Goodbye our earth

 宇宙だって物静かに感じさせるほどの真夜中。
 寝付けずにいたレイは隣で眠る相棒の横を摺り抜けて床に足をつけた。裸足で触れるには冷たい温度が肌を刺して、上着を羽織ったほうがいいかと考える。
 大きな窓には一面に濃紺の空間が広がっている。ラメのように散らばった星々と、近くにある名前も知らぬ惑星。昔人類は地球に住んでいたというけれど、その地球は遠く彼方へ置いてきた。
 蝸牛のようにゆっくりと景色を変えていく窓から視線を外して、レイは室内用靴を履いた。それからドアの横に申し訳程度に置いてあるポールハンガーから合成繊維で作られたカーディガンを掴み取る。
 何気なしに肌見放さず持ち歩いている端末を確認すると、表示されている時刻は夜中の2時。規則正しい生活を義務付けられているこの船内では、もう誰も起きてはいないだろう。まぁ時刻でさえ、申し訳程度の概念ではあるけれど。
 端末をドアに翳すと、静謐で真っ白な空間にす、と自動ドアの開く音がした。
────
 さて、どこへ行こうか。
 勢いのままに部屋を出たけれども行く宛などない。レイは少しの間視線を彷徨わせて思案した後、目的地は決められず適当に歩くことにした。
 こつ、こつと無機質な足音が廊下に響く。いつもの賑やかな景色ではないからか、いつも考えないような思考が次々と浮かんでは消える。 
 Unknownはレイの不在に気づいているのだろうか。
 見たこともない他の宇宙船も今頃は寝静まっているのだろうか。
 アナスタシアはこっそり夜更かしをしていないだろうか。
 それから、それから。
 泡沫のように短いスパンで浮かび上がっては消えていく議題を、緩く頭を振って取り払った。居住棟の廊下から談話室に通りかかる。日中人で溢れかえっているそこは、人々がいないためか淋しげで退廃的だ。ぽっかり穴が空いたような談話室をレイは早足に通り抜ける。
 やがてレイは“バルコニー”と称される前面ガラス張りの展望室に辿り着いた。見知った背中をそこに見つけたのでそろりと覗くと、彼が柵に肘を乗せて頬杖をついていようなポーズなのがわかった。
 彼──ファンシーの手には煙草が挟まれている。形の良い指が器用に煙草を絡め取っていて、嫌に扇情的な雰囲気を漂わせている。燻っている煙は虚空に立ち上って揺らいでいた。
 その横顔はレイの知らない表情だった。
 普段の様子からは想像もつかないほどの、大人びた形。物憂げに細められた黒い睫毛と、レイと同年代の少女が憧れてやまないような美しい唇。
 それらの要素が相まって、レイにそこだけより幻想的な景色を見せていた。
「──は、」
 レイが一瞬忘れていた呼吸を再開すると、自分でも間抜けだと思うような音が唇から漏れた。その弾みに気づいたのか、今まで幻想的な領域を展開していた少女のような男性が振り向いた。
「あれ!? なぁに、レイどうしたの? 消灯時間とっくに過ぎてるでしょ?」
 その顔はいつもの表情豊かなもので、ファンシーは今までの時間がなかったかのように的外れな質問を繰り返す。
「や、消灯時間過ぎてるというか……もう夜中の2時ですよ」
「なら、尚更どうしたの。体冷えてない? 寒いよね」
 ファンシーはレイに急いで駆け寄ってきて、レイの肩を両手で挟む。そのままちゃんと体温調節機能はONだ、とだけ小さく呟いた。
「普通ONにしないのファンシーさんだけですからね? ……ところで、その煙草。支給されている電子タバコじゃないですよね」
 普通、この宇宙船内では無駄に健康を害する人が出ないように酒と煙草は体に害のないものが支給されている。他の宇宙船がどうかはレイは知らないが、少なくともファンシーの手にしているそれは明らかに入手経路が薄暗いものであると理解していた。
 指摘されるとファンシーはなんてことないように可愛らしく微笑んで、短くなった煙草を右手で弄ぶ。
「え? ああ、これか……だって電子タバコじゃあ物足りないでしょ」
「でも、体に悪いですよ。それに見つかったら罰則です」
「体の傷つかない煙草なんて煙草じゃないよ。あと罰則に関しては俺は大丈夫なの」
 要は体の良い自傷だよ、とファンシーは自嘲するように嘯いた。それにレイは納得いかないと言わんばかりにファンシーを睨んで、彼の頰を中指と親指を使って弾く。
「あたっ!? 何急に」
「自傷ならこれでいいじゃないですか。……あれでもこれ、私がやったから自傷にはならないんですかね? ファンシーさん的に」
「俺今痛くてよくわかんない……」
 外の灯りに照らされ更に真っ白な頬をファンシーは擦ってから、レイの頭を徐ろに撫で出す。
「なんなんですか。猥褻行為で訴えますよ」
「ごめんって。俺可愛いから許して?」
 ふざけたこと言わないでください、とレイが返すとファンシーは曖昧に笑っただけだった。
「さ! もうお喋りはおしまい。お子様はさっさと寝る時間だよ」
「ちょ、」
 ファンシーに肩を押されて、レイは抗議しようとしつつも展望台から押し出されてしまう。力に関してはか弱そうに見えて怪力なファンシーに勝つことはできないので、溜息をついてレイは抵抗を諦めた。
「一人でも帰れるよね?」
「当たり前ですけど。そこまで子供じゃないです」
「ならいいよ」
 そうファンシーは呟いてひらひらと手を振る。レイはそれに複雑な感情を抱きつつも方向転換して談話室の方向に向かう。
 今まで辿ってきた道筋をなぞって自室まで行き着く。出てきたときと同じように端末翳すと、出てきたときと同じような無機質で静かな駆動音がしてスライドドアが開いた。
「ただいま」
 同日の誰にも宛てることなくそう呟いてからポールハンガーにカーディガンをかける。靴も脱いでそのままUnknownの横に滑り込む。一気に人工の香りがしない暖かさが体を包んで、今日の出来事はきっと忘れることができないだろうと、レイはUnknownを抱きしめた。
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