喫茶『夢守』

 今日は最悪だ、と佐村若葉は思った。
 前月とデータが合わないと発覚し、それをひたすら一つずつ確認して修正するという地道な残業をやっていたが、今日中に終わる気配が無いのでとっとと見切りをつけて会社から出た頃には、辺りはもうすっかり夜になっていた。いつもこの時間なら食事もお風呂も済ませてまったりしている頃だが、今日はこれから電車に乗って帰らなければいけない。考えただけでもう一歩も歩きたくなかった。しかし、歩かなければいつまでも家に着かない。そう考えてなんとか気持ちを奮い立たせると、若葉はとぼとぼと歩き出した。
 会社は駅にまぁまぁ近いこともあって外灯はそこそこ多く、明るい道を選んで行けば、そのうち駅に辿り着く。いつものように疲れたなぁと思いながら、今日の夕飯のことをぼうっとした頭で考えていた。

「夕飯、どうしよ……」

 お腹が空いているかと訊かれれば、よく分からない。多分何か口にすれば、それも認識できるのだろうけれど、それまで若葉は自分の体の状態がどうなっているのか、よく分かっていなかった。ただ、もうこんな時間になってしまうと、まず営業している飲食店は皆無に等しい。飲み屋街やファミレスに行けば、やっている店も多いだろうが、こことは反対方向だ。わざわざそちらに足を運ぶのも面倒だしと、少し気持ちが沈みつつもいつものように狭い路地へ入る角を曲がった時だった。

「あれ?」

 一瞬、若葉は道を間違えたのかと思った。けれど、よくよく周囲を見回せば、いつも通る路地だ。右側には何軒もの住宅が立ち並び、左側は高い塀に囲まれた大きな家が目立つ。いつも通る道だ。しかし、その中にいつもとは全く違う店がぽつんとそこにあった。
 まるでそこにあって当然と言っているように、家と家の間へ窮屈そうに建っている。落ち着いたトーンの紅色の壁にチョコレート色の木製ドア。店の前には小さな花壇があって色とりどりの花が咲いている。でも、花に詳しくない若葉でも分かるほどに、その花壇には季節感というものが無かった。
 その花壇にはバラやコスモス、紫陽花やパンジーなどが咲いていたからだ。こうして見ると、確かに色は綺麗だが、季節なんて無いも同然。

「変なの」

 思わずこぼれた子供じみた言葉に、若葉ははっと我に返ってすぐにその店から離れようとした。が、そう思うのだが、足がどうにも動かない。ドアの横は大きなショーウィンドウになっていて、ランプのような甘い明かりに照らされた窓の内側に、店名らしきローマ字の飾りがぶら下げてあった。銅色の洒落た曲線が優雅に踊っている。

 YUMEMORI

 それだけが細い鎖で上から吊り下がっていた。

「ゆめもり……?」

 何のお店だろうと考えているところに、また新たな疑問が持ち上がる。

「そういえば、こんなところにお店なんてあったっけ?」

 今朝、ここを通った時は確かにこんな店は無かったはず。どうにも怪しいとは思う若葉だが、何故か立ち去ろうという気持ちは消えていた。店内の明かりと共にパンの焼ける匂いや炒め物をしているような軽快な音とどこか落ち着いたスパイスの利いた香りも漂ってくる。その香りや音に誘われるようにして若葉はふらふらと、店のドアを開けた。

「あれ?」

 カランカランと軽快なベルの音で若葉は、またはっと我に返った。いつの間にか店内へ足を踏み入れていたことに気づいた彼女は、慌てて周囲を見回す。今日は給料日前で外食なんてしている余裕は無いのにと思っていると、奥から店員らしき人が来てしまった。

「はぁい。いらっしゃいませぇ」

 薄暗い奥からやって来たのは、小柄だが、ふくよかで優しそうな女性だった。少しピンクがかった金髪はふわふわと緩くウェーブがかっており、それを後ろで一つに結んでいる。手には何も持っておらず、店員は「何名様ですか?」とお決まりの文句を告げた。

「あ、一人です」
「一名様ですね。では、こちらへ。お好きな席へどうぞ」

 不思議と店員はメモを取らずに若葉を店内へ招き入れ、好きな席へと言いつつ、奥の窓際の席へ案内した。アーチ型にくり抜かれた壁の向こうにある店内へ足を踏み入れた時、若葉は「あれ?」と思った。店の小さな外観に反して中はとても広いのだ。まるで高層ビルのワンフロアのようで、若葉が案内された席からは隣家の曇りガラスの窓が見えた。こんなところを見えるようにしても仕方がないだろうにと思う彼女だったが、別に景色を気にするような性格ではない若葉は素直に席に座った。

