·····そうだな。天才故の破天荒さと傍若無人さが「五条悟という人間」たらしめているのだなと思った。神様もバランスを取る、ということは知っていたらしい。
「だって水瀬、俯いてるし。余計なこと言ったんだろどーせ」
なあ、と同意を求めるように五条先輩は私の顔を覗き込んできた。曖昧に笑って、私は首を傾げる。
正直に言うと、私は五条先輩が苦手だった。遠慮なく距離を詰めてくるところとか、威圧感のある話し方とか。何で夏油先輩は五条先輩と仲がいいんだろう、と疑問に思っている。正反対な二人なのに。よく校内に鳴り響くアラートは五条先輩と喧嘩して出す夏油先輩の呪霊のせいって硝子先輩から聞いたけれど、それも不思議でならない。
「君よりはデリカシーがあるつもりだったんだけど」
「よく言うぜ、歌姫が可哀想」
「その言葉、そのまま返すよ」
肩を竦めて夏油先輩が言うと、五条先輩が少し身を乗り出す。しかし、私の方を見ると体の力を抜いた。舌打ちつきで。
「成長したな、悟」
クックッと夏油先輩が喉を鳴らして笑えば、あからさまに五条先輩は眉間に皺を寄せる。
「うるせ〜〜。さっさと報告しに行くぞ」
「そうだね」
じゃあなと五条先輩は背を向けた。その隙をぬって、夏油先輩は私の方に顔を近づける。彼の前髪が揺れて、その奥の瞳が細められた。
「放課後、いつもの場所で」
その瞳に釘づけのまま、私はこくりと頷く。すると、よく出来ましたと言わんばかりに頭を撫でられ、夏油先輩は私の前から遠ざかっていった。
.......校内じゃダメって言ったばっかりじゃないですか。
未だ慣れない恋というものは、私の今まで積み上げてきた小さなルールが揺らぐくらい、鮮やかで、痛いくらいに心臓を締めつけるのだった。
***
私が夏油先輩への気持ちを自覚したのは入学して数ヶ月のこと。
たまたま夏油先輩との任務が割り振られて、実戦の中で様々なことを教えてもらった。ガチガチに緊張したものの、先輩は物腰柔らかで、終始分かりやすく私の足りない部分や良い所を教えてくれた。任務を終えた帰り道は、すっかり打ち解けて、たくさんお話をしたのを覚えている。
それから私が夏油先輩に惹かれていくのは早かった。いつの間にか先輩の姿を追うようになって、話しかけられれば自然と笑顔になって。
溢れる気持ちを抱えきれなくなった頃、同期が男の人ばかりだったから、硝子先輩に相談し始めたのだ。好きな人を伝えて、一番最初に彼女からされたのはオーソドックスな質問。
「どこが好きなの?」
と呆れたように問われて。
「人に敬意を払って接する所、話してて心地いい所とか。こう.......形容するのが難しいんですけど、善い人なんだなって」
でも。
「一番は誰に対しても、何に対しても、自分の信念を貫いているところです」
と答えた。
「ふーん」と硝子先輩は興味無さそうに相槌を打ち、こう続けた。
「脈はあるんじゃない? 環にとって、夏油が善い人なら
好きな人の前では誰だって見栄を張りたいものでしょう、と。
「お邪魔します」
きぃ、とドアが軋む音がして、私は夏油せんぱ·····じゃない。·····傑さんの部屋に足を踏み入れた(傑さんって呼び方、いつまでたっても慣れる気がしない)。
「いらっしゃい」
学校が終わってからの傑さんは少し雰囲気が違う。私服だからだろうか。スウェットの緩い襟元から鎖骨が見えていて、ばっと視線を逸らす。
傑さんの部屋は質素なものだった。時には命も掛けることになる呪術師は生徒といえど、そこそこに広い部屋が与えられる。家具も自由に選べるのだが、彼の部屋は黒を基調とした最低限のものが揃っているだけで、何だか寂しい。
「おいで」
その空間の真ん中で、傑さんが両手を広げる。筋肉質な腕に大きな手。近づけば、私の腰に手が回され、痛いくらいに抱きしめられる。
触れることは好きだ。初めて手を握った時も、唇が触れ合った時も、今まで感じたことがないくらいじんわりとした愛おしさが込み上げてきて、どうしようもなく私は傑さんが好きなんだな、と感じられるから。
同時に相反した恐怖を感じることもある。なんだか、私に触れる時の恋人の視線にはどろりとした熱が籠っているから。それが何故なのかは分かっているけど、私は対処の仕方は分からなくて知らないフリをしている。