「こちらがメニューになります」

 テーブルの端に立て掛けてあった縦長のメニュー表を店員は開いて見せた。そこには数々の料理の写真と料理名が書いてある。はずなのだが、若葉の目にはどれもこれもぼやけて見えた。別に目が悪くなったとか、彼女が眼鏡を掛けていて、それが突然外されてしまったとかではない。むしろ、彼女は目が良い方なのだ。だが、そんな彼女の目でもメニュー表の殆どがよく見えない。
「なんだか変なメニューね」と思った彼女だったが、それを店員の前で口に出すのはさすがに失礼だと思った若葉は、それを受け取ろうと手を出したが、何故か店員はメニュー表を渡そうとしない。

「……あの?」
「お決まりでしょうか?」
「あ、いいえ。まだ……。あの、なんでメニューを渡してくれないんですか?」

「今のはちょっと訊き方が悪かったかな」と若葉は考えていたが、店員は彼女の予想とは裏腹ににっこり笑って言った。

「当店のメニューは私手ずから捲らせて頂いているからです。普通の方には非常に扱いにくい物ですから」
「はあ……そうなんですか」

 そう若葉が言った時、ぱらりと捲られたページの先で彼女はある料理だけが見えたことに驚いた。

「……ビーフシチュー?」
「お決まりですか?」
「えっと……はい」
「では、ほっとビーフシチューがお一つ。デザートはいかがですか?」
「え? あの、セットとかは無いんですか?」
「当店は少食の方でも食べられる大盛りですので、セットというものは無いのです」
「? 『少食の方でも食べられる大盛り』? ですか?」
「はい。当店はお客様に必ずご満足頂けるよう、少々変わった大盛り料理を提供させて頂いております」

 ここはなんだか本当に変な店かもしれない、と若葉は思い始めた。そもそもビーフシチューに『ホット』という単語が付いているのもおかしい。冷たいビーフシチューなんて聞いたこともないし、わざわざ頭にホットと付ける意味なんてあるのかしらと考えずにはいられなかった。
 今更ながらに本当に入って良かったものかと考えてしまうが、もう注文してしまったので、考えるだけに留まった。代わりにもう一つ若葉は無意識に口にしていた。

「バニラアイス……」
「バニラアイスタワーですね。ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
「あ、え? あれ? は、はい……?」
「かしこまりました。それでは、お料理が出来るまでもう少々かかりますので、どうぞ窓の外をご覧になりながらお待ちください」
「はい、ありがとうございます」

 そう言ってメニューを閉じて持って行ってしまった店員の後ろ姿を若葉は不思議そうに見送って、通勤鞄からスマホを取り出した。待っている間に何か面白そうな記事は無いかと思った彼女だったのだが、画面に表示されている『圏外』の文字にまた驚いた。

「え……圏外なの? ここ。なんで……」

 料理が出来上がるまでどのくらいかかるのか皆目見当もつかない。その間、スマホが使えなかったら他に何をしていればいいのか分からない彼女は、店員に言われた通りに窓の外へ目を向けた。

「でも、見たって隣の家しか見えない席だし、別に面白くも――」

「ない」と続くはずだった言葉は溶けて消えてしまった。窓の外には非常に見覚えのある景色が映っていたからだ。

「あの窓……うちの窓だ」

 いつの間にか隣家の小さな窓は若葉の実家の大きな窓に姿を変えていた。しかも雪が降っている窓だ。雪がたくさん降ると、辺りの音はみんな雪に吸収され、いつもなら聞こえる筈の音がみんな雪の中に吸い込まれてしまう。その静けさが若葉は小さな頃、好きだった。現に今目の前にある若葉の家の窓からも幼い彼女が見えた。

「懐かしい……」

 思わず、そんな言葉が漏れる。冬、家の中から窓の外を見て降って来る雪を延々と眺めるのが大好きだったなと思い出す。分厚い灰色の雲から綿毛のような雪がちらちらと舞い落ちてやがて地面に積もっていくあの時間が、とても不思議で惹かれていたのだった。
 いつの間にか若葉は幼い頃の自分となっていた。ふわふわの毛布にくるまれて時々、傍らに置いてあるホットミルクを飲み、小粒のチョコレートを食べる以外には動作らしい動作をせず、ずっと雪を見つめていたあの時間をまた彼女は静かに体験していた。いつまでもいつまでも、ずっと雪を見ていた。



「お待たせいたしました」

 はっと若葉は店員の変にはつらつとした声で急に現実へ帰って来た。さっきのあの時間はどこへ行ってしまったのかと若葉は周囲をしきりに見回すが、もうあの時間はどこにも無くなっていた。その代わりに目の前には皿に盛り付けられたビーフシチューとガラスのカップに入ったバニラアイスがある。少し分厚いランチョンマットの上にあるそれらはどちらも大盛りと言うには少ない、否、普通盛りと大差が無いように見えた。

「あれ? 大盛り料理じゃないんですか?」
「ええ、大盛り料理ですよ」

 店員の変な受け答えに若葉は一瞬、混乱しそうになった。危うく「どういうこと?」と気安く訊いてしまいそうになって、慌てて緩み切った気を引き締め直す。

「え、でも、この盛り付けはどう見ても普通……」
「では、お料理の方、ごゆっくりお楽しみください」

 それだけ言って店員はさっさとテーブルを離れ、遂には若葉一人にされてしまった。折角の話し相手がいなくなってしまったので、仕方なく彼女は店員が置いて行ったカゴの中からスプーンを取り出した。
 ちょっと気取った赤ワインの香りが立ち上り、少し遅れて牛肉や野菜の甘い香りが混じってくる。じっくり煮込まれた芳醇なソースをスプーンで掬って付け合わせのご飯に掛ければ、それだけで若葉にはご馳走に思えた。我ながら安い女だなぁと少し情けなく思いながらも、最初の一口を運ぶと、彼女はまた別世界に立っていた。

「あれ? とっても美味しいビーフシチューを食べたと思ったのに」

 若葉が立っていたのは、陶器のように白くて硬い道だった。目の前には赤とも茶色ともつかない海、遠くには真っ白な山。そして、白い道の先には大きな橋のような黒く、細長い物が架かっている。そして、もっと遠くには一際高い塔のようなものが建っていた。その塔に若葉はほんの少し見覚えがあった。

「あれって、もしかしてバニラアイスの器……!?」

 一度、そう口にしてしまうと、それを皮切りに周囲の物がよく分かるようになってきた。あの塔がバニラアイスの器だとすれば、今目の前に広がっている海と山はビーフシチューの景色ということになる。そういえば、あの店員はバニラアイスを注文した時、『バニラアイスタワー』と言っていた気がする。そこまで思い浮かべた時、若葉は今更ながらに気が付いたことがある。

「普通、ビーフシチューって言ったら、付け合わせはパンじゃないの? どうしてご飯が付いてきたの?」

 確かに若葉の言う通り、ビーフシチューのセオリーはカリカリに焼いたフランスパンなのかもしれない。けれど、今のビーフシチューには申し訳程度にパセリが散らしてある丸いご飯が我が物顔で皿に載っているだけだ。別に若葉はご飯が嫌いという訳ではないが、彼女のこれまでの常識感覚というものが「普通、ビーフシチューって言ったら、パンなんじゃないのっ!?」と激しく主張しているだけに過ぎなかった。

「なんだか納得できないなぁ」

 そう独り言つも、応えてくれる相手はいない。取り敢えず、このまま皿の縁にいたって仕方ないと思った彼女はご飯の山に行ってみようと皿の縁を歩き出した。赤茶色の海がビーフシチューで、真っ白な山がご飯なら、きっとあの黒い橋のような物はスプーンだろうと予想を立てて彼女はスプーンを伝って行こうと思ったのだった。
 皿の縁道を歩いてやっと鉄色のスプーンに辿り着くと、若葉は滑らないように足元に気を付けてスプーンの上に乗ろうと触れた。その瞬間、とても大きな地震が起き、彼女はスプーンに乗ることができなくなってしまった。

「わっ!? な、なにっ!?」

 揺れる皿の縁からビーフシチューの海に落ちないように縁に捕まっていると、目の前に横たわっていたスプーンが段々と少しずつ小さくなっていっているように見えた。

「もしかして、スプーンが小さくなっていってる衝撃か何かで揺れてるってことなのっ!?」

 そう言っている間にもスプーンはどんどん小さくなっていき、やがて今の若葉が使いやすい程度の大きさに留まった。皿の縁道にからんと落ちたスプーンを若葉は拾い上げ、少し考えた。このスプーンが縮んだのはどうしてだろう、と。そこで若葉ははっと店員の言葉を思い出した。
 店員は確かに「少食の方でも食べられる大盛り料理」と言ったのだ。だとしたら、このスプーンの使い道は一つ。試しにと若葉が皿の縁にしゃがみ込んでビーフシチューの海からシチューを一匙、スプーンで掬ってみると、ビーフシチューの海はざあ、と丸く引いた。スプーンにはその大きさに見合った分のビーフシチューが乗っている。迷わずそれを口に運ぶと、その深いコクと衝撃に満ちた旨味に若葉の脳幹は一瞬痺れるような錯覚を覚えた。なんて上品で繊細な舌触り、それでいてしつこくなく、重たく感じない。その一口だけで仕事の疲れも吹き飛んでしまう。