綯い交ぜになった感情を抱きつつも、傑さんの体温は心地よくて私も先輩の背中に腕を回す。
ずっと、このまま温い幸せに浸かっていたかったのに。
「ひ、ぁ!」
首筋に濡れた感覚。思わずこぼしてしまった声は思いの外高くて、咄嗟に口をつぐもうとしたのだが。
それよりも早く、柔らかな唇にかぶりつかれて。
くぐもった声が鼻から抜ける。離すつもりはないようで、何度も角度を変えて口づけられた。息が苦しくなってきて、傑さんの胸を強く叩く。
すると、彼は少しだけ顔を離した。酸素が足りないのと恥ずかしさで、きっと顔は赤くなっているだろう。文句のひとつでも言ってあげようと口を開けば。
視界に、天井。
「――え?」
そこに傑さんが割って入ってきて、押し倒されたことに気づく。いつの間にか腕は頭上で抑えられ、抵抗が出来ないようにされていた。衣擦れの音が嫌に響く。覆い被さる彼の表情はよく見えない。ただ、私を射抜くような視線が欲に濡れていた。
「なあ」
「は、はい」
「私のどんな所が好き?」
いつか聞かれた質問が繰り返される。それどころではない雰囲気だけど、するすると口は動いた。
「優しくて、真面目で、誰に対しても敬意を払」
「環」
視線が、交わる。低くて、ざらざらで、甘ったるい声が耳をくすぐった。
「残念ながら、私は君が思うほど優等生ではないよ」
こうやって、手を掛けてしまうくらいには。
知らない、と思った。こんな傑さん、知らない。
急に背筋に寒気が走って身をよじる。知らない、知らない。腕を振りほどこうとするも、解けない。
「っ、すぐるさっ」
傑さんの片手が、狙いを定めるように私の顎を掴む。
違う、違う。私はまだ。ダメだ、こんなの、ダメ。違う、ダメじゃないけど!
「夏油先輩!!」
声の限り叫べば、ぴたりと傑さんの動きが止まった。その隙にばっと彼を押しのけ、自らの体を起こす。
傑さんは目を見開いて、ゆっくりと身を起こした後大きな深呼吸をした。そして、私に向かって頭を下げる。
「えっ!?」
「·····すまない」
「あの、傑さん。怒っては、ないんですよ?」
正直、怖いなとは思ったんです、けど。
と呟けば、くしゃりと傑さんの顔が歪む。違う、私は彼にこんな顔をさせたいんじゃなくって。それでも上手く言葉が紡げない私は、頓珍漢なことを口走ってしまった。
「傑さんって男の人だったんですね、当たり前ですけど」
「·····は?」
少し傷ついた顔をした傑さんに、私は思わずくすくすと小さな笑い声をあげる。彼は何かを言おうとして、口を噤んだ。きっと、今の自分は何も言えないと思ったんだろうな。そんなことないのに。
「私、傑さんに触れられることは好きです。抱きしめてもらえるのも、口づけだって。いつも怖いなんて思ったことは一つもありません。·····だから、今のは私が悪いんです。そういう風に思ってもなかった私が」
「それは絶対に違う。私が勝手な行動をしたから」
「でも! その先を考えてなかった私も、恋人としての傑さんに失礼なことをしていたんだと思います」
触れたい、と思うのは自然だ。それだけじゃない事は十分に分かっている。隅々まで知りたい。その気持ちも分かる。だから、だからこそ。
「もっと色々な話をしましょう。貴方のことを今までよりも知りたいから。どんなところを見せられても、嫌いになんてなりません。なれません」
包むように傑さんの手を握る。
「傑さんの全てを、私に教えてくれませんか」
硝子先輩の言う「私が思ってるような奴」じゃない部分をもっと見せてほしい。生ぬるい幸せは要らないのだ。そう思うくらいには、私は傑さんの事を愛している。
傑さんは呆れたような、それでいてどこか憑き物が取れたようなため息をついた。
「君も、私が思っていたような子ではないようだ」
「え、どんな風に思っていたんですか」
「まっすぐで純粋な優等生」
「ふふ、お互い様ですね」
「そうだね」
手を引かれて、こつんと互いの額がぶつかる。まだまだ何も知らない私達は、これからを大事にしていけばいい。
「改めて、よろしくお願いします。傑さん」
「ああ、よろしく」
それでは、まず始めに。
愛しい貴方へ質問です。
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