「おいしい……」

 ビーフシチューを一口食べれば、次はご飯が食べたくなってくる。ご飯なんて邪道だみたいなことを言った若葉だが、それとこれとは別の話だ。でも、ここからだとご飯山まではまだまだ随分と距離がある。考えながら若葉がもう一匙ビーフシチューを掬って口に運んだ時、彼女はとても良い案を思い付いた。

「渡る方法があるじゃない」

 三口目のビーフシチューを味わいながら彼女は立ち上がった。そのまま四口目のビーフシチューを食べて、すぐにまた五口目のビーフシチューを食べる。そうして、何口も続けて食べていくとその分ビーフシチューの海は丸く引いていく。そうやって彼女はご飯山までの道を開いて行こうと思ったのだ。彼女の作戦は功を奏し、難なくご飯山まで辿り着くことができた。間近で見るご飯粒はどれもこれもふっくらと一粒一粒が立っていて、つやつやとしている。小さくなってから随分と経つような気がするのに、ご飯山は未だほかほかと温かかった。傍まで寄せてきたビーフシチューを掬ってご飯に掛けると、真っ白なご飯はビーフシチュー色に染まる。今の若葉は小さいので、ご飯にシチューを掛けるのも全身を使って掛けなければいけない。けれど、不思議と疲れも何も感じなかった。むしろ、なんだか壁にペンキを塗っている時みたいに楽しく、おまけにそれをスプーンで掬って口に運ぶと、香り高いビーフシチューとご飯の甘みが合わさって、また違う美味しさが広がるのだ。

「パンも良いけど、ご飯も良いかもしれない」

 ご飯の温かさにほっと溜め息をついたところで、頭上からあの店員の声が降って来た。

「お客様、付け合わせにパンは如何ですか? カリカリの焼き立てですよ」

『パン』と聞いて黙っていられる若葉ではない。直ぐ様そちらを見上げて両手を振り、ぴょんぴょんとその場でジャンプしながら大声で呼び掛けた。

「お願いしまーす! パンお願いしまーす!」

 店員は若葉の姿に気付くと、持っているパン籠の中から小さな――今の若葉にとっては凄く大きいのだが――トングでご飯山の隣にパンを二つ載せてくれた。若葉はもう一度大声でお礼を言うと、食事を再開した。
 もう少しご飯を堪能した後は、やはり彼女は二枚のパンに近寄っていく。ご飯はもう半分食べてしまって残っているビーフシチューも結構少なくなっている。残りをご飯に掛けてしまったら、パンまで残るかしらと少し考えて若葉は先にパンにシチューを掛けることにした。まさかスプーンでパンは小さく切れないだろうと思っていたが、予想通りに切れないようだ。一旦、スプーンを手から放してパンを両手で持ち上げてみる。すると、殆ど重さらしい重さを感じること無く、若葉はパンを一つ持ち上げることができた。

「持てるんだったら、あれができるかも」

 よいしょ、と彼女はパンの先端を自分の足元に押し付けてそのまま前へ進んでみた。思った通り、パンはビーフシチューの池に入ると、どんどんシチューを吸い込んでいく。そのまま若葉はパンをシチューの中に沈めて齧り付いた。シチューはパンを入れる前に量は減っていたし、パンに染み込んだことで更に少なくなってしまった。ご飯に掛ける分残ってるかしらと考えつつも、パンをあっという間に食べてしまうと、若葉は開き直った。

「まぁ、残ったシチューで何とかするしかないかな」

 残っているシチューとご飯のバランスを考えて、先にご飯だけを少し食べようかとスプーン片手にご飯へ近付く。久しぶりに食事のためだけに頭を働かせる感覚が楽しくて、若葉はご飯へスプーンを入れた。

 最後までビーフシチューを絶妙なバランスで楽しんだ若葉は、デザートへ行こうと皿の端まで登る。ここからでもアイスの器の傍にまた別のスプーンが添えてあるのを見て、彼女はビーフシチューのスプーンを置いて行こうと決めた。

「それにきっとあの器を登って行かなくちゃいけないんだから、このスプーンは邪魔になるし」

 そうと決まれば、彼女の行動は速かった。というのも、早くしないとアイスが溶けてしまうと思ったからだ。若葉はビーフシチューのスプーンを皿の上に置いて、皿から飛び降りた。彼女が飛び降りた瞬間、ランチョンマットが波打ち、丘のように膨らんだことで彼女は柔らかなランチョンマットの上にふんわりと着地できた。それからもマットは小さく動いて若葉をバニラアイスの器の前まで運んでくれた。優しいマットのお陰で怪我をすることなく、若葉はバニラアイスの器まで辿り着くことができた。マットを敷いていたのはこの為かと思いつつも、アイスの器を見上げた。
 薄い水色のガラスでできた背の高い、細かな装飾彫りが施されたカップの中にはバニラアイスが入っている。頭の上に乗せられたミントが爽やかで可愛らしい、と記憶している。確か、そうだったようなと、この大きさになる直前に見たバニラアイスの姿を思い浮かべる。後、何か違ったお菓子が刺さっていたようにも思えた。何だっけ? ポッキー? ウエハース? 何だったけ、確かチョコ系だった気がする。
 そんなことを考えつつ、アイスの器に近付くと、若葉の前でカップがくるくると回り始めた。

「えっ!?」

 くるくると回り始めたかと思うと、カップのガラス細工が動き出し、あっという間にカップを中心にガラスの螺旋階段が出来ていた。親切に手すりも付いている。

「……わぁ、便利」

 もう若葉はそれ以上、考えないことにした。考えたって仕方ないのだ。きっとここではこういうのは当然のことなんだと思うことにした。
 カップの傍に添えられたアイス用のスプーンに触ると、やはりそれも若葉のサイズに縮んだ。先の方が四角くなっていて、柄の方は細長い。これにも控えめにだが、装飾が施されており、アンティーク調のお洒落なデザインでとても可愛らしい。

「よしっ!」

 何だかこの器ってバトル漫画の最終回に出てくる戦いの舞台みたい。一度そう思うと、全力で楽しむ若葉は気持ちを盛り上げるため、ぎゅっと両手で握り拳を作った。そのまま、まるで勇者が最後の戦いに向かう時のような心持ちで、若葉はガラスの螺旋階段を上り始めた。
 最後の戦いの舞台へ、なんて気分は意外と短かった階段のせいですっかり冷めてしまった。辿り着いたところで目の前に広がるのは、結局バニラアイスなのだ。アイスの前に熱い気持ちを持って来るなんてナンセンスでしかない。

「えへへ。なんか今日はデザート食べちゃおうって思ったんだよね」

 甘いアイスを目にしてしまえば、若葉はただの少女と化してしまう。もう勇者なんかじゃない。バニラアイスはテーブルに降り立ってからだいぶ時間が経っている筈なのに、表面がほんの少し溶けているだけだった。そこに見付けたものに若葉は思わず「あ」と声を上げた。思わず、それを逃すまいとスプーンで掬ってまじまじと観察する。

「一番好きなところだ」

 小さな頃から変わらない、アイスの好きなところ。表面が少し溶け始めてきて、下から上へスプーンで掬うと雪みたいにしゃり、とした塊が乗ってくる。あの部分。完全に溶けきる前に口へ入れると、舌の上でふわりと溶けるあの結晶。
 アイスの唯一悪いところはすぐ無くなってしまうところだ。気が付いたら無くなってしまったバニラアイスに若葉はやや残念そうにアイスがあった場所を見つめた。そこではた、と彼女は気付く。

「ポッキーもウエハースも無かったな」

 その一言が合図だったかのように頭上から白い光が降りて来て、若葉の体がふわふわと浮いてきた。何だかその感覚が気持ち良くて、目を閉じてそれに身を任せるていると、いつの間にか若葉は元の席に座っていた。体も元の大きさに戻っている。
 一瞬、夢を見ていたのかと思った彼女だったが、それはすぐに違うと分かった。目の前には空になったビーフシチューの皿とバニラアイスの器があったからだ。

「ありがとうございました」

 店員の声を背後に受けて、若葉は振り返る。そこにはもうあの店の姿は無い。すっかりいつもの住宅街に戻っていた。自分は何をしていたのだったかと思った彼女だが、すぐに思い出した。

「とっても……美味しかったし、楽しかったな」

 小さくなった体で食べ進めるビーフシチューとバニラアイス。何故かどこも汚れることなく、とても美味しかったし、まるで子供の頃に戻ったみたいに楽しかった。久しく忘れていた冒険をしたのだ。明日も変わらず仕事はあるけれど。

「頑張ろ」

 そう小さく呟いて、若葉は家路へついた。

 時間を確認した時、あの店に入ってから僅か五分しか経っていないこととお金を払っていないことに気付いた彼女が非常に驚いたのはまた別の話である。
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